第9話 人狼の帝国は幻と消える
オクタヴィアの邸には子供のはしゃぐ声があふれていた。
「姉上。これは一体……」
同じ年頃の子供たちが、ばたばたと屋敷内を走り回っている。
これにはガイウスも唖然とするしかない。
「あらガイウス。いえ、アウグストゥス閣下とお呼びしましょうか」
にっこりとオクタヴィアは笑った。
「それは勘弁してください」
ガイウスは苦笑を返す。
「はーい、みんな集合!」
オクタヴィアが号令をかける。
「なーに」
「お母さま、この人だれ?」
「あー、このおじさん、お母さまにそっくりだ」
「ほんとうだ、そっくり」
喧しい事この上ない。
ずらりと並ぶ子供たち。
まずはオクタヴィアの実子、大アントニアと小アントニア。これはアントニウスとの間の子だ。
そしてその隣には双子の兄妹、ヘリオスとセレネス。さらにその弟のフィラデルフォス。オリエント風の名前から想像できるように、今は亡きクレオパトラの子である。そんな彼らすべてをオクタヴィアは引き取り、育てているのだった。
おまけに今日は近所の子供も遊びにやって来ているのだという。
「いくら
以前ガイウスは言った事があるが、オクタヴィアはふふっと笑っただけだった。
「ところで、姉さん。今日は報告があるんだ」
ガイウスは改まった表情で、オクタヴィアに向き直った。
うん? と彼女は眉をひそめた。
「僕は、結婚することにした」
その時、背後で大きな音がした。
二人が振り返ると、入り口付近で立ちつくす少女がいた。足元には取り落とした本が転がっている。
「ユリア」
その少女は鋭い目つきでガイウスを睨みつけると、背を向けた。
「待ってくれ、ユリア。話がある」
ガイウスは腰を浮かして彼女を呼び止めた。だがユリアはそのまま歩き去った。
「汚らわしい」
ちいさくユリアの声が聞こえた。
このユリアはガイウスにとって、たった一人の実子である。政略結婚した最初の妻との子だが、すでにその妻とは離婚していた。
ユリアは他の子供たちと距離を置き、馴染もうとはしなかった。
オクタヴィアはガイウスを責めるような目で見た。
「噂は聞いています。……もちろんあの娘も、その事は知っていますから」
あんな態度になるのも仕方ない、オクタヴィアはそう言った。
ガイウスが結婚しようとしているのはリヴィアという女性である。ティベリウスという子があり、今も第二子を妊娠中だった。
夫のクラウディウス・ネロとの協議で、彼女を譲り受けることになったのだ。
「なごやかな会談だったんだよ。快く承諾してくれたんだから」
「それは……ねえ。仮にもあなたローマの最高権力者でしょ。誰が断れるというのよ、そんな人の頼みを」
オクタヴィアは肩をすくめた。
☆
ガイウスとリヴィアの結婚生活は成功だったと言っていいだろう。二人の間に子供こそ出来なかったが、ずっと仲睦まじく過ごしたようである。
そんなある日。
「パルティア侵攻を考えているのか」
低い声がした。
ガイウスは辺りを見回す。部屋にいるのは彼と、膝の上の少年だけだった。
新妻リヴィアの連れ子、ティベリウスだ。
「ん、何か言ったかい。ティベリウス」
ガイウスは少年の頭を撫でてやる。
すると、彼はゆっくりと振り向いた。
「無駄な事は止めた方がいいぞ、ユリウス・カエサル・アウグストゥス」
深遠な知恵を秘めた瞳で、その少年は継父を見上げる。その声も地の底から響くように聞こえる。とても子供の声ではなかった。
「だ、誰だ。お前は」
ガイウスは慌てて、少年を膝から降ろす。
「そうか。お前は姉から紋章を分け与えられただけなのだな」
ティベリウスは薄く笑った。
「それにしては、良くやったと褒めてやろう」
ガイウスは言葉を失った。
少年が一歩足を踏み出すのに合わせ、ガイウスは後ずさった。
「恐れるな。お前の役目は終わった」
差し出された右手が、ガイウスの腹部に触れた。
急速に何かが吸い出される感覚に、ガイウスは呻き、その場に膝をついた。
「きさま、何を、する」
「お前を人間に戻してやるのだ。狼の紋章を剥奪して、な」
「おおぉぉう!」
ガイウスは瀕死の狼のように吼えた。
床に倒れ伏したガイウスを見下ろし、ティベリウスは満足げに頷いた。
その額には二つの紋章が浮かんでいた。
☆
「ティベリウス」
後ろから呼ばれた少年は振り返る。そこには緊張した表情のオクタヴィアが立っていた。倒れた弟と少年の姿を交互に見遣る。
「オクタヴィア伯母さま。この男の紋章は私が頂きました」
ティベリウスはゆっくりと彼女に歩み寄った。
「次は、あなたの紋章です」
オクタヴィアは、諦めたように目を閉じた。
☆
アウグストゥスはそれからもローマ帝国の皇帝であり続けた。
ローマ長年の懸案であったパルティア王国とは交渉による和平を成し遂げ、『パクス・ロマーナ』を実現させたのである。
彼の死後、帝位はティベリウスに受け継がれ、ローマ帝国は完成をみる。
だがその後、皇帝となったカリグラ、ネロ、クラウディウスはともに終わりを全うすることはなかった。
これらの皇帝とは比較にならない程、長期に亘り皇帝であり続けたアウグストゥス。これは、一時期とはいえ狼の紋章を受け継いだからではないかと考えられる。
ある書に云う。
ティベリウスを最後に、狼の紋章は一旦、ローマ帝国から消え去った。だがそれは今も密かに受け継がれているのだと。
そして現代に至るまで、時の権力者は狼の紋章を受け継ぐ者を探し続けているが、未だローマの正統な後継者は現れていない。
狼の造りあげたローマ帝国は、幻のように消え去ったのだった。
人狼の帝国 杉浦ヒナタ @gallia-3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます