語るに落ちる

枕木きのこ

語るに落ちる

 まず皆様には「恐怖」というものを正しく理解していただく必要がございます。


「恐怖」とは、人がだれしも持っている「喜び」や「怒り」と同列に数えられる感情の一つでございます。特定の何か、あるいは漠然とした何かに対するものを「不安」や「心配」と置き換えて発する場合もございますが、これらの根本はすべて同じものでございます。

 あるいは「恐怖」とは、訪れうる危険に対する防御反応と言っても過言ではございません。これから何かが起こる、そう言った想像ゆえに、人々は「恐怖」を抱くのです。


 さて。私がこれから語らせていただく「恐怖」にまつわる物語において、皆様にご周知、ご安心していただきたいことは、これは「話を聞いたら感染する」ものではない、ということでございます。見聞によって自身に不幸が降りかかるタイプの怪談話が横行しておりますが、これはそう言った安易なものではないと、ここに明言しておきましょう。

 ですから皆様には、どうぞご安心して、これからの物語に耳を傾けていただければ幸いでございます。


 ■


 とある街に、Mという青年がいた。

 Mは高校を卒業し、順当に大学へ進んだ18歳である。さしたる希望や期待もなく、四年間の贅沢のためにお金を払って進学をした身であるがゆえ、生活に潤いや活力もなく、日々を淡々と浪費していた。

 彼は進学に伴い上京し、新しい家に身を落ち着けていた。狭いながらも自分一人の城である。堕落と惰性を顕著に落とし込んだその城は、ものが乱雑に置かれており、ごみは異臭を放ち、食器は山となる、体たらくを絵にしたようなものであった。


 Mにはいくらかの友人がいたが、どれも取るに足らない関係性で、休日をともに消費するような仲の人間はおらず、バイトや趣味に時間を割くこともなく、たいてい、彼は部屋でゴロゴロと寝返りを打ち続けてその日を終えていた。


 そんな生活を飽きもせず繰り返し、城で迎える初めての冬。

 仕送りであつらえた毛布に包まって興味もないテレビ番組をぼんやりと眺めている彼の耳に、——ブゥウン、——ブゥウン、とこの場所に似合わない不可思議な音が届いた。

 それはどうやら、エアコンを設置するために開けられた通気口から鳴っているようだった。簡易的なカバーで塞がれてはいたものの、どうやら夏の内に虫か何かが外側から入り込み住み着いてしまったらしく、その羽音のように思われた。


 カバーを外し隙間から殺虫剤を撒くことは可能ではあったが、Mにはそれはどうもリスクが高すぎるように思え、結局彼は100円ショップで防音素材をいくらか買い込んで、雑な施工でカバーの上から対策を講じてみたが、功を奏しなかった。


 羽音と言うのは嫌に耳につくもので、毎夜毎夜、布団をかぶって眠りに就こうとするものの、そうすればするほど、——ブゥウン、——ブゥウン、と音が大きくなってくるような気さえして、彼はしばらく、寝不足に悩まされる。


 意を決して敵の正体を定めようと思い至ったのは、実に発生からふた月も経ってからだった。もちろんそれまでも彼は大家に連絡を取り、業者を呼んで外側から薬剤を散布してもらったり、何とか穴を完全に塞いでもらえないか相談をしていたものの、これらも大した成果は伴わず、結局、夜になると例の音が聞こえてくる始末だった。

 敵の正体さえ判然とすれば、もっと具体性のある解決策を模索できるというものだ。蜂ならば蜂用の、ゴキブリならばゴキブリ用の対応をしてもらえばいい。


 Mは自身で設置した簡素な防音素材を剥がし、久方ぶりに現れたカバーと睨み合った。

 そこで彼は恐怖するのだ。


 何かが起きたわけではなく、これから起こるかもしれない想像によって。


 ——もしこのカバーを外した瞬間に中から大量の蜂が流入してきたら——

 ——もしこのカバーを外した瞬間に中から大量のゴキブリがあふれ出てきたら——

 ——あるいはもっと細かな羽蟻が——

 ——ネズミかもしれない——


 じっとりと掻いている汗を拭うことすらできないまま、ともすると視線さえ動かせなくなってしまったかのように、ジッと睨みつけ続けるしかできなかった。




 ■


 興が醒めること甚だしいと感じることでございましょう。

 ただし、決して結末を語ることを止めたわけではございません。

 これは「味付け」——とでも思っていただければ十分すぎるほどの解釈でございます。


「恐怖」を体感するには、自身による「想像」が不可欠なのでございます。人の語る言葉を、人の書く文字を追うだけでは本当の理解とは言えません。そこで抱いた恐怖は皆様の感情ではなく、用意された偽りの感情なのでございます。

 私は皆様に「恐怖」を感じていただきたいのです。どうかご容赦いただきたい。

 

 皆様は、ここに「何」があれば「恐怖」を感じるのか——自身の記憶の中にございます「恐怖」の因子を、どうぞじっくりと、思い出してください。


 それが「スパイス」となるのでございます。




 ■


 Mはすっかり仰天して、思わず尻もちをついた。大きな音が鳴って、尾てい骨にひどい痛みを感じる間もなく、は穴から勢いよく部屋中へ霧散した。

 そう、しまったのだ。


 Mは途方もない息苦しさを感じて、何とか腰を上げると窓を開けた。毒か何かだと思ったのだ。しかし実際にはそれはそう言った類のものではない。

 


 形を持たないものが音を発するはずがない、というのは、人間の行き過ぎた世界観である。この世のすべてを解したつもりになっているだけで、その実大したことを知らないのが人間なのだ。

 Mにとってもそうだった。そんなものが存在してしまえば自分の観念が崩壊する。

 だから彼はこれでもかと穴を覗き込んだ。そこに本当は何かがいるはずだと。勢いよく出てきたと思えたあれは、その生物が発した煙なのだと。

 しかしどれほどの灯りを当てたところで、管がまっすぐ伸びているのみ。そこには何も存在していなかった。


 Mは寒気を感じて窓を閉じた。

 それから大家に電話を掛けた。どうせならいっそ、幽霊だと思いたかったのだ。

 ただ、その部屋で事件が起きた記録はない。


 その日から、彼の部屋で例の音がすることはなくなった。

 嫌に鮮明な耳鳴りが、ふいに頭を刺激するだけだ。




 ■


 拍子抜けだ、と怒らないでくださいませ。

 事実とは時にそれきりの話なのでございます。必ずしも理由や正体が存在するわけではないのです。


 冒頭に申し上げました通り、私は「恐怖にまつわる話」をさせていただいたのみでございます。

 まつわるとは「絡みつく」こと。

 すなわちこれは、「恐怖」それ自体の話ではないのです。


 私が提示したのは、恐怖の「種」でございます。


 おどろおどろしい幽霊や、猟奇的な人間は現れません。それは、日常においてもそうでしょう。強烈なインパクトを持ったホラーアイコンは、創作に存在するのみなのです。

 時に茫洋とし形を持たないもののほうが、恐ろしく感じるものなのでございます。


 私の話は「聞いたら感染する」ものではございません。

「恐怖」はあくまでも皆様の中に存在し、作られる「感情」なのでございます。


 さあ。私は蓋を開けさせていただきました。

 そして皆様は各々が抱える因子を想像してくださいました。


 その穴から飛び出し、貴方の眼前に現れたのは果たして何だったでしょうか。

 貴方にとってそれは、どんな音を発して存在を誇示するのでしょうか。


 穴はどこにでも存在するということを、どうか皆様がお忘れにならないよう願っております。


 そしてどうか、私が次に語るのが、貴方の物語ではありませんように。


 ——それでは、失礼させていただきます。









 ——ブゥウン ——ブゥウン

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