第3話

 小泉家の犬が殺された事件の晩に、虎丸剣一は犬上刑事とともに鑑識官からの解剖結果報告を受け取った。おそらくは刑事課捜査一係ではまだ新人の虎丸がいるからだろう、白瀬署の鑑識官の蛇口じゃぐち捜査官自ら丁寧に結果を説明してくれた。


 一、死因は不明であるが、毒の類と思われる。

「不明ですか」

 と虎丸が言うと、そうだね、と蛇口が頷く。

「腹の中身が見られればもう少しよく判ったんだけど……まぁたぶん毒の類じゃないかな。具体的なところはわからないけどね。一般的に生息している蛇とか虫の毒とは合致しなかったよ。人工物っぽいね。あと、少なくとも腹の傷に生活反応はなかったから、腹抉られたのは死んでからになるね」

「毒というのは」と報告書を眺めて犬上刑事が尋ねる。「毒餌ということですか? それとも注射されたとか?」

「それは解らないね。毒の種類が特定できれば、多少は推測ができるんだけど、それも判らないし。ただ、少なくともいま残っている部分には注射跡のようなものはなかった。まぁ毒餌かな。犬相手なら、その方が簡単だろう」


 二、死んだ犬の牙や爪には、犯人への手がかりになりそうな怪しいものは残されていなかった。

「抵抗しなかったってことですか? じゃあ顔見知りの犯行とか?」と今度は虎丸が訊いた。

「いや、毒だし……まあ毒餌だったら抵抗も何もないからなぁ」


 三、切断面から、鋭利な刃物を用いたことは間違いない。

「刃物ってことは、ほかの獣にやられたってことはないんですね?」と犬上。

「毒物を使ってることもそうだけど、切断面から考えて、間違いなく、人間だ。でなければ、忍犬みたいに刃物咥えられる生き物」

「にんけんってなんですか?」

 虎丸が犬上に尋ねると、彼はただ肩を竦めた。

「忍者の飼ってる犬」と蛇口が自ら説明した。「あれは毒使えそうだよね」

「ああ………」

 成る程、と納得して良いものかどうか迷った。


 四、死亡推定時刻は不明であるが、通報から四時間以上は経っていない。

「まぁ深礼の」と言いかけて虎丸は訂正する。「被害者が犬から目を離していた時間がそのくらいの間隔ですからね」

「胃袋が残っていれば消化具合でもう少し細かく判ったんだけどね」と蛇口鑑識官は肩を竦める。「ないとこれが限界」


 五、腹部分は周辺からは発見されなかった。

 この報告を聞いた瞬間に犬上刑事の表情が強張ったのを、虎丸は見逃さなかった。


 解剖所見を捜査記録に加えて、ようやく報告書が仕上がる。一般に、刑事というのは外回りをして事件の捜査に勤めるのが主だと思われているらしいが、実際はデスクワークも少なくない。どんなに忙しいときでも、事件の経過報告は欠かせない。捜査員が自らの考えに固執するのは危険だからだ。人の批判を受けながら行動しなければいけないからだ。それだけ犯罪の捜査の任は重い。

 犬上刑事から、事件の話を改めて訊くために小泉家へ行こうと言われたのは翌日の昼過ぎのことだった。

 虎丸としては、そもそも事件を口実に小泉深礼に会いに行こうとしていたので、深礼の家に行くことそのものに異存はなかった。問題は犬上も一緒だということで、先輩刑事である彼と共にいると、深礼が己よりも彼を頼ってしまうのではないか、ということであった。

 とはいえ犬上は先輩で、虎丸は後輩だ。抵抗する権限はない。大人しく承諾し、小泉家へ向かう。アポイントも何も取ってはいなかったが、深礼は家に居た。


「虎くん……と刑事さん」

 流石に昨日のように泣き腫らした顔をしているわけではないが、いつもの快活さは見えなかった。それでも虎丸の名を呼んだときには僅かに明るい色が戻り、虎丸は嬉しくなった。犬上の手前でなければ、おれも刑事だ、くらいの軽口は叩いてやったところだ。

「あなたが犬の腹を捌いたのではないかと思い、訪ねさせていただきました」

 居間に通されて茶を出され、用件について尋ねられた犬上刑事が発したのは、そんな彼女の頭を引っ掴んでテーブルに叩きつけるが如き言葉だった。

 対面の深礼はびくりと震えて、視線を下げた。正座をした膝の上の己の握り拳に目を向けてから居心地悪そうに視線を彷徨わせ、最終的に到達したのは虎丸の顔だった。

 彼女の助けを求めるかのような視線を受けて、虎丸はなんと対応しようか迷った。正直なことをいえば、犬上の言い出したことはどうやら真実らしいと思えていたからだ。

 そもそもが、犯罪というのは凄惨なものであるほど近場で起こるものだ。傷害や殺人といったものの殆どは、身内か友人といった、顔見知りの間で行われている。勿論通り魔のような事件もあるのだが、死にまつわるものに関すれば、件数としては遥かに少ない。人を傷つけたり、殺したりといった動機が生じるのは、親しき仲においてだけなのだ。今回死んだのは人ではなく犬だが、似たようなものだろう。だから家族、つまり小泉深礼が犯人だとしても、おかしくはないと思っていた。

 何より、深礼の態度は、犬上の言葉を肯定している、と虎丸は感じた。


 そういえば、昨日の深礼は芳しい汗の匂いがしたな、とふと思い出す。あれは、単に勤め先から歩いて帰って来た程度の汗ではなかった。運動をしたということで、それはつまりは犬の腹を抉る作業だろう。

 だが犬上が彼女を疑ったのは、単なる勘だろう、と虎丸は思った。いや、単なる勘ではない。刑事の勘だ。長年勤めた刑事としての感覚が、彼女の異常さを捉えたのだろう。

「少し……調べさせてもらってもよろしいですか?」

 犬上が問うても、深礼は口を手で覆い、頷くとも首を振るともしない。彼は立ち上がり、目線で虎丸についてくるよう促す。

 虎丸は犬上とともに、家の中を調べた。犬上は鑑識から血液成分と反応する溶液を借りてきていて、それが役に立った。血は拭き取られたくらいでは、完全には消えない。血の跡が、凶器が隠された場所を示した。凶器となった包丁は、タオルとアルミホイルで二重に包まれて冷凍庫の中に入っていた。深礼が犯人であることは間違いがなくなった。捨てなかったのは不燃ゴミの回収日がまだだからか、それとも単に触れるのが怖いからか。


「あなたのしたことは、犯罪です」

 居間に戻り、未だ硬直したままの深礼に向かって、犬上が至極当たり前のことを言った。

 深礼の口がぱくぱくと動く。虎丸も犬上も、彼女が喋れるようになるのを待った。

「あの、夫には………」と消え入りそうな声でようやく深礼が言葉を発する。「言わないでください」

 深礼の頓珍漢な言葉に、虎丸は噴き出しそうになった。犬が死んだ程度のことでは忌引きでは休めないということで、夫である小泉鷹臣は外出していた。その彼に秘密にして欲しいとは。

 動物は人間ではないので、殺しても殺人罪が適用されることはない。だが動物愛護法には引っかかる。人間を殺すのに比べれば遥かに軽い罪だが、犯罪は犯罪だ。事はすぐに伝わろう。それなのに、夫には言わないでください、とは。流石は深礼である。彼女は昔から、こんなふうに惚けたところがあった。可愛いなぁ、と思う。

「殺したわけじゃあ、ないんです。帰ったら、死んでいて………。わたしが、殺したわけじゃあ………」

 虎丸と犬上を懐柔するためだろうか、ぽろぽろと涙を零す。そうして泣き顔で騙さずとも、もともと虎丸は深礼のことを好いているし、犬上に関しても最初から友好的だといえる。彼はもっと威圧的な姿勢に出ることもできたのだが、彼が女に弱いのは有名だ。


「何があったかを正直に話していただけるのであれば、対応については検討します」

 と彼が言ったのは、彼女が殺したわけではなく、あくまで腹を抉っただけならば、それは犯罪かどうか微妙なところだから、という理由だけではないだろう。しかし大きな理由ではある。人間ならば、死体を損壊することは罪だし、勝手に遺棄はできない。だが動物の場合はそれは適応されない。敢えて言えば、死体を公共の場に放置すると腐敗して周囲の住民に迷惑をかけるということくらいで罪に問える程度だ。

「なんで死んでいたのかは判らないんです………」

 ぽつりぽつりと深礼は語った。仕事場から家へ戻ってきたら、そのときには既に犬が死んで冷たくなっていたこと。外傷がなく死因も判らなかったが、何か自分の過失があったのかもしれないと思ったこと。もともとは夫の飼っていた犬だったから、死んだら深礼の責任が追及されると思い、変質者に殺されたことにしようとしたこと。虎丸を頼ったのは、彼なら己を疑りはしないだろうと思ったということ。


「では最後にお尋ねしますが、犬の腹はどこへ行ったんですか?」

 犬上の質問に、深礼は呆然として答えなかった。

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