彼女は踊った

悠井すみれ

第1話

 朝刊の一面、その片隅に載った本日の処刑者リストを見て、私は眉を顰めた。新政府が何かしらの罪状、あるいは言いがかりでもって同じ国民の血を流すのはいつものこと。だから今日も広場に銃声が響く、それ自体は構わない。いや、気の滅入ることではあるが、諦めがつく。

 問題は、リストの末尾に記載された名前だった。外患罪とかいう、最近よく見る名目で銃殺刑の判決を受けたのは、どうやら私がかつて知っていたのようだったのだ。


 手早く身支度を整え、広場に向けて足を急がせながら、思う。リストになど目を通すのではなかった。どこの誰がどのような罪状で死を賜ろうと、知ったことではないのではないか? 昨日までは罪ではなかったことが、今日は許されざる大罪になるのはよくあることだ。ならば知人の死にも気付かないままでいた方が良かったのではないか?


 ただ──がなぜ、という思いが拭えなかった。人違いと信じるには、リストに付記された年齢も合致してしまっていた。別に、彼女が特別に愛国心に富んでいると思う訳ではない。むしろ逆だ。彼女がわざわざ国を裏切るような面倒を犯すものか。彼女の心はただひとつのことに占められていたのだから。

 本当に彼女なのか、何の手違いがあったのか、それとも彼女が信じられないほど変わってしまったのか──確かめたくて、わざわざ血腥い刑場に足を運ぶのだ。何、正義が行われる場所を訪ねるのは、今は国民の義務にされている。私が最後に義務を果たしてから半年ばかり、そろそろまた愛国心を示さなくては。ただ、それだけのことだ。




 私がに出会ったのは、舞踊を教える国立の学校でのことだった。芸術に金と人材を割く余裕が、当時はまだあったのだ。

 私は、自らの才能で入学を果たしたつもりだった。だが、今なら親の人脈と財力によってどうにか席を買っただけだということが分かる。

 対する彼女は、奨学生ということであらゆる障害をぽんと乗り越えて私たち凡才の頭上に輝いていた。彼女の舞台上での跳躍のように軽やかに、高く、羽のように。彼女が腕を延べれば花が咲いたし、爪先を跳ねさせれば星が欠片と舞い散った。衣装や背景に頼らずとも、彼女は目線ひとつ、振り付けひとつであらゆるものに化けて踊った。鳥でも蝶でも獣でも。神話の女神も、卑しい奴隷も、妖艶な娼婦も。

 同じ人間だというのにまるで違う舞踊を見せつけられて、その道を見限った者も少なからずいた。彼女を神の化身と崇める者も、悪魔の遣いと忌み嫌う者も。けれど、一番多かったのは、評価を肉体で買った売女と蔑む者だったろうか。もちろん本心から思うのでなく、そうでも考えないと正気が保てなかったということだろうが。


 実際、彼女には貞操という観念は薄かったように思う。私もベッドでのの相手を務めたことがあるから確かだ。私以外にも、教師でも同窓生でも、ベッドで舞う彼女の姿を間近に見た者は両手の数では足りないはず。特別な関係を引き換えに、彼女が立った舞台も男の数だけあったはず。

 ただ、それも彼女が格別に淫らだとか計算高いことを示すのではない。そういう時代であり、そういう文化がまかり通っていた世界だったということだ。つまりは、地位ある男の後援がなければ、踊る舞台を確保することができなかった。この国はかつてはそうだったのだ。

 彼女は踊ることしか頭になかった。

 踊ることの快楽に比べれば、彼女にとっては自身の肉体ですらも躊躇いなく差し出せる程度のものだったのだろう。それに何より、閨房でのことさえも彼女にとっては舞踊の一種と認識されていた節がある。共に過ごした夜の明ける時、しっとりと額を汗ばませた彼女の醒めた目は忘れられない。退屈かつ技量の伴わない相手役だったと、雄弁に語っているようで。私が官僚の道に進んだのも、あの目があったからかもしれない。




 広場には既に人が詰めかけていた。国民の義務を果たそうという善良なる市民。いつもより少し多いような気がするのは、彼女のためだろうか。低く高く、囁かれる声の中に、私は彼女の名前を何度も聞いた。

 肉体を武器に敵国の外交官に取り入って贅の限りを尽くした、と。そんな物語を聞いて私は口元を引き攣らせた。笑ったのか泣いたのか、自分でも分からない。ただ、彼女は変わっていないのだろうな、とだけ思った。

 その国の大使館では、毎夜盛大な夜会が開かれているのは有名だ。闇に沈黙する我らが都をあざ笑うように、賑やかな音楽や華やかな笑い声が漏れ聞こえているのだと。そこでは当然、男女が踊る場も設けられているのだろう。彼女は踊りたかっただけなのだ。彼女が手段を選ばずしたことの中に、今では罪に問われることもあったのだろう。

 だが、彼女の才を思えばいかにもつまらない舞台ではないか。そんなことのために、彼女は命を賭けたのか。そうせざるを得ないほどに、今のこの国では歌も音楽も絶えているのか。私は、ずっと気付いていなかった。


 リストの最初の何人かの処刑を、私は空を見てやり過ごした。俯いていては、見ようとしていないのが分かってしまうから。空を舞う鳥、太陽の輝きに、かつての彼女の翻る腕や反った背を見出して。

 彼女の名が呼ばれた時に視線を下ろすと、刑場は赤黒い血にべっとりと濡れていた。引き出された彼女が杭に括りつけられる前に、罪状が改めて読み上げられるのを聞きながら──私は、今度こそ微笑んでいた。


 なんだ、やっぱり全然変わっていないじゃないか。


 後ろ手に腕を捻り上げられた彼女の、しなやかな手足。白鳥のような優美な首筋。羽根を思わせる軽やかな佇まい、すっと通った背筋。それに何よりあの表情だ。座学の時の退屈しきった表情を、私は何度となく盗み見たものだ。物憂げな眼差しの影では、どの曲をどのように表現しようかと、頭の中で考えていたに違いない。ペンを握るでもなく、紙の上で跳ねていた指先が教えていた。今だって、背に回った指はやはり踊っているのだろう。

 ああ、でも、彼女が踊る舞台はもうないのだ。彼女の耳に音楽が届くことも。彼女がこれから聞くのは乾いた銃声と民の罵声だけ。

 彼女の目は、あの朝と同じ醒めた色をしていた。この場に、彼女と張り合える踊り手はいないのだ。死を前にしての落ち着きようは、踊りのない生に倦みきっているからか。名残惜しく見つめていると──彼女の目が、確かに私を捉えた。そして、笑んだ。


 執行人に耳打ちする死刑囚を見て、広場の市民は驚きと非難の声を上げた。ひどく渋い顔をした執行人が、彼女を縛りもせずに突き放した時には、さらに。

 けれど私は声も出ない。彼女が、踊ったからだ。銃口の先に身をさらすまでのほんの数歩、ほんの数秒。彼女は手を広げ、爪先を見せつけるように跳んだ。薄汚れた囚人服の裾を翻して回った。銃声と同時に身体が激しく跳ねるのさえ、血飛沫が新たに上がるのさえ、計算しつくされた美しい線を描いていた。


 全てが終わってからも長いこと、私はその場に佇んでいた。彼女の最後の舞踏の余韻に、いつまでも浸っていた。私は踊り手としては彼女に遥か及ばなくても、観客としては認められていたのかもしれない。だから、彼女は笑ったのかも。だから、彼女は踊ったのかも。


 私の存在が、最後の瞬間に彼女を踊り手にさせた。何もできず何の言葉も発さなかった私の、ただの言い訳か自惚れに過ぎないのだろう。


 けれどせめて、そのように信じていたかった。

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