第2話

 小泉深礼が嗚咽を堪えて震えている。

(可愛いらしいなぁ)

 虎丸剣一は手を己の口元にやる。こうして隠さねば、笑みが毀れてしまいそうになる。人死にがあったわけではないとはいえ、事件そのものは凄惨であり、笑顔を浮かべるのは適当ではない。深礼にも厭われてしまう。

 だが、やはり深礼は可愛いらしい。


(おれが犯人なら、この泣き顔を見るというのが動機だな)

 そんなことを考えながら、改めて事件現場である小泉家の庭先を眺める。血塗れの現場と腹を抉られた死体は、それが人間のものではなかったとしても、目の当たりにしただけでただ嫌悪と不快と怒りとを生じさせるのに十分である。

 白瀬署刑事課捜査一係の捜査員である虎丸が、先輩であり相棒でもある犬上いぬがみ刑事とともに現場にやってきたのはつい数分前である。

 刑事課というのは刑事事件を扱うということであり、捜査一係というのは主に傷害や強盗、ときには殺人など、暴力関係の事件を扱う。そして捜査員というのは、呼んで字の如く捜査を行う人員のことだ。交番の駐在も警視庁の捜査員も同じ警察官だが、刑事事件における捜査は基本的に所轄署や県警の捜査員が行う。県警よりは規模が小さいものの、白瀬署は白瀬市では最も大きな所轄署である。とはいえ、べつだん重大な事件らしいから白瀬署から虎丸たちが捜査のためにやって来たというわけではなく、被害者である深礼から虎丸の携帯電話に直接電話がかかってきたため、捜査をすることになったのだ。虎丸は犬上刑事と警邏中で、ちょうど手が空いていた。


「虎くん、虎くん………」

 いま、深礼は虎丸の胸で泣いていた。むわと女の色のついた汗の香りがした。さすがに抱き寄せて、とはいかないし、顎を持ち上げて口づけしたり、涙を舐め取ってやるのも先輩刑事の手前、憚られる。しかし犬上刑事は犬の傍で検分をしておりこちらに注意を払っていないため、一瞬ならば肩に手を置くくらい許されるのような気がする。だが犬上は尋常ではなく勘が鋭いところがあるから、深礼に手を触れた瞬間にこちらを振り向くかもしれないし、などと思うと虎丸はペンギンのように深礼の前でばたばたと両手を振ることしかできなかった。

「だれがあんなふうに………」

 深礼の震える声を聞いて、ようやく虎丸の頭が冷静になる。いまは、捜査をしなければならない。


 改めて周囲を観察する。白瀬市の繁華街からだいぶん離れた住宅街にあるからには、小泉深礼の家は長閑な風情の庭とガレージつきの二階建てだ。野球は無理だがバドミントンくらいならできる程度の庭は、犬のためのものだ、というのは以前に深礼の口から聞いたことがある。敷地の周囲は虎丸の上背ほどの生け垣に囲まれ、入り口は金属製の黒門で塞がれている。門といっても、こちらは胸元までしか高さが無く、錠も閂だけだ。それも外から指でうごかせるので、犯罪者相手となれば精神的なもの以上の効き目は無い。とはいえ犯罪率の低い地域であるからには、こんなものだろう。

 犬が死んでいたのは、ガレージの傍らにある犬小屋のすぐ前だ。近くには小泉家で飼われているもう一方の犬である小型犬のほうもいたが、そちらは傷一つなく無事だった。あれに話を聞ければ事件は解決しそうなものだが、もし犬と言語を交わすことができたとしても、間抜けそうな顔なので碌々情報は得られないかもしれない。

 犬の死体は、明らかに自然死ではなく、他殺と判る有様だった。


 なにしろ、腹がない。


 最初は、犬より大型の獣に腹を食い破られたとしか思えぬ様子ではあったが、よくよく見てみれば傷口はそこまで荒っぽくはなく、刃物で切断されたのかもしれない。詳しくは鑑識に見てもらう必要があるが、それまでの間は犬上が周辺の捜索、虎丸が深礼に状況の確認をすることになった。割り振りをしたのは先輩刑事である犬上で、深礼に話を聞くのは、友人である虎丸のほうが良かろう、ということだった。

 犬上のことだから、怯えた様子の深礼に気を遣ったところもあるのかもしれない。犬上は平均以上の体格である虎丸からしても大きく感じるほどの筋骨隆々たる巨漢で、小柄な深礼が彼と目線を合わせようとすれば、首が痛くなるほど持ち上げなくてはならないだろう。しぜん、怯えを促進させることになってしまう。

 パートナー兼教育係であるベテラン刑事の犬上に様々な局面で世話になることが多い虎丸だったが、このときほど彼と組んでいることに感謝したことはない。

(人間の仕業だろうな)

 と遠目に死体を観察しながら、改めて思う。もし野生動物の仕業だとすれば、それは起訴対象がいないのだから刑事事件としては扱えないが、それでもやはり警察官の仕事ではある。大型犬の腹を食い破るような獣がいるならば、その獣の害から市民を守らねばならないのだから。他県では過去に虎狩りをしたことがあるらしい。だが今回はそんな大捕り物の心配はしなくてもよいだろう。


「和泉」

 と彼女の口から詳しい話を聞こうとして止まる。彼女はもう和泉深礼ではない。小泉深礼だ。だから再会してからは、和泉、と呼びかけると、「もう和泉じゃないんだよ」と返されるのが常だったが、今日の彼女はただただ頷くだけだった。

「話を聞きたいんだが、いいな?」

 と虎丸が尋ねると、黙って頷いた。

「犯人は、見ていないんだな?」

 と尋ねて、もう一度頷く。いまの彼女なら、たとえ靴を脱いで足を舐めさせろといっても頷きそうだ。

「どういうふうに殺されたのかを知るために、解剖へ回す必要があるんだが、いいな?」

 今度は頷かなかった。愛犬が解剖されるというのは、やはり厭らしい。


「必要なんだ。えっと、例えば凶器だとか、そういうことを確かめるために、だ。それが手がかりになるかもしれないし、犯人が捕まったときに裁判の証拠にもなるかもしれない」

 と虎丸は職務半分、嗜虐心半分で解剖の有用性について語った。

 正直なところ、犬を司法解剖して有用な証拠が出るかというと、怪しい。単純に、犬の死因を特定するような状況が少ないため、蓄積されたデータが少ないからだ。人間ではないぶん、生体実験は簡単に行えるとはいえ、犬種の差も大きく、たとえば死亡推定時刻のようなものが正確に導き出せるか、といえばこれも判らない。だが何もしないよりは良い。

「でも………」

「解剖のあとは、縫合してもらえる」と虎丸は説得を続けた。「たぶん、いまより多少ましにはなると思う」

 深礼が犬の死体をどう処置するかは知らない。だが腹を破られた無残な有様の死体よりは、外見だけでも取り繕われた死体のほうが埋葬しやすいだろう。

 深礼は躊躇いを見せていたものの、最終的には頷いてくれた。


「虎丸」

 と犬上刑事に名を呼ばれる。彼は門前でパトカーであとからやって来た鑑識官や警官に指示を出していたが、犬を解剖に回していいのかどうか訊きたかったらしい。

 深礼が解剖に同意してくれたことを告げると、犬上は少し逡巡する様子を見せたのち、「おまえは彼女と共に署に戻っていろ」と言った。

 曰く、大して調べるところもなさそうなので、警官や鑑識と協力すれば犬上ひとりで十分だということである。犬上は見るからに強健そうな見目であり、寡黙というほどに口数が少ないが、だからとて冷たい人間というわけではない。彼も犬を飼っていると聞いたことがある。飼い犬が死んだ深礼に同情して、この場にいつまでも留まらせておくべきではないと考えたのだろう。

 深礼に署で話を聞く旨を告げると、彼女は頷いてから、少し迷ったように、しゃがみこんで足元の犬に触れた。

「あの……この子も一緒に連れてって、いいかな?」

 虎丸は頷いてやった。残念なのが、犬を乗せるとなるとスペースの都合で、深礼が後部座席に乗ってしまうことだ。虎丸は空いた助手席を寂しく感じながらも、白瀬署へ戻る。


 途中、何処か寄りたいところがあるか、と訊いたが、彼女は首を振って僅かに笑った。冗談だと思ったらしいが、虎丸としては映画が見たいと言われれば映画館に、休みたいといえばホテルに寄る腹積もりだった。

 署に戻り、事件に関する聴取が始まったが、それはすぐに終わった。経緯はほとんど現場を見てのそのものだったようで、十二時前に家を出たときには元気だった犬が、十七時前に家に戻ってきたときには死んでいたというだけであった。犬を殺されるような恨みを抱かれている覚えはない、ということである。

「そうだろうな」

 だが深礼に恨まれる覚えがなくとも恨みを抱かれている可能性はある。深礼は幸せが花を両の手に抱えて歩いているような女だが、幸せそうな人間を見て幸せに感じるかどうかは人それぞれだろう。

 聴取が終わると、始まったのが個人的な話である。高校時代の出来事だとか、共通の友人に関する近況だとかで、他愛もない話だった。

 犬を抱きながら、深礼の顔色はだんだんと生気のある色に戻ってきた。犬を抱き、しかしときたま震えを催すことがあった。その様子を見て、虎丸は心の底から、この女を抱き締めたいと思ったが、実行する前に犬上刑事が戻ってきたので、やめた。

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