第6話

「夫からDVを受けている」

 そうしたことを警察に伝えるのは簡単だ。

 だがそれを告げて、果たして警察は信じてくれるだろうか。


 少なくとも犬上という、あの巨躯の刑事は信用してはくれないだろう。彼は深礼が自分で飼い犬の腹を切り裂いて、その死を夫に対して偽装しようとしていたことを知っている。美礼を見逃してくれはしたが、間違いなく信用はしてくれていない。今度のことでも、どうせ深礼が離婚ついでに慰謝料でもふんだくりたいから、DVをでっちあげようとしているのだ、とでも思うに違いない。

 同じくその事実を知ってはいても、友人の虎丸なら信じてくれるかも、と思う一方、友人だからこそ、深礼の浅ましさを目撃したときの落胆は大きかっただろうとも予想できる。犬死にの事件以来、虎丸には会っていない。生き残ったほうの犬の散歩をするときでも、深礼は警察署の近くを通るのを避けていた。

 そもそも、警察に信用されないだろうと考えて、誰にも相談しないのではなかった。

 深礼は夫の行為を糾弾したいわけではなかった。


 鷹臣の心は不安定で、夜には妻を返せ返せと、意味の判らぬことを言いながら深礼を打ち据えてくる。しかし昼間はやはりいつも通りの優しい夫である。夜に行った恐ろしい行為について、謝ってくることさえある。

 やはり自分は、夫を愛しているのだ、と深礼は思う。彼に嫌われたくない。好きになってほしい。一緒にいたい。それだけなのだ。

(たとえ暴力を受けても………)

 それでも仕方がないと、深礼はそう思うのだ。恐ろしい、おぞましい行為でさえ、受け入れられると思うのだ。

 だがこのままでは、夫が駄目になってしまうと、深礼は同時に考えていた。このままでは、駄目だ、と。

 医者に相談してみようか、と考えたこともある。すぐに頭を振った。それは駄目だ。きっと彼のプライドを傷つけてしまう。

 状況を打開するための方法も思いつかないままに、時間が過ぎた。深礼は、朝起きて、朝食を作り、夫を送り出し、昼餉を作り、パートに行ったり犬を散歩に連れて行ったりし、買い物をして、夕餉を作り、夫を迎えるという生活をしていた。ときどき暴力を受けた。痣が増えた。


「和泉」

 午後の買い物の帰りに声をかけられたのは、そんな日々の一日である。よく晴れた、汗ばむほどの陽気の日だった。朝まで降っていた雨でできた水溜りを避けて、深礼は両の手に買い物袋を提げて歩いていた。深礼は車の運転ができないので、いつも近くのスーパーまで歩いていく。ちょうど良い運動だと思っている。だが最近の、できるだけ一目を避けたい事情を考えれば、もっと違う移動手段を選べば良かったとも後悔した。

 和泉、と深礼を旧姓で呼び捨てるような男はひとりしかいない。

 深礼は男の声を聞こえなかったふりをして、無視しようと思った。早歩きになった。だが深礼より遥かに背が高く、歩幅が長い男はすぐさま前に回り込んできた。

「虎くん………」

 と、深礼はたったいま気付いたというふりをした。われながら、わざとらしかった。

 虎丸はネクタイや上着は身につけてはいないものの、スーツ姿だ。制服というわけではないが、刑事は一般の会社員などに溶け込むために、こうした格好をしている者が多いのだという。聞けば、泥棒も最近では怪しまれぬよう、スーツ姿をしていることが多いらしく、逃げる側も、捕まえる側も、同じような格好をしているのだなぁ、という感想を持ったことを覚えている。


「あの、なにか用?」

 何も言わない虎丸に視線を合わせず、深礼は訊いた。冷たい言葉だと思った。ああ、冷たい、冷たい言葉だ。利用するだけ利用して、己の嘘が見破られたあととなっては、謝罪の言葉ひとつすらない。

 己のいやらしさを自覚しつつも、「用がないなら、じゃあ」と彼の脇をすり抜けようとした。

「待てって」

 ぐいと手首が掴まれたとき、その硬く大きな掌が前夜につけられた青痣を圧迫した。思わず顔を顰め、「痛い」と叫んで買い物袋を取り落としてしまう。

 虎丸は驚いた様子で手を離し、しかし恐るべき反射神経で落ちつつある買い物袋を掴んだ。こうなると、主婦である深礼には買い物袋を取り戻すまでは逃げられない。

 虎丸は、その鋭い目で、しばらく深礼の身体を上から下まで眺め回していた。

 深礼は気付いた。東北とて、陽が高くじんわりと熱の篭る日の続く六月である。足首まで隠れるロングワンピースに長袖のカーディガンという格好は、厚着過ぎるとはいわないまでも、刑事の直感を刺激するには十分だった。

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