第3話

《後編》


「『眠れる森の美女』? どこかで見たことのあるタイトルだけど、どんなお話だったっけ、神谷かみやさん」


僕は隣りの神谷菜摘なつみに尋ねた。


「えーっと、わたしもはっきりとは覚えていないけど、うーんと昔にアニメをテレビで放送していた気がするの。


西欧の王女さまが不幸な事故に遭って、長く深い眠りについてしまったけれど、それを王子さまが救うってお話じゃなかったかな。


それで、そう、王子さまは王女さまにキスをして、眠りから解放するってストーリーだったような……」


「その通りだ、神谷さん」


そこで大島先輩が口を開いた。


「『眠れる森の美女』はもともとヨーロッパの民間伝承で、グリム兄弟やシャルル・ペローが彼らの童話集に採録したことで世界中に知られるようになった話なんだ。


その童話をもとに今から60年以上も前にウォルト・ディズニーがアニメ映画を制作し、それがいまだに多くの人々を楽しませているという永遠のスタンダードだ。


それを僕が、大胆かつ華麗な脚色を加えて新たなストーリーへと昇華せしめたのが今回の演目、そういうことなのさ」


先輩はそう言って台本をふりかざし、ドヤ顔で決めた。


「と言うことはですね、わたしが今回やるというヒロインは、相手役の男性とキスシーンを演じることになるわけですよね?」


表情にいささか不安をにじませながら、神谷が先輩に尋ねた。


「いかにも。王子と王女のキスシーンはこの芝居のクライマックスにしてハイライトだからな。はずすわけにはいかない」


先輩はそこで一呼吸おいた。神谷は依然として不安顔だ。


先輩が続けた。


「とはいえ、安心してくれ、神谷さん。じかに相手役の男性とキスするわけではない。


新型コロナ禍がいまだに終息していないこのシビアな社会情勢のもと、マスクを外しての演技、それも超濃厚接触であるラブシーンを役者さんに演じさせるような外道な真似は、さすがに僕は考えていないし、また許されるものでもないだろう。


実は去年、文化祭公演で『ティファニーで朝食を』をやった時の話なのだが、主人公役のイケメンくんに、頬への軽いものではあったがヒロインへのキスをってもらったのだ。


まあ、高校生の劇でもこのくらいなら許されるだろうと判断しての演出だ。


実際、そのシーンへの観客の反応は予想以上に凄まじかった。


悲鳴を上げる女子生徒が続出した。


イケメンくん、熱狂的ファンがいるからな。


ところが初日の公演に、生活指導担当の石部いしべ先生と、風紀委員の鉄野てつのさんが観客の中にいて、しっかりそのシーンを観られてしまったのだ。


その公演終了後、部長であり総監督である僕は二人からこってりと絞られる羽目になってしまった。


翌日以降はキスシーンを削除して握手シーンにするよう、僕は約束させられてしまったのだ。


おかげでクライマックスのシーンもインパクトが半減した。やれやれだ。


石部先生は今も生活指導担当だし、鉄野さんも進級して風紀委員長に昇格している。


あのふたりは今年も公演初日にやって来て、われわれの劇に目を光らせるに決まっている。


だが、今回は大丈夫だ。


キスシーンを加えてもなんの問題も無い。


四六時中マスクを着けざるを得ないという現在の社会的な制約を、逆にフルに利用してやればいいいのだ。


つまり、マスクを着けた男女が『キスに似た』行動をしている。

そう考えればいいのだ。


石部先生たちがもしケチをつけて来たとしたら、こう言い返せる。


『一見キスに似てはいますが、マスク越しでじかに肌が触れていないんですから、これは男女のキスではありません。


王子はマスクとキスし、王女もマスクとキスしているだけです』と。


どうだ、完璧な理論武装だろ、きみたち」


と、再びのドヤ顔。先輩の自画自賛が止まらない。


これに神谷が敏感に反応した。


「そうですよねー。マスク、つまり布に唇を押し当てているだけだから、キスにはカウントされませんよね。


あーよかった、安心した」


ん? そういうものなのか、神谷?


でもまぁ、賢明な彼女がそういうのなら、なんとなくそんな気がして来た。


……たぶんそうだよ。


いや、そうに違いない!


七秒後には僕までもが「マスク越しのキスはキスに非ず」という理論を支持してしまっていた。


先輩が続けてこう語った。


「プロの俳優さんたちの話でいえば、彼ら彼女らもキスシーンを演じる機会が多い。


主演級の俳優さんにとっては、必ず通らなければならない関門であるともいえる。


だが、キスシーンとの向き合い方は、ひとそれぞれだ。


女優さんの中には『仕事だから当然でしょ』と、なんのためらいもなく監督さんの執拗な演技指導にもめげずに何十回ものリテイクをこなすプロフェッショナル派もいれば、リアルでもファーストキスだったことから、それを重大なことと受け止めて、相手役の男性を本気で好きになってしまう、そんなうぶゝゝで生真面目なひともいる。


演技とか仕事とか言っても、ひとの一生を大きく変えてしまうかもしれない、そんな強い力をキスシーンは持っているんだ。


演出する側も、そのことを忘れてはいけない」


ちょっとシリアスな表情を見せた先輩だった、が。


「だが、今回は違う。


あくまでも、キスに似た別物ゝゝ


ノーカウントだから、きみたちも気楽に取り組んでいただきたい」


そう言って、先輩は軽く笑った。


僕、そして神谷も呼応して微笑んだ。


「納得してもらえたようで、よかったよ。


それでは、きみたちに正式にヒロインのオーロラ姫役、その相手のフィリップ王子役をお願いしたいと思う。


よろしくな」


そう来るだろうなと先ほどから思っていたが、やはり僕にヒロインの相手役がまわって来た。


でも、神谷とキスするわけじゃないから、まぁその役、受けても問題ないよな?


うん、たぶん問題ない。


「分かりました。お受けします」


僕が先に承諾の意を表明したことで、神谷も気持ちが固まったようだった。


彼女の目がそう語っていた。


神谷は、僕の返事にこう続けた。


「はい、わたしもお受けしたいと思います。


こちらこそ、よろしくお願いします」


僕たちは先輩からおのおのの台本を手渡しされた。


「まずはこの台本を明日までに一通り読んで来てほしい。


明日の午後三時過ぎに、この部室に全部員が集合する。


そうしたら、読み合わせの稽古から始めよう」


主役二人が決まって、いよいよ本格的な稽古がスタートということか。


僕と神谷の(仮)演劇部生活が、この昼休みから唐突に始まったのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


その日、家に帰ってから大島先輩の自信作、「眠れる森の美女」の台本を読んでみた。


大まかにいうとそれは、ラブストーリーというよりはスラップスティックコメディと呼んだほうがしっくりとくる作風だった。


登場人物の大半が、実直とか素直とかいったキャラとはほど遠く、かなりクレージーでおバカなのだ。


それは主人公たちについてもそうで、オーロラ姫は強度のツンデレ、フィリップ王子はかなり不良で極度のオラオラ。


ヤンキー漫画のノリだな。


二人のもともとのキャラがどんなだったのか気になって、原作の解説をネットでググってみたのだが、そのあまりの改変ぶりに大爆笑。


「チョーウケる」という、フィリップ王子のお決まりのセリフがそのまま口をついて出てしまった。


大島先輩のセンス、嫌いじゃないぜ。


ここは乗っからせていただきましょう。



翌朝、早めに登校すると、僕よりさらに早く神谷が席に着いていた。


「おはよう、神谷さん。台本、読んだ?」


そう声をかけると、神谷はこう答えた。


「読んだ読んだ。なんか、スゴかったね。予想の斜め上をいく出来だった。


でも、ツンデレな姫って設定がプリンセスもののお約束をいい意味で裏切っていて、冴えてるよね。


わたし、気に入ったわ。演じてみたい!」


「そうか、神谷さんもそう思ったんだ。僕もだよ。


王子の方も、オラオラキャラが意外といい感じだった。


たとえば、王子が王女と森の中で初めて出会ったときとか、どう見ても険悪な雰囲気だったじゃない。


王女は、仙女たちに『男はみんなケダモノです』って吹き込まれているせいか、王子のナンパを見事に完全無視。


それに怒った王子が「なんとかオレに振り向かせてやる!」と、あの手この手で王女の気を引こうとするところ、いいよね」


神谷も僕の意見に無言でうなずいた。


「ああやって、最初はピリピリした状態だったふたりが打ち解けて、ようやくこれからいいムードになろうという時に、まさかの事態が起きて、王子の悲しみが極大値マックスになる。


オーロラ姫が目覚めた時の喜びとか、一目惚れとかで簡単に両思いになった場合じゃ、とうていあそこまで大きいものにはならないと思うよ。


大島先輩って、結構よくわかってるよね」


「そうね。ただのヘンな人ではなさそう」


神谷はそう言ってクスッと笑った。そして僕も。


ちょうどそこへ、昨日神谷に親しげに話しかけていた女子のうちのひとりが教室に入り、神谷に「ヤッホー、なつみん」と手を振って声をかけてきた。


ちょうどいい頃合いだなと思い、僕はそこで自分の席に戻ったのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


その日の放課後、他の部員との顔合わせを済ませた僕と神谷は、さっそく読み合わせの稽古に入った。


つまり、各自が座ったまま台本のセリフを読む稽古である。


出席者は総勢十五名。その中には顧問の矢澤先生もいらしている。


台本に書いてある役の数は、三十名ほど。


ということは、僕たち新人(かつ主役)はさておき、一人二役か三役はこなすということなんだろうか。


全員揃っての読み稽古は初めてということで、演目の冒頭から読むことになった。


それによって、僕や神谷も演目全体の流れをつかめるだろうと大島部長は説明した。


オーロラ姫生誕の祝宴が始まり、そこに招待されなかった魔女マレフィセントが突如として登場するシーンに入った時だ。


それまで、オブザーバー然として台本に視線を落としていた矢澤先生がいきなり口を開いた。


「これはこれは、王族貴族の皆さまお揃いで、何の祝宴を開かれておられるのかのう、このマレフィセント抜きで」(ギロッと周囲をにらむ)


見事なセリフ回し、そして目力めぢからだった。


他の部員たちとは段違いの迫力だ。


さすが学生演劇の経験者。これが役者、これが芝居というものか!


僕は完全に圧倒されていた。神谷だってたぶんそうだろう。


このレベルまで、僕は果たして達することが出来るのか?


とても主役なんて無理なんじゃないか?


ともあれ、僕と神谷の出番は後半に集中しているので、前半は他の出演者のセリフ回しを聞いての勉強に終始した。


そしていよいよ、王女が成長し、十六歳の誕生日を迎える数日前、王女と王子の出会いのシーンになった。


王女はまだ自分の真の出自を知らず、王子は庶民の格好に身をやつして登場する。


王子「おう、これはひなにはまれなゲロマブカノジョ、名はなんというの?」


王女「話しかけないでください。貴方のことが嫌いです」


どこかで聞いたことのある展開だが、まぁそれも大島部長の洒落っ気の現われだろう。


僕と神谷はしばらくツンデレな問答を続けた。

けっこう必死モードで。


読み合わせの稽古って、聞くとやるとでは大違いだな。汗が全身から吹き出て来る。


そのくだりが終わると、ひとまず小休憩の時間になった。


部長が近づいて来て、僕と神谷に声をかけてくれた。


「うん、悪くないよ。そりゃ初回だからいろいろアラはないわけじゃないけど、ふたりともおおむねいい感じだ。


声質も、王子王女の気の強いキャラに合ってる。


矢澤先生の演技にはビックリしただろうが、あのひとは別格さ。


自分たちと比較しちゃいけない。


でも芝居って、つまるところ『場数ばかず』さ。


やればやるほど、上手くなっていく。


だから、こうしてみんなが揃って稽古する場だけじゃなく、自主的に個人練習、少人数での練習をやっていってほしいんだ」


そう言って、部長は僕たちの肩をポンと叩いた。


そのおかげで、先ほどは矢澤先生の演技をの当たりにして自信を失いかけていたものの「こんな僕でも役者がつとまるかもしれない」、そういう気持ちが湧いて来た。


その日、僕と神谷は正式な入部を決めて、そのことを部長に伝えたのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


その後、演劇部の練習は日が経つにつれ、読み合わせから立ち稽古へと進んでいった。


いよいよ、動作を含めての「演技」を部長に見てもらうステージに突入したのである。


七月上旬のある日、何回かに分けて進めていた立ち稽古の最終回のことだ。


ラストパート、王子が昏睡状態の王女を探し当てて悲しみにくれながらも、最後の望みを託して彼女に口づける場面に差しかかった。


そう、物語のクライマックスとも言えるシーンだ。


大島部長は十人近くいた部員たちに声をかけた。


今回、矢澤先生はなにか用事があるとかで参加していなかった。


「ここから先は、鳥越とりこしくんと神谷さんふたりの出番しかないから、他の皆さんは待たずに帰っていいよ。


彼らの演技は、僕がバッチリ指導しておくから」


部員たちは稽古疲れもあったのだろうな、みな口々に「お先しまーす」と言いながら、さっさと部室から退出してしまった。


「これでよし、と。


最後の一番大事なシーンは、じっくり丁寧にやらないといけない。


でもみんなを待たせていると、そちらに気兼ねして演技指導に身が入らないんでね。


おたがい納得がいくまで、とことんやろうじゃないか」


そう言う部長の顔を見ると、完全に爬虫類の目になってる。ヤバッ。


僕と神谷は、蛇に見込まれたカエル同然だった。


「は、はい。よろしくお願いします」


かろうじて僕がそう返事をして、立ち稽古が始まった。


実際には、神谷はベッドに横たわったままだったがな。


       ⌘ ⌘ ⌘


王子「なんてこった! 一歩遅かったか!」(自らの髪の毛を掻きむしる)


「おまえと出会ったとき、オレはチョーいい女だとは思ったが、しょせん次の火遊びの相手ぐらいにしか考えてなかった。


ところがどんな女も楽勝で落としてきたオレに、おまえはまるでなびかなかった。


こんなことは生まれて初めてだ。


オレはすっかりおまえにハマっちまった。


こんなにひとりの女を好きになったことはない。


お願いだから、目を覚ましてくれよ!」(王女を揺すぶるが、反応はない)


「このまま二度と目を覚まさねぇなんて、ありえねぇ。


だがあの魔女の力なら、本当なんだろうな。クソ!」


(気を落として床に崩れ落ちる)


「そういや、あの婆さんたちのひとりがこう言ってたな。


『姫さまが一番愛している男性ならば、口づけをすることで彼女を目覚めさせられるのです』って。


最愛の男性、か。


父親である王様ってオチかもしれんな……っていやいや、そんなこと考えている場合じゃない。


王様自身も、眠っちまってる」


(再び、立ち上がる)


「とにかく、イチかバチかやってみるっきゃない。


オーロラ姫、オレはおまえが心の底から好きだ!」


僕、カッターシャツを着た鳥越久郎くろうはそう叫んで、横たわるブラウス姿の神谷菜摘、その肩に自分の腕をまわしてかき抱き、自分のマスクを彼女のマスクに押し当てた。


初めて、神谷と三十センチ以内の距離に踏み込んだ瞬間だった。


いや、三十センチどころじゃない。零センチだった。


その瞬間、なんとも言えない甘い香りが僕の鼻腔に広がった。


高校生だからもちろん香水パヒュームの類いではない。

たぶん、神谷がいつも使っているシャンプーの香りなのだろう。


ふだんは気づくことのなかったその香りが、至近距離になるとここまではっきりと存在感を露わにするとは。


驚きの新発見だった。


「ユリイカ!」と叫びたいくらいの。


それに比べると、触覚での刺激はないに等しかった。


マスク二枚越しでは神谷の唇の感触などまるでなかったし、ハグというよりは肩を組んだような体勢なので、あるのは思ったよりも弾力性のある、肩の筋肉の感触。


それだけだった。


僕を圧倒したのは、神谷の髪の香りだけだった。


本当はいではいけないものを嗅いじゃったんじゃないか、僕?


そんな気にもなった。


しばらく目を閉じたままの神谷を見つめていると、彼女はまるでストップモーションビデオのようにゆっくりと、その両目を開いた。


心なしか目の焦点が合わないような、ぼうっとした感じの表情だった。


「はい、そこまで」


部長が声をかけた。


「うん、そうだな。鳥越くんは心持ちセリフのテンポが早かったかな。


もう少しタメを意識して、やり直してみよう。


ジワジワと気持ちが盛り上がっていく感じを、出してみて」


「分かりました」


そう返事をして、僕は最初から演技を繰り返した。


再び部長がカットを告げ、講評をしてくれた。


「うん、だいぶんセリフのタイミングがよくなって来たと思う。


その調子で頼むよ。


あと、そうだな、キスしているときに肩を抱いていないほうの手をどうすればいいか、ちょっと考えてみよう。


さっきはひどく中途半端な位置に置いていたよな?」


「そうですね。左手の置き場所、まったく考えていませんでした」


「どうすれば、観客から見て王子と王女が美しい『かたち』を成すのかを、演者は考えないといけない。


演者の考えたやり方が果たしていい効果を発揮しているかどうかをチェックするのが、演出家の役割だ。


一般的には、演者は演出家の言いなりになって動く、みたいに思われているが、そうではない。


演者こそが主体的にどう演技するかを考えるべきなんだ。いいね」


「はい。では、これでどうでしょうか。


僕も神谷さんも、役柄上、高貴な生まれということで薄手の白い手袋をしていますよね。


実はコロナ感染防止策も兼ねているのですが、おかげで手を握ることに問題はない。


このことをうまく使って、僕の左手が彼女の左手を握りしめるというのはどうでしょうか」


神谷も、僕に続けてこう言った。


「そうよね。むしろ、先に手を取るところから始めて、その次にキスをするというのが自然な流れかもしれないわ」


「なるほどそうだね。うん、その流れがいいかも」


部長は僕たちの提案に深くうなずいた。


「おふたりの提案、それは僕も考えていたことだよ。


そういうことなのさ。主体的に考えるっていうことは。


それでもう一回、やってみよう」


そんな感じでもう一回、そして次にまた新たな問題が見つかりさらに一回……といった調子で、僕たちはリハーサルを重ねた。


気がつくと、十回近くそのシーンを繰り返していた。


「ふぅ、だいぶんいい感じに仕上がって来たなぁ。


時間も遅くなって来たから、きょうはこのへんで終わりにしようか」


部長がこう提案した。


僕と神谷は、少しだけ顔を見合わせた。


彼女はわずかに身体からだをよじらせて、何かを訴えるような目を僕に向けた。


僕にはそれが『とりこしくん、言ってくれない?』というサインに思えた。


僕はこう部長に伝えた。


「ありがとうございます。部長の指導のおかげで、演技のコツがかなりつかめて来たように思います。


ですが、神谷さんと一緒に稽古が出来る貴重な機会なので、もうしばらく残って自主練習をしたいのですが、構いませんでしょうか?」


部長は、うなずきながら答えた。


「そうか、それはいい心がけだよ。あと三十分くらいなら居残っても大丈夫なはずだ。


部屋の鍵を教務室に返すのだけは、忘れないでくれよ。


じゃあ、僕はここで。お先に失礼」


僕と神谷は「お疲れさまでした」と彼の後ろ姿を見送った。


「さぁ、残り時間に出来る限り、やってみよう」


「そうね。やりましょう」


リハーサル、再開である。


結局、僕たちは三十分ほどの間に五、六回、都合十五回もそのシーンを演じたのだった。



地下鉄水際みずぎわ駅までの道のり、僕たちは並んで歩きながらきょうの稽古について語り合った。


「とりこしくん、セリフはほとんど覚えたみたいね。

全然、引っかかるところが無かったもの。


わたしよりセリフ量が五割増しくらい多いのにスゴいね」


「まぁね。これなら、当日プロンプターの力を借りなくても大丈夫かなって思うよ。


でも、毎日台本ばかり読んでいるせいで、ここひと月、勉強の方が完全にお留守になっちまってる。マズいよな」


「フフッ。それはわたしも同じようなものよ。


家では毎日、セリフの暗誦ばかりしてて、ほかの事が手につかないもの。


入学式が六月に伸びた影響で、期末試験も夏休み明けに延期になってホッとしてるわ。

勉強は夏休みになってから、巻き返さないと。


でも、これだけ打ち込めるものが入学早々見つかるなんてね。


お芝居って純粋に楽しい。


偶然のいたずらに感謝してるわ」


「そうだね。僕もそう思うよ。


(こうして、神谷さんと仲良くなれたし……)」


「ん、なにか言った? 声が小さくてよく聞こえなかったけど」


「いや、言ってないよ。それより、僕たち、共演者としてはなかなかいい線行っていると思わない?」


「そうね。わたしたち、演技が上手いかどうかは全然分からないけど、息はわりと合っているかもね。


気が合っているというべきかな」


「そうだね」


ふたりは目を合わせて、軽く笑った。


ちょうどその時、僕たちは水際駅に着いた。


僕たちの帰り道は反対方向。


「じゃあ、また明日学校で」


とホームで神谷に手を振ろうとして、気が付いた。


僕はさっきの稽古の時の白手袋を着けたままだった。


地下鉄の車両の中の神谷は、手を口元に持っていき笑うポーズをした。


そして、すぐにドアが閉じて、彼女は僕の視界からは見えなくなった。


「お疲れ、菜摘姫」


僕はそうつぶやいたのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


翌週は稽古の最終段階、通し稽古を二回に渡って行った。


すべてことは順調に進み、公演初日を明後日に迎えるばかりとなっていた。


最後の稽古が終わった日の夜、僕のスマホに電話がかかって来た。


神谷菜摘からだった。


僕と神谷は、携帯電話の番号を交換するくらいの仲にはなっていた。


「あ、神谷さん? どうかしたの?」


「とりこしくん、最終稽古は終わったけどね、ちょっと気になることがあって……」


「なに? 言ってみて」


「キスシーンの後の展開って、ちょっと違うんじゃないかなって気がしたんだけど。


王子と王女の本来のキャラクターだったら、あんなに素直な感じのやり取りにはならないと思うの。


あれって、原作の展開に縛られていない?」


「うん、確かにそういう気がして来た。


オラオラとツンデレ、彼ららしさがまるで生かされてない。


キャラが立ってないってことだね」


「でね、わたし考えたんだけど……」


「ふむふむ……」


僕たちはしばしの間、密議を続けたのだった。


       ⌘ ⌘ ⌘


いよいよ、文化祭初日となった。


演劇部の公演場所、A棟校舎の小講堂前には「本邦初! 革新的マスク演劇『眠れる森の美女』」という巨大な看板が掲げられていた。


観客席のほうは、五分の入り。


とは言え、これはソーシャル・ディスタンスを遵守じゅんしゅして全椅子の半分は空き席にしているからで、ほぼ満席であると言えなくもなかった。


開演前、舞台裏から観客席の最前列をうかがうと、予想した通りのふたりが腕組みをして座っていた。


角刈り頭に強面こわもて、いかつい体型の石部先生と、三つ編みにあかいフォックス眼鏡の鉄野さんだった。


「やっぱりいるねぇ、おふたかた。まぁ、今回はグウの音も出ないさ」


彼らを発見した大島部長が、そうわらった。


「さぁ始めるぞ。みんな、心していけ!」


部長のハッパで、舞台は始動した。



今回の「全員マスク姿のドタバタコメディ」は、思いのほかウケがよかった。


去年のような「役者のルックスで客を呼ぶ」みたいなやり方がまったく取れない以上、別のもので勝負するしかない。


それは「笑い」だったわけで、部長のその方向転換の目論みは見事成功したようだった。


つつがなく劇は進み、ついにクライマックス、王子と王女のキスシーンを迎えた。


僕は何度もリハーサルを重ねた通り、神谷の手を握って肩を抱き、ゆっくりと自分のマスクを相手のマスクに重ねた。


神谷がゆっくりとその目を見開いた。


僕の右耳のワイヤレスイアホンには、


「いいぞ、実にいい感じだ」


そんな部長の賛辞が聞こえていた。いい気なもんだ。


さぁ、やっちまいますか!


僕は口を開いた。


「チョーウケる! おまえってオレのこと、実は好きだったんだな」


それを聞いて、目覚めたばかりの神谷は急に取り乱し始めた。


「な、なに言ってんのよ! 勘違いしないでよね。


わたしがあんたのこと、好きなわけないじゃない!」


そのタイミングで僕のイアホンには、


「き、き、きみたち、そんなセリフ……」


という神谷以上に狼狽うろたえた部長の悲鳴が流れて来た。


僕はそれを無視するようにして、神谷にこう言った。


ドスの効いたひと声で。


「だまれ」


同時に僕はもう一度、ふたりのマスクを重ね合わせた。


しばらくその「口づけ」は続いていたが、次第に神谷の腕はやさしく僕の背中へと回っていったのだった。


観客はこの様子を固唾をのんで見つめていた。


そして一瞬、堰を切ったように大きな歓声と拍手が湧き起こった。


僕は神谷にだけ聞こえる小声で、こうささやいた。


「ミッション終了だな。お疲れ」


       ⌘ ⌘ ⌘


公演終了後、石部先生と鉄野さんのふたりは苦虫を噛み潰したような表情のまま、会場から消えて行った。


僕たち演劇部の、完全勝利である。


ステージの脇で僕と神谷が舞台衣装のままひと息入れていると、大島部長がふらふらとした足取りで近づいて来た。


こりゃこっぴどく怒られるな。


でも、覚悟はしていたことなので、別に怖くはなかった。


お叱りを甘んじて受けることにしよう。


僕は神谷に軽く目配せをした。


部長は少し疲れをにじませた表情で開口一番、こう言った。


「やられたな、きみたちには。


完全に僕の負けだ」


いささか拍子抜けな、一言だった。


「『主体的に演技を考えよう』と言ったのは僕のほうだが、きみたちがそこまでこの芝居を掘り下げていたとは思わなかったよ」


「いえ、先輩のせっかくの台本に勝手なアドリブを加えてしまい、本当に申し訳ありませんでした。


一回だけ、やってみたかったんです」


僕と神谷は深く頭を下げた。


「いや、あれほど観客にアピールしたのも、きみたちの機転のおかげだ。


それを認めないほど、僕は狭量じゃないつもりだ。


芝居のよしあしは、すべて結果で決まる。


次回以降も、そのセリフで行こうじゃないか。


グッジョブだったよ、おふたりさん」


そう言って、部長は右手の親指をグイと上げて見せたのだった。


「ありがとうございます!」


僕たちは、再び頭を下げて謝意を伝えた。


「それにしても……」


部長は笑みを浮かべながら、こう言った。


「きみたち、いいかげんコソ練し過ぎだろ!!」


       ⌘ ⌘ ⌘


僕と神谷は、その後の公演も僕たちのアイデアを生かした展開で「眠れる森の美女」の演技を続けた。


おおむね好評を得て、三日間の文化祭公演は終了した。


その後、演劇部はどうなったかって?


大島部長は文化祭後の引退と同時に、新部長という大役のバトンを、なんとこの僕に渡した。


彼も二年間部長を務めており、それに習ったかたちだ。

二年生が部長になったのでは、一年しか任期がないので部長としてやるべきことが十分に出来ない。そういうことだそうだ。


とはいえ、いきなり新入生が引き受けるには重過ぎる役目だ。


僕は「ひとりだけでは心もとない」と言って、補佐として神谷を副部長に任命してほしいと頼んだ。

もちろん、神谷の了解を取った上で。


大島部長の任命により、僕と神谷のふたり体制で新演劇部がスタートしたのだった。



ところで、夏休みが始まった現在、僕はいまだに神谷の素顔を見る機会を得ていない。


彼女の顔を見ることが出来るのは、果たしていつなんだろう?


まったく分からない。


でも、彼女がどのような顔立ちであろうが、ひとつの変わらない事実がある。


それはこの二か月の間に、築かれて来た関係。


神谷菜摘は僕、鳥越久郎にとって、ベストな共演者パートナーであるってことさ。(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マスク越しだから、キスじゃないよね? さとみ・はやお @hayao_satomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ