第三の名物

生津直

第三の名物

 小太朗こたろうは自宅を目指し坂を登っていた。冷たい向かい風と急勾配が初老の体に応える。それでも、海に面し山を背にしたこの物書町ものかきちょうは、晴天の穏やかな正月に恵まれた。


 小太朗がふと顔を上げると、坂の上からふらりふらりと歩いてくるのは、昔なじみの平介へいすけだ。相変わらず白髪は多いが、髪はふさふさ。ろくに染まらぬままずるりと禿げた小太朗とは対照的。


「よう」


「ああ」


「どうよ?」


「ああ、変わりない。そっちは?」


「ああ、悪くねえ」


 平介が肩から提げている竹の魚籠びくが微かに揺れた。


「おめえ、釣りかい?」


「いや、まあちょっと。……あんたは?」


と平介が指差したのは、小太朗が小脇に抱えた大判の封筒。その口から分厚い紙の束がのぞいている。


「ああ、まあちょっと。……それより、おめえ聞いたかい?」


「何をさ?」


「あれよ、ほれ、尚路なおみちんとこの淳一じゅんいち


「ああ、どうかしたの?」


「それがよ、あいつ役場に勤めてることになってんだろう?」


「勤めてないの?」


「いや勤めてんだよ。おめえ、そう先を急ぎなさんな」


「ああ、こりゃ失敬」


「いいか? 役場に勤めてんのは勤めてんだよ。しかしね」


と、小太朗は声を潜める。


「実際、稼ぎはおめえ、ほとんど猪撃ししうちなんだってよ」


「へえ、猪撃ち!」


 平介は目を丸くした。


「驚くだろう?」


「そりゃ仰天だ。誰から習ったのかね?」


「それがおめえ、わかんねえのよ。尚路は教師一筋だろう? そんで尚路の親父はほれ、大工だったじゃねえか」


「はて、見当つかないねえ。あっしは猪撃ちに知り合いはいないし」


「おいらだっていねえや。なあおめえ、そんなことより猪撃ちをなぜ隠すんだろうねえ?」


「そりゃああんた、あれさ。猪撃ちだから隠してんじゃないのさ」


「じゃあおめえ、何だい?」


「そりゃあんた、役場だからでしょうよ」


「いや、役場で猪撃つわけじゃねえのよ。山で撃つんだから」


「そうでなくてさ。役場にしてみたらあんた、自分とこの職員がその、内職みたいなことしてんのとかまずいんでないの?」


「まずいんかい?」


「多分な」


 小太朗は首を傾げる。


「そんなもんかい? でも、尚路なんかおめえ、わけえ頃にほれ、学校の花壇で花だの野菜だのの種作って一儲けしたじゃねえか」


「シーッ! ありゃああんた、もちろん内密にさあ」


「へえ、そうなのかい?」


「あの中学の校長が大目に見てただけさ。尚路もまだ駆け出しだったしなあ。でもあんた、外に知れたらいいことないって」


「そうかあ、尚路の奴、意外に危ねえ橋渡ってたんだなあ」


「そうそう。でも、そんなあいつも今じゃ名門物書ものかき高校の校長だもんねえ」


「まったく、人間どこでどう出世するかわかんねえもんだ。しっかしおめえ、猪撃ちだの園芸だのはまだかわいいもんでさ、中にゃあおめえ、隠れてやってる稼業の方が実は本業みてえになってる奴もいるからなあ」


「……ってえと、例えばあれかい? ほら、町外れの覆面占い師」


「そうそう、文字通り覆面して声まで変えてやがんだけどさ。これがおめえ、当たるって評判じゃねえか」


「らしいねえ。随分遠くからやって来て大枚はたく客が大勢いるってんだからねえ」


「それにほれ、おめえ例のあれよ、伝説の生物学者っつうの」


「ああ、あったなあ、そんな話も」


「何だかおめえ、外国のどえれぇ賞に選ばれてよ。そんでも辞退したっつうじゃねえか」


「らしいねえ」


「あれも結局おめえ、そうまでして隠すってことはあれだろう? 誰かの内職なんだろう?」


「そうかもなあ」


「その学者ぁよ、おめえ何だかっつうもんをよ、こう……科学だか化学ばけがくだかでごにょごにょっとしてよ、新しい生きもんを作っちまうらしいんだよ」


「へえ」


「何をあれすんだったかなあ。何つったおめえ、ほれ、ああここまで出かかってんだけどなあ。ああ気持ち悪い」


 頭を掻きむしる小太朗に平介がぽつり。


「遺伝子……とかってんでなかったかい?」


「ああ、そう! それそれ! おめえよく知ってんじゃねえか」


「まあほら、新聞でも騒いでたでないの」


「だろう? こりゃあ大層な叡智じゃねえか。それをよ、おめえたたえようっつうのに、当人がどこの誰だかわからねえなんてよ。おめえ悲しすぎやしねえかい?」


「あんた、人にはね、陰でしかできないことってえのもあんのよ。それ言ったらあんた、例の物書一族だってさ。この町の名前の由来ですよ。そんな由緒正しき文筆家の家系だってえのにあんた、どこのどいつか誰も知らんでないの。どっかでこそーっと刷られて、いつの間にか本になってるでないの。筆名は毎度毎度、名無しの権兵衛ごんべえでないの」


「ああ、そりゃ確かに。ちげえねえ」


「実はさ、いつだかの馬鹿みたいに売れた悲恋の物語を女房がいたく気に入ってね。こんな素晴らしいお話を生み出したのは一体どこのどなた様だろうかって、毎晩夢に見るとまで言うのさ」


「そうかい! そりゃあ……うんうん、そりゃすげえ」


「名無しの権兵衛だなんて隠れてないでさあ、表に出てぱあっと脚光を浴びたらいいでないのと思うよ。でも、そうはいかんのでしょうよ。きっとあんた、のっぴきならない事情がおありなのさあ」


「だねえ。しっかしおめえ、商売っつうもんはそうやって隠れてでも何でも、二つ三つ持っといて損はねえやな」


「ああ、まったくだ」


「ところで昨日よ、おめえあれよ、農協の新年会よ」


「ああ」


「今年は海の幸尽くしっつってよ」


「へえ」


「この町で海の幸っつったらほれ、あれよあれ、おめえイカじゃねえの」


「イカだねえ」


「だろう? それがよ、どうもここんとこれねえんだってよ」


「ああ、そうみたいだねえ」


「あれじゃねえのかい? おめえ調子に乗って獲りすぎたんじゃねえのかい?」


「そうかもなあ」


「まあ理由はともかく、上等な奴から順に数が減ってんだとよ。っつうわけでおめえ、昨日のイカ料理は安っぽいのがちょびっとでよ」


「そりゃ残念」


「いやあ、それがよ。おいらぁイカっつうのが実は苦手でねえ」


「おや」


「だっておめえ、物心ついてこの方ずうっとじゃねえか。朝から晩まで猫も杓子しゃくしもイカイカイカイカイカイカイカイカ……おめえもううんざりよ」


「そうかい? うまいのに」


「刺身ならまだいいよ。ちょろっとわさび醤油でも付けてつるんっと飲み込んじまやぁおめえ、わさびと醤油の味しかしねえもの」


「馬鹿言いなさいあんた。なんてもったいない」


「もったいないっつったっておめえ、あんなゴムみてえなもんクチャクチャクチャクチャいつまでも噛んでられるかい」


「あのね、その辺の安ーい居酒屋なんかで食うもんじゃないよ。ほら、物書ものかき市場のげんちゃんとこの取れっとれのヤリイカなんかあんた絶品だよ。身が透き通ってんだもの。コリッコリして、噛めば噛むほど味が深ーくなってねえ。そいつをほんの少しの塩でいただくのよ」


「イカはなんぼ噛んだってイカさあ。しかしおめえ今年はよ。イカが出せねえもんだからおめえ、タラだのカニだのエビだのいろいろ出てきてさ。そりゃあ豪勢だったねえ」


「そうかい」


「そっちはどうよ? おめえ、消防の新年会はよ?」


「うちは毎年恒例の猪鍋ししなべだ」


「猪鍋かあ! いいねえ! おいらぁ海の幸より断然そっちがいいね」


「あんた猪肉ししにくにゃ目がないものなあ。あっしは野菜ばっかりつまんで面白くも何ともなかったよ」


「まさか鍋だけじゃねえだろう? おめえ他にもこう、いろいろあったろう?」


「あったけどもさ。言ってみりゃあんた、猪尽ししづくしだもの。あっしは鶏とか豚の方がありがたいねえ」


「おめえ、わかってねえなぁ。肉は肉でも家畜は別よ」


「猪肉ってのは何だかさ、都会の方じゃ大層な金取るらしいでないの。そこら辺の山ん中走り回ってるたかがイノシシにだよ」


「アホかあ、おめえ。走り回ってるからいいんじゃねえか」


「そんなもんかい?」


「走り回ってるイノシシのうめえのなんのって、おめえ養豚場の豚なんざ目じゃねえのよ。人間に飼われてるようなのはあれだろうおめえ、どうもだらしなくっていけねえ」


「いやあんた、豚に罪はないでしょうよ」


「そりゃあ豚に罪はねえけどよ。おめえ野生のイノシシはよ、しっかりと味がすんのよ。これぞ獣っつう味がよ」


「そいつがあっしはどうも苦手でねえ。獣臭いってのかねえ。豚の方がずっといい。安いしさあ」


「もったいねえなあおめえ、ありがたみのわからねえ奴は。ああ、猪尽くしかあ、いいなあ」


と、小太朗は舌なめずり。


「まあ鍋もうめえよ。うめえけどもありゃあ仕上げっつうかおめえ、最後になって、ああーあれも食ったしこれも食ったなあっておめえ、振り返りながら食うもんなのよ」


「ふうん、そうかい」


「イノシシはおめえ、バラ肉の燻製のあぶったのなんか最高よ。あぶらんとこにもう旨味がたっぷり。あとねえ、子猪こじしのヒレを甘辛く煮込んだのもいいなあ。あと、あれあれ、金玉の刺身! ありゃおめえ控え目に言って絶品よ」


「金玉なんか食いたかぁないよ。まるで共食いでないの」


「何を、おめえだって魚の白子うめえうめえって食うじゃねえか」


「魚のはだってあんた、玉っぽくないもの。でもさあ、さっきのイカの話でないけどあんた、イノシシもこれから減るんでないの?」


「おめえ縁起でもねえこと言いなさんなよ」


「ほら、何だかって病気が流行ってんでしょ?」


「ありゃおめえ、けしからん脅威だねぇ。早いとこ撲滅してほしいねぇ」


「まあ偉い人たちがそこは頑張ってるけどもさ。自然に逆らうのはあんた、なかなか簡単でないのさ」


「おめえ、まるで見てきたように言うじゃねえか」


「聞いた話さ」


「もしもよ、イカもイノシシもいなくなっちまったらよ。おめえ、この町ぁどうなるんだい?」


「どうなるかねえ」


「イカとイノシシを取ったら他に何もねえような町だからなあ。それこそおめえ、例の物書がちょいと売れてる以外はよ」


「そうだなあ。イカとイノシシには何とか頑張ってもらいたいねえ」


「それともあれか。おめえ、何か別のもん流行らせるかだな」


「別のもんったってあんた、何もないでしょうが」


「おめえ、そこが知恵の見せ所よ。ボーッと生きてんじゃねえよ」


「どうせあっしはボーッと生きてますよ。悪うござんした」


 ヘソを曲げる平介をよそに、うーんと唸って考え込んだ小太朗はやがてポンと膝を打ち、


「なあ、おめえ掛け合わしたらいいんでねえか?」


「何をよ?」


「だからほれ、イカをよ」


「何とよ?」


「そりゃあおめえ、あれよ」


「どれよ?」


「イノシシとさ」


「イカを? イノシシとかい?」


「そうさあ。長ーいこと物書町のお財布あっためてくれた奴らじゃねえか。それが今じゃおめえ、かわいそうに揃いも揃って弱ってやがる。だったらくっつけちまやぁいいのよ。どっちも元々はあんなに元気な奴らだもの。くっつきゃおめえ、百人力ってとこよ」


「あんた随分簡単に言うねえ」


「難しいことなんかあるかい。何もおめえ、ミミズと人間くっつけようっつうんじゃねえのよ。四つ足の獣と魚よ。比較的ちけえじゃねえか」


「イカってえのは魚でないけどな」


「へえ、そうかい? まあ何にせよ、海のもんだろう?」


「海のもんだな」


「おいら思うによ、海のもんと山のもんってのはよ、最後にゃくっつくようにできてんのよ。海の神と山の神だってよ。そりゃもういろいろあったけどおめえ、しまいにゃ一緒んなってこの町作ったんじゃねえか」


「あんたそりゃ、あっしらの爺さんたちが信じとった昔々のおとぎ話でないの」


「おとぎ話っつうのはなあ、おめえ意外に真理を突いてるもんよ」


「まあ、たまにはそういうこともあるけどもさ」


「しっかし、くっつける時にゃあおめえ、どうしたもんかね。どっちがオスでどっちがメスならいいんかね?」


「くっつけるってあんた、まさかイカとイノシシでまぐわわせんのかい?」


「他にどうするってのよ。しかしおめえ、この町のイカっつうのはそんなでけえもんでもねえからな。イノシシのちんぽであれしたらあれだな。なんだかイカの女子おなごがかわいそうだな」


「イノシシも図体の割にちんぽはそうでかくないけどな」


「確かに、ちげえねぇ。おいらの方がなんぼか立派だ」


 そう胸を張った小太朗はふと真顔になって、


「しかしおめえ、イカの方をオスにするとしてよ。イカにもちんぽってあんのかねえ?」


 平介は神妙な顔で言う。


「何をもってちんぽと呼ぶか。それが問題だ」


 それを聞いた小太朗、ふははと吹き出し、


「何だおめえ、急に知恵熱でも出たか? まあ所詮は海のもんなんだからよ。魚みてえにほれ、メスが卵産んだとこにぴゅぴゅぴゅーっとぶっかけておしめえなんじゃねえか? いや、待てよおめえ、イノシシは卵なんか産まねえじゃねえか。こりゃ困ったぞ」


「困ったねえ」


「ああ困った」


 頭を抱える小太朗に、平介が助け船を出す。


「あのね、イノシシとまぐわわせるってことならね。イカの足の一本をちんぽと呼んだらいい」


 一瞬ぽかんと口を開けた小太朗は、腹を抱えて笑い出す。


「はっははは! 足がちんぽだって? あの十本の足のどれかが? おめえ、たまにゃおもしれえこと言うじゃねえか!」


「イカのオスってのはね。自分の子種こだねをこう、大事大事に袋に入れてね」


「ふはは! 袋にかい? 小包よろしくってとこだなあ。おめえこりゃ傑作だ! わっははは」


「そんでね。足に見えるところのちんぽでもってね。メスの体ん中にひょいっとそいつを渡すんだってさ」


「わはは! おめえそりゃ何ともむつまじいことじゃねえか。おいらもイカを見習って袋に詰めてみっかなあ。そんで、はい、ってカミさんに渡してみっかなあ。あーっははは!」


「それからね。イカの種類によってはね。袋ぶら下げた先っちょごとちょん切って、カミさんの体ん中に置いてきちゃう奴もあんだってさあ」


「ひゃーっはは! おめえそいつぁ困るぜえ。おいらやっぱりイカになんのは無理だあ! ふぁーっはっは!」


 ひとしきり馬鹿笑いし終えた小太朗、ようやく呼吸を整えると、


「しっかしおめえ、法螺ほら吹きの天才だな」


「なあにあんた、聞いた話さ」


「なあ、その調子でおめえ、笑い話の一つも書いてみたらどうだい? ほれ、例の物書の後でも継いでよ。当代をそろそろおめえ、隠居させてやったらいい」


「馬鹿言うんでないよあんた。あっしにそんな暇があるかいな」


「まあ何はともあれ、イカのオスとイノシシのメスで決まりじゃねえか。めでたしめでたし」


「だねえ。いや、それにしてもあんた、生まれてくる赤ん坊はどっちに住むのかねえ」


「どっちって?」


「ほら、海と山とさ」


「そりゃあ、おめえ……海と山を掛け合わしたんだから、そりゃああれだよ、おめえ。空だろうよ」


「空」


「ああ、空さ」


「……てことは何だい? 子供は鳥なんかい?」


「うーん、そうするとあれだね、羽がいるね」


「いるね、ってあんた」


「そこはおめえ、大自然の神秘よ。ちゃあんと羽生えたのが生まれてくるさあ」


「無理やりまぐわわしといてあんた、自然もヘチマもあるかいな」


「それもそうだ。ああくだらねえ」


「結局ただの夢物語でないの」


「ああ、そうよ。夢物語ほどおめえ、腹の膨れるもんはねえからな」


「幸せなこったねえ」


「ああ幸せよ」


 その時、平介の魚籠が大きく傾いた。中からボトッと地面に飛び出たのは、世にも珍奇な生き物。


「ひゃああっ!」


 小太朗は腰を抜かして尻餅のまま後ずさり、目の前でもぞもぞとうごめくそいつをじっと見つめる。


 よくよく見れば、しま模様の毛皮はどうやら子猪の胴体。その先にある顔まではイノシシに違いないが、にゅるにゅると生えた吸盤だらけの足はどう見てもイカのもの。そして背中には、まだ頼りない翼が一組。


 平介は申し訳なさそうに頭を掻く。


「ああ、こりゃ失敬! あっしが吹く法螺ってのは、目に見えるのさあ」




 ……お後がよろしいようで。

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