おめでとうを言われるまで

鴉乃雪人

第1話

 今までで一番嬉しかった誕生日プレゼントは何だったろうかと、洗面台の鏡の中で眠たそうに歯磨きをしている女──つまりは自分を見て、加奈子はふと思った。幼い頃に両親がくれたぬいぐるみは、何度かの外科手術を経て今でも加奈子の下宿に顕在だ。高校で親友がくれたリップは特別な感じがして使い惜しんでいたらいつの間にか変色してしまい、そのまま捨てることもできず、実家の加奈子の机に眠っている。中学の時、隣の席の男子が加奈子の似顔絵を描いて渡してきたこともあった。口数の少ない美術部の男の子で、まるで机から落ちた消しゴムを拾っただけであるかのように何気なく、しかし首から上はしっかり紅潮させて渡してきたのだ。シンプルな白の封筒に似顔絵が一枚、裏には「誕生日おめでとう」の一言。その続きに何かしらの文章を消した跡が僅かに残っていた。後日彼にはお礼を言ったが、それ以上何が起こるわけでもなく、クラスが変わってからは喋ることすら無くなってしまった。気持ち悪いだとか根暗だとか意味不明だとか、彼について悪評がつくだけだと思い友達に相談することもせず、その出来事は加奈子と彼の中だけに生き、ひっそりと朽ちていった。似顔絵は、それなりに綺麗に描いてあった。

 今日は二十一歳の誕生日。

 昨夜日付が変わってから何人かの友人からお祝いのメッセージが届いたこと以外、今の所つまらない日常そのものだった。誕生日だからというだけでワクワクする歳はとっくに過ぎたのだと思いながらも、何かしらを期待していなくもない加奈子だった。

 コップで口をゆすぎ、歯磨きを終える。顔を洗い寝ぐせを直して化粧の準備。あまり時間はかけない。デートの予定でもあれば、うきうきわくわくと鏡越しのキャンパスと格闘をしていただろうと、一瞬虚しくなってしまう。

「生憎私はバイトなのです」

 アイシャドウを塗りながら自重気味に言うが、一人暮らしの加奈子の部屋に、ぽかんと浮くだけだった。ふう、と一息ついて顔全体のまとまりを確かめ、コスメ一式をスヌーピーのポーチにしまう。もう一度鏡を見て、それなりに綺麗じゃないか私、と心の中で呟く。そもそも加奈子は自分の顔を気に入っているし、世間的に見ても整った顔立ちをしていた。少なくとも、美術部の中学生が似顔絵を描きたくなるくらいには。

 よく着る服をぱぱっと上下で選び、ささっと着替えを済ませて、加奈子は家を出た。九月の終わり、太陽が遠慮気味に照り付ける、暖かい日だった。バイト先の喫茶店へは自転車で一五分くらいかけて向かう。バスが便利なのだが、加奈子は昔から自転車で風を切り、歌を口ずさむのが好きで、雨が降らない限りは自転車を使った。今日も加奈子は本屋の前を通り、ガードレールの下をくぐり、路上駐車を迂回したり、おばあちゃんを追い越したりした。

「はっぴばーすでーとぅーみー」

 特に歌いたい曲は無かったが、やはり何かしら口ずさんでいないと時間がもったいない気がして、信号に捕まった加奈子は呟くように歌い始めた。

「はっぴばーすでーでぃーあわったしー」

 信号が青になり、ペダルにぐっと力を籠める。サドルから腰を浮かして、立ったまま思いっきり漕ぎ出すと自転車はぐうんぐうんと加速して、一気に横断歩道を渡り切る。そのまま加奈子は足を止めず、少し呼吸を乱しながらも車輪を回し続ける。空気が肺を循環していき、意識が冴えていくのが分かる。うん、悪くない。悪くない日だ。だけど、今日は私は誕生日なんだ、そんなふうにむきになって、加奈子は一瞬澄んだ空を切なそうに見上げた。

 要するに、予定が無くて悔しいのだ。

 高校生までは、学校に行けば必ず友人は祝ってくれたし、家では両親がケーキを用意して待っていてくれた。大学進学時に一人暮らしになってからも、去年と一昨年は大学の友人がささやかなパーティーを開催し、二年連続で加奈子はクラッカーの紙吹雪を浴びた。今年はそれがないのだ。仲の良い友人たちは、バイト、旅行、家の用事で全滅。他に友達がいないわけではないが、去年一昨年と同じ友人に祝われて、今年は都合が悪いからと他の人に自分から話を持ち込むのはみっともない。かといって誕生日を祝われるためだけに実家に帰るのは流石に年齢を弁えていないし、恋人もいなければデートに誘ってくれる異性もいない。それ故加奈子は「日曜日シフト入ってくれないかな」という店長の頼みを断れなかったのである。

 誕生日が人に祝われるのはおめでたいからだが、何故おめでたいかと言えば人に祝われるからである。誕生日なんて結局は自分が産まれてから地球が太陽の周りを何周回ったのか数えるための基準でしかなく、それが根本的におめでたいのかと言えばそうでもない。他人が勝手に祝いだすからおめでたいような気がするだけなのだ。頭の悪くはない加奈子はそれを理解していたが、しかしそれは理論でしかなく、現実に誕生日はおめでたい日で、他人からの祝福を一心に浴びる日なのだ。親や友達は何かにつけて「誕生日だもんね」と加奈子に優しくし、いつもは意地悪な兄が若干親切になる。そういう日なのだ。

 ただ、そんな不満をおおっぴらに出来るほど二十一歳は幼くはなく、仕方なく加奈子は自転車を飛ばした。

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