第4話
「どこへ行ったんだっけ」
小泉深礼はぽつりと呟いた。
既に小泉家にはふたりの刑事の姿はなかった。どころか、彼らが来たときには昼を少し回ったところだったのに、陽の色が赤く染まっていた。刑事たちが帰ってから、ずっと惚けてしまっていたらしい。
刑事となった虎丸剣一は、深礼にとっては数少ない男友だちだ。ふたりきりで食事をできるだとか、気安く電話をかける程度に気が置けない相手というと、彼以外には思いつかない。だから彼なら、深礼のことを疑いはしないだろうと思っていた。もし気付いたとしても、黙っていてくれるやも、と。少なくとも、夫に告げ口をしたりはしないだろう、とも。
だが彼の先輩だという、犬上という刑事が自分を守ってくれるとは思ってもいないことだった。守った、というのも少し違うかもしれないが、しかしながら彼は深礼の犯罪行為を知りながら、遂にはそれを黙っていることを確約してくれた。勿論、ずっと秘密でいてくれるかどうかは彼の胸先三寸なわけだが、あの巨躯の刑事の真摯な表情を見ていると、なんだか信じられるような気がした。
彼が深礼を守る側に立ってくれたのは、深礼が虎丸の友人だということを理解していたからだろう。犬上刑事は、虎丸のことを後輩として可愛がっているように見えた。気を遣ってくれたのだ。そう思えば、虎丸にもやはり感謝しなければと思う。
それ以上に幸いだったのは、彼にもっとも答え難い質問をされなかったことだ。「犬の腹はどこへ行ったのか?」という質問は、答えられない質問であった。よく覚えていないからだ。だが覚えていないなら、答えられないことに不思議はない。だから深礼は、少なくとも何かを隠すような態度をしないで済んだ。知らないなりに黙っていたら、相手の方から話題を変えてくれた。
だがもし、答えを知りながら、隠蔽しなくてはならないような質問をされていたら、深礼は動揺を露にしていただろう。そうしていたら、犬上刑事は噛み付いて離れず、さらに深く腹の内を探られることになっていたかもしれない。
「なぜ、犬が死んだことを隠そうとしたのか?」
犬上はその問いを発さなかった。虎丸も。彼らの中で、その問いが発せられなかったわけではなかろう。動機は重要だ。だが彼らは彼らの胸の内で、その解答を推量していたのだろう。だから問わなかった。
きっと彼らの中での解答は、こうだ。
「夫に知られるのが怖かったから」
それは、正しい。確かに深礼は、犬が死んだ、ややもすると深礼が原因を作ったかもしれない、と夫に知られることが怖かった。いや、正確にいえばその先だ。
虎丸たちはきっと、深礼が怖がっているのが、離縁だとか、それに伴う慰謝料問題だとか、そういうことだと思っていたのだろう。それは確かに厭なことだ。だが身体の芯が下から上まで震えるような恐ろしさはない。
そうではない、そうではないのだ。
恐れるべきは夜なのだ。虎さえも、狼さえも恐れてただ震えてるしかないのは、真っ暗闇のただ中の夜なのだ。
「もうやめてください」
そんな言葉を発することができればどんなに楽か。
虎丸と犬上の両刑事がやって来た日の夜である。深礼は両腕を鉄の針金で縛られた上で叩かれていた。叩く道具は革のベルトで、幸いなのは金具が付いている側ではないことだ。腰だとか肘だとか、骨の硬いところに当たっても、痛い、程度で済む。痛い。本当に痛い。露出した太腿や腕の叩かれた部分は赤くなっていて、明日になれば蚯蚓腫れが縦横に浮かび上がるであろうことは間違いない。
ベルトの鞭で深礼を殴打するのは夫の小泉鷹臣である。息が荒く、目が据わっている。最近は、夜になるといつもこうだ。
以前から予兆はあった。
たとえば、鷹臣がときたま奇妙な視線を向けてくることがあった。どう奇妙か、というと説明し難いのだが、たとえば朝に和室で着替えているときなど、居間から視線を感じることがあって、振り返ってみるとしかし、鷹臣はテレビのほうを向いていたりする。
視線というのは何かといえば、つまりは様々な状況を無意識下で分析した結果だ。対象に気付かれぬように何かを監視するときに、息を潜めて、などと形容することがあるが、いつも規則的に為されているはずの息が潜められれば、意識には昇らずに閾下で処理されていた息遣いを感ずるようになる。その他、動きが緩やかになったり、物音を減らそうと努力したりする。それは動きを隠そうとするがゆえの結果なのだが、変化というものはそれだけで目立ち、不審に感じるものだ。そうした不審さを無意識下で分析した結果が、つまり視線を感ずるということだ。
もちろん、そうした分析は直接的な観測によるものではないので、的外れであることも多々ある。しかし何度も繰り返されれば気にはなるし、ときには視線を逸らすタイミングを外したのか、鷹臣と目が合うこともあり、己の感覚は間違いではないと深礼は感じた。
何かしらのいやらしいというか、えっちなことの要求ではないだろうか、とはじめ深礼はそんなふうに思っていた。鷹臣は三十近い年齢だが、見た目はまだ若く、たぶん身体の中身も相応に若い。若いということは、それだけ元気だということだ。
深礼としては、年下の妻であるため、そういった夜の営みに関しては自分からどう切り出して良いのかが判らなかった。しかし鷹臣の性格を考えると、やはり自分から行動せねばなるまいという気になる。彼は非常に奥床しい性格なので、己の欲望を即ち言葉や行動に映すことをしないのだ。ならば妻が助けてやるらねばなるまい、と奮起するというものだ。
そういうわけで、仕事もなく、穏やかに夕食後の時間を過ごしていた土曜日に、朝から念入りに選んだ下着と薄化粧を鎧に、勇気を出して挑戦してみた。その結果が、こうした嗜虐行為だった。
「痛いです」
深礼が喚くと、鷹臣はより一層熱の篭った表情で叩く。それでも、何も言わずに耐えるよりはましなのだ。黙って耐えていると、喚かせようとして強情になる。痛い痛いと喚いたほうが良さそうなので、深礼はそう言っている。勿論、肉体的にも痛い。痣になる。このところは半袖は着られないし、短いスカートも穿けない。
そう、痛いのだ。
慣れたといえば、慣れた部分もある。けして運動は特異な部類ではないが、鞭打たれる瞬間にどう身体を強張らせれば良いか、どう受け止めれば痛みが小さくなるかが解ってきた。何より、痛みそのものに慣れてきた。
だがそれも肉体的な話。
いまは何より心が痛い。
鷹臣はこんな人ではなかった。優しい人だった。だから好きになった。
それが変わってしまった。
彼はいわゆる
(いや、いや)
まったく、変わってしまった。別人のようになってしまった。
深礼は目の前の夫が、見た目だけ同じ、しかし中身は全く異なる別の存在に入れ替わってしまったのではないかと感じた。
この恐怖が、犬の腹を捌くことで、犬が殺されたのを異常者の行動として罪を擦り付けようとした美礼の動機だった。いや、単に腹いせだったのかもしれない。あるいは夫の嗜虐性がいつのまにか感染したのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、革ベルトの鞭がまた襲ってきた。両の腕は針金を以ってして背中でベッドの枠に縛られているのだから、避けようもない。ベルトは胸に当たった。白のスリップが皮膚を覆っている部位に当たったのは幸いだ。折檻が肌に直接か、下着を通してかでは、だいぶん痛みが違う。もっとも蝋燭の蝋を落とされたりする段階になると、そんな余裕はなくなるのだが。
いまや鷹臣も鞭打つのに疲れたのか、荒い息をあげるばかりだ。今日はもう終わりらしい。顔だの手だのといった服で隠せない部分にたいした怪我がなかったのは幸いだ。ほっとして、夫が拘束を緩めるのを待っていると、彼は縛られたままの深礼を置いて寝室を出て行ってしまった。これは、明日の朝までこのままの格好で過ごさねばならないということだろうか。
そんなふうに穏やかな感想に耽っていれば、鷹臣が戻ってきた。彼は鏝を持っていた。コンロで熱せられた焼き鏝だ。
そういえば放牧をする牛だの豚だのは、ほかの農場に混じったり、盗まれたりしても区別がつくように焼印というのを拵えるらしい。特定の文字を模った鏝で、その所有を示すのだ。よくこんな道具を持っていたものだ。
じゅうと音を立てて焼き鏝が押し付けられては、もはや悠長に考えることはできなかった。喉奥から、絞るような声が出た。指が曲がった。目の奥から、涙で鏝を冷やそうとでもするかのように涙が溢れた。
(拷問だ)
これは、まるで、そう、拷問だ。深礼は思った。もう思うだけで、何かを考えることはできなくなっていた。
鷹臣は鏝を捨て、まだ出て行った。しばらくしてから戻ってきた彼の手にはコップが握られていた。飲め、とでもいうように押し付けられたコップに入っているのはどろりとした液体で、僅かに黄色がかった白色だ。口元に近づけられると、生臭い匂いがした。無理矢理に唇にコップの端を挿入されると、もはや飲まぬわけにはいかなかった。
「深礼を返せ」
と鷹臣が言った、その言葉には耳を疑った。彼は言ったのだ、返せ、と。本当の深礼を返せ、と。
本当の夫を、優しい夫を返して欲しいと思っているのは、むしろ深礼のほうだ。それなのに、目の前の、全く変わってしまった男が言うのだ。深礼を返せ、と。
「深礼をどこへやった。深礼を返せ」
歯に絡みつくようなその液体を、必死で嚥下しながら、深礼は夫が変わってしまったことに涙した。深礼にできることは、何もなかった。
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