赤い糸

月浦影ノ介

赤い糸



 今から三十年ほど前の話である。

 

 藤村さん(仮名)は、関東某県の県庁所在地であるM市の出身であった。高校卒業後は東京の大学に進み、友人たちとバンドを結成するなど、それなりに充実した学生生活を謳歌していた。

 

 故郷で行われる成人式に出席するため、藤村さんはその日の昼頃、実家に帰省した。成人式は翌日である。

 藤村さんの実家は建設や不動産などの事業を手掛ける、地域でも有数の資産家であった。生け垣で囲まれた広い敷地に、洋館風の二階建ての立派な屋敷が建っている。元々は士族の家柄で、藤村さんはそこの三男として生まれた。


 玄関を潜ると、専業主婦の母が出迎えてくれた。父と長兄は仕事で留守である。次兄は数年前に結婚して、同じ市内に家を建て、そちらに住んでいた。

 祖父母はすでに他界しており、現在この家に住んでいるのは両親と独身の長兄の三人だけである。

 久し振りに戻ったせいか、ただでさえ広い屋敷がひどくガランとして感じられた。荷物を置いてとりあえず居間に大の字になっていると、母に「ご先祖さまにきちんと挨拶してからになさい」と窘められた。

 生返事をして立ち上がる背中に、「わらし様にも忘れずご挨拶するんですよ」と、母の声が追い掛けて来る。その言葉に、藤村さんは背筋がスッと冷えるのを感じた。


 一階の一番奥の仏間には、明治時代からの藤村家当主の遺影が鴨居に掛けられ並んでいる。

 一番古いのが三代前で、名前を惣衛門そうえもんという。藤村家の十一代目の当主である。明治の中頃、一度は没落した藤村家を再興させた人物だ。いかにも明治人らしい、厳格そうな顔付きをした白髪の老人であった。

 次が曾祖父、続いて祖父の順番だが、それぞれの隣に二十歳前後の若者の遺影が並んでいる。皆、当主たちの夭折した息子だという。

 祖父の隣に掛けられた若者の遺影は、父の三番目の弟である。藤村さんにとっては叔父に当たる人で、二十歳のときに急病で亡くなったのだそうだ。

 遺影の中の叔父は、面影が少し藤村さんに似ていた。自分と同じたった二十歳の若さで死んだという事実が、何かとても信じられないことのように思える。


 仏壇に手を合わせ、ご先祖さまに帰宅したことを報告した。

 問題はこの隣の部屋だ。


 ──この家には座敷わらしがいる。


 襖を開けると、床の間に所狭しと玩具やお菓子が並べられている。そのほぼ中央に置かれた黒い縁取りのガラスケースの中に、約二十センチ大の人形が安置されていた。

 赤い振袖を着た髪の長い市松人形で、明治の頃から我が家に伝わるものらしい。顔立ちは現代のものに比べてややのっぺりしており、肌の質感は経年劣化を重ねたせいか微妙にくすんでいて、しかしそれが逆に妙な生々しさと存在感を人形の表情に与えていた。

 

 藤村家ではこの人形を「わらし様」と呼んで大切にしていた。

 「わらし」とは、いわゆる座敷わらしの事である。東北地方を中心に伝えられる神とも妖怪ともつかぬ存在で、それが棲み着いた家には富がもたらされるという伝説がある。

 この市松人形は、その座敷わらしの依り代なのだそうだ。明治維新以後、没落の一途を辿っていた藤村家は、この「わらし様」のお陰で家運が急激に向上し、この地域でも有数の資産家になったのだという。

 子供の頃から、このわらし様に朝晩の膳を運ぶのが藤村さんの役目であった。

 しかし藤村さんは、この部屋に入るのがあまり好きではなかった。暗くひんやりとした空気が漂うなかに、明らかに誰かのいる気配がする。小さな忍び笑いや畳を踏み締める足音を何度も耳にしたり、誰かにそっと首筋を撫でられたこともある。

 わらし様に膳を運ぶのはもう嫌だと訴えたが、他の事では鷹揚な父が頑としてそれを許さなかった。何故か分からないが、膳を運ぶのは藤村さんの仕事だといつの間にか決められていたのである。

 我が家に富や幸運をもたらす存在である以上、あまり我が儘も言えない。結局、高校を卒業して上京するまで、藤村さんはわらし様に膳を運ぶ役目を渋々ながらやり続けた。


 わらし様の前に正座して手を合わせ、帰宅したことを報告する。すると部屋の暗がりから微かな忍び笑いがふいに響いて、藤村さんは早々にその部屋を退出したのだった。



 ご先祖さまとわらし様への挨拶を済ませると、藤村さんは二階にある自分の部屋へ向かった。

 明日の成人式のために新調したスーツをクローゼットに吊し、ベッドの上に仰向けになる。しばらく休んでいるとふいに睡魔が訪れて、藤村さんはいつしか眠ってしまった。


 夢を見ていた。


 夢の中で藤村さんは八歳ぐらいの子供に戻っていた。家の庭で遊んでいると、いつの間にか、すぐ傍に同じ年頃の子供が立っている。

 赤い振袖を着た、髪の長い女の子。顔立ちはそこだけ霧が掛かったようによく見えない。

 

 ──ああ、またあの夢だ。

 

 夢の中でそう思った。いったいいつ頃から始まったのか、この夢をときどき見る。情景はいつも同じだ。自宅の庭、幼い自分、そして赤い振袖の髪の長い女の子。

 しばらく一緒に遊んだあと、女の子が藤村さんの正面に立ってこう言った。

 「あんたが良い。あんたに決めた」

 ふと気付くと、藤村さんの左手の小指に、真っ赤な糸が巻き付いていた。それは血が滴るように垂れ下がって、目の前の女の子の左手の小指に繋がっていた。

 女の子の唇が小さく動く。

 

 「──大人になったら迎えに来るよ」


 そこで目が覚めた。


 いつの間にか辺りは暗くなっていた。身体中がじっとりと嫌な汗を掻いている。

 この夢を見た後は、何故かいつも不安な気持ちになる。藤村さんは大きく息を吐いて、これはただの夢だと自分を落ち着かせようとした。



 その夜は家族が藤村さんの成人を祝ってくれた。テーブルの上に出前の寿司や母の手料理が並べられ、お嫁さんを伴って現れた次兄を含め、久し振りに家族皆で食卓を囲み、ビールで乾杯した。

 藤村さんは父親が四十歳のときに出来た子供だった。一番上の兄とは十歳以上も年が離れている。

 正直なところ、藤村さんにとって実家はあまり居心地の良い場所ではなかった。両親が厳しかったとか、兄弟仲が悪かったというのではない。むしろ家族関係は良好な方である。

 跡継ぎとして将来を期待されていた長男に比べ、三男の藤村さんの立場は気楽なものだった。わらし様の一件を除いて、父に叱責された記憶がほとんどない。躾に関してはむしろ母の方が厳しかったくらいだ。

 将来についても口やかましく干渉されなかった。望むものは何でも買って貰えたし、ずいぶん甘やかされて育ったと自分でも思う。

 年を取って出来た子だから可愛くて仕方ないのだろうと親戚などは笑ったが、しかし藤村さんには何故か妙な違和感があった。

 何不自由なく育てられたにも関わらず、上の兄二人に比べ、自分は父にどこか距離を置かれているような、見放されているような気がしてならなかったのだ。

 父の自分を見る目。顔の表情はいくらでも取り繕えるが、しかし目の色だけは隠せない。父の自分を見る目はどこか昏く、冷たく無機質なものに感じられた。表面上の鷹揚な態度は、まるで貼り付けられた仮面のようで、それが藤村さんにとって実家をどこか居心地の良くない場所にしていたのだった。



 その翌日、藤村さんは成人式に無事出席した。懐かしい同級生たちに再会し、その夕方から予定されていた同窓会に参加して旧交を温め合った。

 帰宅したのは深夜に近かった。風呂に入ってパジャマに着替え、二階の自室のベッドにさっさと潜り込む。明日の午前中には東京に戻らなければならない。酒の酔いも手伝って、藤村さんはあっという間に眠りに着いた。


 そしてまた、あの夢を見た。


 自宅の庭で一人で遊ぶ幼い自分。ふと気付くと、あの赤い振袖を着た髪の長い女の子が近くに立っている。

 しばらく一緒に遊んだ後、女の子がまたいつもと同じ言葉を口にした。

 「あんたが良い。あんたに決めた」

 藤村さんの左手の小指には、赤い糸が巻き付いている。しかしそのとき藤村さんは、自分の身体がいつの間にか大人に変化しているのに気付いた。そして、目の前にいたはずの女の子の姿がない。


 ふいに身体がずしりと重くなった。背中に何かがしがみ付いている。

 首に回る細い腕の感触。視界の片隅に、陽光を遮る艶やかな黒髪が見えた。

 「やっと大人になったね」

 耳元で囁く声がする。


 「───迎えに来たよ」


 藤村さんは悲鳴を上げて飛び起きた。

 小さな豆電球の灯る自分の部屋。慌てて首筋や背後を確認したが、特に何も異常はない。

 ホッとして全身から力が抜けた。パジャマが嫌な汗で湿っている。

 またあの夢だった。しかし今回は途中から自分の身体が大人に変化していた。そして耳元で囁く「迎えに来たよ」という言葉。これは一体どういう意味なのか。

 女の子の顔は見えないが、長い髪と赤い振袖はわらし様と一致している。あの夢に出て来る女の子は、おそらくわらし様に違いないのだろう。しかし何故、自分がそんな夢を見るのか、皆目見当が付かなかった。

 いくら考えても答えなど出るはずがない。枕元の時計を見ると午前二時を回っている。ふと喉の渇きを覚え、藤村さんは部屋を出ると一階へと向かった。

 

 階段を降りて台所へ向かう廊下の暗がりに、誰かが立っているのに気付いた。一瞬ギョッとしたが、すぐに父だと分かった。

 「どうした?」と尋ねる父に、藤村さんは「ちょっと喉が渇いて・・・」と答えた。

 すると父は例の感情のない無機質な目で藤村さんを見据え、「少し話がある。水を飲んだら仏間に来なさい」と言って廊下を奥へと歩き出した。

 

 藤村さんは台所で水を飲んで喉を潤すと、一階の一番奥にある仏間へと向かった。声を掛け、襖を開けて室内に入る。電気は何故か付いておらず、代わりに仏壇の蝋燭に火が点されていた。頼りない小さな炎がゆらゆらと揺れて、辺りを仄暗く照らしている。

 父は仏壇の前に正座して、じっと手を合わせていた。

 ふと藤村さんは、ひょっとして父は廊下で自分を待っていたのではないかと思った。自分が一階に降りて来るのを何故か知っていて、話をするために此処へ呼んだのではないか。しかし一体何のために・・・?

 藤村さんの胸中に、何とも言い知れぬ不安が広がった。

 

 父はずいぶん長いこと手を合わせていたが、やがて顔を上げるとこちらに振り向いた。

 「この家が元々は士族の血筋だということは知っているな?」

 父の問いに藤村さんは頷く。先祖についてそれほど詳しくは知らないが、江戸時代には藩の重要な地位を代々に渡って勤めていたらしい。

 「明治維新以降、多くの武士階級がそれまでの身分を失って路頭に迷った。我が藤村家も、そんな没落士族の一つに過ぎなかった。生活は困窮を極め、草木の根っこを齧るような悲惨なものだったという」

 父は鴨居に並ぶ遺影を見上げた。その視線は藤村家第十一代当主、惣衛門に向けてじっと注がれている。

 「今から約百年ほど前、明治の中頃だそうだ。惣衛門が家を数日間、留守にしたことがあった。やがて戻って来た惣衛門の腕には、赤い振袖姿の小さな市松人形が抱かれていた。それがわらし様だ」

 父は訥々と何の抑揚もなく語り続ける。

「惣衛門がどうやってわらし様を手に入れたのかは知らん。拾ったのか、譲り受けたのか、あるいは奪ったのか。・・・・ちょうどその頃、東北のある豪商の家が何者かに襲われ、一家皆殺しにされた挙げ句、家に火を放たれ全焼するという事件があった。噂ではその家は、とある人形を座敷わらしとして祀り上げていたそうだ。警察は強盗殺人として捜査したが、しかし犯人は遂に捕まらなかった。むろん、惣衛門がそれに関係していたという証拠はない。ともかく、わらし様を家に迎え入れてから藤村家は財運に恵まれるようになり、惨めな貧困生活からようやく抜け出すことが出来た」

 それは初めて聞く話であった。父が何故こんな話を始めたのか分からなかったが、藤村さんはそれをただ黙って聞いていた。蝋燭の炎が揺れる虚ろな陰影の中で、惣衛門の遺影がふと嗤っているように見えた。

 「座敷わらしの伝説は真実だった。だがな、何もせずただ居るだけで富をもたらしてくれる存在、そんな都合の良い打ち出の小槌みたいなものが、本当にあると思うか? 物事には代償が付き物だ。何かを手に入れるためには、代わりに何かを差し出さなくてはならない」

 父はゆっくりと、藤村さんに顔を向けた。人形のように冷たく虚ろな目が、そこにあった。

 「ある夜、惣衛門の枕元にわらし様が立った。この家に財運をもたらす見返りとして、惣衛門の五人の男児の中から、長男以外の一人が成人したとき、自分に差し出せと要求したのだ。惣衛門の子だけではない。当主が代替わりするたび、その子のうちの男児を一人、成人を迎えると同時にわらし様に捧げなければならない。それが叶わない場合は藤村家は滅亡する。怖ろしい話だが、しかし子供一人と引き換えに一族の繁栄が約束されるなら、そう悪い取引でもあるまい。惣衛門はその条件を受け入れ、後の当主もこれを引き継ぐことになった。これが代々、当主だけが知る藤村家の秘密だ」

 藤村さんは最初、父の話が上手く飲み込めなかった。あまりに唐突で、非現実的で、俄には信じられなかったのだ。しかし、鴨居に並ぶ歴代当主たちを見上げ、その隣に並ぶ若者たちの遺影が目に入ったとき、初めてそれが意味するものに気付いて、藤村さんは身体が芯から震え出すのを感じた。

 彼らは皆、わらし様に捧げられた生け贄なのだと、まるで現実感のない痺れるような頭で思った。


 「・・・・すまない」

 

 父がそう呟いた瞬間、藤村さんの背後に誰かが立っている気配がした。恐る恐る振り返ると、蝋燭の炎にぼんやりと照らされた暗闇に、赤い振袖が静かに浮かび上がった。

 藤村さんは絶叫した。そして脱兎の如く仏間から逃げ出したのだった。

 廊下の壁にぶつかって転倒しながら、藤村さんは子供の頃の記憶を唐突に思い出した。

 繰り返し見るあの夢。あれは単なる夢ではなく、確かに起こった過去の再現であり、未来への暗示なのだ。幼い頃、この家の庭で一人で遊んでいたとき、自分は赤い振袖を着た髪の長い女の子と出会っている。わらし様へ朝晩の膳を運ぶ役目が始まったのが、その翌朝からのことだ。

 

 「あんたが良い。あんたに決めた」

 

 脳裏にあの声が蘇る。きっとあのとき、自分はわらし様に選ばれてしまったのだ。

 そして何故、父が上の兄二人に比べ自分にだけ干渉せず、異様なほど鷹揚だったのか。それでいて何故、冷たく突き放されているように感じたのか。何故、わらし様へ膳を運ぶ役目を与えられたのか、その理由をはっきりと理解した。

 父にとって、自分には将来など必要なく、また肉親としての情も断ち切らねばならなかった。何故なら自分はわらし様への生け贄であり、そのためにこそずっと大切に育てられて来たのだから。

 

 藤村さんは廊下を走り、玄関ドアに飛び付いた。鍵を外しドアノブを捻ったが、何故かドアが開かない。目に見えない大きな力が働いて、ドアが開かないよう押さえ付けられているかのようだった。

 そうこうするうちに廊下の暗がりの奥から、ヒタヒタと小さな足音が響いて来る。藤村さんは玄関から外に逃げるのを諦め、さらに廊下の先へと向かった。

 突き当たりは台所になっている。そこに飛び込み、勝手口のドアを開けようとしたが、しかし此処もまるでビクともしなかった。


 ふと、台所の戸口に小さな赤い影が立った。

 気付くと藤村さんの左手の小指には、いつの間にか赤い糸が巻き付いていた。それは血が滴るように垂れ下がって、戸口に立つ赤い人影へと続いている。

 喉の奥から声にならない叫びを上げ、藤村さんは慌ててその糸を外そうとした。しかしどういう訳か、赤い糸は指先を通り抜け、触ることすら出来ないのだった。

 

 ───迎えに来たよ。


 囁くような声が暗闇の中に響く。

 藤村さんはどうにかして赤い糸を外そうと、死に物狂いで左手の小指を掻きむしった。

 わらし様に捕まったら最後、自分は間違いなく死ぬ。それだけははっきりと分かった。いや、本当に死ぬだけで済むだろうか。もしかしたら自分の魂は、永遠にあの化け物の手に囚われてしまうかも知れないではないか。そう考えると怖ろしさに気が狂いそうだった。

 

 ふと流し台の上の、まな板の横の包丁立てが目に入った。咄嗟に飛び付いて、そこに立てられていた出刃包丁の柄を掴む。

 

 背後にヒタヒタと足音が迫った。小さな赤い影が視界の隅に映る。

 ふいにズシリと背中に何かがのし掛かった。首に巻き付く細い腕の感触。簾のような長い黒髪が視界の半分を覆った。

 

 藤村さんはそのとき、もはや赤い糸を切ろうとは考えていなかった。包丁の刃を、赤い糸の巻き付いた左手の小指の付け根に当てる。躊躇っている余裕はない。死ぬよりは遥かにマシだ、と恐怖に麻痺した頭で思った。

 「やめろ!」と叫んだのは、いつの間にか台所の戸口に立った父の声だったか。それが合図であったかのように、藤村さんは包丁を持つ手に一気に体重を載せた。



 気が付くと、病院のベッドの上にいた。

 後で聞いたところによると、物音に気付いた母が起きて来て、台所で血まみれの姿で倒れている藤村さんと、その横で呆然と立ち尽くす父を見付けたのだそうだ。

 すぐさま救急車が呼ばれ、藤村さんは地元の総合病院に運ばれた。

 いったい何故、自分で自分の小指を切断したのか。事情聴取に来た警官に執拗に尋ねられたが、藤村さんはそれに上手く答えることが出来なかった。あの夜の体験を話しても信じて貰えるとは思えなかったし、何よりも藤村さん自身があの出来事をとても現実とは信じたくなかったからだ。

 ただ不思議なのは、切断した小指がどこにも見付からないことだった。小指さえあれば縫合手術が出来たはずだが、いくら台所を探しても影も形もないのだという。

 きっとわらし様が持ち去ったに違いない。あの赤い糸はおそらく契約の印であり、それを小指ごと断ち切ったから命を取られずに済んだのだと、藤村さんはそう思った。



 実はこの話をしてくれた藤村さんは、筆者が常連客になっている喫茶店のマスターである。白髪混じりの髪を後ろに撫で付け、白いシャツにネクタイの似合う、痩身で背の高いお洒落な人だ。

 「その後、父上やご家族はどうされたのですか?」と筆者が尋ねると、藤村さんはこう答えてくれた。

 「それから五日ほど経った夜、火災により我が家は全焼し、両親はその犠牲になりました。火災の原因は不明です。長兄はたまたま外出していたので無事でしたが」

 長兄は父に代わって事業を引き継いだが、しかし徐々に経営は傾き、やがて会社は人手に渡ってしまった。その後も藤村家は没落の一途を辿り、家も土地もその他の資産も全て手離すことになった。長兄は鬱病を患い、やがて首を吊って自殺した。次兄も実家のゴタゴタが影響して離婚し、現在では消息不明であるという。

 あの赤い振袖の髪の長い市松人形はどこへ行ったのか分からない。火災で燃えてしまったか、あるいは・・・。


 藤村さんは大学を中退し、それから様々な職業を転々とした末、現在ではとある雑居ビルの二階で小さな喫茶店を経営している。結婚はしておらず、気ままな一人暮らしだ。

 「何人かの女性と交際し、結婚も考えたのですが、どういう訳かいざ婚約となると次々とトラブルが頻発して、結局は破談になってしまうのですよ。そんなことが三回も続き、これはもうわらし様の事が祟っているのだろうと思うようになりました」

 藤村さんは自分の左手をじっと見つめた。失った小指の付け根は、赤黒い肉に覆われて盛り上がっている。

 「一つ疑問があるのですが、お父上は何故、マスターにわらし様に関する秘密を話したのでしょうね。それによって結果的に、あなたをわらし様の生け贄にする目論見は失敗してしまった」

 筆者の問いに、藤村さんは静かに首を横に振った。

 「それは私にも分かりません。ただもしかしたら、最後の親心のようなものがまだ残っていて、我が子を死なせる前にせめて理由だけでも伝えて置きたかったのかも知れません」

 それは随分と身勝手な理由に思えたが、もちろん本当のことなど知る由もない。

 父親を恨んでいますか?という筆者の不躾な問いに、藤村さんは恨んでいませんと短く答えた。

 「酷い話には違いないんですが、何故か父をあまり恨む気にはなれないんですよ。殺され掛けたというのに、自分でも不思議なんですが」

 そしてどこか遠くを見るような目で、藤村さんは宙を仰いだ。

 「あのとき小指を切断しなかったら、私は間違いなく死んでいたと思います。しかしその代わり、両親も兄も死ぬことはなく、藤村家も安泰のままだったでしょう。それを思うと、自分一人だけ助かって、本当にこれで良かったのかと、ときどきふと思ってしまうのです」

 藤村さんはそう話すと、少し寂しそうに微笑んだのだった。


                 (了)

 

 

 


 

 

 

 

 

 


 


 

 

 



 


 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤い糸 月浦影ノ介 @tukinokage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ