最終話 バカふたり

 夜の住宅街を、一人の女が歩いていた。

 時刻は既に23時を過ぎている。

 黒髪のショートカットはやや乱れ、メイクも少し崩れているが、これは遅くまで仕事をした後に先輩から食事に誘われて、心身ともに疲れ切ってしまったためだ。

 リクルートスーツを着ているが、女は新卒という訳ではない。止むに止まれぬ事情で大学を中退した後、実家に帰ってからしばらく家事手伝いをしているうちに、気付けば5年近くもニート生活を送っていたのだ。

 就職活動をするでもなし、アルバイトをするでもなし、勉強をして資格を取ろうという訳でもなし。将来設計について一切考えていないようなその怠惰さに、さすがに我慢の限界を迎えた女の父親は、自らのコネを駆使して東京のとある保険会社に娘をねじ込んだのだった。


 女は当初、実家暮らしに飽きたからという理由で素直に東京へ向かったが、仕事を始めてから1ヶ月で早くもその選択を後悔することになった。それでも父親のメンツを潰さないようにと頑張って半年ほど勤めてみたが、絶望的に合わない職場に居続けるのは肉体的にも精神的にも限界だと感じていた。

 毎朝格言を復唱させられるような下らない朝礼のために出社した後は、割り当てられた縄張りの商業施設やオフィスビルに出向き、先輩から引き継いだ顧客と話をしたり、新規顧客の獲得のために駆けずり回ったりしているうちに一日が終わり、本社に戻ってから日報を作成して帰る頃には夜の21時を回っている。そんな毎日だ。


 元々人と話すことが苦手だった女は当然のように業績も伸びず、そんな自分の陰口を叩く同僚や、逆にやたらと気を回してくる体育会系の年下の先輩などといった存在に心底うんざりしていた。

 大学時代はチアリーダー部だったという先輩は無闇に声がでかく、「もっと笑いましょうよ、素材はいいんですから」とか、「ボディタッチとか絡めていけば余裕ですよ」とか、「髪の色を明るめにした方が印象がいいですよ」とかいった面倒くさいアドバイスをエンドレスでかましてくる。

 一応、髪の色については女もアドバイスに従って試してみたことはあったが、生来の地味な顔とのアンバランスさが致命的だったのですぐに戻した。


「死ぬしかない……」


 もはや恒例となってしまったセリフを今日もポツリとこぼす。

 一日一回はこれを言わないと落ち着かないのだ。

 幸い、女の独り言を気味悪そうに見る他人の姿は周囲になかった――というより、住宅街とはいえ東京の、日付も変わっていない時間帯にしては珍しいことに、この辺り一帯には人気ひとけというものが一切感じられなかった。

 実はこれには理由があって、しかもその理由というのが全く幸いでもなんでもないことに、数日前に通り魔事件が2件も立て続けに起こったために夜間の外出を控えるよう区からお達しが出ていたからなのだが、普段からニュースもろくに見ず、アパートのポストすら隔月でしかチェックしない女にとっては、そんな事件は起きていないのと同じだった。


 例えば、幅の狭い道で前を歩く人の速度が微妙に遅い時、普通の人は特に何も考えずに歩き続けるか、少し速度を速めて追い越すか、あるいは逆に遅くして後ろを歩くだろう。

 ところがこの女は、追い越すべきか後ろについていくべきかを考えるだけでどうしようもなく苦痛を感じてしまうという性質を持っていて、仮に横道があれば積極的にそちらに逃げていくようなタイプだった。

 そのため、不自然に人の少ない住宅街を歩いていても特に疑問に思うことはなく、むしろ今宵はなんだか人が少なくてラッキー、などと思っていたくらいだった。


 ところが問題は、通り魔事件の犯人が未だに捕まっていないということにあった。


 ちょうど女が足を踏み入れた、国道の下をくぐるように作られた短いトンネルは、実は通り魔事件の最初の被害者が全身の血を抜かれた状態で発見された場所だったのだが、女は当然そんなことを知るよしもない。

 本来であればこの時間、この付近は警察官が交代で立哨りっしょう及び巡回をしているはずだったが、不思議なことに今晩はその制服の影すら見当たらなかった。


 コツコツと足音が反響する。頭上の道路を走る車の音が全く聞こえない。

 女は、普段ならめったに歩きながら操作することのないスマートフォンを取り出して、特に意味もなく指を滑らせた。見慣れた画面に顔を照らされて、ほんの少し安堵の息を漏らす。何かがおかしいということを無意識のうちに感じていて、本能的に緊張を解こうとしていたのかもしれない。


 トンネル内に一つだけあるLEDの街灯が、白く冷たい光を投げかけている。

 壁に描かれた下手なグラフィティアートが濡れているように光った気がした。

 足を止めることなくちらりと横目でそれを見て、女は思わず息を呑んだ。

 スプレーで描かれた歪んだドクロの絵が、ぐにゃりとうごめいたように見えたのだ。

 だがそれは目の錯覚ではなかった。

 まばたき一つする間に、その絵は壁を抜け出して、女のすぐ目の前まで迫ってきた。

 虚ろな眼窩がんかの奥にチキチキと異音を発する虫のような何かが見えた瞬間、女は激しい恐怖感に襲われた。

 悲鳴を上げようと思っても声が出ない。足も金縛りにあったかのように動かない。

 ギロチンにかけられた死刑囚のように、ただ己の命が終わる瞬間をじっくりと待つことしかできない恐ろしさは、女が先程口にした独り言とは正反対の感情を、嫌というほど叩きつけてくる。

 この非現実的な現象は一体何なのか。なぜ自分は死ななければならないのか。

 恐怖と混乱の中でこの理不尽に対する怒りすら覚えた瞬間、ヒュッという風切り音とともに目の前の化け物が退いた。

 化け物は身悶えするようにぐるりと空中で一回転すると、ふらふらとトンネルの壁に何度か激突しながら逃げていった。

 ――助かったのだろうか。

 しかし、女が一瞬の安堵を噛みしめる暇もなく、続いてゴツ、ゴツ、と重いブーツの音がトンネル内に響き渡った。

 慌てて女が振り返ると、そこには黒ずくめの男が立っていた。


「間に合ったか。生きてるかい、お嬢ちゃん」


 黒い短髪の、つるりと白い顔をした男は、少し安心したように言った。

 女は、返事もできずにじっとその姿を凝視していた。

 黒のジャケットに黒のシャツ。黒のパンツにブーツのつま先まで真っ黒だ。

 夜の闇の中に溶けてしまいそうなその男は、しかし、先ほど見た化け物よりよっぽど現実的な存在であるように思えた。


「少し肝が冷えたが……ようやくあの怪異に標識を撃ち込めたし、お前に怪我もさせずに済んで良かった。さすがあの人の道具は違う」


 満足そうにつぶやく男の言葉を、女は半分も理解できなかったが、どうやら危機は去ったようだという確信を得て、ほっと胸を撫で下ろした。


「えっと……」


 女は何か言おうとして、しかし、何を言えばいいのか分からずに口をつぐんだ。

 こういう場合はお礼を言うべきなのだろうか。たった今起きたことが自分でも信じられないくらいに非常識過ぎて、本当に目の前の男が自分を助けてくれたのかどうかすら判断がつかない。だからと言って、今更「こんばんは」と挨拶をするのも間が抜け過ぎている。

 しばし逡巡しゅんじゅんした結果、女は軽く頭を下げてその場を去るという、実に消極的な選択肢を選んだ。


「おいおい、ちょっと待て」


 男は当然のように女を呼び止めた。

 びくりと体を震わせて、女は足を止める。


「なんですか……?」


 早くこの場から立ち去って、シャワーを浴びてさっさと寝てしまいたい。明日もまた仕事があるのだ。

 そんな考えがありありと浮かんでいるような顔をしながら、女は振り返った。


「そんなに嫌な顔をするな。悪いがこれからちょっと付き合ってもらうぞ」

「……お断りします」


 女はさっときびすを返すとダッシュでトンネルを抜けた。

 が、その先に待っていたのは、先程の黒ずくめの男だった。


「え、えっ?」

「足遅いなあ、お前」


 驚き慌てふためく女を面白そうに眺めながら、男はからかうように言った。


「さっきの骸骨、見えてただろ? あれは怪異だ。異象と呼ばれる不可思議な現象の中でも、はっきりと人間に対する悪意を持って行動する知的生命体のことを、俺たちはそう呼んでいる。ここ数年で急に増えてな……こっちも手が足りない状況だ」


 女はちらりと背後のトンネルをうかがったが、再びあの中に逃げ込むのはごめんだと考え直して、渋々といった様子で男に向き直った。


「あー、さっきお前はあの怪異に呪いをかけられた可能性がある。だからその検査のために一緒に来てもらいたい」

「いえ……あの、明日も仕事あるんで……」

「仕事は休め。顔色も肌の状態も悪い。合ってないんだよ、その仕事」


 男はそう言うと、何故か再びトンネルの中に戻っていった。

 頭の中に疑問符を浮かべまくっていた女は、今がチャンスとばかりに駆け出した。

 しかし10メートルも進まないうちに、黒塗りの外車が女の行く手を塞いだ。


「さあ乗りな。あ、警察に通報しても無駄だからやめとけ」


 ああ、車を取りに戻ったのか、と女は今更ながらに理解する。

 細い路地に逃げ込めばあるいは逃げ切れるかもしれないが、なぜか目の前の男は絶対に自分を見つけ出すだろうという不思議な確信もあった。

 男が言った通り、電波はあるのに110番につながらないなどという嘘みたいな現実を十分に確認した後、女はとうとう観念して車に乗り込んだ。


        ◆


 いかにも高級そうな革張りのシートはそこそこ座り心地が良かったが、車内に漂う甘ったるい薬のような香りに女は顔をしかめていた。

 黒ずくめの男には似合わない芳香剤だ。ちぐはぐな感じがなんとも据わりが悪い。


「……どこ行くんですか」

「そんなに怯えるな。危害を加えるつもりはない。さっきの怪異の話をするために、俺たちのボスと会ってもらうだけだ」

「……」


 深夜に黒塗りの外車で連れ去られて、怯えるなと言われても無理がある。

 それに、どうもさっき言っていたことと微妙に話が食い違っているような気がして、女は疑いの眼差しを深めた。


「まあちょっと……いや、かなり変わった女だが、悪い奴じゃない」

「女……?」


 ヤクザの親分的なものを想像していた女は、これから会うボスとやらが女性だと聞いて意外そうな声を出した。

 こういう手合にボスとか呼ばれている人物の定番は、怖そうなスキンヘッドのおっさんか、一見温厚そうだが怒ると怖いおじいさんと相場は決まっている。例え女性だったとしても怖そうなのには違いない、と女は思った。


「あまり女らしい性格じゃないが……まあ、魔女だよ。一応な」

「はあ?」


 意味が分からない、という声を聞いても、男は笑って肩をすくめるだけだった。


 道にゴミが散乱している治安の悪そうな路地裏に入り、しばらく進んだ所にあるコインパーキングで車は止まった。

 目の前の雑居ビルは見るからに古い。ごちゃごちゃと縦に連なる看板のいくつかは電気が消えていた。

 男はそのビルの脇にあるエレベーターに乗り込んだ。女は一瞬躊躇ためらったが、ここで逃げても迷子になるだけだと思い、仕方なくその後に続く。

 ヴィンテージものといった感じのエレベーター内はとても狭くて、やや緑がかった照明が低く唸っている。4階に着くまでにやたらと時間がかかり、そのくせガタガタとひどく揺れるせいで女は生きた心地がしなかった。


 チン、と電子音とは違うベルの音がしてエレベーターの扉が開く。

 目の前の扉には、『星野探偵事務所』と書かれていた。


 男が扉を開ける。

 ざっと見えるのは古びたソファや黄ばんだパーテーション、焦げ茶色の机や棚など、いかにも昔のドラマに出てきそうな探偵事務所といった感じなのだが、ふわりと漂う空気にはすっきりと洗練された甘い香水の香りが混じっており、どうにも不釣り合いな印象がある。


 男がおもむろに横に退いたおかげで、大きな事務机の前に立っている人物の姿が、はっきりと女の目に入った。

 それは一言で言えば、魔女だった。

 黒のローブに、黒いとんがり帽子。まるでコスプレだ。

 その予想外の姿に女が目を白黒させていると、ぐっと男に背を押されて、足をもつれさせながら魔女の格好をした人物の目の前に躍り出る形になった。

 至近距離で見る魔女は、女より少しだけ背が低かった。

 つばの大きな帽子で目元が隠れているが、かなりの美人だということが分かる。

 女はどうすればいいのか分からず、あちこちに視線を彷徨さまよわせた。


 そんな女の様子に軽く微笑みを浮かべた魔女が、すっと右手を差し出す。

 握手をしようということだろうか。

 女はあまり他人に触れるのが好きではなかったが、今この時だけはまるで夢に浮かされているかのように何も考えることもなく、自然にその手を握っていた。


「ようこそ。星野探偵事務所へ」


 透明感のある魔女の声が朗々と響き渡る。

 自分より少し背の高い女を見上げるようにして魔女が顔を上げると、黒いとんがり帽子に隠れていた、金の糸のように細くなめらかな髪がさらさらと流れた。


「オレがここの所長、この辺りの異象を取り仕切っている【双極の魔女】こと……粕谷景かすがやけいだ。久しぶりだなー、友紀ゆうき


 女は――得間友紀うるまゆうきは、欠けていた何かが次々と自分の中に舞い戻ってくるのを感じていた。

 魔女に触れた手から暖かい何かが流れ込んできて、心の中にあった固い石棺のようなものがボロボロと崩れていくような、そんな感覚だった――。


        ◆


「……何やってんの、お前」


 色々と言うべきことは他にあるはずなのに、俺の口から真っ先に出てきたのはそんな言葉だった。


「何って、見りゃ分かるだろー? 魔女だよ」


 そう言って粕谷は、くるりと一回転する。

 ローブの裾がふわりと舞い、長い金髪がサラサラと美しい軌跡を描いた。

 それは紛れもなく、初めてこの探偵事務所に来た日に星野さんが身につけていた黒いローブと帽子だった。

 そうだ、俺は以前にもここに来たことがあった。

 そのことに気づいた途端、記憶の洪水が一気に押し寄せてくる。


 俺は異界で、カネザワさんの姿をしたあの魔女に助けられた。

 でも俺はあの時、記憶をなくしてまで、自分じゃない自分になってまで生き延びたくはないと……そう願っていたはずだったのに。


「魔女って……星野さんはどうしたんだよ」

「引退したがってたから、オレが後を継いだのよ」

「マジかよ……」


 そういえばあの時、あの魔女は、妙なことを言っていなかったか?


『今度こそ完璧に、最高の仕事を、最後まで成し遂げてみせる』


 いや成し遂げられてないじゃん……また粕谷のせいで失敗したのか、あの人。

 ……いや、待てよ。


『大丈夫、君はきっと幸せになれる。君の願いはきっと叶う。この私が保証しよう』


 君の願いはきっと叶う、だって?

 その願いってまさか……


『……あいつとの記憶が消えるなら、生き延びても意味がない』


 俺は確かにそんなようなことを言った。言ったが……いや思い出すとかなり恥ずかしいなこれ。

 ともかく、あの魔女はこっ恥ずかしい俺の台詞を聞いて、それを叶えてやろうと思って、その上であえて俺に魔法をかけた……のか?

 俺や俺の周りの人間が記憶をなくしても、粕谷だけは覚えていること。

 粕谷が……どうやったのか分からんが、いつの間にか星野さんに代わる魔女になっていたこと。

 そして何も知らない俺を連れてきて――それまでに、きっと色々な苦労があったんだろうけど――こうして封印を解く日が来ることを、あの魔女は最初から分かっていたのだろうか。


「全然似合わねえ……星野さんの方がまだ似合ってたよ、そのローブ」

「えーそうかなー? 友紀がスカート履いてる方が似合わねーと思うけど」


 最高の仕事を最後まで、か。

 だとすると、全てあの人の思惑通りに事が運んだ結果が今なのかもしれない。

 二度目の失敗を受け入れてまで、あの人は俺のために魔法をかけてくれた。

 どうして俺なんかにそこまでしてくれたんだ?

 あんたの言う俺の輝きというやつは、俺自身にはよく分からない。

 俺なんて仕事もロクにできない落ちこぼれの、社会不適合者だ。

 そんな俺にあんたは何を期待する?


「これは……仕方なくだよ。営業やらなきゃいけねえんだから」

「似合わねーよ、友紀」


 粕谷は帽子とローブをバサッと脱いで、丸めて机の後ろに放り投げた。

 蛇一の兄貴がやれやれといった顔でそれを拾いに行く。

 魔女の格好の下から現れたのは、クリーム色のニットにベージュのミニスカートだった。濃い色のストッキングに合わせた光沢のある靴がキラリと輝いている。

 可愛らしくも統一感のあるコーディネートは粕谷にとても良く似合っていた。

 ファッションにそれほど詳しくない俺にも、一つ一つのアイテムの質が非常に高いことがはっきりと分かる。恐らく全身高級ブランドで統一しているのだろう。

 大学の頃と変わらない粕谷の姿勢に、自然と笑みが浮かんでしまう。


「お前はカッコいいんだよ、友紀。一匹狼みてーに尖っててさ、誰にも触れられないみたいに気高くて……オレの憧れだった」

「……今はしがない保険の営業だけどな」


 しかも成績最悪の落ちこぼれだ。

 いつクビになってもおかしくないレベルだと思う。


「もう入社してしばらく経つのに、電話ひとつ満足にかけられない……お前が思っているような人間じゃないんだよ、俺は」


 毎日死にたいと思いながら過ごしているような、弱い人間なんだ。

 親に小突かれなきゃ働く気にもなれないくらい怠惰で、無気力で、無力なんだ。


「それはなー……オレと一緒にいねーからだよ」


 しかし粕谷は、自信満々にそう言った。

 膨らみがくっきりと浮き上がるほど胸を張って、真っ直ぐに俺を見る。


「星野さんも言ってただろー? オレたち、二人で一つなんだって」


 そんなこと言ってたっけ?

 なんの根拠もない、アホな台詞だ。

 どうしてそんな疑いもなく言い切れるのか、本当に……バカなやつだ。


「友紀、今の仕事辞めちまえよ。【矛盾の魔女】は二人揃ってやっと一人前だって、なぜか蛇一の兄貴にも星野さんにも言われてるんだよなー」


 ちらりと蛇一の兄貴を見ると、「お前ほとんど仕事しねえじゃねえか」と言いたげな苦笑を浮かべていた。


「……俺も魔女になれってことか? ちゃんと給料出るのかよ?」

「聞いて驚け、なんとこの仕事、国家公務員的なアレなんだぜ。オレも知らなかったんだけどさー、国から直接依頼が来るんだって。すごくね?」

「それは……すごいけど……」


 俺は黒いローブを丁寧に畳んでいる蛇一の兄貴に声をかけてみた。


「兄貴、こいつこんなんで、ちゃんと魔女の仕事が務まってるんですか?」

「……務まってないな」


 兄貴は諦めたような表情で首を振った。

 まあ、そうだろうな……。兄貴もこんなのが上司になって苦労が絶えないだろう。


「いやでもー、最近はなんか怪異とかいうやつが増えてきたからさー、オレでも結構役立つことが多くなってきたと思わないっすか、兄貴?」

「このバカ。魔女が現場に出るのはよっぽどの場合に限るって言ってるだろ。未だに前の所長から助けてもらってることを忘れるなよ?」

「忘れてないっすよー。感謝してますって」


 兄貴から雷を落とされてもさほど気にする様子もない。きっといつも言われているのだろう。

 呆れる俺に粕谷はスススっと近寄ってきて、不意に肘に腕を絡めてきた。

 うーん、持たざる者に豊満な胸を押し付けやがって。嫌味かな?


「なー、オレにもできるんだからさー、一緒に魔女やろうぜー?」


 バイトしようぜ、みたいな軽いノリで言ってくれる。大体お前はちゃんとできていないんだろうが。

 本当に、こいつといると調子が狂う。


 ……名前も知らない異界の魔女さん、あんたも俺に魔女になって欲しいと思うか?

 そのためにこんなに回りくどいことを仕込んだのか?

 もしもそれがあんたの望みなら……まあ、そういう理由なら仕方がない。

 ここまでお膳立てしてもらって、何も返さないのは失礼だもんな。


「わかったよ。やればいいんだろ」

「マジで!? やったー! じゃあさっそくヤバい案件があるんだけどさ……」

「おいおい待て待て、今何時だと思ってんだよ。ひとまず帰らせろ。手続きとか諸々あるんじゃないの?」

「そんなんどうだっていいじゃん。だって魔女だぜ? オレたち、二人でさ……やっと、やっと二人で魔女になれるんだぜ? すっげー長かったんだよ……マジで……」

「……わかったから、泣くな。バカ。…………ありがとな」


 こうして俺は……俺たちは、【矛盾の魔女】になった。

 次の日さっそく会社に退職願を叩きつけて、転職する旨を親父に一方的に連絡して、そしてその日の夜にはもう、これまで体験したのとは全く異質な異界に、粕谷と一緒に旅立つことになるのだが……それはまあまたいつか、機会があったら話そう。


        ◆


 二人組の奇妙な魔女が誕生した。

 二人が手を取り合えば、その両極端な特殊能力をいかんなく発揮して、たちどころに異象を解決に導いてしまうのだという。

 その噂が遠い異界の魔女たちにまで広がっていったことを、本人たちは知る由もなかった。

 ちょっと旅行にでも出かけるかくらいの感覚で過去に類を見ないほど多くの異界を駆け巡り、その度にバカなことをしでかし続けた伝説は、後々まで魔女界隈で語り継がれることとなる。

 彼女たちは同業者から通り名で呼ばれることはめったになく、畏敬いけいと親しみとほんのちょっとのからかいを込めて、こう呼ばれていたらしい。

 『バカふたり』と。

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バカふたり、時々、異象。 高山しゅん @ripshun

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