第30話 何も残っていなくて

 泣き尽くせるだけ泣ききってしまったら、結局のところ誰でもないわたしの中には何も残っていなくて、目を閉じて何度かゆっくりと呼吸してみると、香穂ちゃんでもなく、パパとママの子でもないわたしにはもう悲しみも喪失感もなく、投げ出された人形みたいにただぐったり疲れてしばらくの間ぼんやりと砂の表面に寝転んでいたけれど、やがて差し伸べられたルイの手を握ってふらふらと立ち上がった。

 洋梨の柄のワンピースはあちこち破れて肌が出ており、窓をくぐって部屋に戻ろうとしたときに背中から腰にかけてさらに大きく一気に裂け、ベッドの上に座って脱ごうとしたけれどもうどうしようもなくて、ルイも手伝ってくれようとしたけど、頭が抜けたときには、もろもろに裂けた端切れのつながりでしかなくなっていた。脱いだままでぼんやりしているわたしに、ルイが大きなTシャツを頭からかぶせてくれたので、もぞもぞと袖を通すと、ルイは傍らに椅子を持ってきて座った。

「ごめんなさい。大事な服だったんですよね」

「ルイのせいじゃないよ」

「でも……」

「それに、わたしの服じゃないし」

「だけど、あなたが最初に着ていた服です」

「最初って?」

 なんとなく分かっていたことだけど、わたしを見つけたのはやっぱりルイだったらしい。ずっと前、お兄さんと、りさ子ちゃんと、香穂ちゃんが約束の場所でいっしょになったあの金曜日以来、ルイはどうやらわたしが思ってたより何十倍も長い間、監砂台の仕事も徐々に覚えながら、毎日砂の上に出て、範囲を少しずつ広げながら、あるいは同じ場所も何度も訪れながら、手がかりを求めて埋蔵物の兆候や下降流の痕跡を記録し、探し続けてとうとう砂の中から見つけたのがわたし、レンズの無い赤いセルフレームの眼鏡をかけ、洋梨のワンピースを着た、髪の長い、子どものような姿の今のわたしだったのだ。もちろん、ルイが探していたのは吉野さん、つまりこの家の監砂員だった香穂ちゃんのお兄さんだったはずだけど、砂の中からわたしの顔が現れた瞬間に、ルイは「見つけた」と思ったらしくて、すぐに唇に命を吹き込んで、県庁から人を呼んで監砂台までわたしを運び、そしてそれからとても長い間このベッドで眠り続けた末に、ある朝ふっと目を開けたわたしは、ベッドの脇からのぞき込んでいる顔を見るなり、ごく自然に「ルイ」と名を呼んで「パンケーキを作ってあげる」と言ったのだという。

「でも、ごめん、ルイ。わたしは、お兄さんじゃないよ。わたしは、誰でもないんだ」

「あなたはあなたです。あなた以外の誰かである必要はないんです」ルイはわたしの髪に手を伸ばしてそっと指を通した。「ここにいるあなたがあなたです。わたしが探していたあなたです」

 わたしは、柔らかく髪を梳いてくれるルイの手櫛の心地よさにぼんやりとしながらも、もしかするとわたしがばらばらの砂じゃなくて人間の形で存在しているのはルイに見つけられたせいなんじゃないだろうかと、あるいは、ルイはひょっとしたら自分でも知らないうちに、香穂ちゃんとりさ子ちゃんとお兄さんが崩れ落ちたあの場所の砂から、ルイが探し求める新しい人間としてわたしを作ったんじゃないかと、そんなことをふと考えたけれども、だけどそれならそれで別にかまわない、過去のわたしが何だったにしても、あるいはそもそも存在しなかったのだとしても、今のわたしがここにいて、これからのわたしがここで始まるのなら。

「ルイ、お願いがある。いいかな?」

「いいですよ。何でも言ってください」

「二つあるんだけど」

 ルイはわたしの髪から手を離してこちらに向きなおり、真剣な顔でうなずいた。

「何でしょうか」

「わたしの髪を切ってほしい。ちょっと重すぎるんだ。ルイと同じくらいがいいな」

 わたしがそう言うと、ルイは少し赤くなった頬を緩めて、耳のあたりで切りそろえた自分の髪に指先を当てた。

「分かりました、ちょっともったいない気もしますけど。あとひとつは?」

「わたしに名前をつけてほしい。今みたいにわたしとルイの二人だけなら良いけど、無いとこの先不便になるかもしれない」

「でも、わたしがつけていいんですか?」

「ルイ以外に考えられないよ」

 名前を決めてもらいさえすれば、わたしはその名前の人間になれるだろう。その中身は、この新しい世界でこれから充たしていけばいい。

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