初恋と、ファーストキス

南雲 皋

はじめてすきに、なったひと

 人を好きになるって、どういうことなんだろう。


 好きだと言ってくれた人に返す言葉を、私は『ありがとう』しか知らなかった。



「人の彼氏とってんじゃねーよ、このクソビッチが!」



 バチンという音がして、私の顔が横を向いて、叩かれたのだなと思った。

 目の前で両目に涙を湛えて私に怒りの視線を向ける彼女は、いったい誰の彼女なんだろう。



「えーと、その彼氏って、誰?」


「は!? さとしに決まってんだろ! 昨日ラブホから出てきたの友達が写真に撮ってたんだよ、ほら! 証拠あんだから!」



 差し出されたスマホには、確かに私が写っている。

 セーラー服の上にパーカーを着た私の隣には、私の肩に手を回す柄シャツとジーパン姿の男。


 ああ、この人。



「声掛けられて、可愛いねって言われたから、ありがとうございますって言った。君みたいな子、好きだなって言われたから、ありがとうございますって言った。それからはあんまり覚えてないけど、あなたの彼氏だったならごめんなさい。付き合ってとは言われてないよ」


「い、意味わかんない。なにそれ。アンタ頭おかしいんじゃないの!?」


「ごめんなさい」


「とにかく、二度とさとしには近付かないで」


「どこの誰かも知らなかったよ、名前も、今はじめて聞いた」



 何か言いたそうに口をぱくぱくさせた後、彼女は走り去ってしまった。

 校舎裏、終わりかけの蝉の声。

 もう少ししたら鈴虫が鳴き始めるかもしれない夕暮れ時。

 私は一人、残された。


 帰ろうと歩き出して、話し声が聞こえたから立ち止まった。

 女の子の声だった。



「宗馬くん、好きです! 良かったら……付き合ってほしいな……」



 私は立ち止まり、耳を澄ましていた。

 相手が何と答えるのか、知りたかったから。



「俺は君を好きじゃないし、そもそもよく知りもしない相手と付き合うのは無理」


「と、隣のクラスじゃん! 付き合ってから相手のことを好きになるとかもあるし」


「無理。つーか、そんなことを俺に言ってくる時点で、もうあんたを好きになる可能性ゼロ」


「宗馬くん!」



 まずいと思ったけれど、間に合わない。

 私は宗馬くんとやらと鉢合わせてしまった。

 追いかけてきた少女は私に気付くと気まずそうに口を噤み、口元を押さえて私たちを追い抜いていった。


 宗馬くんは私をちらと見た後、校舎の方へと歩き出す。

 私は思わず、彼の腕を掴んでいた。


 彼は眉間にシワを寄せ、怪訝そうな顔で私を見た。



「なに?」


「好きって言われて、どうして無理って言うの?」


「は?」


「好きって言われたら、ありがとうって言わなきゃいけないんじゃないの?」


「言ってる意味が全く理解できないんだけど。ってか、誰」



 それから私は自己紹介をした。

 自己紹介といっても、学年とクラスと、名前だけ。

 宗馬くんは同じ学年で、宗馬そうま清澄きよすみという名前だった。

 綺麗な名前だと思った。


 私の名前とは大違いだ。

 水橋みずはし海月くらげという、私の名前とは。



 宗馬くんは意外にも、私の話をちゃんと聞いてくれた。

 私の話をちゃんと聞いてくれた後、ただ一言。



「バカじゃないの」



 そう言い放った。

 私が、上手く言葉に出来ない気持ちを何とか形にしている間に、当然のように陽は暮れていて、ポツポツと点在する電灯に明かりが灯る。

 宗馬くんは私と連絡先を交換すると、明日の放課後は屋上に来いと言い残して去っていった。


 私は、宗馬くんの名前とアドレス、電話番号の表示された画面をまじまじと見つめた。

 それから名前の欄を指で押し、『ともだち』と打って上書き保存する。

 少し不安になりながら、けれど嬉しくてそわそわしながら、家への道を歩いた。



(たいせつに、しなくちゃ)



 家へ帰れば父親が待っている。

 私を育ててくれた父親が待っている。


 今日も好きだと言われるだろうか。

 今日も愛していると言われるだろうか。


 今日も。





 放課後、誰かに声を掛けられる前に急いで屋上へ向かう。

 途中で宗馬くんのクラスの前を通ったけれど、宗馬くんの姿は見当たらなかった。


 鍵がかかっているはずの屋上の扉は少し開いていて、その向こうに宗馬くんが立っていた。


 いい天気だった。

 青空を背に、宗馬くんが私に気付く。

 宗馬くんは、本当に綺麗だ。

 眩しいくらいに、綺麗だった。



 宗馬くんは私に色んな話をしてくれた。


 それはきっと理想論で、それもたった一人の理想論で、だけど私には何もかも新鮮だった。

 何もかも正しく思えて、それと同時に自分が酷く汚いモノだと、気付いてしまった。


 普通は、お互いの好きって気持ちがあって、初めて“お付き合い”をするんだ。

 “お付き合い”している状態の二人は、お互い以外の人間に対して好きと思ってはいけない。

 もしそうなってしまったら、きちんと“お別れ”をして、それから他の人と“お付き合い”するのが、普通。

 “お付き合い”と“結婚”もまた違くて、“結婚”したら絶対にお互い以外と関係を持ってはいけない。


 宗馬くんから学んだ普通は、私の普通とは全然違っていた。

 私は初めから、異常だったのだ。

 私に怒っていた女の子たちの気持ちが、何となく解った気がした。


 私は、誰のことも好きになったことがなかったのだった。

 それは同性も異性も関係なく、家族すらも。



 母は、私が物心付く前に、父ではない男の人とどこかへ行ってしまったらしかった。

 父は、そんな母を心から愛していた。

 そして、母の面影を強く残す私を、母として愛すると決めたようだった。

 あるときから、私は私の名前で呼ばれなくなった。

 

 好きだと言われたら、ありがとう私もよと言いなさい。

 愛していると言われたら、ありがとう私もよと言いなさい。


 それが父の教えだった。

 私には、それしかなかった。

 私には、父しかいなかった。


 小さな違和感には無視をして、ずっと生きてきた。

 宗馬くんの言葉は、態度は、私の父への対応へ多大な影響を及ぼした。


 初めて父を拒んだ私は、痛む頬とは裏腹に、込み上げる何かを感じていた。

 結局父には負けてしまったのだけれど、変われるかもしれないと、思った。





 父以外から向けられる好意は、拒絶出来るようになった。

 道を歩いていて声を掛けられても、無視できるようになった。

 呼び出されて告白されても、ごめんなさいと言えるようになった。


 私に触れられずに去っていく人たちを見送る度に、宗馬くんの顔が頭を掠めた。


 屋上で待っていた私に、また知らない奴に告白されたと不機嫌そうに告げる宗馬くんを見て、安心するようになった。


 私は、宗馬くんが、好きになっていた。


 そのことに気付いた瞬間は、どうしたらいいか分からなくなった。

 宗馬くんの顔が見られなくなって、思わず屋上から逃げていた。

 追い掛けてきた宗馬くんに握られた右の手首が、別の生き物みたいに脈打って。

 どうにか誤魔化して家に帰ってからも、宗馬くんのことを思い出しては顔を赤らめた。


 父は、私を疑っているようだった。

 登録された『ともだち』の文字に、これは誰なのだと詰め寄って。

 結局、携帯から宗馬くんの連絡先は消えてなくなった。

 けれど、宗馬くんの電話番号は既に私の頭の中にしっかりと刻まれていた。


 私は激しさを増す父からの行為をひたすらに、耐えた。

 母の名を呼び、知らない男の名を呼び、私を叩く父を、黙って見つめていた。


 鈍い痛みを下腹部に抱えながら、自分の部屋のベッドに寝転ぶ。

 父はもう、眠ってしまった。

 私は宗馬くんに握られた手首にキスをして、そして泣いた。


 どうしてこんなにも汚い私が、宗馬くんを好きでいられるだろう。

 好きという気持ちは、抑えられないこともあると宗馬くんは言っていたけれど、こんなのはあんまりだ。


 私の唇に唇で触れた人は何人いただろう。

 私の裸を見た人は、何人いただろう。

 私のナカに欲望を吐き出した人は、何人いただろう。


 私は実の父親と、何度。


 普通なんて、知らなければよかった。

 宗馬くんに、出逢わなければよかった。


 それでも、それでも私は、どうしようもなく、宗馬くんが、好きだった。

 震える身体を抱きしめながら、その腕が宗馬くんの腕であればと。


 私なんかの好意で、宗馬くんを汚してはダメだ。

 この気持ちは、隠して潰して捨てて忘れ去らなければ。



 私は、屋上に行くことを、やめた。





 放課後の学校は、とても静かだ。

 私は自分の教室でしばらくぼんやりとしていた。

 小学生たちに帰宅を促す童謡が街中に響き渡る。


 帰ろうかな。


 私は鞄を持ち、教室を出た。

 宗馬くんのクラスの教室に視線を向けたのは、ほんの気まぐれだった。

 窓際の一番後ろ、机に突っ伏して眠る宗馬くんを見付けたのも、偶然だった。


 組んだ両腕の中から見える閉じた瞼。

 差し込む夕陽が、それなりに長い睫毛をちらちらと輝かせている。


 すうすうと規則的な寝息が聞こえて来る。

 私は宗馬くんを起こさないようにそっと近付いた。



(ああ、好きだな)



 忘れられる筈がなかった。

 私に心をくれた人。

 私の、初恋の人。


 薄く開かれた宗馬くんの唇に、私は自分のそれを重ねていた。



「ん……」


(!)



 私は、何を。

 ああ、なんてことを。


 真っ暗になりそうな視界によろめきながら、私は教室を飛び出した。

 無我夢中で走って、気が付いたら、屋上に立っていた。


 宗馬くんのファーストキス。

 大事な、大切な、初めての。

 私が。

 私の汚れた、唇が。



「ああああああ」



 口から漏れ出す声を、抑えることも出来なかった。

 時間が戻るなら、戻してほしい。

 綺麗な宗馬くんが。

 宗馬くんが。


 ぼろぼろと涙を溢れさせ、私は声を上げて泣いていた。

 だから抱きしめられるまで、宗馬くんが屋上に来ていたことに気付かなかった。



「どんだけ号泣してんの」

「そ、……まく……だ、め私に触ったら、よごれ……ごめんなさい、ごめ……っ」

「また意味分かんないこと言ってる。落ち着けよ」



 私はぐずぐずになりながら、全部喋っていた。

 今までの人たちのこと。

 父のこと。

 宗馬くんのこと。

 さっきの、こと。


 宗馬くんはその間、ずっと私を離さなかった。

 私が全部を話し終えると、一際強くぎゅうと抱きしめて、そして、私に、キスをした。



「とりあえず今日は俺の家に来い。俺の親に相談する。いいか、お前は悪くない。大丈夫だ、絶対に助ける」

「ど、して……」

「あのな、俺だって人間で、俺にも気持ちがあるんだぞ。俺も、水橋が好きなんだ。お互い好きだったら、“お付き合い”、してもいいだろ」



 私は、また泣いた。

 宗馬くんは私が落ち着くのを待ってから、私の手を握って、家まで案内してくれた。

 宗馬くんのお母さんは事情を聞くと、宗馬くんみたいに私を抱きしめてくれて、宗馬くんと同じことを言った。

 私を、助けると。



 宗馬くんの部屋で、私は夢心地のまま放心していた。


 私は、どうすればいいのだろう。

 私は、宗馬くんのことを好きでいていいのだろうか。

 父は、私を叩くだろうか。

 父は、私の名前を呼んでくれるだろうか。

 


「海月」



 いつから呼ばれていなかったか分からないくらい新鮮な響きが私の鼓膜を震わせる。

 沁み渡る宗馬くんの声に包まれながら、私は、意識を手放した。





 父の本当の姿を知ったおばあちゃんは、鬼のような形相で父を糾弾した。

 私に会いたいと父に言う度に、何かと理由を付けて断られていたらしかった。

 ごめんねごめんねと泣きながら抱きしめられて。無理やりにでも会いに来ればよかったと泣きながら抱きしめられて。


 私は、諸々の手続きが済んだ後、祖父母の暮らす山梨へと越すことになったのだった。


 父の所業は当然のようにトップニュースとなった。

 実の父親からの性的虐待というセンセーショナルな出来事にマスコミは湧き上がった。


 父だけでなく、私の過去も暴かれるのに、大した時間はかからなかった。

 私に怒った彼女たちが、取材に応じたのだろうか。

 私への同情の声は多かったけれど、私が父からの、そして不特定多数からのセックスを望んだのではという声もそれなりに聞こえてくる。

 私がたくさんの人とセックスしたことは事実だったから、詳細な記事にむしろ感心したりして。


 だけど宗馬くんに全てを知られるのは、既に屋上で話していたことであっても、いい気持ちはしなかった。

 私の汚さが、穢れが文字になって、写真になって、形になって宗馬くんの手元に届いてしまうのは、やっぱり、嫌だった。


 週刊誌は買わないでと言ったけれど、ワイドショーでは今も度々、取り上げられる。

 ネットにもたくさんの記事が上がっていて、だから週刊誌ひとつ買わなかったところで、隠すことは出来ないと分かっているのだけれど。



 引っ越すまで、私はおばあちゃんと一緒に駅前のホテルで暮らしていた。

 私は今まで暮らした家でもいいと言ったのだけれど、それはおばあちゃんが許さなかった。

 家は売りに出されるのだそうだ。



 父も、母から解放されるだろうか。



 転校手続きなど、諸手続きは基本的に周りの大人の人が全部やってくれて、私はホテルからほとんど出なかった。


 ホテルには時折、宗馬くんが訪ねてきてくれていたのだけれど、週刊誌に私が誑かした一番の被害者!という見出しとともに宗馬くんの顔写真が載ってから、私は宗馬くんが来ても扉を開けなくなった。



 メールと、電話で、私たちはたくさんの会話をした。



 守ると言ったのに、何も出来なくてごめんと言う宗馬くんの声は震えていて。

 大丈夫だよと私が励ます側に回っていることに笑ったりした。


 宗馬くんは、ただの男の子だった。

 特別な力なんてない、普通の男の子だった。


 ファーストキスもまだの、夢見がちな男の子だった。


 だけど、だからこそ私は救われた。


 これからどうなっていくかなんて、誰にも分からない。

 父の作った檻の中で生き続けてきた私が、普通に戻れるのかも、分からない。


 だけど、また、宗馬くんとキスがしたい。


 宗馬くんの温もりに包まれて。

 宗馬くんの鼓動を自分の鼓動に重ねて。

 目と目を合わせて。


 高校を卒業したら、会いに行くと言ってくれた。

 大学を卒業したら、プロポーズしに行くと言ってくれた。



 願わくば、最後のキスを、貴方に。



【了】






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