第7話
小泉深礼に事件の真相について突きつけた日以来、仕事上のパートナーであり、指導役の先輩でもある犬上刑事とはいまいち上手く行っていなかった。いや、そう思っていたのは虎丸剣一の側だけで、犬上刑事のほうはなんとも思っていなかったのかもしれない。
あれ以来、深礼の件に関しては、業務上の遣り取り以上のことは話題に昇ることはなかった。もともと犬上という男は寡黙な部類であるが、深礼の件に関しては、敢えて話をするのを避けているような気がする。いや、やはり虎丸がそう思い込んでいるだけかもしれない。
こんなふうに悶々と考え込んでしまうのは、虎丸にしてみれば、小泉深礼の事件に対する犬上刑事の対応に関して、どう反応すれば良いのか判らないからだ。
「ありがとうございます」
そうやって犬上にもやはり礼を言うのは、なんだか違う気がした。
犬上刑事が結果的に深礼を助けたのは間違いない。犬の死が、彼女が嘘を吐いていて殺したにせよ、自然死や病死にせよ、最終的に腹を切り裂いたのはやはり彼女であり、それを夫に知られれば夫婦関係に亀裂が入るのは間違いなかっただろう。犬上はそれを隠匿した。虎丸は深礼の友人であり、だから彼女を助けてくれた犬上に礼を言うのは間違いではない。
しかし犬上は、虎丸に気を遣って、深礼を助けたというわけではないだろう。単に彼が深礼を守りたかったから守ったのだ。
といっても、犬上は虎丸とは違う。彼女に好意を抱いているわけではないだろう。むしろ、既に死んでいたとはいえ、自分が飼っていた生き物の腹を掻っ捌いた挙句、その原因を外部に転嫁しようとした彼女には、怒りに近い感情を抱いているはずである。だが犬上は男女差別主義者だ。少なくとも虎丸は、常々そう感じている。
だいたい、彼が女性の犯罪者に目溢しをしてやるのを見るのはこれが始めてではない。虎丸や犬上が所属する捜査一係は主に強盗傷害などの暴力関係の事件を扱っているが、女性犯罪者の数は少なくない。日々の職務を見ていると、彼は明らかに女に甘い。女を崇高な、尊い存在として感じているのか、というと、これもまた違うと思う。
彼は男は強く、女は弱いものだと思っている。彼自身は人並み外れた肉体を持っているせいかもしれない。だから、女には優しい。男が優れていると思うからこその、女尊なのだ。
つまり、深礼を助けたのは犬上の自己満足だ。だから虎丸が礼を言うのは、なんというか、お門違いだという気がしてしまう。
「すいません」
ならばこうした謝罪の言葉が適当か、といえば、これもやはり違うだろうと思う。
謝罪するべきところがあるというのは確かだ。犬上刑事は、深礼が罪に問われぬようにするために色々と骨を折ってくれた。幸いなるかな、警察に犬の死について訴えたのは、少なくとも書類上では夫のほうではなく、深礼となっていたため、事件の処理そのものにはそこまで苦労はしなかったが、どんな事件であれ上層部に報告書を提出する必要がある。冷たい報告書の上では、被疑者が女だったから、罪に問うのは止めた、などという論理は通用しない。それを解っていながら自己満足に女を助けるのだから、犬上もたいしたものだ。
幾ら彼の自己満足とはいえ、その原因となった女、深礼と虎丸は知らぬ仲ではない。
だが、虎丸と深礼の仲はそう深いものではない。あくまで、友人だ。他人だ。少なくとも、いまのところは。深礼に代わって謝罪をするというのは、だから躊躇われた。
「よくもやってくれたな」
敢えて犬上刑事に言葉を突きつけるのならば、これだろう。
この、相手の責任を問うような言葉こそが、虎丸が犬上に言いたかった言葉だ。突きつけてやりたかった思いだ。叩きつけたかった罵詈雑言だ。
「ああ、よくも、よくもやってくれたな。おまえの自己満足で、おれは貴重な機会を失ったのだぞ」
深礼は、犬が変質者によって殺されたのだと偽りたがっていた。その動機は、犬が死んだことを夫に知られたくなかったからだ。
この理屈は少々おかしいもののように思えるが、理解できないものではない。つまり、彼女は犬の死を己の咎とされることを恐れたのだ。
もし犬の死が、病であれ、怪我であれ、良くないものを食ったからであれ、それらは防ぐことができる。少なくとも、ある程度は。防ぐことができる、ということは、逆にいえば、防げなかった場合には、その守り番をしていた人間に何か落ち度があったということになる。体調の変化に気付かなかったのか、危険な物を放置していなかったか、食べられないものを出さなかったか、と。
だが犬を殺して腹を掻っ捌くような変質者が相手ならば、それは守り番の手から余る。ああ、そうだ、そうなのだ。不意に闇からにゅうと手を伸ばした暴力から、愛する者を守る方法などないのだ。
だから、深礼は存在しない犬殺しに罪を被せようとしていた。
深礼は、夫に罪を問われることを恐れていたのだ。
ならば、犬の死の原因そのものに関しては定かではないものの、そうした責任転嫁を計るがために犬の腹を掻っ捌いた深礼の行為を知ることは、弱みを握ったということになる。
その弱みを表に出せば、どうなるだろう。
彼女が恐れていたことは、単に夫から叱られるだとか、そういった程度のことではあるまい。死んだのは、元は夫、小泉鷹臣の犬ということであり、彼はたいへんな愛犬家ということだった。事実が公になれば、離縁を迫られることも望めるだろう。
この事実は、虎丸にとっては棚から牡丹餅の如く転がり込んできた切り札なのである。
だからこそ、犬上刑事の行動が厄介なのだ。
当時現場にいた鑑識官や警察官など、ある程度の背景事情を知るものはいるだろうが、真実に辿り付いたとなると、おそらく犬上と虎丸だけだ。だから虎丸が何らかの方法で小泉鷹臣に事件の真相を伝えようとしても、犬上が隠蔽を表明している以上、深礼には虎丸が漏らしたと気取られるに違いない。それは、良くない。彼女に悪印象を持たれたくはない。
そういうわけで、切り札が、切れないのだ。
犬の腹を掻っ捌いたという恐ろしげな事実は、しかし虎丸から深礼への感情を変えるものではなかった。というより、彼女ならば、それくらいのことをやっても不自然ではないと思った。
虎丸の知る、小泉深礼という女は、一言でいえば弱い女だ。
弱いというのは、同じ物差し、同じ目方を使って比べるときの評価だ。たとえば虎丸は、剣道だろうと腕相撲だろうと、あるいは単純な殴り合いだろうと、犬上刑事には勝てぬだろうと思う。だから彼に比べれば、自分は弱い。弱いからこそ、もし犬上をぶち殺すつもりであれば、武器を使うなり、毒を使うなり、卑怯な手段を使うだろうということは予想できる。
弱いということは、つまりそういうことだ。スケールが同じならば勝てないだろうが、違う目方を使えば、メートル尺とセンチメートル尺で絶対値を比べるならば、相手を上回ることができる。だから弱い人間というのは危険で、目方を変えるために何を仕出かしてもおかしくはないのだ。己を敵より有利にするために。
まさしく深礼はそんな女だった。何をされても声をあげず、ただ震えて我慢しているような、そんな弱い女だった。虎丸が彼女を助けたときも、そうだった。か細い、小さな女だった。
それがこんなに柔らかかっただろうか。
小泉家の犬の死から二週間ほどが経過した平日の午後、外回り中に出くわした小泉深礼の手首を掴んだときに、思わず手を振り放してしまうほどに驚いた。
「痛い」
深礼がそう小さく叫んだときには、既に虎丸の手は彼女から離れていて、だから彼女が放してしまった買い物袋を簡単にキャッチすることができた。
(痛い、か)
先日の事件のときと同様、平日の午後の閑静な住宅街である。人通りが少ないのはありがたかった。
抵抗する様子を見せる深礼から一歩離れ、虎丸は彼女を観察する。何か、以前の彼女から何か変わった気がする。
夏が近づく陽気だというのに、紫外線でも気にしてか、折れそうなほど細い足首も手首も見えなかった。しかしその布一枚の向こうに隠された肉感は、虎丸が知るものとは違うような気がした。
深礼は二歩の距離を置いて虎丸と相対していた。片方だけ残った買い物袋を、両の手を合わせてもちもじさせながら揺すっている。顔を僅かに伏せ、上目遣い気味に涙を滲ませた瞳でこちらを睨んでくるからには、不満なところがあるらしい。
「返して」
と深礼は虎丸が握る買い物袋に視線を投げかけて言ってくる。丸い顔の左右に並ぶ大きな瞳は、左だけが赤く充血していた。
取り落としそうになった袋を掴んでやったのに、礼もなしか。おまえの犯罪を黙ってやっているのに、申し訳無さそうな表情もないのか。恩知らずな女だな、と思う。いや、昔からそうだったか。
「おまえ、太ったか」
深礼の言葉を無視してそう口に出せば、かぁと顔を真っ赤にして返された。馬鹿にされたと思ったのかもしれない。
太った、というのは正直な気持ちではあったが、馬鹿にしているわけではない。太ったとはいっても、醜くなったのではない。もともと折れそうなほど細い女だったのが、適度に肉がついた。艶が乗った。思わず口内に涎が溜まるほど魅力的になった。
赤らめた顔を伏せたまま、深礼は虎丸の手から無理矢理に買い物袋を奪おうとする。もちろん彼女が幾ら力を篭めたとて、虎丸から物を奪えるわけがない。しばらく待ってから、手頃なところで手を離してやった。
顔をあげた深礼は涙を目に湛えていた。そんなに買い物袋を自力で奪えなかったのが悔しかったのか、それとも太ったと言われたのが厭だったのか、でなければもっと別な事情があるのか。
何かあったんだろう、夫婦問題だろうと検討をつけて、背を向ける深礼に声をかける。
「和泉」
和泉、おい、和泉。そう呼びかけられてから、数歩進んでから深礼は応じた。「もう和泉じゃないって言ったでしょ」
「おまえが和泉でいいって言ったんだろ」
そう言われてしまえば、深礼はもう反応しなかった。虎丸はその小柄な背を追いかける。
「送ってってやるよ」
「お仕事中でしょ」
「いまは外回りだ。急ぎの用向きもない」
「それでもお仕事中はお仕事中でしょ。わたしのことは、放っておいてよ」
「なに怒ってんだ」
「怒ってない」
ああ、そうだな、怒っていない。虎丸は頷いてやる。確かにそうだろう。怒る理由などありはしない。
では泣いているのか。嘆いているのか。虎丸は尋ねなかった。だが、間違いなく彼女はいま、己の立場を嘆き悲しんでいるのだろう、と虎丸は思った。ほとんど想像だが、夫婦仲で何かが起きているのだろうというのは、不思議と簡単に想像ができた。虎丸に怒りに近い感情をぶつけてきたのは、単に手頃な相手だったからだろう。
その妄想が確信になったのは。その日の夜のことである。窃盗事件の通報を受けて現場へ赴いた帰りに、虎丸は深礼の夫、小泉鷹臣に出くわした。いや、帰宅途中であろう鷹臣とはすれ違っただけだ。雨で視界も悪かったのだから、きっと気付かなかっただろう。だが虎丸は彼の表情を注視していて、そこに色濃い疲労と焦燥を読み取った。単なる仕事疲れとは違う色を。
(それにしても………)
小泉鷹臣とは、こんな男だっただろうか。思わず振り返って、虎丸は思う。
彫りの深い顔には色濃く影を落とし、目だけがぎらぎらと輝いていて、まるで別人だ。もし自分がこの男を知らず、職務中に出くわしたのであれば、不審者だと判断し、職務質問をかけるくらいのことはしているだろう。
やはり夫婦間の問題だな、と虎丸は直感に近い想像を働かせる。あるいは深礼の仕出かしたことが鷹臣に知れたのかもしれない。原因が如何にせよ、虎丸にとってそれは願ってもない、嬉しいことであった。
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