妖精剣ユングヴィ
山田恭
序
泉の乙女
マイケルは親類の男たちと協力して、妻の手足をつかんで前後に激しく揺さぶった。それから、男たちは斉唱した、「去れ、そして帰ってこい、ブリジット・クリアリー。神の名において」そうしている間、家の中にはブリジットの叫び声が響きわたったという。さらに男たちは、「貴様は本当にブリジット・クリアリーなのか、マイケルの妻なのか、神の名において答えろ」と詰問しながら、何度となく台所の火格子のそばへとブリジットを引っ張り出した。これは、人間に化けている妖精は火と鉄に弱く、火で脅されると正体を現すという言い伝えがあったからである。
(下楠昌哉『妖精のアイルランド―「取り替え子」(チェンジリング)の文学史』2005年、平凡社より)
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妖精を妻として娶るに必要なものを考えると難しい。
たとえば妖精を見るための、燃えるように赤い妖精の目は、あれば便利に違いないのだが、必ずしも必要かと問われれば、違うような気がする。声を聞くための尖った妖精の耳も、間違いなく必要だとはいえないし、あったとしても妖精の妻を迎えられるかどうかというと、怪しい。
ひとつ不可欠なものを挙げろと言われるならば、まず挙げられるのは妖精の女の存在だろう。
といっても、べつだん羽が生えていたり、道に迷わせたり、物を奪ったり、聖書の言葉が苦手だったりというわけではない。単に小さく華奢な女だったというだけだ。べつにそのときも、妖精のようだ、だなんて感想を持ったわけではなかった。
当時はその女に特別な感情を持っていたわけでもなかった、といえば嘘になる。間違いなく、内なる感情を抱えていた。だが当時の虎丸は、まさしく餓鬼だった。馬鹿だった。それだけだった。高校を卒業してから、虎丸は警察官になった。彼女は大学に進学した。
久しぶりに彼女に会ったのは、虎丸剣一が研修を終え、M県白瀬市に戻ってきた四月である。その日は月曜日だったが、土日と当直であったため、その分の代休日であり、散策するような景観でもない住宅地の道を、何に当てるというでもなくぶらぶらと歩いていた。力を抜けば自然と足が前を向く程度の下り坂だったが、足元は気にせずに春空を見上げる。僅かに靄がかかったような空はやや白く濁っているものの、陽光は明るく、街路に等間隔に生える太い幹の広葉樹を照らす。人の姿は少なかったが、月曜の昼前、繁華街や公共交通機関に近いわけでもない住宅街となればこんなものだ。通るのはここの住人か、住宅を狙った犯罪者か、でなければ特定の用件がある人間しかいない。
虎丸の場合は、最後が該当する。偶然を作り出す行為が犯罪でなければ、だが。
両の手に犬の引き綱を持った小柄な女と出会ったのは、作り出した偶然だった。白瀬市内を見下ろすその坂道は、虎丸が暇を見つけては歩いていた。この道の近くに女の家があることは知っていた。彼女の姿を見かけることもあった。だが、これまでこちらから声をかけることはなかった。相手が気付くのを待っていた。
先に犬が虎丸に反応した。短毛の立て耳の大きな犬が鳴く。長毛の小さな犬も短く何度か吼える。女が気づいたのは最後だった。
「虎くん」
女は虎丸と相対して、すぐにその名を呼んだ。
「変わってないね」
と笑う彼女のほうこそ、変わっていない。高校生のときから童顔で幼く見えることが多かったが、二十三になってもそれは変わっていないようだ。いや、むしろ昔よりも小さくなったのではないかという気さえする。何も言わなければ、中高生で通るかもしれない。
「高校の卒業式以来だよね。虎くん、成人式来なかったから」
「忙しかった」
四年という歳月を感じさせぬ、親しげな様子が嬉しかったが、虎丸は努めて短く返答した。やはり自分も変わっていないな、と思わずにはいられない。
「うん、刑事さんになったんだよね。人伝てに聞いたよ。いま、この辺りに住んでるの?」
犬に引き摺られながら問いかけてくる深礼に歩調を合わせ、虎丸は頷いてやった。「白瀬署に勤めているからな」
「そうなんだ。それは頼りになるなぁ。何かあったら頼っちゃうからね」
そう言って深礼は微笑んだ。
「和泉の家、この辺りだったか?」
「そういうわけじゃなくって、えっと……、わたし、もう和泉じゃなくて、小泉なんだよ」
虎丸の知る和泉深礼ではなくなった深礼は、そう言って恥ずかしそうにはにかんだ。
結婚したの。バイト先で知り合った人なんだけどね、えっと、八つ年上なんだけど、あんまりそういう感じがしなくて、けっこうかっこいいんだよ。犬は、こっちの子が、その人の……、旦那さんの飼ってた犬なの。新婚旅行は行ったんだけど、えっとね、ヨーロッパに行ったんだよ。綺麗なとこだったなぁ。結婚式とかはまだなんだけど、もし挙げたら虎くんにも招待状送って良いかなぁ。
話は耳から耳へと抜けた。
「小さくなったな」
そんなふうに言うのが精一杯だった。
「それ、もう色んな人に言われたよ」
深礼はそう言って笑った。虎丸も笑おうとした。だが笑えなかった。
これが、これが虎丸剣一が妖精を妻として娶るために必要なものを考えるようになった経緯だ。しかしこのときは、まだ遅くはなかった。このときに肩を抱いて無理矢理に道に引き倒し、そのまま蹂躙していれば、最悪の事態には至らなかったに違いない。
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