二、走る夢追い人
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前回の東京大会から五十六年ぶりとなる日本でのオリンピック。男子マラソンの三十キロ地点を最初に通過するのは、ケニア出身のマタン・キプチョゲです。通過タイムは……一時間二七分〇一秒! 世界新も狙える好タイムです。
* * * * *
おおむね平坦なコースとはいえ、真夏の東京でのレースとしてはかなりのハイペースだ。
「信じられない。このままのペースで最後までいっちゃうのかしら」
パイプ椅子に腰かけ、湯呑みを手に志木の足元のディスプレイを見つめていた祥子が呟く。
「キプチョゲはすごい選手だが、この気温だ。さすがに終盤のペースダウンは避けられないだろう」
その言葉に祥子は窓の外に目をやった。建物の白壁が日光を照り返している。八時前にもかかわらず、日差しは世界を焼き尽くさんばかりに強烈だった。気温はすでに三十度を超えている。ここ数年でさらに都心の夏の気温は数段上がったように感じられた。
頭上からの映像に切り替わる。ドローンのカメラが二位の選手を追っていた。サングラスに陽光が反射する。アナウンサーが三十キロの通過タイムを伝えた。一時間二九分三七秒。
「トップと二分半の差か……」
「ユウちゃんは暑さに強いから、きっといけるわ。逆転できる」
力の入った声で祥子が言った。湯呑みを握りしめる手は震えていた。
予想は当たった。それまでの道のりのほとんどを先頭で独走していたキプチョゲが、三十五キロを過ぎたあたりで急激に失速した。額には玉の汗が滲み、目は力なく前方の一点を見つめていた。口が大きく開いている。足の運びにあわせて、体が左右に揺れる。ディスプレイ上には最新鋭の映像解析技術によって弾き出されたキプチョゲのバイタル情報が表示されているが、それを見るまでもなくスタミナ切れなのは明らかだった。
祥子がベッドの上の志木を見やる。
「あなた、ユウちゃん、いけるかもしれませんよ」
祈るように言った。
残り二キロ。カメラが再び二位の選手を映したところで、サングラスが路上に捨てられた。露わになった双眼はキプチョゲの背中をしっかりと捉えていた。表情は苦悶に歪んでいるが、足取りはしっかりしている。あくまで一定のペースで足を前に踏み出し続ける。
並走するカメラが高速道路の高架をくぐると、真新しいオリンピックスタジアムが見えてきた。外壁全面の3Dディスプレイ。そこに経過時間が浮かび上がる。一時間五八分四二秒。
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先にスタジアムに姿を現したのは、ケニアのキプチョゲです! しかし、その表情は苦しそうだ。そして、いま日本の志木が姿を現しました! その差はわずかに八秒! 日本の男子マラソン史上初、悲願のオリンピック金メダルまで、わずか八秒です! 逃げるキプチョゲに猛然と追いすがる志木!
思えば、いまから五十六年前に世界記録を保持していたのは先頭を走るマタン・キプチョゲの祖父、エリウド・キプチョゲでした。そしてその年に行われた二〇二〇年東京オリンピックで日本代表に決定していたのは、いま必死にキプチョゲの背中を追っている志木悠太の祖父、志木啓介でした。しかし、志木啓介は大会直前に足を怪我して離脱。繰り上げで出場した赤石雄二郎は健闘するも四位と、惜しくも表彰台を逃しました。
あれから半世紀。この二〇七六年東京オリンピックで、キプチョゲと志木の孫たちが時を越えて金メダルを争っています! 志木悠太は祖父、志木啓介と赤石雄二郎、二人の夢を背負って、いまキプチョゲの背中を追っています!
赤石は憚ることもなく男泣きに泣いていた。ベッドの上で目を閉じたまま、何も語ることのない志木を振り返る。
「おい、啓介! 悠太くんが、お前の、俺たちの果たせなかった夢を叶えてくれるぞ! 五十六年越しのオリンピック金メダルだ!」
「あなた、ユウちゃんが……ユウちゃん、頑張れ!」
祥子は志木の手を握りしめた。もう何年も動いたことのない萎びた手を。
ディスプレイの向こうでは、悠太が最後の直線に差しかかっていた。キプチョゲの背中は、その先にある金メダルは、もう手の届く距離だ。赤石と祥子は食い入るようにその姿を見つめた。
その背後で、人工呼吸器につながれた志木の頬を、人知れず一筋の涙が伝った。
ラン・ドリーマー・ラン Nico @Nicolulu
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