第38話

残りの一年は淡々と過ぎて行った。

卒業式の前々日、八並朝美は圭子と会うことになった。彼女の気持ちとしてはもっと早くけりをつける気でいた。

ずるずるとその日過ぎて行った。やがて、年は明け、卒業まであと僅かになってしまった。そんな時、母由紀子から連絡か来たのである。父修が事故に合ったと聞いて以来、怪我をした父の痛々しい姿がいつも彼女の脳にこびりついて離れなかった。圭子を呼び出し一幸の家族を崩壊させた所で、何の解決にもならなかったのだが。

朝美は必ず圭子から呼び出しが来る、という自信があった。その日が卒業式の先か後か分からなかったのだが、それまでは大台町に帰る気はなかった。彼女に焦りはなかったのだが、時間はあっという間に過ぎて行った。

「分かりました。今からですね」

「お待ちしています」

圭子の方から電話を切った。わざわざ新宿まで出て来るようだ。時計を見た。十時を過ぎていた。圭子の姿を認めた時、朝美は隠しきれない嬉しさを感じた。

《来た、やっとこの日が来た》

朝美は声を出して笑った。

《ガスト》というファミリーレストランを指定してきた。四年前のあの日、一幸の家族四人が昼食を取ったレストランである。彼らと少し離れたテーブルに朝美と京子が座った。

朝美から圭子が良く見えた。圭子からも見えたかもしれない。しかし、朝美には目を合わした記憶はない。しかし、わざわざあのレストランを指定して来たということは、朝美の存在に気付いていたのかもしれない。

その日は朝から雨が降っていた。一幸と初めて関係を持ったのは雨の日だった。由紀子の傘に入って、一幸の前に現れた時も、雨が降っていた。

レストランに入ると、すぐに由紀子を見つけた。おそらく・・・あのテーブルに座っているだろうと予測を立てていた。が、朝美がレストランに入る前から、圭子は彼女の姿を捉えていた。

朝美は圭子を見つけると笑みを作った。しかし、圭子は冷えた目で朝美を迎えた。

「今日は」

という朝美に、圭子は軽く会釈をした。怒り、憎しみという感情を、朝美は圭子から感じ取った。朝美が土浦の家に遊びに行った時の優しさは全くなかった。

朝美は笑った。自分ではそう感じた。

「わざわざ来て頂いて、どうも。理由はもう分かっていると思いますけど」

圭子はおしぼりをつかみ、手を拭いた。

「失礼します」

といって、圭子と向かい合って座った。

ガストの中はそれほど混んでいなかった。昼食にはまだ少し時間がある。出来るだけ他人に聞かれたくない圭子は、人の少ない時間帯を選んで朝美を呼び出したようだった。彼女はずっと朝美から目を逸らしていない。

「二か月前?そうでしたね。夫に電話を掛けて来たの?」

圭子は朝美をやはり睨みつづけ、微笑んだ。

朝美は何も答えなかった。

「あなたが私の前に現れた時には、もうすっかり電話を掛けて来た人の声だなんてわすれてしまっていた。でも、あなたの故郷の訛りがあなたの正体を教えてくれました」

「私の故郷・・・?」

「えぇ、あなたの故郷。私は言語学教授ではありませんから、あなたが何処の生まれか知りません。でも、あなたの話し方、言葉の強弱、抑揚は電話を掛けて来た女の人とよく似ているのに気づいたんです」

圭子は朝美を凝視し、自分よりひと回り以上若い女の心を読み取ろうとしていた。だが、若いおんなの表情に大きな変化はなかった。ただ、故郷といった時、若い女の目に灰色の雲の塊りが走ったのを圭子は見逃さなかった。

「あなたが何をしたいのか良く分かりませんが、あなたが家に来るの、どうも変だとは感じていたんですよ。あんなにたびたび来るって、可笑しいですよね。そうそうここでしたね」

こういうと、圭子はレストランの中を、背を伸ばし見回した。そして、続けてしゃべり続けた。

「何処かで見たことがある人だなって思っていました。あなたともう一人は、あなたの友達?どうでもいいことなんですけどね。あなた達は、そこ。私たちは、ここ・・・ここでしたね」

圭子は指さし、朝美に同意を求めた。

朝美は頷いた。朝美は圭子から目を逸らさなかった。目を逸らす理由は何もなかった。

圭子は二三秒黙り、薄く笑みを作った。

「いよいよ本題に入りましょうか」

バックから一通の封筒とDVDを取り出し、テーブルの上に置いた。彼女はその封筒に手を添え、朝美の方に滑らした。

「もっと早くあなたに会おうかと思ったんですけどね。ずっと考えていたんです。どうするのかってね。手紙だけなら信じなかったかも知りませんが、あなたは・・・すごく残酷なことをした・・・」

圭子は自分の苛立ちを弱めるような適当な言葉が見つからないもどかしさがあった。彼女は目の前の女を睨み付けるしかなかった。そして、大きく息を吸った。

圭子は封筒から一枚の写真を取り出した。それをテーブルの上に置いた。

「こんなDVD・・・、必要だったんですか?それに、私、このDVD見る必要がありませんから、お返しします。あなた、何が望みですか?」

「ご覧になりました?」

「ええ、初めの五秒だけ。すぐにスイッチを切りました」

三回目か四回目に会った時、朝美が自動シャッターを使って撮ったDVDだった。初め、一幸は反対したが、朝美が面白いからといって撮った写真DVDだった。カメラが気になって気分が乗らなかった一幸だったが、いつの間にかDVDを撮られていることなどをわすれ、朝美の体を求め始めた。

「どうでした?」

圭子は肩を震わし、

「お返しします」

と言い、口を強く噛み締めた。朝美にはそう見えた。

圭子の目は湖に張った氷のように靄っていた。その靄の奥は怒りで興奮しているに違いない。もし東京の新宿のような人の多い場所で会っていなかったなら、殺されていたかもしれない、と朝美の脳裏を過った。圭子がここを選んだのは、私は最初からあなたのことを知っていましたという意思表示だったのかもしれない。朝美は圭子の気持ちをそう読んでいた。

「ふ、ふっ」

朝美は人を見下すような不敵な笑いした。

圭子は驚いた目付きをした。少し肉のついて来た体が震えた。

(この子は・・・何なの!)

と言おうとした。だが、さらに、朝美の動きにもっと驚かされることになる。

朝美はそのDVDを突き返した。

「どういうつもり?」

圭子は立ち上がろうとした。が、かろうじて座ったままの姿勢を保った。

「どういうつもりもありません。こういうつもりです。私は明後日故郷へ帰ります。これは、私からのプレゼントです」」

「プログラム・・・こんなもの、要りません」

「私を馬鹿にしないで下さい」

朝美は立ち上がった。

「まだ話は終わっていません」

圭子も立ち上がった。こんな小娘にこの場を仕切られているのに我慢ならなかった。

「何なの、あなたは?」

圭子はやっとこの言葉を発した。

「あなたの望みは・・・何なの?」

「何も・・・ただ・・・いや、何でもありません」

「ただ・・・」

圭子はこの子の言葉を舞った。

しかし、朝美は圭子を無視した。

「終わりました。もう終わったんです」

朝美は軽く頭を下げ、急いで《ガスト》から出た。

圭子は若い女の後を追うことが出来なかった。体中の力が抜け、その場に立っていられなくなり、よろけるように椅子に座り込んだ。

(終わった?何が終わったの?まだ終わってなんかいるものですか)

圭子の体の内には怒りのような憎しみのようなもやもやとした感情はまだあった。少し前はあの女に対してであると圭子は自分の心に言い聞かせた。ところが、今はそうではないかも知れないと感じている。

何のために朝美を呼び出したのか、圭子には分からなかった。

(会って)

どうしようと考えていたんだろう?昨夜、冷静に考えたつもりだった。感情的に処理をしてはいけない。そう自分に言い聞かせた。しかし、

(・・・)

なぜ、もっと怒りをあの子にぶつけないのか?

(何を恐れた?)

今、圭子の耳には何も聞こえなかった。それまではレストランに流れていた心地良い音楽も、二つ先のテーブルで話をしている若い男女の声も聞こえ、

(あの人と、あのような話をし互いに目を見、笑っていた)

こともあったのに、と彼女は口元を緩めようとしていた。しかし、彼女はすぐに正気にもどった。

圭子は朝美を到底許す気はなかった。だが、これ以上追い掛けて行く気もなかつた。自分の心の傷口を広げる気もなかったのである。

(もうあの子には会わない)

圭子は朝美を呼び戻す気はない。たとえもう一度呼び出しても、彼女はおいそれと出て来ないような気がした。

(あの子は、私の考えていることが分かっている)

圭子には彼女に自分の考えていることが盗み見られている嫌な感じを何度もあじわった。《私の気のせい?》

と思ったりもした。でも、私の心は見透かされているという気持ちは消えなかった。今もそう。結局、みんな彼女の思うように踊らされた感じだった。

圭子は夫一幸のことを考えた。その後、洋一、良子の姿が浮かんできた。みんな、あの子の思い通りに操られた。

(そんな感じがした)

圭子は両手でつかんでいたものを口にした。暖かいコーヒーのはずだった。彼女は一口飲んだ。苦みが口に充満し、冷え切ってしまったコーヒーが頭の中に突き刺さった。

(あの子たちに父親は必要だろうか?私という母は必要だろうか?)

圭子は否定も肯定もしなかった。次に、

(私に一幸という夫は必要だろうか?)

圭子は頭を右に左に強く振った。さっき頭の中に冷えたアイスコーヒーが一気に突き刺さった。

今、いやこの先、

(私はあの人を必要としない)

朝美という女の子にはもう会うことはない。しかし、一幸とは嫌が上でも一度どころか何度も顔を会わさなければならない。

圭子は、体の中にまた《あの感情》が湧いて来るのが分かった。

私の怒りは、もともと一幸にぶつけるものだったんだろう。あの人とはこれまで何度も感情の衝突があった。顔を合わすのが嫌で何回が実家に帰った。良子は覚えているだろうが、洋一の心には微かに黒い影が残っているかもしれない。

結局、自分の方から戻った。考えれば、左右を分厚いレンガの壁で囲まれた道を歩いて来たような気がした。その壁をいつでも自分の意志でぶち破り、別の道を歩いていくことが出来るのに、何もしない。私もあの人もそう。この先、私がこれまでのようにしていれば、私の家族に変化はないだろう。それが私の望み・・・あの人はそれを望むだろう。

(もう、終わり・・・)

あの子は、終わりましたと言った。あの子の言う通りだ。ちょうどいい時かもしれない。

一度か二度、

「もう分かれましょ」

と言ったことがあった。

「子供たちはどうする?」

一幸は真顔でこう言った。圭子は一幸を睨んだ。この人は何を言っているの。問題なのは私たちのことなのよ。と彼女は言いたかった。圭子は顔を背け、黙ってしまった。愛というものがなくなっても、男と女は、同じに生活は出来る。他の人にはどう見えたか分からないが、とっくに一幸との間に愛というやっかいなものは無くなっていた。

(あの子は私の家族を幸せに見えたのか?)

しかし、そのようなものはとっくになかったのだ。あの子は、それを改めて私に認めさせた。あの子が私たちの家族をばらばらにしたのではなく、元々そうだったのである。

あの子は、なぜ私たちの家族の前に現れたんだろう?何が目的だったのか?天使・・・どんよりとした黒い色の服を着た天使!

圭子はこう考えた自分を笑った。

テーブルには、あのDVDが残されていた。

圭子はレストランを出だ。レジで金を払っている時、続けて二組の家族が続けて入って行った。最初に入って行った家族の中に良子と歳が同じくらいの少女がいた。圭子は気にも留めなかった。

外に出ると、雨は小降りになっていた。傘が必要ないくらいの降りだったが、肌寒かった。

(何で、こんな日にわざわざ新宿まで出て来たのか?)

圭子はぼそぼそと嫌いな人参を吐き出すように言った。えぇい、と大きな声を出し、傘を差さずに歩き出した。

あの人は、この前と同じことを言うかもしれない。そうしたら、私は・・・何も言わない。いや、ひょっとしていうかもしれない。

「もう終わったんです」

と。

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