独白

 私が水色の世界に、彼に魅入られてから、幾月の時が流れた。辺りは冬の匂いが濃くなっていることに、ふと気が付く。緑の気配は失せ、肌のよだつ寒気と土の香りだけが際立つ季節となっていた。


「なぜ海が青いのか、知ってるかい」


 待ち合わせたわけでもなく烏丸と落ちあい、水色の広がる海へと向かい、水色の持論を聞き、水色に思いを馳せる。そんな生活が続いていた。

 

「太陽の光の中で、青色だけが吸収されず、反射するからだ。何ものにも吸い込まれない力強さ、何ものをも吸い込む魅力。青色には、水色には、そんな力がある」


 彼の水色の声色を聞いている間は、とても心地がよい。浜辺の喧騒も消え失せ、水色だけが耳に入ってくる。私はすっかり、水色に溺れていた。


「最近は頬、赤くないな。いいこった」

「投資だか、不動産だか。よくわからないけれど、お金を貯める手段が見つかったとかで。上機嫌なのよ」


 そら景気のいい話で、と吐き捨てるように烏丸は言う。詐欺師のくせにお金のことにはあまり興味がないと見える。

 結局のところ、彼の興味は水色にしかないのだ。私の肌が赤くないことには興味がある、その理由には興味がない。私の興味も、彼の語る水色の世界と、ひどく熱くなった頬を撫でる細い指の感触にしかない。


 凍り付いた肌を、彼の指先が温めていく。肌を覆う冷たい薄氷のようなものが、溶け出していくような感覚。溶けた氷は、水だ。彼の指が通った道には、水色の命が芽吹いてゆく。


「目さえ見えればあんな家、出ていくんだけど」


 重苦しい雰囲気にならぬよう、何でもないことのように敢えて言う。

 光の満ちない暗い世界の中に生きている以上、誰かの庇護のもとでないとまともに生きることもままならない。あんな家族でも、頼らざるを得ないのだ。

 白杖を握る際にはいつも、杖の先端に根が生えているような感覚を覚える。それは、『お前は飛び立つことなどできない』と諭されているようだった。


「それは本当か」


 眼前のからすが、今にも飛び立たんとする勢いで、問いかける。

 頬に添えられた手のひらが強張るのを感じた。普段の浮ついた感じとも、水色について語る暖かい感じとも違う、野太い声。


「そら、ね」

「そうか」


 困惑しながらも、たどたどしく返事をした。やけに静かな海辺には似つかわしくない、震えた声だったと思う。私のものよりかは幾分大人しいが、烏丸の声も震えていた。



 烏丸とそんな会話をした数日後のことだ。定期検査のためだけに通っている病院から、話があると呼び出され、私は重い足取りで病院へ向かった。道中で烏丸に会うこともなく、気づくと冬の香りは薬品の香りへと移り変わった。


「先端医療です。もちろんリスクはありますが、多くの成功事例があります」


 呼び出した医師は開口一番に、そんなことを言った。あまりにも突然のことに、私は思わず息を飲む。

 私のような盲目患者を支援する、非営利の団体があるらしい。寄付金を募り、患者の治療費を負担しているそうだ。そんな奴らが次に目を付けたのが私、だという。


「前向きに検討いただきたいです」


 別れ際の医師の言葉は、もう私の耳には届いていなかった。

 ぐるぐると思考が巡り、頭をもたげる。病院独特のあの匂いは今は遠く、肌を突き刺すような寒さだけが残る世界で、私は一人立ち尽くしていた。


「やあ水島ちゃん」


 より一層闇が深まる世界に、淡い色を差し込んだのは、私を呼び止める烏丸の声だった。私が病院にいることを、どうして彼は知っているのだろう。そんな疑問が頭をよぎらなかったわけではない。ただそれ以上に、今一番求めている人物に、今一番求めていた色に出会えたことに、喜びを感じていた。


 私は何も言わず、彼の腕に自らの腕を絡ませ、傍らを歩く。飽きるほどに行き慣れた、海までの道のり。何かを察した烏丸も、今日の道中は口を開かない。


「何か言われたのか」


 烏丸が会話の口火を切ったのは、いつものように砂浜に腰かけた後のことだった。数秒か、数分か、数時間か。ひどく間延びした時の中、私はただ海と彼を感じていた。


「目が、治るかも、しれないって」


 ぽつりぽつりと、言葉と涙が零れていく。

 支援団体が資金を出してくれること、先端医療のこと、県外での入院のこと。ゆっくりと、手探りのように彼に語り掛けた。



「私、怖いの。家から離れたい、目が見えるようになりたい。そんなことを言っておきながら、目が、世界が見えるようになるのが怖いのよ。闇でしかなかった世界に光が差すだなんて、私の世界は、どうなっちゃうの。真っ白なカンバスに、絵の具をぶちまけるみたいな。そんな空恐ろしさがある。ねえ烏丸。私はどうしたらいいの。私に生きる力を、水色をちょうだい」



 感情と言葉と涙とが、止まらない。

 容量いっぱいとなった瞳から、涙が零れ、手の甲に落ちる。涙も水だ、水色だ。手の甲に落ちる水色は、微かに暖かった。


「光」


 溢れた涙を拭おうともしない私を呼ぶ声があった。初めて呼ばれる、皮肉な名前。彼にそれを呼ばれて、どうして嫌な気持ちになれようか。

 烏丸はそっと優しく、けれども力強く、私を抱きしめる。たまらずに私は、白杖を手放した。


「俺が言えるのは、ふたつ」


 耳元で彼の低い声がする。


「ひとつ。君の美しい肌に、赤は似合わない」


 涙で赤く腫れぼったくなったであろう目尻を、彼はそっと撫でる。

 そのひとつひとつの所作に、私の心臓はたまらず脈打つのだ。



「ふたつ。実際に見る海は、水色は、それはもう圧巻だぜ」



 そう言い終えると、烏丸は自らの唇を、私の唇に重ね合わせた。

 生きる力を、水色をくれ、と言った私に対する、彼の答えだった。

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