第一章、風の冬
第1話
結婚は素晴らしいものだと思う。
「単に結婚相手が素敵だっただけかもしれないけど」
結婚が失敗だとか人生の墓場だとかいう言葉があって、結婚というものが被扶養者や責任、家といった様々なものを背負うことになる代わりに得るものが少ないという考え方から来るものなのだろうが、それは基本的に男性視点のものであって、女性から見た結婚観とはだいぶん違うものなのではなかろうか。
深礼と鷹臣が出会ったのは五年前で、まだ深礼は大学に入ったばかりの十八歳だった。初めてのアルバイトを始めた先の会社が、鷹臣の勤め先の会社だったのだ。最初の頃は、特段接触はなかった。というのも、深礼はそれほど社交的な部類ではなく、特に男性に関しては、高校時代は一人だけ仲の良い男子がいたくらいで、それ以外には男性との付き合いというものがほとんどなかったから、何か仕事上で会話をすることがあっても、踏み込んだ会話をすることはなかった。
進展したのは一年ほど経ってからである。共通の趣味が発覚した。犬である。
深礼の両親は早くに死んでいて伯父夫婦に育てられていたため、遠慮する気持ちがあって動物など飼えなかったのだが、独り暮らしを始めて奨学金とアルバイトで自分のために金を使えるようになってからは、
ペット可のアパートに住んで犬を飼い始めた。そして春の予防接種を受けるために病院に行ったとき、同じく犬を連れた鷹臣を見つけたのだ。
男性があまり得意とはいえない深礼のこと、すぐに意気投合した、とはならなかったが、趣味のこと、家族だと思っている犬のことを話すことができ、また喜んで聞いてくれる相手がいるというのは嬉しかった。鷹臣の場合は、まだ若く独身だというのに、犬が飼いたいがために庭付きの一戸建てに住むほどに筋金入りであった。
徐々に仲を深めていった。付き合い始めたといえるのがいつなのかはよく解らない。本当に、徐々に、ゆっくりと、彼のことを知っていった。大学四年の頃はほとんど彼の家に住むようになって、卒業とともに結婚した。
何もかもが順風満帆、幸せな人生である。足りないのは、敢えて言うなれば、子どもくらいのものだ。
結婚して一年。まだふたりの間に子どもはない。
子ども好きの部類であり、子どもが産まれたらきっと愛情を注いで育ててやれるだろうという自負はある。鷹臣も、子ども連れの友人知人と接する機会を見る限りにおいては、子どもが苦手ということもないはずだ。
子どもが産まれないのは、いまは避妊しているからだ。同棲を始めた当時、深礼はまだ大学生で、妊娠するのは少々問題だったし、籍も入れていないのに妊娠するというのは少々問題がある気がしたのだ。卒業し、パートタイムのいつ辞めても問題無い仕事しかない主婦となったいまとなっては、腹が大きくなっても問題は薄いのだが、しかし従来の慣習そのままに避妊を続けてしまっている。恋仲になるというのは鷹臣が初めてで、だから子どもを産もうと、そう提案するにはどう言ったら良いか解らない。そもそも女のほうから切り出すのが適当なのかどうか。そういった事柄について話をするのにはどうしても恥ずかしく、言おう言おうと思ってもついには言葉にならないのだ。
(まぁ、子どもが産まれるとなると、先立つものがいるものだしね)
貯蓄を言い訳にして、そんなふうに諦めてしまう日々が続いている。
経済状況は特に貧しいわけではないが、十分に余裕があるともいえない。原因は明らかで、犬がいるからだ。特に鷹臣に至っては、独り暮らしの頃、時期によっては自分に使う金よりも犬に使う金のほうが多かったほどなので、推して知るべし。
現在は平日は昼の間だけ、深礼もスーパーでレジ内のアルバイトをして働いている。ふたりで暮らすようになって、色々な無駄が省けるようになり、特に家賃と食費の面に限っては互いに助け合うことで状態が向上した。少しずつ貯蓄が増えていっている。子どものことは、余裕ができたら、そう、それからでも遅くない。
「それに、いまはあの子たちがいるものね」
あの子、とは犬たちのことだ。二匹とも散歩と遊ぶことが好きで、体格はだいぶ違うが仲が良い。深礼がスーパーの仕事から帰ると、その犬のうちの一匹が死んでいた。
死んでいたのは短毛立て耳の大型犬のほうだ。スピッツ系の雑種で、柴犬の血が入った人懐こい顔の犬だった。鷹臣が昔から飼っていた、十歳を越える老犬だ。雄だった。
初め、深礼は死んだのが己が大学に入ったときから飼い始めた小型犬のほうでなかったことを喜んだ。
それから、鷹臣と付き合いだすと同時に交流が始まったその犬との思い出を思い出し、自分の犬とも仲が良かったことを思い出した。体格差がありながらも、小さいほうは大きいほうに積極的に食ってかかり、大きいほうは大きいほうで鷹揚にそれを受け止めるという具合に、対等の付き合いかというとそうでもなかったが、兎に角仲は良かった、と思う。じゃれあう様は、見ていて思わず笑みが毀れるほどだった。
それが、死んだ。
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