最終話 わたしたちはもういなくても

「リオ、リオ」とルイが言う。

 空をほぼ全部覆い隠すほど巨大な母船が上空に停泊し、あちこちから蒸気を吐き出しながら、棘のように突き出した何十ものアームからワイヤーを上げ下げして人や荷物を運んでいる。船から降りてきた県庁の人たちは、みんなルイと同じように色白でほっそりしていたけど、力もあるし仕事も早く、朝からの作業で鉄塔も水場も解体して母船に収容してしまい、さらに昼過ぎには有輪重量車が降ろされてきて、わたしたちの家だった監砂台舎も、重量タンクに砂を積み終えたその車にワイヤーでつながれて、まもなく引き倒されようとしていた。

 すでに備品や収集物はすべて県庁に回収されてしまったから、残されたのはそれぞれ身につけたものとリュックサック一つ分の私物だけになってしまい、もうわたしたちにできることは何も無く、少し離れた砂の丘の上に並んで座ってただ作業を眺めるばかりだったけど、やがて何千羽もの鳥が飛び立つような音とともに、有輪重量車のエンジンが始動し、排気と動輪の回転が砂煙を巻き上げ始めた。

「……リオ?」とルイが言った。

 ワイヤーがぴんと引っ張られ、わたしたちの家は少しねじれたように形を歪めながらもしばらくは意外に粘り強く形を保っていたけれど、エンジンの音がさらに一段と高まると、突然耐えきれなくなったみたいに斜めにひしゃげて、次の瞬間にはもうもうと立ち上る砂煙の中に飛び込むように姿を消した。

「リオ、大丈夫ですか?」

 とルイが言う。何を言われてるのかよく分からないまま振り返ると、銀色のフレームの中の目が心配そうに見ていた。

「え? ああ……わたし? 大丈夫、大丈夫だよルイ」

 そう言いながらもほんとうは、ルイがつけてくれた「リオ」という名前を何度も呼ばれていたのに気づかなかったことや、平気なつもりで無意識に体を固くして両手で口元を覆っていた自分に動揺していて、大丈夫でもなくて、ルイにもう一度柔らかい声で「リオ」と呼ばれながらそっと肩を抱かれると、目をぎゅっと固く閉じずにいられなくて、赤いフレームの眼鏡を外してうつむきながら目を押さえていたら、優しく頭を撫でられた。

「リオ、心配しないでください。ここが無くなっても、どこに行っても、わたしたちはわたしたちだし、リオはリオです」

 何度もくりかえしルイに撫でてもらうと、だんだん体の緊張が解けてきて、深呼吸をして顔を上げ、レンズの無い赤い眼鏡をかけ直したけど、ルイは肩に回した手をまだ放さない。これじゃほんとに、どっちが子どもか分からないみたいだ、けど、でもきっと今はこれでいいのだ、ルイにとっても、リオと名づけられた新しい自分にとっても。

 県庁職員のひとりが近づいて来て出発を告げると、ワイヤーに吊られて長い振り子みたいにゆっくり揺れながら降りてくるゴンドラを目指して、ふたりともリュックサックを背負っていっしょに砂の丘を降りはじめた。降りてきたゴンドラは、近くで見るとシンプルな鉄の篭みたいなもので、鉄板の床はぎりぎり二人が立って乗ることができるくらいの狭さだし、柵の高さはルイの腰くらいまでしかないから、ふたりで篭の中央の細いポールを挟んで向かい合い、互いの両腕をしっかりと掴んだ。

「リオ、船でもまたおいしいものを作ってくださいね」

「うん。作ってあげる」

 県庁職員の笛と旗を合図にワイヤーが巻き上げられはじめ、ルイとリオを乗せたゴンドラはゆらりと砂から離れ、ゆっくりと空へ上がり始める。同じように耳の下あたりで髪を切りそろえ、よく似た大きめの白いTシャツをだぼっと着て、それぞれ銀色と赤のフレームだけの眼鏡をかけたふたりが、さらにしっかりと身を寄せ合って、まるできょうだいみたいに見える。

「それから、知らないことや読めない字も、また教えて下さい」

「うん。教えてあげるよ」

 二人のゴンドラは、気流に押されて少し斜めになりながら、母船のお腹に向かって、少しずつ遠くなってゆき、そしていつしか二人の顔も見分けられなくなり、それでもTシャツの白は小さな点になって、しばらくは見分けることができたけど、それも最後には船の下部の様々な構造物にまぎれて消え、船底のどこかにある入口から収容されたのか、それきり全く見えなくなった。

 作業の人たちが全員引き揚げてからしばらくして母船が動き出し、その巨大な影もやがて灰白色の空の向こうに薄れて消えると、残されたのは白い砂と気流が描く色の無い形の世界だけで、そこにはもう、わたしたちは存在していなくて、パパやママも、香穂ちゃんやりさ子ちゃんも、吉野さんも、ルイのお父さんだった連絡員もみんな、何百、何千の人や物たちといっしょに砂になり、その一粒ずつが、お互いにお互いの間に入り込んでもう分けられないくらいに混じり合い、教室や、オペラ通りや、あの岸壁の階段や、古い世界の全てを永遠に埋めて眠らせながら、果てしない面積と底知れない深さに広がる浜そのものに溶け込んでしまったけれど、これでいい、新しい世界では、「リオ」という名前を得たリオは次第に他の誰でもないリオになってゆくだろうし、リオがそばにいる限り、ルイが一人ぼっちになってしまうことは二度とないだろう。だから、これでいい、わたしたちはもういなくても。






──────────

最後までお読みくださってありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂委員 猫村まぬる @nkdmnr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画