誘惑
男は一度そこで締めくくり、手記を置いた。ホゥ、とため息をつき、天井を仰ぎ見る。そしてそこで気が付いたのだ。初めて見る顔だが、それでもわかる。かつて自身の命を拾い、新たな人生を与えてくれたお方が、そこにはいた。
「あぁ、あぁ、待たせてしまったね。いやいや、本当はもっとすぐに駆けつけてあげたい気持ちでいっぱいだったんだよ。でもでもでも、君がそんな興味の惹き方をするのが悪いんだ。もっと熟せば美味しくなるなんて、思わせる方が悪いんだよ。だからこれは君の自業自得だ。私は悪くない。うん?そうだよ、私はいつでも君に会いに来れたんだ。でももう、そんな事どうだっていいだろう?今日はね、君にご褒美を渡しに来たんだ。ああ、君はどんな顔をしてくれるかな。そうだ、リクエストを聞いてあげよう。何が欲しいか言ってご覧?まあまあまあまあ待ちたまえよ少年、言わずともわかるよ、私には。もう今、君は物足りなくなっているんだろう?色付いた世界を、もっと鮮やかに。そう願っているんだろう?人間なんていつもそんなものだ。少し水準を上げれば更に上が欲しくなるものさ。君もそうなんだろう?だから、そんな君に、最高のプレゼントを持って来たんだ。まあプレゼントと言うよりは、選択肢を君にあげるだけなんだけれどね」
久しぶりに会ったそれは、人間の形をそのまま取っていた。彼にとってその姿は、テレビや、そこらの妖怪ですら見ないような美貌だった。中性的なその見た目は、一瞬で男の事を魅了した。
「まあ選択肢とは言え、君からするとほとんど一択だろうけどね。
まず1つは、今まで通りの、無色透明の人生に舞い戻る。当然私たちの事はまた認識できないようになるし、君も元の日常に戻ることができる。ついでだ、他の人の記憶も元に戻して行ってあげるつもりだ。
2つ目、今のまま、君が人生を送り、その命を全うすることだ。私たちに囲まれ、日常とは呼べないような日常を送っていく。不安定で、寿命全てを使い切れるかどうかすらわからない。それでもよければこれを選ぶと良いよ。
そして最後の選択肢、人間をやめて私についてくること。これが権利のプレゼントだ。この選択肢を選ぶ権利を、君にあげよう。私についてくるとなれば、君は今の生活も、環境も、その体さえ捨ててしまうことになるだろう。人間もやめ、いつ死ねるか、いつまで生きられるかもわからない。私の興味が失せてしまえば、私はあなたを捨ててしまうかもしれない。そうなるとあなたは人間をやめただけのただの物になってしまうだろう。それでもよければ、この選択肢を選ぶと良い。さあ、どうする?」
それは以前と同じように、男に向けて手を伸ばした。以前と違うのは、その姿が、全貌が見えている事ぐらいだろうか。それが男に合わせて出てきたのか、それとも男がもう既に、闇の中へと来ていたのか、もう今の時点ではどうだって良い事であろう。
男は迷うそぶりを一切見せる様子なく、3つ目の選択肢を選んだ。男はそれの手を取る事なく、跪いたのだった。
「そうかいそうかいそうかい、君ならそう応えてくれると思っていたよ。いやいや信じていたとも、だから言っただろう。実質一択だと。じゃあね、それじゃあね、早速だけど一緒に来てもらおうかな。ああ、もうこのお人形はいらないよね。私も、君もさ。眷属になりたがっててもいきなり叫び出すやつもいるんだよ。結構失礼だとは思わないかい?君はそんなことならないように、気をつけておいてね」
それの姿が変化した。中性的な美貌は見る影もなく、文字通り影に飲まれて消えていった。さて、そのどこからともなく現れた影は、筆舌に尽くしがたいほどのおぞましさであった。不気味とか、恐怖とか、そういったものではない。そんな言葉で済ませられるものではない。全てを否定するような、冒涜的な姿であった。それを目の当たりにした男は、叫び声すらあげずにそれを見ていた。既に崩壊していた彼の精神には、それが素晴らしく、美しく見えていたのだろうか。恍惚な表情でそれを眺める男は、目に涙を浮かべていた。
「さあ、行こうか。君ももう、人間の抜け殻はいらないだろう。さあ、こっちにおいで」
男はフラフラと立ち上がり、自らの意思で影に飲まれていった。数秒後、影から出て来た者は、男の原型すら留めていない、何かであった。意思を持ったその様子は伺えたが、先ほどまでの高揚、恍惚さは見られず、一生付き従うと、そのような従順さだけははっきりと見えたのだった。
「あーあ、やっぱりつまんなくなっちゃったなぁ。この子も失敗かぁ」
男の成れの果ては、ピタリと動きを止めた。そこにあるのは動揺か、絶望か。人間の姿を失った彼には、もう既に感情の表現すらまともにできていなかった。
「そうそうそうそう、それだよ。それを、人間の姿で見られたら1番だったんだけどなぁ。まあ、1番最初に君と約束してしまっているからね。私に誓って、君を見捨てることはしないよ。約束通り、眷属として私について来てもらおうかな。何か用事できるまでそこで待機しててね。じゃあ、またね」
それは男の成れの果てを一瞥することもなく消えていった。男の成れの果てだけが取り残されたその空間には、呻き声のような、叫び声のような、不気味な声が、いつまでも鳴り響くのであった。
僕の知らない何か あるくむしさん @walkingbug
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