第2話「執事の空、お嬢様の夏」
【前回までのあらすじ】
「プールに行きたいですわ――――――っ!!」お嬢様の声が夏の空に響き渡った。執事はお嬢様のために超科学技術を尽くして2億光年先の超銀河団に存在するという超巨大プール施設『α-としまえん』に通じる超次元ワームホールを生成する。「すごいすごいクソデカプールですわーっ!」「あんまりはしゃぐと危ないですよ、お嬢様」二人は意気揚々とワームホールをくぐる。それが二人の命運を握る鍵になるとも知らずに……
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「しーつじっ! レシーブっ!」お嬢様がビーチボールを高く打ち出す。
「お嬢様っ、トースっ!」執事がビーチボールをふわりと浮かせる。
スパイクを打つ三人目がいないので、ビーチボールがプールの水面にぼたりと落ちた。
水着のお嬢様とアロハシャツ姿の執事はプールの水流に任せて無気力に漂うビーチボールを泥のような目つきで見送った。その流れは秒速5センチメートル程度のゆったりとした速度で、最終的には遥か彼方にかすむ56キロメートル先のプールサイドに到着する予定だった。
「夏、満喫、という感じですわね」
最早ビーチボールには目もくれることなく、お嬢様が巨大な室内プールから上がり、プールサイドに腰を下ろした。肩口と腰回りにフリルのついたオレンジ色のワンピースが執事の主観において天使のように可憐だった。ああ麗しの姫君、その姿はさながら漁師を惑わすローレライ、健康的な雫を散らしたきめの細かい肌はわずかに紅く火照っている。泳ぎの邪魔にならないように括った髪の蜂蜜色の毛先から、真珠のようにきれいな水滴が、ひとつふたつと滴った。
お嬢様の目は眩しい空に向けられている。トスを決めた姿勢のまま、執事も同じように『空』を見上げる。遥か中天にはCGで描画された太陽が浮かび、ぎらぎらとした疑似的な陽射しをこの地上に送り届けてくる。強固なシェルターに覆われたα-としまえんの87番プールは摂氏30度の適温に保たれている。平時の室温であるとするならばやや暑いくらいだが、水の中で遊ぶことを考えたならばとても過ごしやすい気温と言えた。
屋外の気温は折からの猛暑により摂氏2400度を記録しているため、うっかり外に通じる扉を開くと一瞬で融解する恐れがあった。おまけに今日は激しい『雨』で、大気中に含まれる大量の鉄分が凝縮し、豪雨となって叩きつけるバラバラという音が鳴り続けている。
そういえば子供のころ、台風の日に雨戸を閉めて、叩きつける豪雨の音にずっと耳を傾けていたっけな――執事は懐かしい日々のことを思い出していた。嵐の夜、恐ろしいはずなのに、なぜかその音を聴いていると安心するのが不思議だった。
「何を考えていますの?」
至近距離でお嬢様の声。
目を開けると、すぐ目の前に麗しい人の顔がある。
執事は一瞬だけ目を伏せた。その長い睫毛の下から見える死んだような流し目が、同じく死んだ目のお嬢様のペアルックめいた視線と交錯する。
執事はガチ低音のときの小野友樹みたいなイケボで言った。
「お嬢様のことを」
「奇遇ですわね。わたくしも執事のことを考えていましてよ」
「両想いですね」
「えへへ」
二人は無表情に見つめ合う。
鉄の雨音に混じって、エネルギー量50万メガジュールになんなんとする極太の稲妻の轟音が響く。
お嬢様は慢性的に運動不足なので早々に泳ぐのを断念し、プールサイドに設置した最高級パラソルの下で最高級白いチェアに座り最高級白いテーブルに置いた最高級トロピカルジュースを飲んでいた。ぷは、というかわいらしい音とともに、ストローの口からお嬢様の唇が離される。柔らかく震えるたっぷりとした唇に唾液の糸が垂れ下がり、地味にばっちくなりかけたところを執事のハンカチが拭い去る。
「ところで執事は泳ぎませんの?」
お茶の間の皆様に醜態を晒さず済んだことを知ってか知らずか、お嬢様が執事に尋ねる。
「執事は仕事がありますので」
「構うものですか。今はわたくししかおりませんのに」
「まあ、それはそうなのですが」
執事はだだっ広いプールを端から端まで見渡す。概ね高知県土佐市の7倍くらいの面積がある87番プールだったが、二人を除いて誰一人いない。高知県土佐市では有史以来人口がゼロを超えたことがないので、ここに人間がいないのも道理だと執事は思う。
「――では、お言葉に甘えまして」
執事が大胆な仕草でアロハシャツをぬぎっとする。お嬢様がちょっと真顔になる。しかしまあこの執事、割と締まってますわね、特に脇の下から上腕三頭筋にかけてのライン、と一瞬で思考を巡らせる。
着替えの手が止まる。
「お嬢様、ガン見はよしていただけますか」
「なぜ」
「執事、ムダ毛の処理をしていないので………///」
「そう…………///」
ここまで真顔のやり取りである。
鍛え上げられた
その姿が豆粒のようになったあたりで、お嬢様は立ち上がった。
執事が戻ってくるまでの間に、準備をしなければならなかった。
「――お嬢様?」
往復112キロメートルの遠泳を終えた執事がプールサイドから上がると、そこにお嬢様の姿はなかった。
お嬢様が脱ぎ捨てたサマードレスと、執事が脱ぎ捨てたアロハシャツだけが、プールの緑色の床の上に、失われた季節の抜け殻のように落ちている。
執事は――その場に
お嬢様の『死』の瞬間の光景が、執事の脳裏にフラッシュバックする。
愛しいお嬢様が、目の前で、巨大なトラックに吹き飛ばされた瞬間の――失われる温もり、心が死体のように冷えてゆくあの感覚を、忘れられるわけがなかった。
そのあと自らも命を絶ったのだ。深夜、高速道路に侵入し、自分を殺せる時速100キロ越えの深夜トラックを待って……。トラック転生に一縷の望みを懸けて、迫り来るトラックのヘッドライトに眩む視界の中、一心不乱にお嬢様のことを考えながら。
ほんの少しくらいは運転手の気持ちも考えて欲しかったものである。
かくして執事は慟哭する。
強固なシェルターに覆われた、α-としまえんの87番プール、摂氏30度の適温に保たれた
「お嬢様――――――――――――――っ!!」
「しつじ――――――――――――――っ!!」
目の前のワームホールからお嬢様が出てきた。
はっと執事は顔を上げる。視線の先には麗しのお嬢様がいる。心なしか頬を上気させ、息の上がったその両腕に、大きなプレゼントの箱を抱えている。
「……執事? 泣いていましたの?」
執事はぐしぐし目元を拭い、うたプリ二期11話の宮野みたいなイケボで言った。
「プールの水が、染みましたもので」
「執事は水の中で目が開けられますの? わたくしには真似できませんわ」
心底感心した口調でお嬢様は言い、手元の箱を執事に手渡した。
「お誕生日、おめでとう。――ですわ」
死んだ目のお嬢様が、死んだ目の執事を真っすぐ見つめていた。
今日は6月24日。
6月24日は、全世界的に、執事の誕生日だ。
箱の中には新たな仕事着が入っていた。
純白のシャツと漆黒のスラックス、ライトグレーのウエストコートのボタンを留め、最高級の燕尾服に袖を通すと、指揮者のように真っ直ぐ伸びた美しい指先が
執事はこうして毎年仕事着を新調する。誕生日のたびに新たになる想い、目の前の可憐なお嬢様への思慕を確かめる。何度でも何度でも、生まれ変わったように新鮮な、色褪せることない澄んだ心で、主のことを考える。
「ではお嬢様、そろそろ帰りましょうか」
「ええ」
お嬢様はこくりと頷き、差し出された手を取る。
二人の渡ったワームホールが、跡形もなく閉じられる。
誰もいなくなったα-としまえんの87番プールで揺れる水面だけがちゃぷちゃぷと鳴る。お嬢様が脱ぎ捨てたサマードレスと、執事が脱ぎ捨てたアロハシャツが、プールの緑色の床の上で、つながり巡る季節の象徴のように折り重なっている。
「忘れ物っ!!」
もう一度だけワームホールが開いて、季節の象徴が回収された。
コント・お嬢様と執事 広咲瞑 @t_hirosaki
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