第二章、剣の冬

第5話

「ほら、だから言わんこっちゃないのに」

 死んだ飼い犬を目の前にして、小泉鷹臣の耳に囁かれたのはそんな言葉だった。少年のような高い声を発したのは目元を腫らしている妻の深礼ではないし、立ち会った虎丸・犬上両刑事のものとしては似つかわしくない。鷹臣自身は発したわけでもない。

 いや、味方を変えれば鷹臣が発したということにもなるのだろうか。声に出さず、己の心の中でその声を作り出したと思えば。

 確かに言えることは、鷹臣以外の誰にも、いまの声を聞いたものはいないということだ。だから反応することはできなかった。だがもしなりふり構わずにいられるのなら、その小さな身体を掴んで怒鳴ってやりたいところだった。


「ごめんなさい」

 解剖遺体を受け取り、白瀬署から帰る車に乗ったとき、ついに我慢できなくなったのか、深礼はぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。泣きながら謝る深礼に、きみのせいじゃない、と返してやる。警察の調べでは、腹部の傷は刃物によるものだということなので、犬を殺したのは、どこの誰かも解らぬ変質者だろう。深礼のせいではない。

「いいや、その女のせいだよ」

 とまた高い声が言う。鷹臣は深礼の頭を抱いたまま、声の主を睨んだ。

 それは一言で言い表すなら、小さな人間だ。いや、妖精、と言ったほうが伝わりやすいだろうか。一般的に妖精というと、蝶のような羽をもつ、薄布のワンピースドレスのような衣服を身に纏う、金髪碧眼で美しい少女の姿だと思うが、鷹臣の目に映るその存在は黒髪に赤い瞳の少年で、格好もワイシャツに吊りズボンと何所か近代的だ。蝶というよりは蝉のような薄い半透明な羽は、鷹臣が掴めば簡単に千切れるだろう。

 千切ってやらなかったのは、その存在があまりにか弱く見えるからだ。顔の造作はその身の丈らしく幼く、髪が短いので少年だと思ったが、見方によっては口調が生意気なだけで、勝ち気な瞳の可愛らしい少女のようにも見える。でなくても、小さければそれだけで儚げだ。そんな存在を傷つけたくない。


 しばらく抱いたままでいると、深礼は落ち着いた。車を滑らせ、家へと向かう。

「だからぼくは早くやったほうが良いって言ったんだよ。いつまでもぐずぐずしてるからこうなったんだ」

 車中の交通安全のお守りにぶら下がりながらそんなことを言う妖精に視線だけ向ける。車中で、しかも深礼がいる前でこうしたことを言ってほしくない。運転に集中するのに苦労する。

「早くその女を殺すんだ」

 と妖精は言った。


 鷹臣が最初に医者に行ったのは、三ヶ月ほど前になる。この妖精の姿が見え始めて、一週間ほど経った頃である。

 正直なところを言えば、医者に行くのは厭だった。というのは、ほかの人間には見えない妖精が自分にだけ見える、というのは、己が精神を病んでいるに違いなく、医者にかかるということは、まさしくその精神の異常を自身で認めることになるからだ。顔が悪いだとか、肉体が貧相だとか、性格が悪いだとか、そういった誹謗中傷に晒されたとしても耐えられるだろうが、男として、己の能力を問われるのは厭だった。

 それでも医者にかかり、自分が駄目になりつつあるということを認めた大きな理由は、ふたつだった。ひとつは病んでいるのは鷹臣の精神ではなく、脳であるという可能性に行き当たったため。脳の何所かしらの部位が圧迫されたがために幻覚を見ているのだとすれば、危険な状態である。できる限り早く医者に行ったほうが良い。

 もうひとつの理由は、妖精の言葉に原因があった。彼は当初、どこに自分の探している存在がいるのか解らないと言っていたが、しばらくしてから思い立ったようにこう言い出したのだ。

「その女を殺すんだ」


 妖精が言う、その女、とは深礼のことだった。初めは無害な、何かを探しているらしいその妖精の姿が、醜悪な化け物のように感じられるようになった。

 おかしいのが鷹臣の脳髄であれ、精神であれ、その異常さが妻を害する方向に働いている。それを知ったとなっては、 自分の小さなプライドなど無意味で、医者にかからないわけにはいかなかった。

 脳外科に行くか、心療内科に行くかを考えた結果、鷹臣は心療内科を選択した。というのも、医者には事情を打ち明けねばなるまいが、脳外科でその話をすると、「精神科に行って下さい」と言われそうな気がしたからだ。逆に心療内科なら、脳や身体の原因で心を病むというのがあるだろうから、脳の断層写真か何かしらを撮ってもらえるだろう、という期待があった。


 妻に心配をかけたくなかったので、鷹臣は妻には知らせずに会社に午前休の連絡を入れ、大学病院へと向かった。少し待って通された診察室は、内科や耳鼻科の患者を診察するためだけの部屋とは違う趣で、まるでオフィスの一角だ。病院内らしく壁は白いのだが、目につくほどにいやに白いと感じるのはベランダつきの窓のからの採光のためだろうか。南側は窓で、西側には棚が幾つか並ぶ。棚の中は本やファイルのようだだが、それらは背表紙の色毎に並べられているらしく、入り口側から奥の窓の側へ向けて赤から紫へのグラデーションを作っている。反対側は白い壁に絵がふたつ掛けられている。ひとつは西洋の田園と思しき風景画で、もうひとつは抽象画のような虹の絵であった。不思議に広く感じる部屋の中央には硝子テーブルがあり、それを挟むようにソファがふたつ。医師は奥のソファに座っていた。

 鷹臣を診たのは上木うえきという名の、医者にしては若い男で、鷹臣と十も変わらぬだろうと思われた。若いということは、それだけ経験が浅いということで、鷹臣は心の中で少しだけ不安を感じた。部屋の様子も、 色の調子が整っているといえば整っているのだが、偏執的なほど整い過ぎで、それが気になった。


 だが現状を打ち明けてみて、真剣に話を聞いてくれるさまを見て、少し予想を裏切られた。上木医師は鷹臣の幻想的な話に真摯に付き合ってくれた。

「ではまず、脳のほうに異常がないか、という心配を払拭するために、MRIで見てみましょうか」

 たぶん大丈夫だと思いますけどね、と上木医師が付け足したとおりに、鷹臣の脳には異常はなかった。結果として心の問題ということが明らかになったわけだが、それはこれから解決していけば良いと思えば、安堵が産まれた。己が弱い心の人間なのだという情けなさを感じるだけの余裕も。

「腫瘍や血液の弁で脳が圧迫されて幻覚が見えるというのはないでもないんですが、そこまで酷いとたいていの場合は身体の何所かに不具合が出てきます。小泉さんの場合はそうした不具合はなかったようですから、脳梗塞などの心配はありませんね」

 と上木医師は説明した。


 肉体的な不具合の心配がなくなり、落ち着いて話ができる状況になってから、改めて診察が始まった。上木医師はまず、鷹臣の職業について尋ねてきた。

「システム・インテグレータです」

 と答えると、医師は少し考える様子を見せてから、「どちらにお勤めか、伺ってもよろしいですか?」と言った。

 鷹臣が社名を挙げると、医者は、「成る程」と頷いた。社名を訊けば、大手ITゼネコンの構成会社であることが解ったのだろう。

「プログラマだとか、システム・エンジニアだとか、システム・インテグレータだとか、そういう職業って、けっこう仕事がきつそうなイメージがあるんですが……、いまの職場だとどうですかね?」

 医者ほどじゃない、と返しかけたが、皮肉と捉えられかねないので、鷹臣は丁寧に説明してやった。大手企業の子会社であるため、親会社からの束縛があるものの、一般的な企業よりも安定していること。業務も納期直前の忙しい時期を除けば、妻と夕餉をともにできる程度の時刻に帰宅できること。福利厚生も特に問題がないこと。

「では、仕事に関しては特にご不満もないし、日常生活に支障を来すようなこともない、ということですね」

 と医師が言うからには、それだけ仕事を理由として心を病む人間が多いということだろう。だが鷹臣は現在、己の仕事に特に問題を抱えてはいない。家庭環境に関しても同じである。

「では次に、あなたが見ているものについてお尋ねしたいのですが」と前置きして上木医師は問う。「あなたに見えるその妖精はどういったことを言うのでしょう?」

 鷹臣はどう説明して良いか迷った。以前、半ば戯れに、鷹臣だけに見えるその妖精と会話をしてみたことがある。彼はいつも、鷹臣の傍にいるその女は有害だから、早く殺すように、と言っていた。そのときのことを回顧する。


「深礼のことか?」

 と尋ねると、返ってきた返事は不思議なものだった。

「そうだよ。正確には違うけどね」

 どういうことか、と問うと、だってそうなんだもん、と妖精は言った。

「あんたと一緒に暮らしているあの女は、あんたの奥さんじゃない。ぼくと同じ生き物の類だ」

「きみは……、妖精だな? 妻が妖精だというのか」

 妻は小柄で、大きな瞳の彩る長い睫毛は紫色の影を落とすほどで、可愛らしい。世間ずれしているところがあって、やや常識知らずでもある。成る程、妖精めいたところはあるな、と、それだけ考えれば頷けることもないではなかった。もっとも、目の前の小さな生き物が示唆することは、そういった外面的な可愛らしさのことではないようだが。

「妖精っていう言い方はあんたたちの勝手だから、べつにそういうふうに呼ぶのは良いよ。兎に角、あんたたち大きい人とは、全く違う生き物だ」

「大きい人?」

「大きいだろ。ぼくたち、小さい人よりは」

 だから鷹臣たちは大きい人で、目の前の妖精は小さい人か。身長や体重だけで考えれば、深礼は少し小さくて、でも大きい人だな、などと余計なことを考える。

「妻は人間だ。きみのような姿じゃあないだろう」

「あんたは大きい人だから判らないんだよ。ぼくには判るね。左目がちらちら赤く燃えてるし、指は血で膨らんでる。あれは大きい人じゃない」


 妖精は己の意見を曲げることなく、声高に主張する。しかし彼がなんと言おうと、鷹臣には深礼を傷つけるつもりはなかった。彼女はいまどき珍しいくらいに純粋無垢な女で、鷹臣を信じきっている。そんな深礼を傷つけるくらいなら、自分が傷つくほうがましだと思えるほど。

「きみが言うように深礼が妖精だとしても、関係ないよ」と鷹臣は言ってやる。「きみにとっては大事な忠告なのかもしれないけど、大きなお世話だ。 おれにとっては大事な妻なんだから」

「だから、違うんだって」と妖精は大袈裟なほどに溜め息を吐いて、こう言った。「あんたの奥さんはもともとは大きい人だった。なのに、いつの間にか入れ替わってたんだ。あれは、あんたの愛してた人じゃない。別人だ。それなのに、あんたはあれを愛するっていうのか?」


 そうした妖精との会話を、鷹臣は上木医師に語った。医師は鷹臣の話に口を挟むことはなかったが、ときおり何かを手元のカルテの類であろうものに書き付けていた。メモする程度に興味を惹く部分があったということは、やはり自分は病気なのだろうな、と鷹臣は少し悲しくなった。

「つかぬことを伺いますが……」話が終わると、上木医師が躊躇いがちに口を開いた。「いままで奥さんに不貞行為の類はありましたか?」

「ありません」

 と鷹臣は即答した。

 医師がその質問をしたのは、妖精が唆す、妻を殺せというその言葉が、不貞行為に対する潜在的な怒りを原因とするものであると推測したからだろう。あるいは、不貞行為を恐れるがあまり、鷹臣の中で作り出した幻想だと思ったのかもしれない。確かに、妖精が示唆している行為を考えれば、原因が夫婦関係にあると想像するのは間違いではないだろう。だがそうではない。

 男性恐怖症というわけではないが、深礼はそうそう男性が得意な女ではない。もし深礼とどこぞの男との間で不貞行為としか見えぬ状況を目撃したとしても、鷹臣は深礼が不貞行為を行ったとは考えないだろう。男のほうから無理矢理に強要されたか、でなければ妻には不貞行為を行っているという自覚はないだろうと思うに違いない。それだけ信用しているのは、妻の貞淑さというよりは、無垢さであった。


 だが家に帰ってきた鷹臣が出くわしたのは、それまで水晶のように純粋だったはずなのに、淫らな下着を身に着け、丸い肩とぷっくりした指で鷹臣を誘惑する深礼の姿だった。

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