第39話

東海道新幹線の名古屋駅から近鉄に乗り換え、宇治山田行きの特急に乗った。八並朝美は指定席に座ると、目を閉じた。眠る気はなかったが、いつの間にか浅い眠りについてしまったようだった。そして、彼女が目を開けたのは、電車が県庁のある津駅を出た時だった。

名古屋を出た時にはまだ明るさが空に残っていた。午後六時を回っていて、窓の風景はすっかり変わり、暗くなっていた。闇の中にいくつもの明かりが後ろに流れて行った。明かりは家々の明かりだった。小さな点のようなものあれば、二三個固まっているのもあった。

(ここは・・・何処かしら?)

見覚えのある明かりだった。

(ここは・・・津・・・?)

そうだ、津だ。私、よく覚えている。朝美は心地よい空気を瞬間感じた。だが、その空気はすぐに消えた。

「あそこは、もうすぐだ」

彼女は言葉に出した。嬉しいという感情はない今も・・・四年前も。私にはやはりあそこしかない、という思いだった。

朝美はそんな気持ちまま、また目をつぶった。なぜだか分からないが、最後に会った佐野圭子のいらついた表情が浮かんで来た。

「もう終わった」

と言ってしまった。でも、

(本当にもう終わったのかしら?)

もう会うことはない。それだけは、はっきりしていた。

松阪駅に着き、電車を降りた。はっきりと覚えのある感触を全身に足裏から伝わって来た。その途端、彼女の心は騒ぎ出した。西口の改札を出ると、彼女には懐かしい光景が飛び込んで来た。ここには、新宿のざわめかしい光の乱舞はない。駅舎の時計は、もうすぐ七時半になろうとしている。それなのにいくつかの店はシャッターが下りていた。駅前の街頭だけはまだ明るかったが、それさえも三月下旬の夜の暗闇に吸い込まれていた。タクシーを待っている客は一人もいなかった。

朝美は客待ちをしているタクシーに乗ろうと歩き出したが、すぐに足を止めた。駅の前がロータリーになっていて、その先十メートルくらいの所に信号がある。その信号に向かって女が歩いて行くのに、朝美は気付いた。

朝美はその女に興味を持った。街頭の明かりも夜の暗さに消されているからはっきりとは断定出来ないが、歩き方から四十歳は超えている。まだ冬の寒さはかなり残っているので、襟に毛皮が付いているコートを着ていた。

(あの女の人は信号を左に曲がる)

朝美は女の考えていることを読み取った。

(きっと…)

女の家は左に七十メートルくらい行った小路を入って二件目左の家。朝美には女の家の全景が見えた。彼女はふぅっと息を吐き、笑みを作った。

朝美は

「ふうっ!」

ともう一度息を突き、考えた。いつ頃からこのような能力を持つようになったのか。

(いつ・・・?)

彼女の頭の中が真っ暗になり、体がふらついた。彼女は辛うじて倒れずにいた。彼女の心にその答えは浮かんで来なかった。そして、彼女はいつ頃からかこの能力に自信を持つようになっていた。この能力の全てを、朝美はあの家族に集中させた。

(もう使うことはないのか?)

と朝美は思う。今なぜ見知らぬ女の人に自分の能力を試したくなったのか、彼女には分からない。朝美の目は女の人の影を追った。やはり自分の能力が見抜いたとおりの行動をするだろうと予測しながら・・・。

しかし、その女は信号を左に曲らずに、真っ直ぐに歩いて行ったのである。

朝美は立っていることが出来なくて一気に全身の力が抜け、しゃがみ込んでしまった。

(何が起こったの?これまで・・・今まで人の考えを読み取ることが出来なのに。なぜ、全てが勘違いだったの?)

彼女は真っすぐに言った女が気になり、信号の所まで走った。そうしないではいられなかったのだ。自分にあると思っていた不思議な能力が消えた・・・そういう不安である。歩行者信号は青だった。

朝美は渡ろうとした。その時、一台の車がこっちに向かって来るのに気付いた。車道の信号機は赤だ。でも、向かって来る車のスピードはとても止まろうとする気配は感じられなかった。

「いけない」

朝美は急いで横断歩道を渡り切った。

キキッー

その車はほとんどブレーキを踏まずに曲がって行った。

その瞬間、彼女の目は運転手を捉えた。

(ウサギ・・・?何なの?そんな馬鹿な。仮面なの?)

渡り切った朝美の心臓は波打っていた。彼女が車に気付かなかったら、逃げ切れなかったかもしれない。その途端、

「何なの?何をする気なの?」

彼女は声を吐き捨て、車の姿を追った。彼女の目は鮮明に車の姿を捉えた。その後部座席から顔を出し、小さな・・・そう小さな女の子が見えた。

「あれは・・・悦ちゃんなの?」

(どうして・・・。

確かに・・・悦ちゃんだった。会わなくなって、四年経っていたけど・・・朝美はそう見えたのだった。だが、はっきりとした確信はなかった。この四年、悦ちゃんには会っていなかったし、東京に行く前に会ったけど、その時はまだ一歳になっていなかった。彼女はもう一度、

(どうして・・・私の見間違い?)

それに・・・

朝美にはもう一つ気になる影を見た・・・ような気がしたのである。

「あの後ろ姿は・・・あいつ・・・もう死んだと聞いているんだけど」

車の後部座席から顔を出して、こっちを見ていた悦ちゃんらしい女の子の前で、運転する黒い影の男・・・朝美には、あいつに見えたのである。でも、なぜウサギの面を・・・。

ぶるっ、ぶるふるっ・・・

彼女の細い体が激しく震えた。

「だめ・・・早く、早く・・・」。

朝美は、あそこへ早く帰ろうと自分に言い聞かせた。彼女は走って、タクシー乗り場に戻り、タクシーに飛び乗った。

「大台町まで」と、彼女は運転手に行先を告げた。

朝美は座席に深く腰を下ろし、窓を少し開けた。彼女の神経は乱れていた。

(確かに・・・悦ちゃんだった。それに・・・)

後は言葉にならず、まだ震えが止まらない。まだ肌寒いが気持ちいい風が朝美の顔を撫でた。

(あっ、この匂い)

と彼女は声を上げた。はっきりと覚えのある匂いだった。

朝美はもう一度、今度は大きく息を吸い込んだ。確かに、あの時東京で感じた匂いだった。まだそんなに強くない。朝美はもう少し窓を開けた。

(みんな、気のせいだったの?)

「そんなことはない」

彼女はぶつぶつ呟いた。

窓を開けても、あの匂いは強くならなかった。国道四十二号線は信号の少ない道路だった。もうすぐ、あそこに着く。彼女の心は、今は不思議なくらい落ち着き払っていた。

松阪市のはずれの射和町の先に架かる橋が両郡橋である。朝美を乗せたタクシーはその両群橋に掛かった。

彼女は強い磁石に引かれるように川上の方を見入った。暗くて、何があるのか良く分からなかった。櫛田川の水面は黒い墨が流れているように見えた。しかし、それらの黒い影の中に見覚えのある形があった。健次も春美も、そして朝美も通った三重県立相可高校である。本館の屋上の部分が見えていた。

漠然と一気にいろいろなものが、朝美の頭の皮に襲い掛かって来た。それを整理出来るわけがない。もう二度とそこへ、その時間へ帰ることはない。しかし、それは依然として、そこにあるのである。

朝美の目に入る明かりはかなり少なくなっていた。国道沿いの家も点在するだけで、その地区の在所はみんな奥まった所にあった。相可を過ぎ、国道は右に滑らかに曲がる。そして、その先の坂を上り、今度は降りながら右に曲がったら、もうすぐ栃原町である。ここまで来ると、あの匂いはかなり強くなっていた。

朝美の全身は快い(?)匂いに包まれていた。彼女は胸を押さえた。

父修に、卒業したら帰って来い、それが東京へ一人でやる条件だ、と言われて、一人で東京へ行き、約束通り帰って来た。この約束はいつでも破ることが出来た。東京でそのまま就職をすれば良かった。だが、一度も就職相談に行ったこともなければ、会社訪問もしなかった。

「きゃ!」

朝美は叫び声を上げ、目を手で覆った。まただ。また、黒くて大きい何かが現れた。

(何なの?)

朝美は首をひねらない。彼女の小さい・・・多分五六歳のころから、その黒くて大きい何かが彼女の前に現れ、怯えさせているもの。自分がなぜ一人で東京へ行きたがっていたのか考えた。この黒い奴から逃げたかったのか?しかし、こいつは東京でも彼女を怯えさせた。

「どうしました?」

運転手がスピードを緩めた。朝美は、すいません、何でもありませんと言って謝った。

朝美は両手で髪を掻き分けた。彼女の手は震えていた。匂いが強くなり、彼女のぼやけた記憶が少し鮮明に成り掛けていた。

(これは、誰?)

朝美はもう一度髪を掻き分けた。今度は強く・・・もう彼女の記憶から消えようとしている映像が動こうとしていた。

「旅行の帰りですか?」

運転手が話し掛けて来た。バックミラーに映る運転手の目と合った。四十過ぎの人に、彼女は見えた。誰かに似ているような気がしたが、良く思い出せなかった。

「えっ。いえ、違います。東京の大学を卒業したから、こっちに帰って来たんです」

運転手は驚いたようで、

「よくこっちに帰って来ましたね。向こうで就職しなかったんですか?」

と言って、振り返り客を見た。

「卒業したら帰るのは、父との約束でしたから」

朝美はすっかり暗くなった車の外の景色に目をこらし、ほっとするなにかを見つけたかった。自分の記憶とこの四年で何が変わったか確かめていた。同じだった。ここは・・・何も変わっていなかった。 

多分、これから行こうとしている私の家も、この四年何も変わっていないような気がした。

お父さんは退院したといっていたけど、近くを散歩出来るようになったのかな?事故で働けなくなったから、もう金は振り込まれていないと思っていた。それでも良かった。残り、卒業までもう少しだった。バイトをしてでも卒業するつもりだった。

金が必要になり、郵便局へ行くと、通帳に入金の金額が記入されていた。由紀子から電話があった時、朝美から聞くまでもなく、

「それは、もしものことがあった時残しておいたものなの。お父さん、送ってやれと言っていたのよ」

と説明してきた。その後、いつものようにお願いだから、一度は帰っておいでよといつものように言ってきた。お父さん、喜ぶよ。少しずつだけど歩けるようになっているんだよともいった。

もうすぐそっちに帰るのよ、とだけ言った。

「その信号を左に曲がって下さい」

「はい」

朝美の乗ったタクシーは四十二号線から東に逸れた。

「そのままずっと真っ直ぐ行って下さい」

見覚えのある家の明かりばかりだった。街頭なんてない道をタクシーはくねるように走って行く。茶畑が右に左に並んでいる。誰の茶畑なのか、茶の列の並びだけは、朝美は覚えていた。明日から、またここでの生活が始まる。ここはもう嫌だという抵抗感は少しもなかった。

家並みが切れた。もともとそれほど多くない家の数である。五六軒の固まりがいくつかあり、次までの家まで距離が空いた。タクシーは緩い坂道を降りていった。周りは真っ暗だった。

「その橋の手前で止めて下さい」

寄合橋を渡ると、道は上り坂になっている。その上の方に小さな明かりがいくつか見えた。

「本当に、ここでいいんですか?」

運転手は周りの暗さに気を使っていた。暗いというより、ほぼ暗闇だった。普通、若い女が一人で歩いて行くような所ではない。

「いいんです。お釣りはいりません」

朝美は五千円札を助手席に置き、タクシーから降りると走った。大きなバックを持っているため、走りにくかった。タクシーを降りる前から、朝美の目は三つ四つある明かりの中で一つの青味を帯びた明かりに集中していた。

私の家の明かりだ。四年前と全く変わっていない。朝美は走り始めた。その内、走っているという感覚がだんだん無くなってきた。確かに足は地に着いているのだが、多分雲の上を走ったらこんなんだろうと思った。

暗闇の中に、馴染みのある家の形が作られてきた。その途端、目が濡れ始めたのに気付いた。朝美は抵抗しようとはしなかった。不快さはなかった。なぜか気持ち良かった。

(そこには、私の家なんだ。みんながいる)

あの明かりの中に、由紀子がいる。修がいる。

「お父さん、約束通り返って来たわよ」

朝美は声に出した。


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わたしは・・・だあれ? 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog

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