鯨よりも深く(夢月七海様主催「同題異話・七月号」参加作)

いつか監獄でマリンスノーを

 海風に、肩口で切り揃えられた金髪が揺れる。崖の上に座り込み本を開いていた細い身体の少年は、感嘆の声をあげて幼い顔を輝かせた。


「ねえ、知ってる?」


 声を弾ませて背後を振り返った。


「海の底にも雪が降るんだって!」


 眼下の海よりもなお輝いた青い目を持つ少年は、周囲に群生する背の高い草を敵に見立てて木の枝の剣を振るうアッシュブロンドの少年に声を掛けた。我流の剣術に励んでいた少年は、手を止めて、読書していた少年のほうを振り返る。


「はあ、雪? 降るわけがないだろ」

「本当らしいよ。ほら、この本に書いてあるんだ」


 まだまだ声の高い金髪の少年は、朗々と本を読み上げた。それはある冒険家の書いた冒険譚。海の中を行く船で見た光景を、詩的に詳細に書き連ねてある。


 太陽の届かない海の底。手にしたライトを船の外に向けると、白い粒子が水中を漂っているのが見えた。上から下へと舞う姿は、まるで海底に降り注ぐ雪のよう――。


 本当かよ、とアッシュブロンドの少年が鼻に皺を寄せる。


「砂が舞い上がってそう見えるだけじゃねーの?」

「そんなことないよ、きっと。だってそれなら砂塵とかそういう風に言われるはずだよ」


 そうかぁ? と懐疑の声を上げる。本を抱えて夢見る表情を浮かべる友人を、榛の瞳を半分にして見た灰髪の少年は、顰め面を崩して笑みをこぼした。


「……見てみたいな」


 金髪を風に揺らす友人の呟きを、少年は嗤わなかった。手にした木の枝をそこら辺に放り投げ、本を抱きしめる少年の隣に座る。


「本当だとしても、海の中だろ。無理だよ」

「でもいつか、海を深く潜るようなことができるかもしれない」


 海の底を見透かそうと海面を凝視する青い瞳。横からその瞳を覗き込んだ灰髪の少年は、やがてこちらに向けられた真剣な眼差しに、密かに息を呑んだ。


「ねえ、ラロ。僕ら二人で冒険に出たらさ、いつか一緒に見ようよ。海底の雪をさ」


 その質問になんと答えたか。

 ――今でもはっきりと思い出せる。



〜〜〜〜〜



 腹に響く砲撃音。少し遅れて、水面に重いものが落ちる音がする。

 噴き上がる波飛沫に甲板を濡らした帆柱四本のガレオン船は、右に左にと大きく揺れて、鳴り響く剣戟の音を乱れさせた。

 だが、戦場の水夫たちは慣れた様子で、高波にも大砲にも怯むことなく、己が剣を振り続ける。


「今日こそあんたを、〝デイヴィ・ジョーンズの監獄ロッカー〟に送ってやるッス!」


 陽光に鈍く煌めく鋼色が二本、頭上から振り下ろされる。甲板を強く蹴りありました高く跳んだ白い水夫服の少女は、色の濃い金髪を二つ揺らしながら痩せぎすの少年に飛び掛かる。


「そりゃあ、願ったり叶ったり、だっ!」


 少年――ラロはカットラスを振りかざし、少女のグラディウスを受け止めた。小気味好い金属の音。少女の手から一本短剣が消えていく。


「是非そうしてほしいね! できるもんならなっ!」


 飛び退いた少女に嘲笑を向けながら、今度はラロのほうから飛び掛かる。自分とあまり歳の変わらない彼女は、あれでも水兵シーマンだ。十代半ばで従軍を決めたのだから、並の胆力ではないはず。油断なんてしている暇はない。

 案の定、少女はグラディウス一本で応戦し、二人は再び剣戟の音を奏で始めた。


「やるッスよ! あんたを討ち取ったら、特別手当が入る!」


 意気込む少女をラロは鼻で笑う。

 ラロは短剣を振りかぶる少女の腹に蹴りを一つくれてやる。欄干まで追いやられた彼女の肩ををそのまま押して、海上へ突き落とした。


「フィロメナ!」


 誰かが叫ぶ。彼女の仲間――鳶色の髪の士官候補生だ。


「君も追ったら!?」


 ラロの仲間の男装娘がピストルを発砲した。鉛玉が士官候補生の肩を掠め、彼は手からサーベルを取り落とす。すかさずラロが詰め寄ろうとしたところを、分が悪いと見たのか、それとも仲間を助けるためか、彼は船から飛び降りた。


「へへん。やってやったぜ!」


 水音に、ラロはカットラスを掲げる。


「君……女性の腹を蹴るなんて、紳士じゃないよ」

「当然だ! 俺は海賊だぜ!?」


 男装の娘にそう返したあと、ラロは歓声を上げながら次の敵へと飛びかかっていった。


 戦闘は、ラロの心を躍らせる。自らの強さを自覚し、相手を圧倒することの楽しさといったら。たまに強敵に会い、こちらが圧倒されることもあるが、そんな相手を出し抜いて逃げるスリルも一興だ。

 命のやり取り、それが楽しくてたまらない。自分が生きていると一番実感できるときだから。


 そうやって戦いを楽しんでいるうちに、海軍オルモス隊との戦いは終わって。

 海賊船〝ウラーニアーの指針〟号は、真昼間の陽光の下、今日も仲間の弔いと勝利を祝う酒宴が始まった。


 勝利の高揚を味わいながら酒を片手に甲板を彷徨いていると、近づいてくる影がある。ラロと一緒にいることの多い男装娘――かつて令嬢だったというミレイユだった。

 〝黒真珠〟と呼ばれた海賊令嬢は、肩口で切り揃え、一房だけ赤く染めた黒髪を潮風に揺らしていた。その様に既視感を覚え、ラロは立ち止まる。見惚れている間に、ミレイユはラロの隣に並び立った。


「なんだよ、お嬢。なんか用か?」

「うん、そう。君に聴きたいことがあってさ」


 なんだろう、と訝る頭の片隅で、一つの単語が浮かぶ。


「〝デイヴィ・ジョーンズの監獄〟って、なに?」

「なんだよ、お嬢。知らねぇのか? 船乗りの間じゃ常識だぜ」


 〝デイヴィ・ジョーンズの監獄ロッカー〟。船乗りたちの間で信じられている悪魔デイヴィ・ジョーンズ。彼は、海底に私物置き場ロッカーを抱え、その中に溺死した船乗りたちの魂を閉じ込めているのだという。


「海底の監獄か……。君は、そんなところに行きたいっていうの?」


 どうやらミレイユは、水兵フィロメナとの会話をしっかりと聞いていたらしい。彼女はだいたいお守役のラロの近くにいるので、おかしな話でもないが。


「べっつに〜。海賊だからな。いつ死んでもおかしくないだろ?」


 海賊は海路行く商船を襲い略奪するいわば悪。人々から嫌われ、軍に追いかけられる立場だ。いつ死ぬようなことがあってもおかしくはないし、その覚悟はできている。

 もっとも、積極的に死ぬ気はない。自殺志願者ではないのだから。


「……まあ、でも。〝デイヴィ・ジョーンズの監獄〟に行ったら、海の雪が見られるかもしれないとは思っているけどな」


 独り言のように思わず付け加えた最後を、ミレイユは聞き逃さなかったらしい。


「海の雪?」


 余計なことを言った。ラロは内心舌打ちをした。ともすれば笑い話にもされかねないその話をしなくてはいけない面倒に気がついたのだ。

 だが、ミレイユの黒真珠の目は期待に輝いている。ラロは観念した。


「海の深く――鯨が潜るよりも深い場所に行くと、海の雪が見られる……らしいんだよ」


 嘘か本当か知らねぇけど、と保険のため最後に付け加えるが、


「へぇ……ロマンチック」


 彼女には、真偽はさほど問題ではなかったらしい。海の雪とやらを想像して、うっとりとした表情を浮かべている。

 海賊になってからというもの、恰好も振る舞いも男を装おうとするミレイユだが、まだこうして令嬢の面影をみせることがある。つまり海賊としてはまだまだだ、と年下ながらラロは思う。戦闘時はいっちょ前に銃をぶっ放したりして、頼もしいところも出てきてはいるものの。


「君はそれ、誰かに聞いたの?」


 ようやく戻ってきたミレイユの言葉に、ラロは不愉快そうに眉を顰めた。


「妙な聞き方するな。俺が知っているのがおかしいか」

「だって君、本とか読まないでしょう?」

「……」


 これは返す言葉なく、沈黙する。ラロは文字にあまり縁がない。一応は読めるが、難しい言葉は読めない。

 それでも、それなりに物知りなのには、理由があるのだ。


「……幼馴染が、昔な。教えてくれたんだよ」


 ラロの故郷は、小さな島にある小さな村だ。狭い世界、狭い人間社会の中で灰色の人生を生きてきた。

 父親は呑んだくれ。母親は愚痴と不満の多い不機嫌屋。決して愉快な家族ではなく、ラロは家が嫌いだった。評判の悪い両親と合わせてラロを疎んじる狭い世界も、また。

 だが、その中で唯一良いモノがあった。それが幼馴染。名前はシーロ。彼もまた、社会のはぐれ者だった。もっとも彼の場合は、子供社会においてだけ、ではあったが。

 ラロとシーロは、お互い同調し合うものがあったのかもしれない。気がつくとどちらからともなく話しかけ、いつの間にか一緒にいるようになったのだ。

 シーロは、本が好きな子どもだった。外遊びするときもいつも本を抱えていて、木陰で読んでいたりするような奴だった。好きなものは、冒険譚や地理書、世界の伝承――とにかく世界のことが知りたいのだ、と常に紺碧の目を輝かせて言っていた。

 ラロは、そんなシーロの影響を受けた。彼が本で得た知識を披露するのを楽しく聴いて、シーロと同じく世界を見てみたいと思うようになっていた。だがそれ以上に、冒険スリルに憧れるようになっていた。敵との戦い、罠の数々……それらを乗り越える痛快ぶりを自ら愉しみたいと思うようになっていた。


 そうして志向は違えど意気投合した二人は、やがて将来ともに冒険に出ることを約束するようになる。


「その幼馴染は?」


 ラロの傍に、シーロと思われる人間が見当たらないからだろう。ミレイユは尋ねるが、


「死んだ。病気で」


 すぐに押し黙ることとなった。彼女からは励ましの言葉はなかったが、眼に同情の色はあった。ラロはそんなお嬢を笑う。こんなにすぐに相手に同情してしまうなんて、やはり海賊としてはまだまだだ。


 シーロは、幼少の頃から病を患っていたのだ。外での運動も制限されていた。冒険に憧れたのは、知的好奇心などではなく、その反動によるものなのかもしれない。

 だが、いずれにしろ彼はその病に打ち勝てなかった。ラロは夢と一緒に一人残された。


「だから、俺は今一人で冒険してんのさ」


 あのときのラロにとっては、シーロとの約束が全てだった。他はみな下らない。シーロとの約束を叶えることだけがラロにとっての希望だったし、この世界にいる理由だった。一人になってしまったが、それで諦めるような夢ではなかったのだ。


「でも、いざ外海そとに出てみたらなぁ……」


 欄干に腕を乗せ、カップの中の酒を振る。目の前に広がるのは、シーロの眼と同じ色の海。それを見ていると楽しい海賊生活の中でも浮かび上がる想いがある。それがどんなものかを言葉にすることはラロにはできなかった。


「……なに?」

「いーや。なんでもねぇよ」


 黙ったラロを訝ったミレイユに首を振る。

 もっとも、言葉にできたとしてもするつもりはなかった。海賊につまらない感傷は似合わない。


「そういうわけで、俺は死ぬのも怖くねぇ。死んだらあいつに話にいける。俺にとってはそれだけさ」

「なるほど。そうなのか」


 ミレイユは感心した、とばかりに頷き、良いな、そういうの、とそう溢した。


「なんだよ。お嬢は死ぬの怖いのか?」


 潮風に攫われそうなその囁きを拾い上げたラロはミレイユに尋ねてみるが、彼女は眉をハの字に垂らして、そのときになってみないと分からない、と首を横に振った。


「でも確かに、海の雪なんてものが見れるなら、監獄に落ちても良いかもしれないね」

「地獄に落ちるより遥かにな」


 ラロもミレイユも、海賊となった以上はどの道もう碌な死に方をしない。だったら、地獄の業火で焼かれるより、船乗りらしく〝デイヴィ・ジョーンズの監獄〟の中に囚われていることのほうが魅力的に思われた。


「……海の底か。どんな風なのだろう」


 またもミレイユの夢見るような呟きに、さあね、と応えようとしたとき、見張り台からガラガラ声が降ってきた。海洋を行く商船を見つけたのだという。


「野郎ども、戦闘準備だ!」


 足りない酒を補充するぞ、という船長の揚々とした声が船内に響く。船員たちもまた、戦闘への高揚に沸き上がった。


「仕事しているうちに、わかんじゃねーか?」


 ばたばた、と宴とは違う騒がしさに包まれた船内。ラロは酒の残ったカップを放り投げると、腰に佩いたカットラスを抜いた。


「それもそうだね」


 ミレイユもまた腰のピストルを抜き、慣れた手つきで弾を込め始める。

 近づいたことで見えてきた、標的の商船。潮風にはためく白い帆を見つめて、ラロはまた新しいスリルに胸を高鳴らせた。



〜〜〜〜〜



「ねえ、ラロ。僕ら二人で冒険に出たらさ、いつか一緒に見ようよ。海底の雪をさ」


 今は亡き、友人の問いかけ。いつかいなくなる未来なんか当時は知りもせず、ラロは当然のようにこう答えた。


「ああ、もちろんだ。どこまでだって行ってやるぜ」


 現在、ラロはただ一人、その約束を果たし続けている。

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グラン・マールに身を投じて 森陰五十鈴 @morisuzu

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