色恋

「せっかくですが、結構です」


 水色を介して、烏丸に勇気をもらった私の心は、その瞬間に決まった。

 私の世界に、水色以外はいらない。視覚に飛び込む鮮やかな色など、水色以外は邪魔でしかない。水色をより濃く感じることができるこの瞳を、手放したくはなかった。


「仕方ありませんね」


 リスクが怖いのはわかりますが、自分で治療を受けようと思うと500万はくだらない、などと医師は説得を続けたが、頑なな私に根負けした。今の私はただ、烏丸に会いたい。常闇の世界に水色を灯した、彼に。


「あの団体の代表さんに連絡をお願いできるかな」


 医師は背後を通りすがった看護師に声をかけている。もう断りは入れたのだから、早いところ解放してほしい。そんなことをぼんやりと考えていた。



「そうそう。烏丸さん」



 浮ついた脳を覚醒させたのは、医師の口から出た名前だった。

 烏丸。確かに医師はそう言った。私の治療費を負担するという支援団体、その代表。その人物の名を、烏丸だと言う。

 ぐにゃり、と体と世界とが捻じ曲がる感覚があった。全身に力が入らなくなる。右手から白杖がするりと抜け落ち、硬い床に落ちる音がした。


 何が詐欺師だ、あの男。


 私はひんやりと冷たい無機質な床に這いつくばって、落とした白杖を探す。入口の近くまで転がっていたそれを手に取ると、ドアに寄り掛かるような形で立ち上がり、そのまま病室を抜け出した。


 水島さん、と私を呼び止める声がする。構うものか、今の私は止まれない。

 白杖で地面に触れることもせず、私は無我夢中で駆け出した。幾度か人にぶつかった感触があったが、気にも留めない。


 病院を抜けてもなお、私は駆け抜ける。息が荒い、心臓はその鼓動を増している。冬の匂いも鼻腔をすり抜けるほどに、私は走った。

 大丈夫、道は体が覚えている。遠くにぼんやりと映る色に向かって進めばよい。


「光」


 淡く薄く映る水色が濃くなったところで、私の体は抱き留められた。歩を止めた私の鼻に、潮の香りが飛び込んでくる。

 私の名前、私が永遠に失ったもの、光。それを何度も呟く声が、鼓膜を通じて全身に巡った。


「なにが、詐欺師よ」


 荒げた息に混じらせて、呆れるようにそう言ってやる。

 吹き出る汗が、水色が、額を滲ませている。全身が水色に包まれている私は今、確かに生に満ち満ちている。そう感じた。


「支援団体。代表。とんだ詐欺師がいたものね」

「治療、断ったんだな」


 私の嫌味に、烏丸は否定も肯定もしない。


「私は、いらない。世界に色なんて。本能に、魂に、刻まれた、水色だけを感じて生きていく」


 烏丸の体を、抱きしめ返す。離さぬよう、離れぬよう、強く。私の生に意味を、私の世界に水色を与えた彼を。

 烏丸の胸に顔を押し当てて、思いきり息を吸い込む。心地よい暖かさを孕んだ彼の匂いが私の中に満ちる。全身に生きる力が、水色が広がっていく。


「私の世界には、水色が、あなたが必要なの」


 改めて、彼をきつく抱きしめる。

 その一方で烏丸は、何も言わない。代わりに、何やらごそごそとズボンをまさぐっている。不安に駆られる私をよそに、彼はそっと私の右手に何かを握らせた。


 金属質な表面、角ばった形状。どうやら携帯電話のようだった。

 一体これがなんだというのか。いよいよ烏丸の意図がわからなくなってきたその時に、手の中からくぐもった声が響いた。


『あんた、一体どういうつもりよ』


 ノイズに混ざって聞こえてくる声に、私は心当たりがあった。間違いなく、義理の母のものだ。

 なぜだ、どうして。事態を飲み込めず、ただ声に聞き入る私を尻目に、携帯電話からは怒号にも似た声が続く。



『トンズラしやがって。何が絶対に儲かる不動産だ、この詐欺師。私の500万、返しなさいよ』



 愕然とした頭から、筋肉へと指令が伝わらない。

 私の手を離れた携帯が、砂浜へと落ちる。そのすぐ後に、金属がひしゃげるような音と、地面が大きく揺れる感覚があり、母の声は止んだ。音源を烏丸が踏みつけたのだろう。


「今ここに、500万がある」


 何事もなかったかのように、母の声の代わりに詐欺師の声があった。



「人を騙して金を奪うのは、もう飽きた。今度は、君を奪いたい。俺の水色の世界に、光を取り入れる。君を連れて逃げるのには心もとない金だが、一緒に来てくれ」



 彼の言葉は、最後までよく聞こえなかった。

 感情そのままに、私は彼の顔をべたべたとまさぐる。人差し指が唇に、親指が歯に当たる。構うことなく、自らの唇をそこに押し当てた。


 先日のような優しいものではなく、野性的な、互いの存在を確かめ合うかのような深い口づけ。彼の舌と私の舌とが幾度も絡み合う。口の中を巡るのは、彼の唾液か私の涙か、判別がつかなかった。


「どうだい、俺の水色の味は」


 息苦しさに唇を離し、口内に広がったそれを飲み干すと、意地の悪そうな声が頭上から降ってきた。恥ずかしくて、感想など言えるものか。


 だから私は、感じたことを心の中だけで、そっと囁く。



「変態」



 確かに彼の水色は、暖かい色だった。

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インビジブル・ライトブルー 稀山 美波 @mareyama0730

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