第6話 回帰

 俺は見慣れた立体駐車場の地階へと車を進めた。と言っても、普段自分で運転してここに来るのは稀で、ハンドルを握るのはほぼ麻里李だ。

 駐車場はさほど込んではおらず、擦れ違う車も後続車も一台も無い。

 いつもと変わらぬ風景。

 あくまでも、ここまでは。

 走行速度を落とし、慎重に車を進めて行く。

 フェイクウォールの前で停止すると、ナビのモニターに入場承認の表示が浮かんだ。同時に、目前の壁にぽっかりと入口が生じる。

 静かに車を乗り入れ、通用口付近に留める。

 いよいよだ。

 俺達は車から降り立った。無機質なアスファルトのフロアーを打ち据える靴音が、重苦しい空間に冷たい調べを奏でる。

 張り詰めた緊張が、鋭利な刃物となって俺の意識から集中力をこそぎ落していく。

 妙な感覚だ。今までなら、任務を終え、此処までたどり着くとこのうえない安堵感に包まれていたのに。

 心臓の拍動が半端じゃない。まるで顔が心臓になったのじゃないかと思う位、激しく脈打っている。

 フェイクウォールで隠された通用口の前に立ち、壁に手をかざす。

 ドアのセキュリティは俺を認証し、静かに封鎖を解いた。

 辺りを警戒しながら、薄暗い通路を進む。等間隔に並ぶフットライト。照明は他にはなく、これだけが、かろうじて行く先を示している。突き当たりは壁。再びフェイクウォールだ。だがこれも何事も無くロックを解除し、俺達を中へ招き入れた。

 同時に、無数の金属光沢を放つ軌跡が視界を埋め尽くした。

 無数の刃――そう理解した時にはもう遅過ぎた。

 冷酷な輝きを孕んだ凶器は、容赦無く俺の四肢を、胴を貫いていた。

「喜多っ!」

 寿々音の悲痛な叫びが間近に響く。

 真正面前方十メートル付近に佇む刃の持ち主を、俺は両眼で捉えていた。

 艶やかな長い黒髪に、吸い込まれる様な大きな眼。スペシャルなまでに整った顔立ちには、ぞっとするような冷やかな笑みが浮かんでいる。

 お初にお目にかかる顔じゃない。むしろ毎日の様に顔を合していた。

 受付嬢だ。麻里李の送迎で駐車場側から本部に入場する際、いつも受付カウンターで声を掛けてくれていた娘だった。

 刃は、彼女そのものだった。彼女の両手指の全てが刃に変化し、しかも長く伸長しているのだ。

 身体を武器化する能力――彼女も案山子の秘書の一人だったのか。

「おかえりなさいませ。申し訳ありませんが、案山子の命により皆様には消えていただく事になりました」

 にこやかな表情とはうらはらに、笑っていない両眼に宿る残忍性を秘めた非情の輝きが、俺達を真正面から捉えていた。

「理由を教えてくれ。何が何だか訳が分かんねえ」

 刃を受け止めたまま、俺は前に進んだ。

 受付嬢の顔が驚愕に歪む。

 刃は、何一つ俺の身体を傷付けてはいない。勿論、出血はおろか苦痛もない。全ての刃は、俺の身体に接触すると同時に、粉々に砕け散っていた。微細な粒子に変貌を遂げた刃は、きらきらと冷たい反射光を放ちながら、その残渣をとどめる間も無く時空の狭間に消えていく。

俺は感じていた。刃のなれの果てが、熱い気の粒子となって、次々に俺の中へと取り込まれていくのを。

 俺は彼女の産毛が見えるくらいの距離まで、一気に間合を詰めた。

 彼女の顔が焦燥に醜く歪む。

「答えろっ!、何故案山子は俺達を消そうとする?」

 俺は憤怒に頬を強張らせながら、じっと彼女を見据えた。

「自分で聞くんだな。但し、無事会えたらの話だけど」

 彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

 同時に、刃と化していた彼女の指が瞬く間に融合し、両腕に巨大な太刀を出現させると、俺目掛けて簡抜を入れずに振り降ろす。

 両サイドから至近距離で振り降ろされた太刀を、俺は両掌でまとめて挟み取った。同時に、太刀は先程の刃同様、微細な粒子へと変貌を遂げていく。

「おのれっ!」

 彼女が口惜しげに俺をののしる。が、刹那、その表情に翳りが生じた。

 彼女の頬が、急速に削げ落ち始めた。頬だけではない、腕も、胸も、足も、見る見るうちに細くやせ細ると、骨格そのものを露骨な程に浮かび上がらせていく。

 生体エネルギーが流出している。それも、全て俺の体内へと注ぎ込まれているのだ。

 かっと見開いた眼が、食い入る様に俺の顔を凝視する。

 彼女の唇が綴った無言の叫びが、誰しもが想像し切れなかった驚愕の台詞を綴った。 

 た・す・け・て

 一瞬、俺は躊躇いを覚えた。

 白旗を掲げた敵に、更に攻撃すべきなのか。

 彼女は普通の人間ではない。案山子が遺伝子操作で造り出したミュータント。でも、核になる根源には肉体に生まれつき宿った生命がある。単なる器でしかない政府軍のスピリチュアルスーツとは、その点が大きく違う。  

 彼女達秘書は、物理的なダメージにはその驚異的な再生能力で短時間で立ち直ってしまう。じゃあ、今の彼女のように、その機動力ともいうべき生体エネルギーをごっそり失ったらどうなるのだろう。

 やはり、死は訪れるのだろうか。

 このまま続けていれば、俺は、彼女を……。

否、今更迷ってどうなる?

 よく考えろっ!

 やらなけりゃ、やられる。俺だけじゃなく、寿々音や麗も。

 不安定な意思の迷走に、俺は自分自身を叱咤した。だが幸い?にも、俺の心の乱れに呼応する事無く、両手は、彼女の生体エネルギーが生み出した産物を貪り食い続けていた。

 俺の手の中で、彼女の太刀が急速にその形を崩し始める。それは金属光沢を失い、変わってピンク色の地肌へと変貌を遂げて行く。

 彼女の膝が崩れ、腕がだらりと延びる。

 見開かれた彼女の眼から宿っていた意思の輝きが消え、瞳孔が大きく開く。

 俺はゆっくりと手を放した。

 彼女はがっくりと頭を後ろ向きに垂れると、大きく弓なりに身体を湾曲させながら倒れた。

「凄い……エネルギー吸い取っちゃったの?」

 麗が羨望の眼差しで俺を見つめる。

「そんな感じです」

 俺は喜んでいいのかどうか戸惑いながらも、麗に笑みで返した。

「こいつ、死んじゃったのかな? 案山子の秘書は皆不死身だって聞いてたけど」

 麗が恐る恐る受付嬢の顔を覗き込む。

 不意に、閉じられていた彼女の瞼が限界まで見開かれるや、ばね仕掛けのからくり人形の様に勢いよく上体を起こした。

 慌てて後方に退いた麗を睨みつけながら、受付嬢は膝を立てるとゆっくりと立ち上がった。

 俺はぎょっとして彼女の顔を凝視した。彼女の顔が、急激に大きく変貌を遂げていく。眼尻がこめかみの辺りまでつり上がり、口は大きく耳元まで裂け、半開きの唇の間からは鋭利な牙がびっしりと顔を覗かせる。

 顔だけじゃない。身体も骨の形が見てとれる程にまで肉を失い、細く伸びた指先からは、大きく湾曲した鋭い爪が伸び始めていた。

「しゃああああっ!」

 受付嬢の喉から、猫が敵を威嚇する時の様な低い声が迸る。次の瞬間、受付嬢の身体が大きく跳ね上がった。

 彼女の身体は天井すれすれにまで到達すると、宙を滑る様に駆りながら俺達目掛け、突っ込んで来る。

 生臭い息遣いと共に、彼女の爪と牙が間近に迫る。

 刹那、乾いた粉砕音と共に彼女の身体が砂塵と化した。

 俺の眼と鼻の先に、もはや面影の一欠けらもない彼女のなれの果てが、こんもりと黄土色の砂丘を築き上げていた。

「麗さん、ありがとう」

 安堵の吐息を着く俺に、麗さんは茶目っけたっぷりの舌ぺろりんこで答えた。

「今の、何? 」

 寿々音に問い掛けてみたものの、彼女も困惑の表情のまま唯首を横に振るだけだった。

「これがファイナルバーストか……」

「えっ? 」

 ぽつりと呟いた麗の顔を覗き込む。

「前に喜多から聞いたことがあるのを思い出したわ。案山子の秘書が某国の軍隊に囲まれて集中砲火を受けた時、今みたいな現象が起きたらしい」

「どんな状況だったんです? その時は」

「戦車やロケットランチャーの攻撃を受けて、何度も再生を繰り返したの。その結果、生体エネルギーを使い果たした秘書は、一度倒れた後に今回みたいに豹変して反撃したのよ。結果、百八名いた兵士はどうなったと思う?」

「殺された?」

「まあ、そうだけど。ただ殺されたんじゃないの」

「え?」

「食べられたのよ。一人残さず」

 俺は呆気にとられながら、大きく広がったままの麗の瞳をじっと見つめた。

「彼女達は超人的な身体を維持するのに厖大なエネルギーを摂取しなければならないの。その供給が長時間途絶えたり、一気に大量のエネルギーを消費したりした時に、本能が理性の箍をとっぱらい、暴走するのよ」

「その後、元の姿に戻ったりするんですか?」

「完璧にとまではいかないようよ。彼女も感情が顔に出なくなったらしいし」

「麗さん、その秘書、誰だか分かりますか?」

 寿々音が麗に問い掛けた。 

「うーん、名前までは掴んでないな……確か、今は戦線離脱して居住区の管理を任されているって聞いたけど」

 俺は言葉を失った。

 寿々音も同様に思いつめた表情で言葉を呑み込んだまま黙って俯いている。

「ひょっとして、知っている人?」

 俺達の態度で察したのか、麗は俺の耳元でそっと囁いた。

「ええ……多分その人、俺達の世話役のかも」

 璃璃華の顔が否応無しに脳裏に浮かぶ。確かに、麻里李やさっきの受付嬢みたいに、璃璃華が俺達に笑顔をみせた事は一度も無い。初めて会った時から常に彼女が無表情のまま俺や寿々音に接していた。あれは、ファイナルバーストの後遺症故にだったのか。

「行きましょう」

 寿々音が強い口調で言い放った。沈痛な思いに表情を硬直させながらも、彼女は肩で風をきりながら先頭に立った。

 そうなのだ。

 今は立ち止まっている猶予などない。突き進むしかないのだ。このビルの中で起きている何かを明らかにする為にも。

 もはや残骸と化した受付のカウンターを尻目に、俺達は通路を進んだ。サーモンピンクに近い色合いの壁が、淡い照明にぼんやりと照らされている。  

突き当たりの壁に手を翳す。

フェイクウォールは静かに形状を解き、眩い白光と共に俺達を迎え入れた。

「これは……」

 それ以上の言葉を、俺は吐き出す事が出来なかった。

 見慣れた広いフロア―全体に無数の人々が横たわっていた。

 それも、夥しい血の海の中に。

「喜多っ!」

 寿々音が叫ぶ。と同時に中空へと跳躍。

 刹那、上方から猛スピードで落下してきた黒い影。黒っぽいパンツスーツ姿の若い女性。外観のイメージから推定すると二十代前半。栗毛色のポニーテールが重く揺れている。彼女も案山子の秘書の一人か。

 二人の影が交差する。

 寿々音の右足がバレリーナの様に綺麗な孤を描く。

 ずしゃり。

 重く水っぽい音と共に、寿々音の右足の描く軌跡が黒い影を真っ縦に両断する。  

 寿々音が猫の様に身体を丸めながらしなやかな身のこなしで着地した。

 遅れて地面叩きつけられる秘書の屍――否。

 立っていた。両断されたそれぞれの身体を、それぞれの片足で支えて直立していた。

 ポニーテールの彼女の口元に寒気がする様なおぞましい笑みが浮かぶ。

 左右に別れた半身が、ゆっくりと平行移動する。断面が寸部の狂いも無く密着――直後、彼女の身体足元からぐすぐす崩れ始める。冷笑を満面に張りつかせたまま、彼女は瞬時にして砂塵の山へと変貌を遂げていた。

「融合にエネルギーを相当使ってるから、この娘、多分復活は無理ね」

 麗は満足げに表情を緩めると、俺に向かってぐぐうううっとVサインを突き出した。

  物理的な攻撃ならば、秘書達の身体能力なら防ぎようがあるかもしれないが、麗の超常的な攻撃を前にしては、流石の彼女達もどうする事も出来ないようだ。麗が味方で良かったとつくづく実感する。

「案山子は何処にいるんだろ」

 累々と横たわる夥しい屍に顔をしかめながら、麗は乱れた後ろ髪を掻き上げた。日焼けしていない白いうなじが妙に艶っぽい。

「最上階にいると思います。このフロアーの中央にあるエレベーターで行けばすぐですよ」

 寿々音に指摘されない様に、自然な仕草でさりげなく麗のうなじから眼線をはずす。

「わっ!」

 不意に寿々音が短い叫び声を上げる。

「どうした――あっ!」

 寿々音の声に振り向いた俺の眼に、異様な光景が映っていた。

 砂塵の中から生えた白い手が、彼女の足首を掴んでいる。

 何て奴だ。手だけ蘇生しやがった。

 俺は迷わず砂塵から伸びる手首を掴んだ。

 手首は瞬時にして俺の手の中で砂塵となってさらさらと指の間から零れ落ちる。

 足元の小砂丘に憤怒に歪む女の顔が浮かぶ。

 容赦しない。

 簡抜を入れずに砂丘目掛け、右拳を突き立てる。

 砂塵の顔が苦悶へと変わり、ただの砂山と化した。

「油断ならねえ。何て生命力だ」

 俺は動揺する本心を曝け出さない様に、悲鳴を無理矢理心の奥底に封印した。

「気をつけて。敵はまだいる」

 寿々音が緊張を押し殺した声で俺に囁く。

フロアーの中央部から、ゆっくりと近付いて来る二つの影に気付く。白いブラウスにグレーのミニスカ―ト。足元は黒のパンプス。この修羅場と化したフロアーには余りにも不釣り合いな女子が、周囲の惨状に臆することなく、悠々とした足取りでフロアーの中央を闊歩して来る。

一人は艶やかな長い黒髪。もう一人は茶系のセミロング。沙由良と稀羅羅だ。

複雑な思いで、俺は迫り来る超女子を凝視した。

 つい先程まで味方同士だったのに殺し合う羽目になるとは。しかも、まがりなりにも彼女達は俺の命の恩人だ。この世界の虜囚となったあの夜、政府軍のスピリチュアルスーツ兵から俺を守ってくれたのだ。例えそれが、任務を遂行しただけでも。

「喜多、余計な感情は捨てろ。一瞬の迷いが死に直結するから」

 寿々音が抑揚の無い声でそう吐き捨てた。

 彼女の声に、戸惑いや迷いは無い。

 凄いな。

 敵味方の立場を状況に応じて即座に切り替えられる寿々音の思い切りの良さと決断力が、俺にはとてつもなく羨ましく感じられた。

「ここにきて団体戦ってか? 一人でも馬鹿強いのに。私達のこと結構高くかってくれているみたいね」

 麗は額に皺を寄せながら忌々しげに吐き捨てた。。

 不意に、秘書達は立ち止まった。まるで俺達の動向を伺うかの様に、じっとこちらを見据えている。

「あいつら、麗さんを警戒しているのかも」

 寿々音の呟きに、麗が小悪魔の様な意地悪そうな笑みを浮かべる。

「光栄ですわよっ」

 麗が地を蹴った。

 小柄な体躯が、ふわりと中空を舞う。

 徐に沙由羅が床面に拳を撃った。

 刹那、凄まじい振動と共に、床面が崩れた。

 崩れたのではなかった。沙由羅が引き剥がしたのだ。幅約数メートル、長さ数十メートルもの一枚板と化した床面を、彼女は表情一つ変えずに片手で持ち上げると、軽く手首のスナップだけで俺達目掛けて投げつける。

 その軌道上に中空を駆る麗の姿が。

 麗の顔が戦慄に歪む。

 俺は地を蹴り猛ダッシュ。躊躇わずに右拳を床板に叩き込んだ。

 拳が、凶器の断面と接触。

 同時に、身体の中で激流となって全身を駆け巡っていた気が、瞬時にして右手に集中し、蓄積された力を一気に解き放つ。

 凄まじい気の噴流はコンクリートの壁に無数の亀裂を刻むと、粉々に打ち砕いた。

 沙由良は俺の反撃に動じることなく、足元に飛んで来た砕け散った側壁の破片を、無造作に蹴り飛ばした。破片といっても一辺が一メートルは優にある代物だ。普通なら蹴り飛ばした足の方がダメージは大きい。だが、彼女は常人ではない。案山子の秘書なのだ。

 彼女が蹴った床片は、まるで流星の様に中空を超高速で削いでいく。

 刹那、俺の視界を小さな影が過る。

 それが寿々音だと誰もが気付いた時、彼女は、一瞬きもせぬうちに目前に達した巨石片を、それ以上の速度で蹴り返していた。彼女の脚が、白い雲を引きながら綺麗な半円を描くと同時に、中空を駆る巨大な凶器は、飛んで来た軌道をたどる様に真っ直ぐ突き進み、沙由羅の腹部を貫いた。

 が、沙由羅は倒れない。腹に巨大な風穴を開けたまま、彼女は平然とした表情で俺をじっと見据えている。だが数秒もたたないうちに、腹部に生じた空洞は着実に肌色の皮膚に覆われていった。目を疑う程に凄まじい蘇生能力。日々の武力衝突の中で垣間見ているとはいえ、驚愕の光景に変わりは無い。

 不意に、麗が彼女の前にふわり降り立つ。

 彼女は涼しげな笑みを浮かべながら手負いの秘書を見つめた。今まで平静を装っていた

 秘書の顔に、動揺ともとれる不安の翳りが浮かぶ。

 同時に、塞がり掛けた腹部が一気に崩れた。

 秘書は恨めしげに表情を曇らせる。薄い唇が醜く歪んで呪詛を紡ぎ始めた。刹那、彼女は衣服もろとも完全に砂塵と化した。

 稀羅羅が悔しげに表情を歪めながら地を蹴り、空を駆る。

 次の瞬間、宙空に逃れた彼女を、一つの影が捉えていた。

 寿々音だ。

 稀羅羅がその存在に気付いた時、既に屈辱的敗北が彼女の直近的未来を余儀なき事実として刻み始めていた。

 寿々音の右脚爪先が、稀羅羅の腹部に容赦無く食い込む。

 稀羅羅は身体をくの字に折り曲げると、口から吐瀉物を巻き散らしながら寿々音と共に中空を滑走し、エレベーターの中腹に叩きつけられた。

 外壁の強化ガラス面に蜘蛛の巣状の亀裂が走るや、エレベーターそのものが、吹っ飛ばされた彼女の体躯同様、大きくくの字に湾曲すると、ぽっきりと真っ二つに分断する。だがそれでも稀羅羅の身体は勢いを落とすことなく、ガラス片やコンクリート片を撒き散らしながら、後方の壁に激突した。

 稀羅羅の身体が、喰い込んだ外壁からはがれ落ち、真っ逆さまに落下した。

 重力に逆らう事無く自由落下する稀羅羅の姿が、瞬く間に視界を過り、床面に吸い込まれていく。

 一刹那後、鈍い衝突音とともに、夥しい砂埃が舞い上がった。

 寿々音は砂塵を避けるように大きく中空を舞うと、僅かな衣擦れと共に俺の後方に降り立った。

 何てパワーだ。まさに寿々音の渾身の一撃。

「勝ったのか……?」

 不安と安堵が入り混じった焦燥にかられながら、彼女の運命を追尾する。

 刹那、俺の眼に実体化した戦慄が映し出されていた。

 瓦礫の中に仁王立ちする人影。

 稀羅羅だった。

 彼女は平然とした表情で立ち上がると、何事も無かったかのように地を蹴った。身につけているブラウスやスカートは、流石に数々の衝撃に耐えかねてずたずたに引き裂かれ、もはや原型を留めてはいない。但し、彼女の身体には傷一つついちゃいない。ぼろぎれ同然の衣服の残渣から見え隠れする白い肌や下着よりも、俺の関心はむしろそちらの方に傾いていた。

 感情を宿していない稀羅羅の眼が、こっちを見つめている。

彼女が地を蹴る。

 あれだけの衝撃を受けながら、ダメージを全く感じさせない俊敏な動きでこちらに迫ってくる。

 感情の片鱗一つ宿していない機械的な彼女の瞳が、まっすぐこちらを射貫いている。

 ターゲットは、俺なのか?

 動揺する間もないうちに、俺は彼女の射程距離に捉えられていた。

 無表情のまま撃ち放たれた彼女の拳が、目と鼻の先に迫る。

 刹那、彼女のシルエットは瞬時にしてぐすぐすと崩れ始めた。彼女の俊敏な動きよりも麗の施術の方が勝っていたのだ。

「喜多君、奴らから生体エネルギーを奪い取ってっ!」

 麗が振り向きざまに叫ぶ。

「多分、今エネルギーを吸い取っちゃえば、ファイナルバーストを発動する前に奴らの細胞は不活性化して死滅するはず」

「了解」

 俺は麗に答えるや、瓦礫を避けながら砂塵群目掛けて疾走する。

 最初のターゲットは、どてっぱら風穴娘だ。タイミングでいけば、こいつが一番最初に再生するはず。

 堆く盛り上がる黄土色の砂塵に右拳を叩き込む。

 刹那、砂塵は俺の一撃を避けるかのように大きく舞い上がった。

「えっ?」

 肩すかしを喰らった俺は、呆然と砂塵の不自然な動向に目を向ける。

 同時に、四方からも砂塵が舞い上がり、それらは渦巻きながら目前の砂塵に次々と合流していく。

 えっ?

 こいつら、ひょっとして合体しようとしている?

 一瞬脳裏を過る根拠の無い推測に動揺しながらも、俺は再び拳を砂塵目掛けて撃ちすえた。

 サンドバックをぶん殴った時のような重い衝撃が、拳を包み込む。

 今度は捉えた。

だがおかしい。

 力が流れ込んで来ない。今まで俺の意思に関係無く圧倒するかのように流入してきた力の噴流が、全く感じられない。

 不意に、ぞくぞくっと悪寒が背筋を掛け抜ける。

 俺の本能が、得体の知れぬ恐怖に警鐘をかき鳴らす。

 一抹の不安を覚えながら、俺は拳を引――動かない。纏わりつく数本の砂塵の筋が拳の表面をぬめる様に徘徊し、その不完全な存在から想像できない凄まじい拘束力で、僅かに可能であった動きすらも完璧に支配下に陥れていた。

「くそうっ!」

 意識の深淵から一気に突き上げてきた焦燥の渦が、俺から平常心を根こそぎ奪い取って行く。

 なんて力だ。拳が、ぴくりとも動かない。 

 否、それだけじゃない。

力が入らない。

 筋肉が急速に弛緩しているのを感じる。何なのだろう、これは……気力に満たされていた筋肉の細胞の一つ一つが、次々に緊張を解いていくのがはっきりと分かる。

 不意に、視界を黒い影が過る。

 砂塵の築く虚像が大きく仰け反りながら猛スピードで後方へと退いた。

 同時に、俺の右手が束縛から解き放たれる。

「大丈夫っ?」

 気迫に満ちた鋭い眼光が俺を真近に捉えていた。寿々音だ。彼女の蹴りが、砂塵の魔手を瞬時にして切断したのだ。

「ああ、何とか」

 寿々音に強がりを言って見せるものの、囚われていた右手は今だ無力感に苛まれたまま小刻みに震えていた。

 切り落とされた砂塵の拘束帯は散り散りになると再び本体に取り込まれていく。

「喜多君、無事?」

ワンピースの裾を翻しながら、麗が俺の傍らにふわりと降り立つ。

「麗さん、やばい。俺の力、奴には通用しない」

「えっ! それって?」

 大きな眼をマックスまで見開いて、麗は俺を凝視した。

「俺の方が、力を吸い取られてしまうんだ」

 俺は目を伏せ、苛立たしく拳を握った。

「そんな……」

 麗の表情に落胆ともとれる驚愕の翳りが浮かぶ。

 想定外の展開に、著しく戦意喪失を余儀なくされた俺を嘲笑うかのように、砂塵は一度大きく舞うと、次の瞬間一気に集束し、巨大な人型を築き上げた。

 四階建てビル程の巨躯は、無駄な肉が一切削げ落ち、絞り込まれた筋肉と皮膚だけがその骨格を覆っている。艶を無くしたぼさぼさの長い黒髪の間から覗く両眼は、眼窩の形そのままに見開かれ、俺達をじっと見下ろしていた。

角質がささくれだった土気色の肌と零れ落ちんばかりに見開かれた眼球、そして大きく裂けた口蓋は、元のハイレベルな超美形身姿の名残の片鱗もない。

「私が仕留める」

 麗の眼に、凄まじい闘気の炎が揺らめく。

 同時に、異形化した秘書の融合体が、さらさらと分子化し始めた。

「やった……」

 安堵の表情を浮かべた刹那、それは一瞬にして苦悶の表情へと変貌した。

 その意味を問うまでも無かった。

 俺は目の当たりにしていた。

 砂塵になりかけた奴の体躯が、瞬時にして何事も無かったかのように形状を復活させていくのを。

「早過ぎる。いくらなんでも直ぐに再生するなんて……そこまでエネルギーは持ち合わせてないはず」

 麗は眉を顰めながら不満げに吐き捨てた。

「麗さん、あれっ!」

 寿々音が興奮気味に無数の屍が横たわるフロアーを指差す。

 累々と横たわる屍の間を、何かが蠢いている。

 触手だ。この触手の元締めは、言うまでもない……あの異形化した秘書の融合体。彼女達の身体から不規則に伸びる黄土色の不気味な無数の触手が、蛇の様に素早くフロアーを徘徊しながら横たわる屍に絡みついている。

 否、絡み付いているだけじゃない。触手は屍に取付くと、ゴムの様に薄く伸長し、表面をすっぽり覆い隠していく。メタモルフォーゼした触手は包み込んだ屍の輪郭を立体的に浮かび上がらせるものの、見る見るうちに収縮し、元の触手サイズにリバースした。

「遺体を取り込んだのか? ひょっとして、麗さんの言ってた敵部隊を喰らい尽くした秘書ってあいつの事?」

 信じられない様なおぞましい光景だった。まるで水耕栽培の植物の根のように広がる無数の触手は、瞬く間に分裂を繰り返し、フロアーを埋め尽くしていた屍全てを覆い尽くしていた。

「ひどい……人を食べて、それをエネルギーにするなんて」

 呆然と佇んでいた寿々音が、身体を小刻みに震わせた。硬く結ばれた彼女の拳の中で、爪が激しく肉に喰い込んでいる。

 恐怖からじゃない。多分、今の彼女は恐怖なんざほんの一かけらも感じちゃいない。

 彼女の意識の中では、とんでもない爆発力を秘めた底知れぬ怒りが破裂寸前まで膨れ上がり、暴走しかけているのだ。

 彼女の理性の箍が崩壊し、リミッター制御がきかなくなるのも、もはや時間の問題の様に思えた。

「寿々音ちゃん、早まっちゃだめ。あいつは今までの御嬢様達とは格が違う」

 寿々音の心中を察した麗が、強い口調で彼女を制した。

「これじゃあ分が悪いわ。二人とも、一旦退却しまし――」

 そこまで言いかけて、振り向いた麗の表情が硬く強張る。

 かっと見開かれた彼女の両眼は、俺の後方をじっと凝視していた。

 彼女の不穏な表情に一抹の不安を覚えながら、その視線の先を追った刹那、俺は言葉を失った。

 崩落したエレベーターの残骸のそばに佇む人影――璃璃華だ。いつもと同じ、メイド服姿で、物憂げな表情を浮かべながら、こちらをじっと見据えている。

 最悪の展開だった。最も考えたくなかった、最も対峙したくなかった敵が、俺達の退路の前に立ち塞がっているのだ。

「くそうっ!」

 やるせない思いが、行き場のない憤りとなって俺の意識を震わせる。

 異形化した秘書は、俺達の苦悩を楽しむかのように、大きく口を開き、甲高い笑声を上げた。

 璃璃華は大きく息を吐くと、傾きながらもかろうじて立っているエレベーターの残骸にしがみついた。

 いったい、何をする気なのか。

 思いもよらぬ彼女の行動に、俺は警戒を忘れ、茫然としたままその動向を追った。

 璃璃華のスリムな腕が、大きく膨れ上がる。緊張した筋肉のうねりが、遠目でもはっきりと分かる位、見事な造形美を浮かびあがらせている。

 無機質な軋み音。次の瞬間、傾いたタワーエレベーターの基礎に亀裂が走った。

 やがてその亀裂の感覚が、じわじわと広がっていく。

 彼女が持ち上げているのだ。崩壊し、従来の半分程の高さになったとは言え、明らかに人一人で持ち上げられる様な代物じゃない。 

 否、違った。

 璃璃華は人じゃない。

 見た目はメイドでも、実際には案山子の秘書の一人。

「みんな、避けなさああああああああいっ!」

 愕然としたまま佇む俺たちに、璃璃華は声を張り上げて叫んだ。

「えっ? 何?」

 彼女の絶叫に戸惑いながらも、俺達は反射的に側方へ跳躍した。

 璃璃華の上半身が大きく反り返る。

 急速に傾くタワーエレベーター。

 鋭利な切断面が大きな弧を描く。と、次の瞬間、彼女はバックドロップを掛ける様な体制でそれを投げ飛ばした。

 巨大な建造物は急遽水平方向に進路を変え、急加速して中空に軌跡を刻んだ。

 大口を開けて勝ち誇った笑声を上げていた異形化秘書の表情が、一転して硬く強張る。

 刹那、エレベーターの裂けた支柱の先端が奴の口を貫き、臀部から抜けるとそのまま側壁に突き刺さった。

 異形化秘書は耳を塞ぎたくなる様な甲高い断末魔の叫びを上げると、激しく身悶えして突然の拘束から逃れようと試みる。が、よほど壁に深々と刺さっているらしく、手足をばたばたと振り回したところで、奴をぶち抜いているタワーはびくともしない。

 俺は呆気にとられたまま、悶絶する異形化秘書をただ茫然と見つめていた。

 思いもよらぬ展開だった。

 璃璃華は、俺達を助けようとしている? 

 何故……。

 困惑しながら、俺は璃璃華の姿を追う。

 刹那、そんな俺の追尾を振り払うかのように、彼女は上空へと大きく跳躍。

 速い。

 眼で追う俺が再び彼女を捉えたのは、跳躍が最頂の位置に達した時だった。

 ビルの天井すれすれに、彼女はいた。

 一刹那の静止から、自由落下へと変わる寸前、彼女の右足が大きく円を描き、爪先がかろうじてぶら下がっているエレベーターの上半分の残骸と天井の接合面に食い込んだ。

 天井に太い亀裂が走り、エレベーターを皮一枚で支えていた外壁が崩落する。

 更に追い打ちをかける様に、璃璃華はむき出しのエレベーターの断面に、踵落としを決めた。

 急激に加速した残骸は、むき出しの鉄骨を床面に向けたまま、真っ直ぐ落下し、ターゲット――異形化した秘書の後頭部を容赦無く貫き、床面に突き刺さった。

 異形化秘書が苦悶の咆哮を上げ、口から赤黒い液体を吐き出した。。

 一陣の風を巻きながら、璃璃華は、俺のすぐ傍らに音一つ立てることなく着地した。

「みんな、大丈夫か?」

 あれだけの激しく暴れまわったにもかかわらず、璃璃華は息一つ乱さずに淡々と語った。

「璃璃華、何故俺達を助ける?」

 俺は震える声で璃璃華に尋ねた。

「私が何故、戦闘からはずされて居住棟の管理人に回されたと思う?」

 俺の問い掛けをさらりと流すと、璃璃華は反対にそう問い掛けてきた。

「彼の命令を拒否ったことがあるからだ」

「えっ?」

「元々は奴らと同じ傀儡にすぎなかったのだがな。ファイナルバーストを経験した時から、私の思考に自我が芽生えた」

「ひょっとして、それって他国の軍隊を壊滅させた――」

「知っているのか?」

 璃璃華はやや驚きを交えた表情で、俺をじっと見つめた。

「詳しくは、知らない」

 まずい事言っちまった感を覚えながら、俺はさり気なく目線を反らした。

 俺が、一連の話を知っているとなれば、彼女にとっては恐らく知られたくない黒歴史についても当然知っていると推測出来るだろう。不意に生じた気まずい雰囲気の中で、俺は騒めく意識を強引に押さえつけながら、わざとらしい位に平静を演じた。

 だが意外にも、璃璃華はそれ以上俺に追及することなく、ゆっくりと語り始めた。

「表向きは原子力発電所という振り込みだったが、蓋を開けると某大国が極秘に作り上げた核兵器の大規模工場兼格納庫でな。その一ヶ所から、世界を同時に攻撃し、滅ぼすことが出来るというとんでもない軍事施設だった」

璃璃華は、苦悶のうめき声をあげ続ける異形化した同胞に目を向けた。

「情報を掴んだ案山子は、私と稀羅羅、沙由羅の三名に、その真偽を確かめるよう潜入捜査を命じた。だがこれだけの軍事拠点となると、警備は厳重で、侵入を試みた我々は程なくあちらのセキュリティーにひっかかり、追い詰められてしまった。応戦と受けたダメージの再生を繰り返し、極度の疲労と飢餓状態に陥っていた私達に、案山子はどういうわけか核ミサイルを全世界に放てと命じてきた。それが水面下で日本を追い詰めているアンダーラウンドな戦争を終焉させる最も効果的な方法だとな」

 璃璃華はひとしきり話すと、憂いに満ちた表情で重い吐息をついた。彼女が俺達に初めて見せた人間らしい感情表現だった。

「嘘……信じられない」

 寿々音が、青ざめた表情でうつむいた。

「私達は案山子の指示を少しも疑わずに実行しようとしていた。案山子の命は、私達にとって絶対だったからな。だが、実行に移す直前に、私達は全員、ほぼ同時にファイナルバーストを発動し、思考をロックしてしまった」

 璃璃華の話を、俺は苦悶の思いで聞き入っていた。

 出来れば、ここから先の話は聞きたくない。恐らく寿々音もそうだと思う。だが、そんな俺達の思いとは裏腹に、璃璃華は淡々と語り続けた。.

「私達には、生命存続の危機に陥った時、残っているエネルギーを一気に解放することで、事態の収拾を図ろうとする潜在的な能力がある。これをファイナルバーストと呼んでいるのだが、失敗すればもはや蘇生も再生も望めない、言わば最後に残された賭けの様なものだ。それも、潜在意識が思考と直結して指令を下すから、いつどのタイミングで起きるのかは分からない。発動すると、私達の思考は敵味方など関係なく、ただ飢餓だけがすべての行動を支配するようになる」

 璃璃華の話に、俺は衝撃を覚えていた。生きる為に思考がロックされて本能が肉体を支配する――それは理性が完璧に吹っ飛んでしまうという事だ。彼女の告白は、胃袋を満たして飢餓を解消する為に、形振り構わない行動をとった事実を裏付けるものだった。つまりは、人間を捕食したという話も真実味を帯びてくる。

「あの時、奴らがモンスター化する中で、私は何故か異なる発動を経験していた。私は自分の頭の中でもう一人の自分を感じ取っていたのだ。自分で考え、自分で行動する、本来の私自身の存在を。それは、元々の私という意識を凌駕し、新たなる自我を主張した――それが今の私だ」

「それが、何故、案山子に逆らうことになったの?」

 黙って事の成り行きを伺っていた麗が、静かな口調で璃璃華に尋ねた。

「核ミサイルを破壊した。というより、喰い尽くしたというべきか」

 淡々と抑揚のない声で語る璃璃華を、眼を見開いて凝視する。。

「喰い尽くしたって?」

「そうだ。正しくは核弾頭をな。ちなみに、沙由羅は敵兵を、稀羅羅は発電所の電気を喰い尽くした。もし私が核弾頭を食い尽くしていなかったら、世界地図は大幅に変わっていただろう」

 俺は言葉を失った。俺だけじゃない、麗や寿々音も、どう考えたって信じられない璃璃華の発言を、幾度となく反芻していた。

 理解し難い璃璃華の行動に、俺達の思考回路は全員白旗を上げていた。

「何で、また……」

 俺は沈黙を破るべく、苦し紛れの一声を上げた。

「案山子の命令に従えば、結果的に戦争は終結するだろう。だがその反面、大勢の犠牲者が出ることになる――我々も含めてな。それに、この惑星の生態系そのものが死滅することになる。元はと言えば、案山子が私達秘書を作り上げたのは、犠牲者を出さずに平和な世界へと導く為だった。民間人を巻き込まずに、暴走する政府軍に対抗しつつ、連合軍を制圧する為に。だからあの時、私は判断したのだ。案山子の指示は間違っていると」

 強烈な風切り音が間近を通過。思わずのけぞった刹那、璃璃華の身体が大きく後方へ吹っ飛ぶ。

「璃璃華っ!」

 叫びながら彼女の姿を追う。

 刹那、悲劇的な光景が俺の眼を埋め尽くしていた。

 鉄骨が、彼女の腹部を貫いていた。それも大の大人一抱えはある太さの。

 彼女は倒れなかった。だがそれは、彼女自身の足で支えている訳ではなかった。

 彼女を貫く鉄骨の先端は、背後の壁に深々と突き刺さっていたのだ。

「奴に、まだ反撃する余力が残っていたとは……糧となる屍は全て喰らい尽くしたはず」

 璃璃華は苦悶に顔を歪めながら、荒い呼気と共に台詞を絞り出した。

「あ、あれはっ?」

 寿々音が、禍々しいものを見るかのような表情で異形化秘書の下腹部付近を指さした。

 見ると、串刺し状態で身動きできずにる本体から、人の形をした上半身の様なものが突出していた。艶めかしい肌色のそれには本体とは別に顔らしきものが形成されている。

 稀羅羅だ。稀羅羅は宿主の沙由羅との融合を維持したまま。両手を、そして指を根毛の様に四方に伸長させていた。

「喜多、あそこっ!」

 寿々音が上ずった声で前方を指さす。俺は反射的に視線を彼女の示す方向に同調させた。

 稀羅羅の毛根化した指が、むき出しになったエレベーターの動力部を取り巻いている。それが何を意味するのか、一目瞭然だった。

 彼女は電気を取り込んでいるのだ。以前、某国の原子力施設でやった時の様に。ただあの時と違う点は、吸収したエネルギーを自分の為に使用するのではなく、宿主の沙由羅に供給しているということだろう。

 ある意味、彼女自身の意志ではないのかもしれない。ひょっとしたら、彼女の思考はすでに沙由羅の支配下にあり、ただ単に沙由羅の母体を維持する組織の一部としての存在にすぎないのかもしれない。

 様々な憶測が思考を刺激するものの、再び俺達が最悪の状態へと陥った点に変わりはなかった。

「電気を生体エネルギーに転換したのか……奴め、それを見越して稀羅羅を取り込んだようだな」

 璃璃華は恐ろしく落ち着いた表情で感心した口調で呟くと、腹部を貫いている鉄骨に手を掛けた。

 鉄骨にかけられた指先が小刻みに震え、上腕筋が従来の倍以上の太さに膨れ上がる。

 鉄骨が、そろりそろりと動き始める。

 次の瞬間、璃璃華はその禍々しき凶器を一気に引き抜いていた。

俺は息を呑んだ

腹部にぽっかりと開いた大きな穴は見る見るうちに塞がり、数秒と経たないうちに、白い肌が全てを覆い隠していた。

「奴の始末は私がつける。御前達は案山子を追え。まだ最上階のオフィスにいるはずだ」

「えっ?」

 俺は戸惑いながら彼女を見た。

「早く行け。私は少々力を使い過ぎたようだ。もうしばらくすると確実にファイナルバーストを発動する。そうなれば、今の様に理性を保てるかどうかの保証はない」

 璃璃華は微笑みを浮かべていた。常に無表情で感情を露わにしない彼女が、初めて俺達に見せた姿だった。

「……分かった」

 俺は吐息よりも重い調べを言霊に添えた。

 本意を強引に押さえつけて。

 俺は感じた。

 彼女は、恐らく死を意識している。言葉にこそ出してはいないが、彼女が初めて見せた微笑が、散りゆく前の大輪の花の様に感じられたのだ。

「璃璃華、夕食までには戻ってきてっ! あなたのご飯が一番おいしいからっ!」

 寿々音が顔を真っ赤にしながら叫ぶ。

 璃璃華はいつものように無表情のまま頷くと、さっきまで己の腹部を貫いていた鉄骨を小脇に抱えたまま大きく跳躍した。

「行きましょうっ! 喜多君、ナビお願いっ!」

「はいっ!」

 麗の号令が、当惑し、立ちすくんだままの俺達の背中をぽおんと押した。

「階段で行きます。エレベーターは、もうどれも使えそうにないんで」

 俺は走り出しながら、後続の二人に声を掛けた。

 異形秘書の雄叫びと凄まじい振動が背後から響く。

 始まったのだ。

 秘書同士の闘いが。

 俺は振り向きたい思いを押し殺しながら、瓦礫の間を駆け抜けた。

 振り向けば、立ち止まってしまう。たぶん、確実に。

 助けられないのは分かっている。

 力の差は、さっき嫌と言うほど見せつけられたから。それに、璃璃華の身体能力なら、あの化け物とは互角に戦えるだろう。かえって俺達が留まるほうが、彼女にとっては足手まといになる。

 そう自分に言い聞かせながら、そう自分を無理矢理納得させながら、俺は走り続けた。

 でも、それだけじゃない。

 見たくなかったのだ。

 彼女の、もう一つの姿を。

 気が付けば、彼女は居て当たり前の存在だった。言ってしまえば、まるで家族の様な。不愛想ながらも、黙っていても痒い所に手が届く、さり気ない気配りは、出来の悪い兄弟の世話をする年の離れた姉的な感じであり、世話のかかる幼い子供の面倒を看る母親の様でもあった。

 彼女を愛している。

 男女の関係ではなく、もっと崇高で純粋で高次元の、精神的な結びつきでの愛だ。たぶん寿々音も同じ感情を持ち合わせていると思う。

 それだけに、俺は見たくなかったのだ。彼女が彼女でなくなる姿を。それも、俺達を守る為に、あえて自分を犠牲にしようとする彼女の姿を。

 非常口を示す電光掲示が視界にはいる。

 階段は、その向こうにあった。

 ペースを落とさず駆け上がる。壊滅的な破壊を受けたセントラルスペースとは対照的に、階段は意外にも原型をとどめており、通行の妨げになる障害物は何もなかった。そればかりか、ある程度は予測していたトラップも、拍子抜けする位何もなかった。よほど出入り口のセキュリティに自信があるのか。それにしても無防備過ぎるのが気にかかる。

 階段をのぼりつめると、グレイのスチール製のドアが、侵入者への拒絶を示すかのように無言の重圧を放ち、俺達の行く手を阻んでいた。

「ここが最上階。案山子の部屋がある場所です」

 駄目もとでドアに手をかざす。恐らくオーラ認証に登録されている俺達のデータは消去されている可能性がある。

 が、そんな危惧を嘲笑うかのように、ドアは静かに動いた。

「うわあっ! 何これ?」

 麗が驚愕の声を上げる。

 グレイに近い金属光沢の通路が視界を埋め尽くす。立体感の無い不思議空間。全ては単純な眼の錯覚なのだが、初めて目の当たりにする者にとっては驚異の光景なのだ。

 俺が初めてここに連れてこられた時も、そうだった。

 あれから数か月――まさか、こんな展開になるとは、予想すらしなかったのだが。

「行きましょう。これはトリックアート。錯覚です」

 困惑する麗にそう告げると、俺は足を一歩踏み出した。

「うわっ!」

 俺はバランスを崩し、前のめり転倒――仕掛けた刹那、誰かが俺の腕を引っ張ってくれた。

 寿々音だ。

「どうしたのっ?」

「床が無いんだ……」

 状況が飲み込めず、激しい剣幕で叫ぶ寿々音に、俺はぽつりと答えた。

 床面が消えていた。目視では、いつもと同じ金属光沢のある床なのだが、踏み出した脚には何の感触も感じられなかった。

「待って、ちょっと見てみるね」

 麗がポケットから携帯電話の様な何かを取り出した。次元の歪を調査する装置だ。以前、喜多准教授の生家近くで使った優れものアイテムだ。

「やっぱりね。この通路、空間がループしている」

 麗が見せてくれたアイテムの立体画像には、メビウスの輪の様に大きくねじれた通路が映っていた。

「このまま通路に足を踏み入れたらどうなると思う?」

 麗が、俺の顔を見つめた。

「ひょっとして、異次元空間を彷徨うことになる?」

「ピンポーン」

 台詞の割には、麗の眼は笑っていなかった。忌々し気に顔を歪めながら、食い入るように3D画像に見入っている。

 トラップが何もない不用心さが気になっていたのだが、それも、最後の最油断した侵入者を陥れるための、ある意味トラップだったのだ。

「じゃあ、案山子の部屋までは行けないの? せっかく璃璃華が自分を犠牲にして……」

 寿々音は憤慨し、言葉を詰まらせた。悔しさの余りか、目に涙が浮かんでいる。

「大丈夫よ。ここを見てっ! 壁沿いに約三十センチの通路がある。」

 麗が3D画像の外縁を指さした。ちょうど壁から三十センチ程の区間だけが、歪の影も無く、はっきりとした輪郭を維持したまま、各部屋の前を通じている。

 寿々音が徐に身を翻すと、ドアの向こうに消えた。

「待てえっ!、慌てるなっ!、落ちたら異次元の迷子になっちまうぞっ!」

 慌てて寿々音に声を掛ける。が、彼女は臆することなく壁沿いを疾走。

 度胸があるというか、何というか。

 呆気にとられる俺の傍らを麗がすたすたと通り過ぎていく。彼女は走りこそしなかったが、競歩のフォームで足早に寿々音の後を追う。

 こんな時、女性の方がかえって度胸がすわっているようだ。だってそうだろう。ホラー映画なんかで、きゃあきゃあいいながらも生き延びるのは、大抵女性だったりする。

 そしてほとんどの場合、男はさっさとシリアルキラーの餌食になっちまうのが、その手の映画のど定版なのだ。

 とはいえ、いつまでもへたれったまま、黄昏ている場合じゃない。

 俺は気を奮い立たせると、ドアの向こうへと足を踏み入れた。

 足元と前方を交互に見据えながら、先を進む二人の後を追う。

 何処がドアだか全く区別のつかない凹凸の無いのっぺりとした壁が続いている。

 錯覚を利用した視覚マジック。

 が、そんなまやかしは寿々音には通じない。

 彼女は徐に立ち止まると、躊躇うことなく壁に綺麗な蹴りを放った。

 重低音の粉砕音と共に、壁に黄金比に則った四角い空間が生じる。

 寿々音が、警戒心を微塵も感じさせない足取りで、部屋の中へずかずかと入っていく。彼女に少し遅れて麗が、更に遅れて俺もその後を追う。

「乱暴ですね。ロックはかかってませんでしたよ」

 皮肉めいた案山子の声が、広いフロアーに響く。

 フロアーの中央にしつらえられた豪奢な机の向こうに、彼は一人佇んでいた。

 無防備だった。秘書が一人もいないのは分かる。皆、戦闘モードになって、俺達を襲撃することを第一目標を掲げているから。とは言え、普通なら最低限のボディガード位つけるだろうに。

 俺達の反撃を想定していなかったのか、それとも、通路の様に、この部屋にも難攻不落な次元トラップが随所に仕掛けてあるのか。

 それとも。

 秘書以外、皆、消してしまったのか。

「あなた達がここにたどり着けたということは、やはり璃璃華は私を裏切ったのですね。まあ、想定はしてましたが」

 一点の動揺も見せずに案山子は抑揚のない声でさらりと言葉を綴った。

「稲守……教授?」

 麗は表情を硬く強張らせながら、苦し気に台詞を吐いた。

 俺はあっけにとられたまま、麗を凝視する。彼女の紡いだ台詞に、俺の意識は瞬時にして根こそぎ絡め取られていた。

「麗さん、お元気で何よりです」

 案山子は、動揺を隠しきれない麗とは対照的に、平然とした表情を崩すことなく微笑みを浮かべながら彼女を見つめた。

「やっぱりあなたが、案山子の正体だったのね」

 麗が静かに吐息をついた。

「左様で。稲守だけにね。稲を守るイコール案山子と言う訳です。ちょっと洒落っ気を出してみました」

 案山子――稲守教授は、嬉しそうに目を細めながら麗に答えた。

「麗さん、案山子の事知ってるの?」

 俺の問い掛けに、麗は一転して険しい表情に豹変した。

「ええ。彼は喜多の育ての親よ」

 憮然とした表情の麗に、俺は驚愕の眼差しを注いだ。

「説明して。どうしてこんな事態を引き起こしたのか」

麗が般若の面相で案山子に喰らいつく。

 案山子は答えなかった。ただ静かに笑みを浮かべたまま、じっと麗を見つめていた。

「これでいいのです。この国は、敗戦国になってはならない。絶対に戦争に勝たなければならないのです。その為にも、この地下世界の秘密を暴露しようとする反乱分子を壊滅させる必要があったのです」

 案山子は、まるで駄々をこねる子供をなだめるかの様に、やさしげな口調で麗に語り掛けた。

「それなら、何故革命組織なんかつくった? 言ってることとやってることが矛盾してるじゃないっ!」

 ヒステリックな声で寿々音が叫ぶ。カッと見開いた眼には燃え滾る憤怒の炎を宿し、今まで彼を見る時の、憧憬にも似た信頼と服従の姿勢は微塵も醸していない。

 だが、案山子は動じなかった。激しく罵り、捲し立てる寿々音を、顔色一つ変えずに、眼を細めながらじっと見つめている。

「何よっ! 何か言ったらどうっ!」

 相手にされていないと捉えたのか、寿々音は更に激しく逆上した。

「トラップですよ」

 案山子は、静かに言葉を紡ぎ始めた。

「現在確認できている反政府団体の人員構成は、元軍人が組織した武装集団も多少はいるものの、そのほとんどはごく普通の主婦や学生で、ハード面に対しては無力な存在ばかりです。そこで私は、彼らが持ち合わせていないハード面を充実させた組織を作り、同盟や融合を呼びかけました。同時に、政府に圧力をかけ、分立する反政府分子を粛清するように仕向けたのです。案の定、切羽詰まった彼らは、続々と私の下に集結し始めました。そしてとうとう全反政府組織が集ったのです――あなたを入れてね」

 案山子の眼が、麗をじっと見据える。 

「時が熟したと判断した私は、同志達全員にここに集まるよう、指示しました。名目は、同志達の身の安全を守る為ということにして。日頃過激化し始めた政府軍の動向もあって、彼らは迷わずここに集結しました。まさか誰しもが、今日というXデイが、自分達の存在を削除するものであるとは思いつきもしなかったでしょう。そのうえ、事を起こせば、残りのコンマゼロ一パーセントも姿を見せることも想定済でした。」

「いくら向いている方向性が違うからって、何も殺さなくても……」

俺は唸った。呼気が、無意識のうちに喉を低く震わせていた。さながら、獲物を狙う獣の様に。だがそれは、狩猟本能が齎す高揚感ではなく、直面した現実への激昂の調べだった。

 が、案山子は嫌悪の表情を浮かべながら俺を見据えた。

「そうはいかなかったのです。同盟を結び、或いは吸収合併して初めて、その危険性がより明白になったのです。反政府勢力の攻撃方法は、多くはソフト面によるものです。インターネットを武器に、あらゆる角度から攻撃を仕掛けるのです。ハッキングやウイルスによる政府のメインコンピューターへの攻撃は、日常茶飯事に行われ、時には深刻なダメージを与える程の成果を上げる場合もあり、政府にとってもある意味敵国よりも脅威の存在と言えるでしょう」

「俺達も、御前にとっちゃ危険分子なのか?」

 俺は憤慨しながら、案山子を凝視した。

「組織を知り過ぎましたから。自分の意思で行動出来る者全てが対象です」

「秘書以外は、って事か」

「いえ、彼女達も例外ではありません」

「えっ?」

 意表を突く案山子の回答に、俺は戸惑いを覚えた。

 どういう事か。従順な異能戦士までもを煙たがる理由が分からない。

 否、一人だけ例外がいた。

「璃璃華の事を言っているのか?」

 俺の問い掛けに、案山子は苦笑を浮かべた。

「彼女だけじゃありません。全員です。残念ながら、彼女達は欠陥品なのでね」

「欠陥品?」

「凄まじい攻撃力と再生能力は生物兵器としては素晴らしい出来栄えなんですが、それだけにエネルギーの摂取量がハンパじゃなくてね。一日十万キロカロリー以上摂取しなければ暴走し、敵味方なく喰い尽くしてしまう。これでは維持管理にリスクが有り過ぎるのですよ。生みの親としては悲しい事実です」

 案山子は苦悩の表情を浮かべた。だが、その表情に隠された心意までは読み取れなかった。維持する事自体の苦悩なのか、それとも、欠陥品とは言え、自分が生み出した創造物を消し去る行為についてなのか。

「稲守教授、あなたは確か、政府の海外侵略に同意した喜多の暴走に反対して彼の元を去ったんじゃ? 私が彼から離れたのと同じ理由だったはず。なのに、やってる事が彼と同じじゃないっ!」

 麗が怪訝な表情で案山子を見据えた。

「それもトラップと考えてください。反政府勢力を炙り出すためのね」

 案山子は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「酷い」

 麗は唇を歪め、忌々し気に吐き捨てた。

「さて皆さん、そろそろ幕を下ろしましょうか」

 案山子は静かに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。

 刹那、凄まじい破砕音と共に彼の背後の窓ガラスが粉々に砕け散る。

 表情一つ変えずに立ち尽くす案山子。同時に、彼の腹部が先決に染まった。

 異様な光景だった。

 彼の腹部から、異様なものが生えていた。それには幾つもの節目があり、球状に硬くむすばれている。

 拳だ。

「裏切り者め」

 両眼をかっと見開いたまま仁王立ちする案山子に、ぞっとする様な冷たい男声が囁きかけた。

 特徴的な口髭と顎鬚を蓄えた、痩身痩躯の青年――富士見東人だ。

 富士見は憤怒に唇を歪めながら、案山子の身体から拳を引き抜いた。支えを失った案山子の身体は、糸の切れたマリオネットの様に、富士見の足元に崩れ落ちた。

「みんな、無事かっ!」

 富士見は肩で大きく呼吸を繰り返しながら、足早にこちらに近付いてくる。

 不意に、彼の身体が大きく崩れた。

 俺は我が眼を疑った。

 富士見の右足が、消えていた。

 黒いスラックスの裾から褐色の砂が零れ落ち、床に小さな山を築いていく。

 それが誰が仕掛けたのかは一目瞭然だった。

「麗さん!」

 俺は麗を凝視した。 

 麗は般若の形相で、床に崩れた富士見をねめつけていた。

「何だよ、せっかく助けてやったってのによう」

 富士見はふてくされた表情を浮かべながら、ゆっくりと片足で立ちあがった。

「あなたは富士見じゃない。て言うより、富士見なんて元々いなかったんでしょ?」

 麗の眼がどこか悲し気な色を湛えた。

「どう言う意味だよ、それ。言っとくけど、俺が不死身だからってアンデッドだったって落ちはないぞ」

 富士見は苦笑いを浮かべながら麗を見つめた。

「誤魔化しても無駄よ。私は騙されない」

「冗談はよせよ……」

 弱々しく返事を返す富士見。

 強気の麗に気後れしたのか、彼は明らかに押され気味の態度で彼女に応戦した。

「あなた、玲於奈よね?」

 麗は静かに、そして自信に満ちた声で富士見に言い放った。

 俺は戸惑いながら、彼女と富士見を見比べた。

 どういう事だ?

 茫然とする俺をよそに、麗はつかつかと富士見に歩み寄った。

「麗ちゃん、何言ってんの? それに、玲於奈って誰?」

 富士見は、すっとぼけると、残された左足で大きく後方に跳んだ。

 一気に間合いを詰める麗。

 同時に、富士見の両腕が、さらさらと乾いた音色を奏でながら、砂と化していく。

「往生際が悪いわね」

 麗の眼が、妖しげな輝きを放つ。

 再び床に崩れる富士見。

 不意に、彼の顔を支配していた困惑の表情が、一転して弛緩する。

 同時に、富士見の身体に生じていた砂状化現象が停止した。

「参ったな、流石、元政府公安のブレインだけある」

 富士見は不敵な笑みを浮かべた。。

「えっ! 麗さん?」

 寿々音が目を見開いて麗をがっつり凝視する。

「あくまでも元よ。元旦那と別れた時に一緒に縁切りした」

 麗はさらっと問題発言すると、顔を真っ赤にして富士見を睨みつける。

「あなたが私をつけまわしてたのは、反政府組織の情報が欲しかったんじゃない。私の動向を監視するよう、案山子から命令されてたんでしょ? 公安に寝返る事を恐れて」

「半分はあってるな」

 感情を思いっ切りさらけだした麗のヒステリックボイスに、富士見は飄々とした表情で返す。 

 富士見の身体に異変が生じた。砂塵と化していた四肢が、動画の高速逆再生の様に、急速に元の位置に集束し、形状を再生していく。

 それだけではなかった。瞬時にして短かった髪がしゅるしゅると伸び始め、同時に顔と体躯の骨格が変貌を遂げていく。

振り乱した長い亜麻色の髪。その容姿はもはや富士見とは全く異なる顔となっていた。それも、パーフェクトな美貌を誇り、見る者の心を鷲掴みにする妖艶な魅力をたたえている。

 玲於奈だ。ほんの何時間か前には、綺麗に束ねられていた前髪が、美しさの中に清楚さを醸していたが、今の彼女は攻撃的な美のフェロモンを惜しみなく解き放っている。

「麗ちゃん、よく分かったね」

 玲於奈は僅かに頬を緩め、冷ややかな笑みを口元に浮かべた。

「確信したのは、あなたがフェイクウォールのロックを解除した時。あの時彼女は衝撃でバグらせたって言っていたけど、あれは間抜けなはったりよ。そう簡単に誤作動なんかしない。あらゆる衝撃にも耐えられる優れものよ。なんせあのシステムを作ったの、私だから」

 麗は鼻息荒く捲し立てると、ぎろりと玲於奈を睨みつけた。

「流石、博士号を取っているだけはある。でもね、そんなあなたでも、全てを見透かしている訳じゃない」

「どういう意味よ、それ」

「さっき言ったじゃない。半分は合ってるって。つまり、半分は間違いって事よ」

 不満げに抗議する麗を、玲於奈は軽く鼻であしらった。

「教えてあげる。富士見だけど、彼は実在したわ」

「したって?」

 俺は訝しげに玲於奈を見た。

「死んだ。一週間前にね」

 玲於奈は涼し気な表情でさらりと答えた。

「何故死んだと思う?」

 彼女は意味深な表情を浮かべた。

「殺されたのよ、案山子にね」

 静寂が空気を飲み込む。

「殺された? そんな……本物の富士見も異邦人だったんでしょ? そう簡単には死なないはずっ!」

 麗が疑い深げに玲於奈に問いただす。

「確かに。でも、これは事実。不死身の東人も、実は不死身じゃなかったって話よ。それと、私があの時ロック解除できたのは、事前に彼の生体データをコピーしていたからよ。奴が案山子に接触を求めてきた時、私は記憶下に奴の容姿を模写した。オーラの波長もね。念の為、指紋も握手を交わしたときにコピーした。だから、彼の事務所のロックを解除出来た訳」

「でも、どうして?」

「教えてあげられるのはここまで。あとはあの世で案山子に聞けば?」

 玲於奈は不敵な笑みを浮かべると、麗目掛け、一気に間合いを詰めた。

 刹那。彼女の影に寿々音の影が重なる。

 寿々音の渾身の蹴りをくらい、吹っ飛ぶ――はずだった。

 玲於奈は微動だにしない。

 蹴りは外しちゃいない。的確に彼女の鳩尾を捉えている。にも拘らず、彼女はほんの数ミリすら退いていないのだ。それどころか、哀れみにも似た表情を浮かべながら寿々音を見つめている。

 まずい。

 本能的に、俺は動いていた。

 玲於奈の右掌底が、躊躇する寿々音の前頭部を撃つ。

 コンマ数秒早く、俺は寿々音の背後から彼女を抱きかかえるように腕をクロスし、玲於奈の掌底を受ける。

 重い衝撃が、俺の両腕を襲う。が、俺が受けたダメージはゼロ。痛くもかゆくもない。

 彼女が撃ったインパクトは、俺の腕と接触した刹那、全てエネルギー変換されて俺の体内へとチャージされていた。

 玲於奈の表情が焦燥に歪む。

 俺は寿々音を抱えたまま、大きく後方へ跳躍。

 同時に玲於奈が放ったトゥ・キックが、僅かの差で空を切り裂いていく。

 追撃する玲於奈。が、それは本人の意に反して急制動が掛けられた。

 彼女の身体が、散った。 

 手も、足も、胴体も、首も。全てが、瞬時にして粉と化していた。

 麗が肩を激しく上下させながら、苦し気な呼吸を繰り返している。

「麗さん! 大丈夫?」

 慌てて麗に声を掛けると、ゆっくりとVサインで返してくれた。

「短い時間でここまでやるのは、ちょっと、無茶だった、かも」

 辛そうな呼吸を刻みながらも、麗は勝ち誇った笑みを浮かべた。が、瞬時にしてそれは引きつったような驚愕の表情にとって変わった。

 玲於奈の身体は再生していた。まるで何事もなかったかのように、優越感に満ちた表情で俺達に余裕の目線を投げ掛けている。

「そんな……早過ぎる」

 麗が、苦悶の調べを力無く紡ぐ。

「麻里李を食ったのは正解だったな」

 玲於奈が得意気に呟く。

「食った?」

 俺は耳を疑った。釈然としないまま、玲於奈が綴った台詞を咀嚼する。

「富士見の隠れ家で分子化された時、復活は私の方が早かったのよね。だから、今後のことも考えて、私の中に取り込んだの。ついでに、私達をとじこめてくれたブラインドのエネルギーもね」

 玲於奈は勝利を手中にしたと悟ったのか、満足そうな笑みを満面に湛えながら、残虐な目線を俺達に注いだ。

「私達は存在そのものが超絶級の高エネルギー体だからね。融合すれば、より無敵&不死身に近づくってわけ」

 玲於奈の語りを聞くまでもなかった。俺達はまさしくその超絶したとんでもない存在を階下で目の当たりにしているのだから。

「おしゃべりはここまで」

 玲於奈の顔から一転して笑顔が消える。

 間髪を入れずに、彼女は動いた。

 それも、俺に向かって。

 まるで舞を舞うかの様なしなやかな動きで、瞬時にして空間に動線を刻んでいく。

 俺が身構えるよりも早く、玲於奈の拳が、蹴りが、ありとあらゆる方向から空を裂く。

 超現実的で超近未来の戦慄に震撼しながらも、俺は彼女の攻撃の全てに防御を放棄した。

 無防備な俺の身体に、玲於奈の攻撃が容赦なく炸裂する。

 身体が不規則なリズムを刻みながら大きく揺れる。

 でも。

 俺には効かない。

 俺が異邦人として宿した能力に感謝だ。俺に注がれている彼女の物理的攻撃は、全て生体エネルギーに転換され、全身の体細胞に至福の恩恵をもたらしていた。

 ただ、何となく妙な感じもする。

 彼女は当然俺の能力を知っているはずだ。にもかかわらず、俺に攻撃を仕掛けて来るなんて。

 こいつ、何を企んでいる。

 俺の意識が孕んだ猜疑心を読み取ったのか、玲於奈は口元を吊り上げて、冷ややかな笑みを浮かべた。

 わかった。御前が何を考えているのか。

 仕掛けてやる。

 深々と俺の腹部にめり込んだ彼女の右ボデイブロー。次の攻撃に移るべく、引き戻される寸前に、俺はそれを両手でがっちりと固定した。

 同時に、手から体の中心部へと、気が流れ込むイメージを脳裏に描く。

 その瞬間、俺は凄まじい気の渦に飲み込まれていた。

 玲於奈の生体エネルギーが、俺の体内へと流れ込んでいるのだ。膨大な熱い気の噴流に俺の身体を構成する細胞の一つ一つが歓喜の咆哮を上げ、活性化していくのを感じる。

 玲於奈の膝が崩れる。顔からは急速に精気が失われ、俺を睨みつける両眼の瞳孔が開きっぱなしになる。

 彼女の上半身が、大きく背後に反り返り、俺の両手に体重がずしりとのしかかる。同時に、気の流入が停止した。それは、彼女の身体から生体反応が消えた事を物語っていた。

「麗さん!、こいつを分子化してっ! 奴の狙いはファイナルバーストだっ!」

「わかったあああっ!」

 俺の声に麗が即座に反応する。

 次の瞬間、俺の手に握られていた彼女の右手が砂状に分解し、指の間から静かに零れ落ちた。

「やったか……」

 瞬時にして砂山と化した玲於奈を、俺は安堵の吐息と共に見下ろした。

 玲於奈は、恐らく自らを窮地に追い込んでファイナルバーストを発動させ、俺達を仕留めるつもりだったに違いない。まともに戦っても勝機の見えない俺達相手に考えた苦肉の策だろう。

 だが、俺に生体エネルギーを完全に奪われた上に、麗に全身分子化されちまった以上、もはや復活は無理だろう。しかも、完全分子化は本日二回目だ。生体エネルギーの損失も相当なはず。

「麗さん、喜多っ、こっち来てっ!」

 いつの間にか案山子の傍らに立っていた寿々音が、表情を強張らせながら叫んだ。

「どうした?」

「見てっ!」

 慌てて駆け寄った俺に、彼女は床に横たわる案山子の死体を指さした。

「おかしいと思わない?」

「おかしいって……あっ!」

 俺は気づいた。

 大きく穴の開いた案山子の腹部。そこから出るべきものが出ていない。

 血だ。普通なら大量出血だけでなく、もっとグロい状況でなければならないのにもかかわらず、目を背ける様なシーンは存在していなかった。

「こいつ、本物じゃない。スピリチュアルスーツよ」

 案山子のそばでしゃがみこんで傷口を検分していた麗が、無機質な口調で語った。

「スピリアルスーツ?、じゃあ、案山子はダミーを残して何処かに逃げたって事?」

 寿々音が怪訝そうに眉をしかめる。

「でも、そうじゃないかも」

「えっ!、それって……」

 麗の含みを持たした発言に、俺は何かひっかかる物を感じた。

「既にこの世にはいなかったって事」

 麗はすっくと立ちあがると、ぽつりと呟いた。

「何故?」

 麗は答えなかった。何か遠くを見つめる様な目線で、案山子こと稲守教授を見下ろしていた。

「麗さん、本当に公安だったんですか?」

 寿々音の問い掛けを否定することなく、麗は黙って頷いた。

 麗が元公安のブレインだった――玲於奈がさりげなく言った一言が、俺の意識にすっきりしない不協和音を奏でていた。政府とは研究者としてかかわっていたのは知っていることだし、彼女もこの世界で生きていく上での手段として必要不可欠だったのは理解している。

 でも、公安となると、イメージ的に異質な存在だった。

 警察組織とは異なる、どちらかというと国家組織の深淵部と密接なつながりを持つ位置付けだけに、「元」という冠がついてもそう簡単には切れないのじゃないかと勘ぐってしまうのだ。事実、謎多き女性だった。機密の深淵部にいた人物が、反体制陣営に移っただけでなく、カフェのチェーン店のオーナーとして自由に生活しているのも不思議だった。元夫が背後から手をまわしているのか。もしくは彼女の異邦人としての特殊能力が危険過ぎて手が出せないのか。

 理由が何であれ、冷静に考えれば腑に落ちない点が多い。

 でも今まで、それはあえて触れずにいた。

 確証がないから。それと、彼女のキャラから、そんな複雑な背景が想像もできなかったから。彼女の性格と人格が、過去の黒歴史を完璧なまでに白壁の下に塗り潰していたのだ。

「麗さん、もっとよく教えてください。あなたと案山子――否、稲守教授との関係や、喜多の事を」

 沈黙の重圧に耐えきれなくなった俺の問い掛けに、麗は重い吐息をついた。

「分かったわ。話す」

 淡々とした口調で、絞り出すように呟くと、麗は俺を見つめた。

「稲守教授は喜多同様、この世界に迷い込んだ私を助けてくれた命の恩人よ。政府に裏から手をまわし、出生データとか私の個人情報を無理矢理作ってくれたり、学校に行ける様に配慮してくれたり」

「案山子にそんな権力があったか……いったい何者だったんだ?」

「彼は遺伝子工学と再生医学の権威だったの。表向きはね。裏では政府からの依頼で超生物兵器の開発に取り組んでいた。ちなみに、スピリチュアルスーツは彼が最初に開発した生物兵器。元々は要介護者が自由に動ける為の肉体のスペア―や、、災害時の救護活動用にと平和的利用を目的としたものだった。それを政府の連中が強引に軍事利用に仕向けたのよ。裏では喜多の存在を保証するという取引があったらしいけど」

「案山子は、軍事利用には反対だったんですか?」

 寿々音が、問い詰める様な目付きで麗を見つめた。

「最初はね。でも、喜多とかかわってから、人が変わったように禁忌の領域に手を出し始めた」

「それは、ひょっとして」

 寿々音が、表情を歪める。

「人工生命体――秘書よ。彼は遺伝子レベルからオリジナルの情報を組み合わせてレプリカを作り上げたの。ほとんどは生命を維持出来ずに、すぐに死んじゃったけど」

 麗が物憂げに呟いた。ジャンルが異なるとはいえ、恐らく彼女も何らかの形で禁忌の実験に係わっていたのだろう。狂気が齎す人間の脆弱性を目の当たりにした者のみが知る哀れな人間の側面に、俺には麗が甚く共感しているように思えた。

「麗さんは何故公安に入ったの?」

 一時の沈黙を打ち破るストレートな問い掛けを、寿々音は容赦なく麗に仕掛けた。

 思わず麗と寿々音の顔を見つめる。

 凛々しい面立ちの寿々音の向こうに、飄々とした自然体で彼女の言葉を受け止める麗の横顔が映る。

 笑っている。

 麗は、まるで程良い温度のシャワーを浴びた後の、身も心もほぐれたリラックスムードの中にいた。

 思いっ切り見開いた眼で見つめる寿々音が、やさしい微笑と共に見つめ返す麗の姿を、食い入る様に見つめる。

会話のつながりを無視した意表を突く問い掛けに、困惑しながらおたおたしていたのは俺だけだった。

 寿々音は気負いした素振りもなく、麗も表情を硬く強張らせている感じもない。どちらかと言うと、自然体だ。二人とも。

「喜多を誘拐しようとしたテロリストから彼を守ったのがきっかけだった。どこから漏れたのか、彼の能力を知った海外の組織が拉致しようと家にやってきたのよ。私の力、あの時使ったのが初めてだった。驚いたわよう、消えてって思ったら本当に消えちゃったんだもの」

 眼を見開いて熱弁を語る彼女の顔から、さっきまでの硬い表情は消えていた。俺達に、本当に全てを曝け出そうとしているのだ。少なくとも、俺にはそう感じられた。

「あの時の事件がきっかけで、私は研究者でありながら、公安警察の一員として任務に就くことになった」

「どんな任務だったんですか?」

「喜多の護衛よ。」

「でも、喜多も異邦人なんですよね?」

 俺の意図を理解してか、麗はうんうんと何度も頷いた。

「確かに、彼も私達と同じ異邦人だけど、戦闘向けの能力は持ち合せてはいなかったから。但し、保持している能力は半端なかった」

「時空を操作する事?」

「そうよ。彼の研究のテーマであり、彼の持つ神の力。但し、二人とも知っているようにとんでもない制約付きだけどね」

 麗の言う通り、それはある意味致命的な制約だった。あの家でしか発揮できず、しかも時空が口を開けない限りはコントロール不可といったハンディが大きなデメリットを齎していた。

「喜多は、いつごろこの世界に来たんですか?」

 疑問符の脳内増殖を感じながら、俺は新たな切り口を求めて話題を変えた。

「彼は今から二十年前、この世界に跳ばされてきた。彼が言ってた通り、あの家と一緒にね」

「家ごと? それなら大騒ぎになったんじゃあ? 突然、見たことも無い家が現れたんだから」

「ところがよ。あの辺りは元々雑木林と湿地帯が広がっていて、家なんか一軒もたっていない荒れ放題の空き地だったらしい。その中に忽然と現れても、最初は誰も気付かなかった」

「想像つかないな。今は住宅がひしめきあってるってのに」

 鮨詰め状態に家が立ち並ぶあの辺一帯が、広大な湿地帯だったとは……。頭の中に食用ガエルがグアグア鳴きまくる大きな沼地の光景が描写されていた。現地を知っているだけに、俺にはその変貌ぶりに驚くばかりだった。

「誰が気付いたんですか?」

 寿々音が探るような目つきで麗の顔を覗き込んだ。

「彼よ」

 麗は淡々とした口調で足元の傀儡を見下ろした。

「案山子が? 何故?」

 寿々音が驚きの表情で麗の顔を覗き込んだ。

「あの辺り一帯の土地は稲守が所有していたの。今はもう無いけど、先祖代々続く彼の屋敷もそこに立っていた。ちなみに喜多の家が現れたのは、彼の邸宅からほんの数十メートルの雑木林の中だったらしい」

「驚いたでしょうね」

 俺はありきたりな感想で答え、相槌をうった。

「まあね。でも、当時彼はそこに一人で生活していたから、彼以外に騒ぎ立てる者はいなかった。当時四十歳で独身。両親も彼が十代の時に他界してるしね」

「そうなんですか……」

「彼の凄いところはここからよ。普通なら警察に通報して、不法占拠で訴えるんでしょうけど、彼にはそんな考えは毛頭無かったらしい。そんなことよりも、どうやって物音一つ立てずに、それもたった一日で家が建ったのかが気になったみたい。科学者らしいといやあ、それまでだけど。彼はただ真実が知りたいという思いだけで、躊躇せずその家を訪問した。そこで、初めて喜多と出会った。喜多も困惑していたらしい。気が付けば、家ごと見知らぬ地に移転していたのだから」

「じゃあ、この世界に来たのは?」

「事故よ。喜多は当時大学院生で、空間物理学を専攻していたの。彼のいた世界は、その分野についてかなり進んでいたらしいわ。簡単な時空ポケットを作る実験は多くの研究者が成功していて、彼もまた、その一人だった。何でも彼の母親が、その道の先駆的な科学者だったらしい。彼のいた世界で第三次世界大戦が始まり、時空ポケットを軍事利用されることを恐れた敵国が、その手の研究に係わる施設をことごとく核攻撃のターゲットにした。母親の研究の関係で自宅にラボがあった彼の家もね。何でも、核ミサイルが彼の家目掛けて発射されたらしい。着弾寸前、慌てて上空に時限ポケットを作った瞬間、彼は家もろともこの世界に跳ばされたってわけ」

 驚きの事実。

前に彼自身が言っていた、家に危機が迫ると時空の歪が開口するというのは、こういう事だったのか。。

「空間を操作するのは、あくまでも彼の頭脳の賜物。でも、時空の操作は彼が持つ異邦人としての特殊能力」

「時空操作が完璧に出来るようになったら、喜多も元の世界へ戻るつもりなんでしょうか」

 俺は率直な疑問を麗にぶつけた。

「ええ。それも、第三次世界大戦の勝利を目前にした連合軍に、反撃する最強の能力と技術を身に着けて」

 最もな話だった。深く考えるまでもなかった。

 彼は、どちらの世界でも大戦での勝利を目指している。元の世界で味わった屈辱を繰り返さない為に。それと、元の世界の日本を救う為に。

 彼がこだわり続けているのは戦争に勝つ事。敗者として見下され、虜囚を余儀なくされる屈辱的な生き様を負いたくないからだ。

 背筋を、意味もなく冷たいものが走る。

 不意に、麗の顔が険しく歪んだ。

「麗さん?」

 麗の身体が、勢いよく後方に吹っ飛ぶ。

 俺は動けなかった。

 視界から瞬時に消え去る麗の姿を追いながら、いったい何が起きたのか俺には理解出来ていなかった。

 麗は、壁に貼り付けになっていた。

 肌色の気味悪い触手の様なものに、両肩を貫かれて。

 鮮血が、ワンピースの生地を朱に染め上げていく。

「えっ?」

 事態が呑み込めていないまま、反射的に振り向いた刹那、異様な光景が俺の視線を捉えた。

 玲於奈の成れの果て――砂塵がいつの間にか凝集し、肌色の肉塊と化していた。

 それだけじゃない。

 そこから伸びた鞭状の二本の触手が、麗の身体を貫いたものの正体だった。

 玲於奈が復活?

 違う。

 俺の思考を読み取ったかの様に、肉塊の中央に歪が生じ、次第に形状を変化していく。

 眼が、鼻が、耳が、唇が、次々に肉塊の表面に浮き上がって来る。

 俺は息を呑んだ。

 麻里李だ。見覚えのある切れ長の目が、恨めし気に俺をねめつけている。

 抑えようのない戦慄が、俺の身体を支配する。

 俺は悟った。

麻里李は喰われたんじゃない。玲於奈の中に眠っていただけなのだ。己の勝機を伺いながら。

 肉塊の表面が不気味に波打つと、無数の突起が生じた。

 麻里李の顔が、歪に歪む。

 笑みだ。それも、恐ろしく自信に満ちた冷酷で不敵な微笑み。

 一斉に、突起物が音一つ立てる事無く伸長する。まるで、サイレントムービーの様に、それは静寂の軌跡を重ねながら放射状に広がり、空間を埋め尽くしていく。

 触手!

 麗を虜囚にしたものと同じだ。

 そう認識した時には遅かった。触手は、既に俺の四肢に幾重にも巻き付き、完璧に自由を奪取していた。

 同時に、身体をふわふわと浮遊する様な無力感が襲い、それと共に虚脱感が急速に全身の筋肉を蝕み、抵抗しようとする反撃の思考を根こそぎ奪い取っていく。

 触手が、俺の身体から生体エネルギーを貪っている。恐らく麗さんも俺同様の仕打ちを受けているのは疑う余地もない。

 まずい。

 このままじゃあ、麗さんも俺も干物になっちまう。

 俺は地を蹴った。

 あえて、麻里李に向かって。

 窮鼠猫を噛む背水の陣作戦だ。

 肉球に浮かぶ麻里李の顔に、一瞬戸惑いの表情が浮かぶ。が、瞬時にしてそれは蔑みに満ちた嘲笑にとって変わった。存命に失望し、己から贄として身を捧げたとでも思ったのか。

 ならば、それは大きな間違いだ。

 四方八方から迫り来る触手の大群を手で払いのけながら、俺と肉球との間合いを詰める。

 俺は肉球の顔面に、右ストレートを叩き込む。拳は、何の障害もなくまっすぐ麻里李の顔中央部にめり込んだ。

 同時に。

 俺はありったけの気を撃ち放った。

 吸収じゃない。

 放出だ。

 急激な生体エネルギーの流入に、麻里李が歓喜の表情を浮かべる。が、次の瞬間、祖の表情が苦悶にとって代わった。

 肉球が、触手が、パンパンに膨れ上がり、はちきれんばかりの表皮に伸びきった毛細血管が蜘蛛の巣の様に浮かび上がる。

 そろそろか。

「寿々音、こいつを叩き潰せっ!」

 俺が寿々音に向かって叫んだ時には、彼女は既に大きく跳躍していた。

 天井すれすれにまで跳ね上がった彼女の身体が、自由落下に転じる。

 刹那、彼女の長い右脚が大きく反り、爪先が天空を突く。

 次の瞬間、彼女の踵が斧の様に空を裂き、肉球へと振り落とされた。

 超絶的最強の踵落とし。

 肉球は大きく縦に潰れ、麻里李の顔が喜劇的変顔と化して大きく横方向に流動すると、頬が急激にぷっくりと膨れ上がる。

 ぱしゅっ

 空気の抜ける様な破裂音と共に、肉球が瞬時にして収縮していく。同時に、夥しい生体エネルギーが空中に放出される。

 生体エネルギーは激しい気流を伴って渦巻きながら、俺の身体に一気に流れ込んで来る。 

 まるで、砂漠に降り注ぐスコールの様に、生体エネルギーは淀み溢れる事無く静かに俺の身体に浸透していく。

 麻里李よりも俺の身体は貪欲なのか、注がれていく感覚はあるものの、満たされていくには程遠い。

 肉球は見る見るうちに凝縮し、サッカーボール位の大きさになって床に転がる。

 すかさず寿々音のシュートが炸裂。肉球の成れの果ては、彼女が破壊したドアの向こうへと消えた。

 ドアの向こうは、知っての通り次元トラップ。彼女は永久に異次元の狭間を彷徨うことになる。

 そうだ、麗さんは?

「麗さん!」

 俺は身を翻すと彼女の姿を追った。

 麗は案山子の傍らで、崩れるように身を横たえていた。

「大丈夫?」

 一足先に駆け寄った寿々音が、心配そうに麗に声を掛けた。

「何とか……ね」

 麗は弱々しく微笑みながらゆっくりと身を起こした。

 麻里李に突き抜かれたはずの両肩は、まるで何事もなかったの様に、破れたワンピースの生地の間から、痕跡一つ無い白い肌を曝け出している。ほんの一時の間に、彼女の傷は完璧に修復を終えていた。流石、異邦人だけはある。

 麗は徐にスマホ状の秘密兵器――次元探査装置のモニターを覗き込むと、眉間に皺を寄せた。

「まずいわね」

 彼女は顔を歪めながら呟いた。

「どうしたんですか?」

 俺はその表情に一抹の不安を覚えながら、彼女の顔を食い入る様に見つめた。

「これ見てっ」

 麗が俺と寿々音の前に突き出したモニターには、朧げな白い縁取りで囲まれたこの建物が映っていた。

「これは?」

 寿々音が不安そうにモニターを覗き込む。

「時空シールドよ。目に見えない壁の様な物。ここをすっぽりと覆っている」

「覆われてるってことは――」

「閉じ込められた」

 淡々と語る麗を前に、俺と寿々音は焦燥にうろたえながらお互いの顔を見合わせた。

「行きましょう。ここにいてもらちが明かない」

 麗は、きりっとした表情で俺を見つめた。

「行くって、何処へ?」

「喜多の所よ」

「でも、どうやって? 今の状態じゃ、ここから出る事すら難しいですよっ!」

 麗の余りにも無茶振りに俺は当惑した。

「探すの。これからみんなで。ここは案山子の部屋でしょ。だったら、きっと脱出口がどこかにあるはず。昔から用心深い性格だったからね」

 麗が勝ち誇った笑みを浮かべる。このゆるぎない自信は、いったいどこから来るのだろう。窮地に追い込まれて取り乱している俺とは大違いだ。一見、能天気な感じがしないでもないが、彼女の存在は大いに救われる。

 俺達は捜索場所を分担しながら、くまなく部屋中を探し回った。

 だが、時が刻一刻と迫る中、それらしいものが何一つ見つからない。

「くそうっ!」

 俺は苛立ちを抑えきれず、横たわったまま動かない案山子の影武者を思いっきり蹴飛ばした。自己消化作用で溶解しかけている傀儡は,、ぐちゃりと潰れながら俺のつま先食い込んだ。

 ゴロンと転がった傀儡の下に、妙なものが見つかった。

 手形だ。それも右手の。

 よく見ないと分からない位、床材の模様や色目とそっくりだが、意識してみると、ぼんやりと手の形が浮かんでくる。

「麗さん、寿々音、これ、何だろ」

 俺の呼びかけに、二人はすさまじい形相でかっとんで来る。もしこれが、俺の気のせいだったら、俺は確実に二人に殺される。

「何もないじゃん!」

 寿々音は来るなり怒りモードでぶうたれた。

「あるある、よおく見てみ!」

 麗はがぶりよると手形を食い入るように見つめた。流石、科学者だけあって観察力に秀でている」

「ひょっとしたら、脱出口の鍵かも」

 麗は恐る恐る案山子の右手を手形の上に重ねた。

 刹那、不愉快な浮遊感が俺達を漆黒の闇に引き摺り込んだ。

 床が抜けた?

 否、違う。床毎急降下している!

「ひゃああああああああっ!」

 寿々音と麗の絶叫が耳元で響く。

 予想だにしない恐怖の為か、二人はものすごい力で俺にしがみついた。柔らかな感触と共に、甘酢っぱい体臭が鼻腔をくすぐる。不可抗力のまま否応無しに接触した二人の胸の感触と先の見えない現実への畏怖が、俺の心臓の拍動をマックスまで引き上げていく。

 何が起きている?

 間違いなく言えるのは、俺達は光一つ差し込まない真の闇に満たされた空間を、猛スピードで落下しているという事。

 足元は、何もない。

 このまま、俺達は地面に叩き付けられて死ぬのか?

 死にはしない。

 俺がその衝撃を全てエネルギーに変換して吸収すればいいだけの事だ。寿々音だって、冷静に考えれば、とんでもなく高い超高層ビルから飛び降りても平気だったし。

 恐怖の根源は、落下よりもむしろこの闇だ。視野の利かないこの状況が、異邦人となる前に潜在意識に刻まれた恐怖の記憶を蘇らせているのだ。恐らくは絶叫アクティビティーで体験した心理状態とシンクロしているのかもしれない。

 二人の体温を間近に感じているせいなのだろうか。事が生じた直後は一瞬の戸惑いがあったものの、今は恐ろしく冷静だった。

 不意に、急制動が掛かる。

 やがて速度を徐々に落としながら、床は停止した。同時に、照明が空間に点る。黄橙色の光が、俺達に久々の視野を蘇らせた。

「これは……」

 眼前に映し出された懐かしいシルエットに、俺は息を呑んだ。

 黒いRⅤ車。この世界に来た時、寿々音達に押収された俺の車だ。こんな所に保管されていたなんて。

「二人とも、大丈夫?」

 未だ俺にしがみついたままの二人に声を掛ける。

「大丈夫……じゃない。少しちびった」

 麗は顔を赤らめながら、恥ずかしそうに俺から離れた。ワンピースから除く両足の間から、水滴が滴り落ちている。少しどころじゃなさそうだが、それ以上の詮索はやめた。

「寿々音は大丈夫?」

「大丈夫よ」

 寿々音は即答すると、むすっとした不機嫌な表情で俺の顔面に拳を打ち込む。

 訳の分からない彼女の行動に苦しみながらも、俺は久々の愛車に駆け寄った。

「この車は?」

「僕のです。元の世界で乗ってたやつ。ここに来た時、案山子の部下に取り上げられたんです」

 麗の問い掛けに答えながら、運転席側のドアに手を掛けた。

 開いた。

 おまけに、キーもシートの上に転がしてある。

「なるほどね、異邦人の車を脱出用に用意するなんて、案山子も考えたものね。この車のスペックは分からないけれど、考え方によっちゃ装甲車より遥かに安心かも」

 麗が嬉しそうにふむふむと頷く。

「これで脱出しよう」

「でも、出口は?」

 勇む俺に、寿々音が現実的な大きな問題点を指摘した。バスケのコート位の空間は、打ちっぱなしのコンクリートで覆われ、出口らしい空間が見当たらない。

「どこかにあるはず。この車をここに収納した位だから」

「あ、そっか」

 俺の持論に、寿々音は珍しく素直に頷いた。

「あったよ、たぶんここ」

 寿々音が指差したのは車の正面の壁。右手の手形らしい痕跡が、壁の中央に刻まれている。

 俺は手形に自分の手を重ねてみた。駄目だ。壁はうんともすんとも言わない。

「これ、使ってみる?」

 麗が俺に何かをひょいと差し出した。

「うわっ!」

 思わずぎょっとして仰け反る。傀儡の右手だ。

「麗さん、これ、持って来たんですか?」

「ううん、あれも一緒に落ちて来てたから」

 指差す方向を見ると、俺達がいたちょいと後ろに、原形を失った傀儡の成れの果てが転がっていた。胴体はほとんどないが、末端部はかろうじて残っている。

 俺は麗から傀儡の手を受け取ると、壁の手形に重ねた。

 同時に、壁が消え、照明の点った通路が現れた。

「行きましょう!」

 俺は車に駆け寄った。

「待って」

 徐に、寿々音が俺を制する。

「どうした?」

「璃璃華は? 璃璃華はどうするのっ? このまま見捨てていくのっ?」

 寿々音が、身体を震わせながらヒステリックに叫ぶ。限界まで見開いた両眼が、食らいつくように麗を捉えていた。

「彼女の気持ちを理解しなさいっ!」

 麗の罵声が不安定な寿々音の意識を殴打した。

「今回の騒動は、きっと喜多が大きく係わっているはず。彼女はあなた達にかけているのっ! あなた達なら、喜多の暴走を止められるかもしれないって」

「でも……」

「あの場所までたどりつけると思う? ただでさえ時空が封鎖されているのよ。それに、例えあの場所に戻れたとしても、残念だけど、たぶん彼女はもう彼女でなくなってる」

 麗は寿々音の眼をじっと見つめながら、静かに語りかけた。

 寿々音はぎゅっと唇をかみしめた。大きく見開いた眼から、大粒の涙が零れ落ちる。

「さ、行くよっ! 来てっ!」

 麗は寿々音の手を引くと、車の後ろの席に乗り込んだ。同時に俺も運転席に滑り込むと、エンジンを作動させた。

 不意に、大きな揺れが俺達を襲う。

 地震?

 それとも、璃璃華達の戦闘の余波か。

 壁に、無数の亀裂が走る。

「やばっ!」

 俺はアクセルを踏み込んだ。タイヤがキュルキュルと嘶きながら、車は格納庫から飛び出した。

 照明の明かりを頼りに、俺は通路を突き進んでいく。俺達の後を追うように、後方から壁の崩落する轟音が絶え間なく響いて来る。

 生きた心地がしなかった。

 まるでアドベンチャー映画の主役のように、俺が寿々音と麗の運命を、そしてこの世界の人々の将来をしょっているかのようなプレッシャーに苛まれながらも、意識を前方に集中させていた。

 通路はらせん状に延び、途中壁に遮られることがあったが、手形ではなく車両認識のロックが掛かっていただけの様で、車両が近づくと壁は無くなり、新たな道を提示してくれた。

 どれ位、走ったのだろうか。

 その瞬間は突然訪れた。

 不意に、景色が変わった。狭い通路から一転して、俺達は広い空間が広がる見知らぬ施設に飛び込んでいた。見る限り、どこかの地下駐車場の様だ。少なくとも案山子のアジト委のそれではない事は確か。

「病院の地下駐車場よ。喜多は目隠しされていたから分からないと思うけど、最初に連行された場所でもある」

 寿々音が、そっと俺に教えてくれた。

「じゃあ、ここって?」

「地上世界」

 地上なのか。地下の大都市からここまで逃走路を作るのに、どれだけの財力と労力を使ったのだろう。

「喜多君、元旦那の生家へ向かって。今回の件、あいつも絡んでいるはずだから。ここから車で三十分よ。案内する」

 麗が後ろのシートから助手席に乗り込んで来る。

「安心して、下着は脱いだから」

 乗り込んだ直後、麗は俺の耳元でそっと囁いた。後ろのシートを見ると、その下に小さく丸められた白い塊が転がっている。

「だあめっ」

 麗は冗談ぽく言いながらも、笑っていない顔で俺の顔を強引に正面に向けた。

 シートを汚してはいけないという彼女の気遣いなのだろうか。どちらかというと、今何も履いていない方が衝撃的だ。

 彼女のナビに従い、車を走らせる。

 ミラー越しに寿々音を見る。璃璃華の事を考えているのか、表情は暗く、憂いに沈んでいる。

 追っ手も検問も無いままに、車は順調に走行し、麗の言った通り三十分後にはあのレトロな家の前に到着した。

 周囲を警戒しながら車を降りる。

 拍子抜けするくらい、警備も何もない。それどころか、人の気配が全く無いのだ。

 麗が玄関の引き戸に手を掛けた。

 戸は、何の抵抗も無く静かに開いた。

 鍵がかかっていない。不用心過ぎる。

 ひょっとして。

「麗さん、罠かも」

 脳裏に過る不安を麗に伝えたものの、彼女はものおじすることなく突き進んでいく。

 彼女の大胆さに舌を巻きながら、慌てて後を追う。

 喜多は留守なのか、部屋は静寂に沈み、物音一つしない。

「二人とも、こちらに来てっ!」

 麗は廊下に出ると、何の躊躇いもなく突き進んだ。元々住んでいた訳だから、家の造りを熟知していてもおかしくはない。

 麗は廊下の突き当りから二階へと続く階段を駆け上がった。きいきいと板のきしむ音が、この家の建てられた年代を物語っている。 

つるつるに磨き上げられた板張りの廊下を進み、最も奥の部屋の襖を一気に開ける。

 俺は息を呑んだ。

 幾重にも重なる薄い赤紫色の砂丘。

 雲一つない、ややくすみかかった青空。

 広い。

 とてつもなく。

 そして、果てしなく。

 言葉が出なかった。古びた日本家屋の二階の一室――の、はずだった。

 でも、今、俺が対峙している風景は。

 砂漠だ。

「いらっしゃい、よく来たね」

 不意に、喜多の声が響く。

 慌てて周囲を見渡す。が、彼の姿は何処にも見えない。

「隠れてないで、出てきてっ!」

「ここにいるよ。ちょうど良かった。時空転送の全ての準備が整ったんだ。これで君達も元の世界に戻れる」

 不意に、背後からとぼけた声が響く。

 振り向いた俺達を、喜多は素朴な笑みを浮かべて出迎えた。

「稲守は今、どこにいる?」

 麗が険しい表情で喜多に詰め寄った。

「稲守教授か? 知らないな。彼とはここ何年も会っていない。彼の庇護のもとに生活している君達の方が詳しいじゃないのか」

 喜多は困惑した表情で眉をひそめた。

「喜多さん、誤魔化しても無駄だ」

 俺は彼を一瞥した。俺の態度が気に障ったのか、彼は不満げに口元を吊り

上げた。

「さっき、あなたは俺達の方が詳しいといったよね。俺達が知っているのは案山子であって稲守じゃない。奴は俺達に決して素性を明かさなかったからな。俺達だって奴が稲守だって知ったのは、ついさっきだぜ。そんな事実を知ってるあなたの方が、俺達より詳しくて当然だろ」

 俺はたたみかけるように喜多を攻めた。

 喜多は反論しかけた言葉を飲み込むと、不意に開き直ったような冷笑を浮かべた。

「ま、そういう事になるかもね」

「そういう事ってどういう事? 意味分かんねえし」

 うそぶく喜多に、俺は苛立ちを吐き捨てた。

「ついさっき案山子は死んだ。忠実な下部だった秘書に殺されてね。でも、それはスピリチュアルスーツだった。あなたなら、本物の案山子――稲守の居場所、分かるよね?」

 寿々音が高ぶる感情を押さえつけながら、小刻みに台詞を紡ぐ。

「稲守が、スピリチュアルスーツ? まさか……」

 喜多の眼が中空を彷徨い、不安げに唇を震わせた。

 まさか、知らなかったのか?

 演技にしてはリアル過ぎるし上出来だ。

「演技しても無駄!」

「演技じゃない! 本当に知らなかったんだ」

 麗のタイムリーな追撃に、喜多は臆することなく真剣な表情で反論した。

「知らなかったなんて、よくもそうぬけぬけと言えたものね。あなたに反旗を翻した稲守の存在がうっとしくなったんじゃない? だから殺して、スピリチュアルスーツを代役にした。あなたが中に入ってね」

 麗は目を吊り上げて喜多を罵倒した。

「そんな馬鹿な事……」

 喜多はうつろな表情で唇を震わせた。

「富士見もあなたが殺したんでしょ。色々とかぎまわられて、厄介な存在だったもんね。不死身の異邦人をどうやって殺したのよ? 富士見だけじゃないっ! 政府とあなたに反感を持つ者を、容赦なく皆殺しにしてくれて」

「それは、本当なのかっ!」

 喜多の表情が硬く強張る。

「何言ってるのよっ! 全部あなたの仕業でしょっ!」

「私じゃない。本当に知らないんだ」

 うなだれる喜多の顔に落胆の色が浮かぶ。

 俺は二人の会話に、妙なギャップを感じ取っていた。

 喜多は嘘をついていない。

 彼の表情、言葉使い、眼の動き。

 その、どれをとっても、偽りを演じている様に見えなかった。

 じゃあ、いったい誰の策略なのか……。

「分かったわ。じゃあ、どれだけあなたが信じられるか、試していい?」

 麗が、大きな眼でぎろりと喜多を見据えた。

「ああ」

 喜多は困惑しながらも、言葉短に頷いた。

「私達を元の世界に戻してよ。こちらに来た直後に。もう、これ以上この世界にかかわりたくないのっ! 」

 麗が喜多に激しい口調で迫る。

 俺は絶句した。今の彼女の発言、これって、何もかもを放置してこの世界から逃げ出そうって事なのか? 俺達のアジトが案山子の裏切りで壊滅状態になっているのも、軍や公安が裏で工作を企てて日本を戦争の渦中に追い込んでいるのも、それこそ知らぬ存ぜぬを繰り返す喜多の暴走を止める事も――全てを見捨てるつもりなのか。

 彼女への怒りは、不思議と込み上がってはこない。但し、図り切れない失望と底知れない落胆が、俺の意識を白紙状態に陥れていた。

 不意に、彼は吹っ切れたように顔を上げた。同時に、彼の傍らにスケルトンタイプのキーボードが出現する。

「分かった。こちらの世界に来た時と同時刻に転送する」

 自信ありげに話す喜多を、麗は斜交いに見据えてねめつける。

「信用できない」

「麗……信じてほしい。それに、私は誰も殺していない。誰一人もだ」

 喜多は真剣な目つきで麗に訴えながら、キーを激しく打ち続けた。

「じゃあ、まず私から先に戻してよ。無事戻れたのを確認出来たら、二人も戻してあげて」

 麗が、憎悪に満ちた眼線で喜多を見据えた。

「分かった」

 喜多の指が止まった。

 淡いセピアカラーの光が、麗を包み込む。それは、カーテンの様に独特の波状を描きながら、彼女を中心に半径一メートル程の壁を作り上げていく。

「麗さん!」

 俺は彼女に駆け寄ろうと――刹那。

「触るなっ! あちらの世界に引き込まれるぞっ!」

 突然、声を荒げて叫ぶ喜多に、俺はたじろいだ。

「引き込まれるって?」

「麗は今、別の時空の入り口に立っている。彼女が生まれた元の世界のね。」

 俺の問い掛けに、喜多は思いの外落ち着いた口調で答えた。

 否、落ち着いているように見せかけているだけだ、頬は硬直し、麗を見つめる眼が、小刻みに蠢いている。

 俺は、黙って麗を見つめた。

 麗は黙ったまま直立していた。

 恐怖の余り硬直しているのか――否、違う。

 彼女は微笑んでいた。

 でも。

 元の世界への回帰に、歓喜しているようにも見えない。

 どこか寂し気で、何故か悲し気な、静かな微笑。

 何なんだろう、この感覚。

 何だかしっくりこない。

「喜多さん、教えて」

 寿々音のうるんだ瞳が、真っ直ぐもう一人の喜多を見つめていた。

「何でしょう?」

 喜多は目を細めると、口元に知的で優しそうな笑みを浮かべた。

「麗さんは、向こうの世界に戻ったら、私達の事は忘れるの?」

「残念ですが、今の時点では何とも言えない。彼女は、もうすぐこちらに迷い込んだ時間座標と同時刻に、元の世界へと戻ります。でもその後、記憶の面でどのような影響が出るかは、私には分からないんだ」

「ひょっとして、麗さんで実験しようとしているのか?」

 驚愕が絶叫となって俺の喉から迸る。

「大丈夫。記憶はともかく、転送時の安全性は証明されている。動物実験レベルだが、百パーセント成功している」

 喜多の自信に満ちた声が、興奮状態の俺の意識を、瞬時にしてニュートラルに強制変換していた。

 突然、麗を虜囚としているセピア色のシールドの真横に、それと全く同じものが頭上からゆっくりと舞い降りて来る。

 シールドの中に人影が見える。

 俺は眼を凝らし、その人影を追った。

 黒いセーラー服姿の、あれは――麗だ。自転車に乗ってこちらに近付いて来る。

 背景が気になる。普通の住宅地の中の路地。どこかで見たことがあるような、ある意味何処にでもあるような、国道からそれた裏道。

 わかった。この家の前の道だ。ちょっと違うようなところもあるような気がするけど、それを否定する以上に、強烈に酷似している。

 麗からもその姿が見えるのか、最も近い側のシールドに張り付いてじっとその光景に見入っているのが分かる。 

 セーラー服姿の麗のすぐ真横をハッチバックの乗用車が通過。危険を感じたのか、麗はスカートの裾を気にしながら自転車から降りようとした瞬間、体制を崩してこの家の庭へと倒れ込んだ。

 瞬間、二つのシールドに守られた光の柱が重なりあう。

 消えた。

 まるで、最初から何もなかったかのように。


 さようなら、母さん


 俺は耳を疑った。

 そして、驚きと動揺を隠せないまま、俺は喜多を凝視した。

 聞き間違えじゃない。

 あれは間違いなく、喜多の唇が、喉が、意識が、綴ったもの。

 彼はじっと、麗が今までいた空間を寂し気な眼差しで見つめていた。

「シンクロ成功。彼女は無事、元の世界へと帰還した」

 喜多は、つい先程まで麗がいた空間を凝視しながら、感情を無理矢理押し殺した淡々とした口調で呟いた。

「喜多、今何て言った――」

「気付いてたんですね」

 俺の追及を思わぬ伏兵が遮る。間延びした、何となく緊張感のない声。それも、見知らぬ声じゃない。

 喜多の背後から、にやけた表情現れた人影を凝視する。

 呉羽だ。

 何故、彼がここに?

 死んだはずじゃなかったのか?

 携帯電話での戦慄に怯え、鬼気迫る声で俺に理不尽な襲撃を訴えたあの時……。

 どうなってんだ?

 無数の疑問符が脳内で無限大に増殖する。

「君は確か、稲守教授の助手の――」

 喜多が眉を潜めて彼を凝視した。

「呉羽です」

 呉羽は口元を吊り上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。

「無事だったのか……」

無意識のうちに、困惑と安堵の入り混じった吐息が俺の喉から零れ落ちる。

「君達も無事で何よりです」

 呉羽は一転して温和な表情を浮かべると、俺達に微笑みかけた。

「ここに何をしに来た?、今、非常事態じゃないのか? 彼らの話じゃ、君達の隠れ家は壊滅状態らしいじゃないか」

 喜多は冷静を装いながら、探るような目つきで呉羽を見据えた。

「よくも平然と言えたものですね。全てはあなたの策略でしょ? 警告に来たんですよ。喜多先生」

 真顔で答える呉羽の眼が、不敵な輝きを宿していた。

「何の事だ?」

 喜多は不愉快そうに顔を歪めると、いらだたしげに台詞を吐き捨てた。

「あなたが開発した、回帰システムですよ。時空の迷い子達を時間経過の誤差なく送り届ける夢の魔法です。あなた達にとってはね。ただ、誤算があった」

 呉羽は得意気に口元を吊り上げると、嘲るような笑みを浮かべた。

「富士見という男、知っていますよね?」

 呉羽は何を思ったのか唐突に話を変えると、探る様な目つきで喜多を捉えた。

「ああ。私の周りをしつこくうろついていたジャーナリストだ」

 喜多は忌々しげに唇を噛んだ。

「彼の執拗な取材攻勢には、お互い参りましたね。特に麗さんには忌々しいい位にしつこく付きまとっていたし。それも、ただうざいだけじゃない。何にでも化けられる変身能力を持つ、無敵で、不死身の異邦人ときた。ちょっと手ごわい存在だったな」

 呉羽は何処か得意げな笑みを浮かべた。

「だったって……まさか、呉羽さん!」

 俺は食い入る様に呉羽を凝視した。

「私は殺しちゃいない。ただ――」 

 呉羽は言葉を濁しながら、徐に顔を伏せた。

「結果的に、望みどおりになったのは確かだ」

 再び顔を上げた彼の顔に、先程浮かべた困惑の色はない。むしろ嬉々とした表情を満面に湛えていた。

「富士見さんに何をしたのっ?」

 悲鳴に近い咆哮と共に、寿々音は呉羽を睨みつけた。

「帰してやっただけさ。彼がこの世界に迷い込んだ直後の、元々いた世界へ。ちょいとばかりここを拝借してね」

 呉羽は躊躇うことなくとぼけた口調で答えた。

「いつの間に、ここに忍び込んだんだ……」

 喜多が当惑した面持ちで眉を潜めた。

「一週間前です。彼に弱みを握られちゃってね。それを暴露してほしくなければ、喜多先生が開発した技術で、元の世界に戻してくれって脅してきたものですから。それで、やむを得ず。今日のように、ちょうど時空の歪が開いていたのでね、私でも操作が出来ました」

 呉羽は悪びれる様子もなく、ただ淡々と言葉を綴った。

「そんな馬鹿な……何故知っている? 私の開発した回帰システムは誰にもまだ話していないはず」

 喜多は狼狽し、かっと見開いた眼を中空に漂わせた。

「残念ですが、情報はもれもれです。でも、彼が元の世界に戻れた喜びを満喫したのは、ほんの僅かの時間に過ぎなかった」

「何が起きた?」

 喜多の顔に焦燥の色が浮かぶ。

「次元の狭間を開放させたまま様子を伺っていたんですよ。始めは深呼吸したり、一人で大笑いしたりしていましたが、しばらくして怯えた表情で中空を凝視したかと思うと――」

 呉羽は意味深な口調で語ると、じらすように不意に口を閉ざした。

 重苦しい空気の中で、呉羽は息を呑む俺達の緊張した面持ちを楽しむかのように、ゆっくりと周囲を見渡した。

「粉砕しました。跡形も無く」

 呉羽の言葉に、俺達は凍り付いた。

「粉砕って?」

 強張った唇をこじ開けながら、俺は呉羽に問い掛けた。

「分子レベルにまで粉々に飛び散ったんです。その直前、こちらの次元から彼のいる次元へと膨大なエネルギ―が移行するのが、確認出来ました。この意味が分かりますか?」

 呉羽が、無言のままの俺達を見渡した。

 誰一人として、彼に返答するものはいなかった。明確な答えが見えないせいもある。だがそれ以上に、富士見の死に様が余りにも不条理に満ちていて納得いかないばかりか、現実として捉えられないものであったからだ。

「誰も想像つきませんか? それとも、答えは分かっているけど認めたくないのかもしれませんねえ」

 呉羽の口元が、ゆっくりと吊り上がり、ぞっとする様な笑みを造形した。細く開かれた眼は、これから死の宣告をしようと品定めをしている死神の様に底知れぬ威圧感を宿している。

「彼がこの世界で受けた全ての衝撃がエネルギー化して、一斉に彼に牙をむいたんだ」

 呉羽は、苦悶に表情を曇らせながら低い声で呟いた。

 驚愕の叫びが迸るはずの俺の喉を、か細い吐息だけが通過していた。

 余りも突拍子のない内容だけに、その時の俺は現実味の無さに飲み込まれ、その事実の裏に秘められた直近の危機に気付かずにいた。

「ここ、つまり今の時元空間が君達異邦人の存在を否定しているんですよ。今の時元にとって、異邦人はただの異物にすぎない。だからこの世界では、生きた証であり終着点である死を迎えることは無いし、歳も取らない。それ故に、生命に危険を及ぼす外的要因から身を守る為、超常的な能力が開花する。ある意味うらやましい限りだけどけどね。だがそれは全て迷い込んだ空間の悪戯。受けた衝撃の全てはなくなる訳ではなく、空間の捻じれで生じた時空の隙間に隔離されているだけなんだ」

 淡々と語る呉羽。

 こいつ、何を言い出すんだ。こいつの持論なら、俺達異邦人は、この世界では死なないという事か? でも実際には富士見は死んでいる。余りにも矛盾過ぎている。

「だから、何なのっ!」

 寿々音が苛立たしげに呉羽を睨みつけた。

「元の世界に戻ったとしても、離脱と回帰に時間的ギャップがあれば、存在としては異邦人だ。歳をとる事はないし、勿論死ぬことも無い。でも時間経過の誤差無しに元の世界に戻れば、全てが元通りになる。時間の流れに従い、歳も取るし、不死身ではなくなる」

 呉羽は食って掛かる寿々音に動揺する素振りを少しも見せずに、落ち着いた口調で語った。

 驚きの事実だった。俺は呆気にとられたまま呉羽を凝視した。

 この世界では、俺達異邦人は歳を取らない上に不死身なのか……不死身は富士見だけのスペックじゃなかったのか。

 麗や、もう一人の喜多が年齢と容姿にギャップがある理由が分かった気がする。富士見もきっと実年齢は見かけよりも高かったに違いない。

「ただ、死が、想定よりも早く訪れることが分かったんだ。元の世界に時間的ギャップ無しで戻った場合、時空の捩れが解除され、異なる次元で受けた様々な衝撃が一気に牙をむく。それが、富士見の身に起きた現象さ」

「そんな事って……?」

 俺は言葉を詰まらせた。信じられなかった。にわかにもっともらしい文言を並べ立てられても、信じられるような内容ではなかった。それに、それが事実としたら――。

 俺は考えたくない直近の展開を、生唾と共に嚥下した。

「私も最初は何が起きたのか分からなかった。死ねばいいのにとは思っていたが、回帰させる時にはその感情はなかった。いなくなってくれればよかっただけの事だからな。ただ後になって、以前にこの説を耳にしたことがあったのを思い出したんだ」

 呉羽は挑発的な寿々音の態度に動じる事無く、理路整然とした台詞を綴っていく。

「そんな馬鹿な……でたらめだっ! 何故、そう言い切れる? 動物実験はすべてうまくいった。マウスから初めて、犬や猫を使って実験を繰り返したが、みんな命を落としはしなかった」

 喜多は動揺を隠しきれない素振りで、狼狽えながら呉羽に食って掛かった。

「実験動物は時空の移動先で生命を脅かすような危険にあったかね?」

「それは……」

 喜多は言葉を濁した。

「実験は成果を急いではいけない。マイナス要因を確実につぶしてこそ、成功につながるんだ。君には何度か話したことがあったよね」

 呉羽の表情が変わった。

 表情だけじゃない。顔の造りそのものが。

 黒々としていた頭髪が白髪混じりのそれになり、張りのあった皮膚もややたるみ始める。スリムだった体躯もやや肉付きが増し、それが圧倒的な存在感を醸していた。

 俺は息を呑んだ。

 見慣れた顔が、姿が、そこにはあった。

「案山子、なのか?」

「さようで」

 呉羽――案山子は細い眼を更に細めて頷いた。

「でも、どうして?」

「私も異時元をいくつか旅して来た。彼と共に研究していた時にね。その結果、異邦人としての能力を開花したんだ。富士見と同じ変身能力。喜多には隠していたけどね。取り合えずは年相応の外観に変身することで、周囲の眼を誤魔化してきた。それを冨士見に嗅ぎつけられて、やむなく彼の要求を呑んだんだ。ただ理由はそれだけじゃない。奴は麗と喜多の関係の事も感づき始めたのでね。不幸中の幸いだったのが、時空操作システムだ。喜多が完璧に機械制御化に成功していたから、マニュアルを見れば私にも扱えたのでね」

「そんな能力がありながら、何故自分そっくりのスピリチュアルスーツを作ったんだ?」

 俺は余りにも矛盾に思う疑問を案山子にぶつけた。

「呉羽というもう一人の自分の存在を確立する為にだよ。様々なリスクに直面している私の影武者を用意し、非常時に備えたんだ。それにあれはスピリチュアルスーツではなく、憑依しなくても遠隔操作できる傀儡だからね。よって戦闘能力は低いが、影武者としては十分だった。出来栄えも私のクローンかと思えるほどで、指紋も全く一緒。オーラも同等の波長のものが放出されるよう、発生装置を埋め込んである。ただ、迂闊にも公安に乗っ取られてしまったが」

 成程、それで、奴の傀儡の「手」で脱出口や隠し扉を掛けられたのか。

「回帰完了からから衝撃波が到達するまでに、富士見の場合で二十一分五十二秒掛かっている。現時点で、麗が元の世界に舞い戻ってから、約十七分。多少の誤差はあるかもしれないが、そろそろだ。助けに行こうなんて考えても無駄だ。君の作ったシステムと時空の歪が同調するのに約一分、更に補正で数分はかかるはず」

「そんな……」

 絶望の叫びが、喜多の唇を弱々しく小刻みに震わせる。

 喜多は青ざめた表情で虚ろな目線を中空に漂わせた。

「喜多、君はいつ気付いたんだ。麗が自分の母親だという事に」

 もはや正気を失い、動揺を隠しきれずにいる喜多とは対照的に、案山子は恐ろしく冷静な姿勢を崩さなかった。

「あなたが私達異邦人のDNAサンプルを集め、データを分析している時に気付いた」

 俯いたまま呟く喜多の虚無に沈んだ声が、淡々と台詞を刻む。

「麗も……母も知っているのか?」

 徐に顔を上げた喜多に、案山子は黙って頷いた。

「だから、彼女は君の元を去ったのだ。でも、それだけが理由じゃない」

「えっ?」

「君を救うためだ。君がでっち上げた戦争を終わらせる為にね。反政府組織を旗揚げしたのもその為だ」

喜多は反論しなかった。まるで魂の抜けた屍の様に、表情を凍てつかせたまま、案山子を見つめている。

「でっち上げ? 戦争って嘘だったの?」

 寿々音が目を丸くする。

「そう。戦争なんて本当は起こっちゃいない。喜多が自分の欲求を満たす為に仕掛けたトラップにすぎないんだ。元の世界での敗戦の屈辱をはらす為のね。核ミサイルも君が敵国のコンピューターをハッキングして勝手に発射させたんだ。そうだろう?」

 案山子は額に欠陥を浮かび上がらせながら、怒りに声を震わせた。

「それともう一つ。時元の間を彷徨っている核ミサイル。君はあれをどうするつもりだ?」

 喜多は答えなかった。感情を押し殺したデスマスクのような表情で、無言のまま、ただじっと案山子を凝視していた。

「答えようか。君はあれを、自分が元居た世界の敵国に落とすつもりなんだろ? 時空制御を完璧に掌握することに必死だったのは、決して元の時元世界に戻りたいからじゃないんだよな?」

 案山子の鋭い目線が喜多を貫いていた。喜多は拳を硬く握りしめながら、その目線から逃れるかのように眼を背けた。

「私も、もっと早く気付くべきだった。気付いていれば、沢山の犠牲を払うことも無かったんだ」

 案山子は悔しそうに顔を歪めると、唇を噛んだ。

「だから彼女は、責任をとる事にした。生みの親としての責任をね」

「責任……まさか」

 喜多が青ざめた表情で呟いた

「そう、全てを無に帰す方法で。時空転移に伴うエネルギーの捻じれ現象は、彼女も薄々気付いていたようだ。捻じれが戻った瞬間どうなるかってこともね。あくまでも仮説だけどって言っていたがね」

「もし、麗さんが死んじゃったら?」

 寿々音が、恐る恐る案山子に問い掛けた。

「君達二人は元の時空に回帰する。麗が死ねば、喜多は生まれてこない。そうなれば枝分れした並行世界の歴史は白紙化され、君達は何のリスクも負わないまま、本来あるべき元の生活を送ることが出来るはずだ」

 案山子は沈痛な面持ちで打ちひしがれる喜多を見つめた。

 俺は気づいた。

 何故、麗さんは自分を先に戻せと言っていたのか。

 自分の死と引き換えに、俺と寿々音を救う為に。否、それだけじゃない。今まで亡くなった大勢の犠牲者を救う為に。

「稲守教授、確認したいことがある」

 喜多が、俯いたまま重い口を開いた。

「何だね? 」

「あなたは、敵国の核ミサイル基地に秘書達を潜入させたことがありましたよね。あの時、彼女達にはどんな指示を出したんですか? 」

「核ミサイル基地であることの真偽の確認と発射システムの破壊だ」

「核ミサイルを全世界に発射しようとしたのでは? 」

 喜多は、たじろいだ先程とはうって変わって上目遣いで案山子を見据えた。

「まさかっ! そんな馬鹿げた指示など出すわけがないだろっ! 」

 案山子は眉間に険しい皺を刻みながら激昂した。

「やはりな……」

 喜多がそう呟いた瞬間、彼の身体が掻き消すように消えた。

 唐突だった。何の前兆もなく、ただ突然その存在が消失したのだ。

 それはある意味、考えたくない事実を物語っていた。

 喜多が消滅した――つまりそれは、麗が死んだという事。

 え、でも。

 おかしい。俺はここにいるし。傍らを見ると寿々音が茫然と立ち尽くしている。

 それに、喜多の事だってしっかり記憶している。

 案山子がさっき言ったことと一致しないではないか。

「案山子、何故?」

 訝し気に首をひねる俺に、案山子は無言のまま困惑の表情を浮かべた。

 消えたっ!

 今度は案山子だ。

 喜多の時以上に何の前触れもなく、恐らくは、彼自身も状況が呑み込めていないのではないかと思われる予期せぬ現象だった。

「思っていた以上に時空転移能力のウエイトはこの家にあったようですね」

 聞き覚えのある声。

 こいつは、確か。

「姿を見せろっ!」

「いますよ、ここに」

 人を食ったような返事と共に、喜多が消えた壁に歪が生じ、ダークスーツを身に纏った痩身瘦躯の能面男が姿を現せた。

 砧だ。

「生きていたのか」

「まあね。異邦人相手に丸腰で対峙するほど私は間抜けじゃない。スピリチュアルスーツを使わなくても事は運ぶと踏んでいたのは油断でしたね。それでも念の為に衝撃吸収服をアンダーに身に着けていたのは正解だった。結果無傷でしたから。ただ君の攻撃力の凄まじさには参ったよ。耐え切れずに素っ飛びましたからね」

「案山子をどうした?」

「ブラインドで隔離中です。後で回帰システムで最愛の家族の後を追わせますから、ご安心を。私の描いたストーリーでは、彼は政府軍の制圧に活動を断念して仲間共々自決することになってますから」

 砧は意味深な含み笑いを浮かべた。

最愛の家族? こいつ、何を言いたいんだ?

「反政府組織を集めて秘書達に襲わせたのは貴様だったのかっ!」

 体の震えが止まらなかった。

 恐怖ではない。怒りだ。百パーセント純粋な怒りが、底知れぬ憎悪を駆り立てていた。

「あの傀儡は精巧な出来でしたね。秘書達は今回も一人を除き、私の命令に従いましたから。スピリチャルスーツとしての機能を兼ね備えていたのは好都合でした」

 砧は嬉しそうに目を細めると、慣れた手つきでパソコンのキーボードを叩き始めた。

「今回もって……まさか? 」

 ついさっきの喜多と案山子の会話が、俺の脳内で高速再生する。砧のその一言は、二人が言葉で綴らなかったパズルの空白を埋めるピースとなって、不鮮明だった事実に総天然色の色付けを施していた。

「ご察しの通りですよ。あの時は初めて彼の木偶への憑依に成功しましてね。それを祝って全世界に花火を打ち上げようと思ったんです。まあ秘書の裏切りでそれも実現せずに終わったんですが。その後、別件で核ミサイルが時空転送されてきたのは想定外でした。秘書達が壊滅させた施設に、某国が発射したものなのですが。実は私が某国の軍事システムに忍び込んで発射させたんですけどね。残念ながら迷える死神は今も時空の間隙を彷徨っています」

 砧は残念そうに肩をすくめた。

「喜多は知っていたのか? 」

 喜多は公安や軍部と密接な関係にある。彼にも同様の情報が流れていて当然のだろう。だが喜多が案山子にぶつけた疑問といい、奴の口振りといい、どうもそうとは思えなかった

「そりゃあ決まってるでしょ。知るわけがない。彼も私にとっては駒の一つにすぎませんから。それでも一言だけは伝えておきましたよ。同志がご乱心したとね」

 得意げに嘯く砧を、俺は侮蔑を込めて睨みつけた。奴が諸悪の根源なのだ。喜多と案山子を手玉に取って、双方が潰し合うのを企んでいるのか。それが、政府の方針なのか? 

「何を企んでいやがる……」

「何って? ああ、公安のお仕事じゃないです。あくまでプライベート」

 砧は愉快そうに顔をほころばせた。

「どう言う意味よ?」

 人を馬鹿にしたような奴の態度に、寿々音が不満げに吠える。

「全面戦争ですよ。世界を焼き尽くし、世の権力者を足元に平伏させ、最終的には私がこの世界の支配者になるんです。それも、影から全てを操る闇の支配者として」

「何を馬鹿げた事を……」

 寿々音が眉を潜めると、呆れかえったような表情を浮かべた。。

「馬鹿げた事? 私も少し前まではそう思ってました。でも、あることに気付きましてね。ほんの一時、他の時元を訪れ、再びこの時元に舞い戻って来るだけで異邦人になれる事にね。時空転送をうまく使えば無敵の超人になれる上に、不老不死の身体を手に入れることが出来るのです。そうなればもう怖いものなし。なんだって出来ます。こんな素晴らしい事、他にはありませんよね。でもね……」

 砧は、さも楽し気に熱弁を振るうと、不意に語尾を潜めた。

「こんな素晴らしい事、他の誰にも教えたくないよね」

 砧は口元を吊り上げて不気味な笑みを浮かべると、徐に中空に浮かぶパソコンのキーを連打し始めた。

「この世界に異邦人は要らない。私以外にはね」

 砧の細い指が、一際激しくキーを叩く。

 不意に、寿々音の頭上に色褪せた光が渦巻き始める。

 音もなく静かに降下してくるセピアカラーの光のカーテン。さっき麗を回帰へと導いた、現界と異界を分断する時空の遮断壁だ。

 まずい。

 無意識のうちに、俺は地を蹴っていた。

 ほんの僅かの差で、何とか彼女の足元へ滑り込む。

「何のつもりです? 貴方が抵抗しても恐らくは無駄ですよ」

 奴は眉間に皺を寄せると、侮蔑に塗り固められた目線を俺に余す事無く降り注いだ。

「仕方ありませんねえ。仲良く一緒に送り届けてあげます。私からのささやかな手土産も一緒にお送りしますから、お楽しみに」

 奴は最高の笑顔を浮かべながら、大きく手を振った。

 どこまでも人を馬鹿にしてやがる。

 視界がセピアカラーに染まる。

 地味な光のカーテンは俺達を完全に隔離すると、ゆらゆらと長い波長を刻みながら揺らめき始める。

 俺はカーテンに近付き、拳を撃った。だが、それは一瞬接触面を中心に波紋を伝播させるものの、それ以上の変化は見られなかった。

 エネルギー体ではないのか。

 俺の中に吸収される素振りは全く無く、又、反対に拒絶の反動を示す訳でもない。

 いったいどんな性質の物質なのだろうか。

 明らかなのは、俺の能力をもってしてでも、この遮蔽物を破るのは不可能という事実。

「喜多……」

 怯え切ったか細い声と共に、寿々音が俺の身体にしがみついてきた。

 俺は彼女の腰に両手を回し、身体を密着させた。

 身体がガタガタと震え、体温も著しく低下している。着実に迫り来る近未来の戦慄が、彼女の心身を激しく打ち据え、平常心と生気を根こそぎ奪い去っていた。

「大丈夫だ。しっかりしろ! 俺が守ってやる」

 無責任だと思った。

 思わず彼女を励まそうと、口を突いて出た台詞。

 守り切れる根拠も自信もない。

 カーテン越しに、歪に歪む砧の顔が見える。

 大きく揺れる瘦身とむき出しの白い歯。

 笑ってやがる。

 早くも全世界を支配したつもりになっているのか。

 俺は渾身の怒りを込めて、奴を見据えた。

 突然、奴の顔から笑いが消えた。同時に、顔が小刻みに痙攣したかと思うと、固く引きつり、凍てついた状態となる。

 何が起きた?

 憎悪と憤怒の気を孕んだ俺の一瞥に恐怖したのか?

 そんなんじゃない。

 奴の目線は俺ではなく、もっと遠くを見ている+。

 俺の背後。

 位置的にはそんな感じだ。

 砧の身体が、掻き消すように消えた。こんな事出来るのは。

「喜多さん!」

 慌てて振り返る。

 刹那。

 何者かが、俺達の傍らを通り過ぎた。

 視界を過るその姿を追いかける。

 自転車に乗ったセーラー服姿の少女。

 寿々音だ。

 そうか、彼女が異世界に迷い込むまさにその瞬間なのだ。

 風景が変わった。

 夕暮れ時。朱色の光を受け、見慣れた木造の家屋が黄金色に染め上げられている。

 喜多の家だ。

 物音一つしない古びた家屋には人の気配が無く、雑草が繁茂する庭の状態から、住民不在である事を物語っている。

 寿々音は何を思ったのか、徐に近くのブロック塀に軽く拳を撃ち込んだ。

「痛っ!」

 顔をしかめて慌てて引き戻した拳には、薄っすら血がにじんでいる。

 漸く俺は気づいた。彼女は試したのだ。超人的な力がまだ宿っているのかどうか。

 つまりは、本当に時間ギャップ無しで元の次元へと戻ってこれたのかどうか。

 その答えは、血のにじんだ拳と傷一つついていないブロック塀が全てを物語っている。

「帰ってきたんだ……」

 寿々音が、ぽつりと呟いた。気の抜けたような力無い表情を浮かべながら、虚ろな目線を中空に泳がせている。

 生まれ育った世界への帰還を喜ぶ素振りは微塵もない。それどころか、現実を受け入れ切れていない潜在下の意識が、哀れなほどに焦燥と困惑を彼女の顔に刻み混んだ。

「喜多、おかしいよ。あの世界の記憶が消えてない」

 弱々しく開かれた瞳が、うるうるとうるみ始める。

 確かにそうだ。麗が死を迎え、喜多准教授の存在が白紙化されたのなら、その瞬間に俺も寿々音もあの世界に迷い込む直前のシーンからのスタートになるはず。そうか、この世界に転送されたのは、やはり回帰システムによるものなのか。

 じゃあ、喜多准教授は生きている?

 麗も?

 でも、あの時、喜多は忽然と俺達の前から消え失せたのだ。砧がブラインドを使ったようにも見えない。ただ、あの時、砧は何に怯えていたのか。そして、その挙句の果てに……。

「死にたくない……死にたくないよう……」

 大粒の涙が、彼女の頬を伝う。

 俺は彼女を力いっぱい抱きしめた。

小刻みに震える華奢な身体を、ぎゅっと俺の身体に密着させる。激しく脈打つ拍動と、不安定なリズムを刻む呼吸音が、底知れぬ恐怖と緊迫感を齎していた。

 声の掛けようがなかった。

 彼女の不安を一蹴させる気のきいたセリフが、俺には一片も浮かばなかった。

 空間の捻じれが修復された瞬間、異次元でのダメージがどのように牙をむくのか、皆目見当がつかなかった。

 なす術のないままに、時間だけが悪戯に過ぎて行く。

 夕陽は足早にその姿を密集する建造物の影に沈め、空は濃紺のヴェールを纏い始める。

 静寂に沈む喜多の家は、古びた風貌からか、周囲の家並みよりもより濃厚に闇の分子を誘引し、異様な存在感を誇っている。

 全ては、この家から始まっているのだ。喜多も結局、この家に踊らされていたのだ。麗の話だと、彼自身も空間移動の能力を持ち合わせていたらしいが、それ以上にこの家の影響力が大きかったのだ。

 まてよ。そうかっ!

「寿々音、来てっ! 一か八かだっ!」

「え? 何?」

「時空転送の力のメインはこの家にあるんだ。だとしたら、何か助かる方法が見つかるかもしれない」

 戸惑う寿々音の手を引き、俺は家の玄関に向かった。

「御免下さいっ!」

 戸口で声を掛け、引き戸をがんがん叩く。

 返事はない。

 思い切って引き戸を開けようと試みる。が、無情にも施錠された戸はがたがたと拒絶の音を立てるだけで、頑なに俺達を拒み続けた。

「裏に回ろうっ!」

 ひょっとしたら、向こうの世界で案内された、庭に面する居間の戸が開いているかもしれない。

 雑草だらけの家庭菜園を抜け、住居の裏に回る。こじんまりした日本庭園が、目に飛び込んでくる。長い間誰も手を入れていないのか、向こうの世界と違い、木々の枝は伸び放題で、落ち葉も厚く積もったままになっている。

 居間に面した引き戸は、俺の期待を裏切り、色褪せた木製の雨戸でぴっちり閉じられ、寡黙に他者の侵入を拒絶していた。

「くそうっ!」

 力任せに雨戸を引いてみる。

 ばきっという木の破砕音が響く。と同時に、雨戸は静かに開いた。

 恐らく久し振りに入り込んだ外気に、濃厚に降り積もった埃が舞う。それに付随するかのように、かび臭い空気が不快指数を一気にマックスまで押し上げていく。

「行こうっ!」

 一瞬躊躇う寿々音に声を掛けると、俺は彼女の手を引きながら靴のまま家に上がり込んだ。

 間取りは覚えている。

 俺達は迷うことなく居間を抜け、二階へと通じる階段を駆け上がった。

「えっ!」

 言葉が続かなかった。

 果てしなく広がる空間――はない。

 ごく普通の板張りの廊下と襖で仕切られた和室らしき部屋が二つだけだ。

 襖をあけ、部屋の中へと入る。

 真っ暗だった。ここも雨戸が閉められているらしく、廊下から差し込む残照の名残が、かろうじてその内部の様子を明らかにしていた。

 畳張りの、ごく普通の和室。部屋の片隅に古びた箪笥があり、闇の支配する空間に、更に濃厚な影を落としている。

 隣の部屋も開けてみたが同様だった。

 落胆と失望が、俺達の意識を耐えきれない虚脱の深淵へと追い詰めていく。

 駄目か……もうどうしようもないのか。

 纏わりつく弱気な思考を振り払っても振り払っても、とてつもなく強力で巨大な不安が、俺の思考を次々にネガティブな方向へと導く。

 俺達は無言のまま、部屋を後にした。重い脚を引き摺りながら、階段を下り、ぶち壊した雨戸の開放部から外に出る。

「喜多、もう駄目かも」

 寿々音の震える声が、俺の耳元に絶望の調べを紡いだ。畏怖の虜囚となった彼女は、虚ろに開かれた眼を上空に向けていた。

 空が、渦巻いていた。外へと大きくうねりながら、まるで何かを吐き出そうとしているようにも見れる。

 その予想は、数秒後に現実となる兆しを見せ始めた。

 渦の中心部から赤黒い何かがじわじわと顔を覗かせている。物資なのか、それとも凝縮された光の粒子の集合体なのか分からない。それは、ゆっくりとではあるが、着実にこちらの世界に産み落とされようとしていた。。

遠距離のせいか詳細は確認は出来ていないが、滑らかな表面は激しく流動しており、赤と黒の不規則な斑紋が短時間の間に著しく変化を遂げている。

 それだけじゃない。

 巨大だった。

 遥か上空であるにもかかわらず、まるで満月の様に、それは圧倒的な存在感を誇示していた。

 多分、あれが向こうの世界で寿々音に牙をむいた衝撃の集合体。

 富士見を瞬殺した最強の敵の正体だ。

 寿々音の喉から、声にならない悲鳴が迸る。と同時に、ぴしゃぴしゃと連続的な水音が、彼女の足元ではぜた。仁王立ちしている彼女の足と足の間から水流が一直線に流れ落ち、地面を黒々と染めていく。

 寿々音は失禁していた。スピリチュアルスーツに無表情で立ち向かう勇猛果敢な以前の姿は、もはや片鱗すら残っていない。容赦のない非情な現実と抑えようのない戦慄に、強靭だった彼女の意識は完全に破壊されてしまっていた。

「安心しろ。大丈夫だから」

 俺は彼女を背後からぎゅっと抱きしめた。小刻みに震えるその身体は、まるで屍の様に冷たく冷え切っている。着々と迫り来る残酷無慈で無慈悲な現実が、彼女から生気をごっそり奪い去っているのだ。

 赤黒い巨大な物体に、変化が生じた。

 見る見るうちに、それは更に巨大化し、同時にその風貌も鮮明な画像へと進化を遂げていく。

 接近して来る。

 確実に。それも、恐ろしく速い速度で。

 嘆息が、無意識のうちに喉から漏れる。だが畏怖におののく事も無く、自分でも信じられない程、俺の意識は落ち着き払っていた。

 開き直るしかなかった。

 もはや視界いっぱいまで埋め尽くし、空を飲み込んでいる赤黒い物体を前にしては。

 接触まで、3、2、1……

 寿々音を後ろに突き飛ばす。

「来いよっ! 俺が全部喰らい尽くす」

 俺は両手を広げ、赤黒い物体と真正面から対峙した。

 もし、俺も寿々音と同じ時元世界の住民ならば、こいつと折衝した時点でゲームオーバーだ。だが、もしそうじゃなければ。

 接触。

 皮膚がびりびりと弾け、夥しい衝撃が全身を激しく貫く。

 痛みはない。だが、滋養強壮剤をバケツで一気飲みしたかのような、凄まじい意識の覚醒と急速に膨れ上がる興奮に膝が笑い、腰ががくがくと砕けそうになる。

 異次元の狭間に残されていた寿々音の忘れ物は、砂漠にぶちまけた水の様に、立ち塞がる俺の中に猛スピードで吸い込まれていく。熱い気の噴流が激しく渦巻きながら分散し、俺の身体を構成する細胞の一つ一つに、絶え間なくシンクロしていく。 

 俺はぐっと奥歯を噛みしめた。

 身体が、悲鳴を上げていた。

 このままいけば、俺も過飽和状態になって麻里李の様に弾け飛んでしまうかもしれない。

 寿々音が向こうの世界で受けた負の貯蓄は、あとどれ位あるんだろうか。

 俺の不安をよそに、赤黒色のエネルギーは、止まる事なく俺の体内へと流れ込み続けている。

 身体が、俺の意に反して小刻みに震える。恐怖におののいている訳じゃない。身体中の細胞が、急激尚且つ極度の活性化に翻弄され、暴走しかけているのだ。

 くそう。

 奥歯が砕け散りそうになる位、力いっぱい噛みしめる。

 不意に、視界が開けた。

 忌まわしき赤黒色の巨塊は、痕跡一つ残さずに眼前から消失していた。

 大きく深呼吸。

 どうやら、喰い尽くせたらしい。

 と言うことは、俺はここの住民じゃない。

 寿々音とは、違う世界の住民なのか……。

 彼女を守る事が出来たうれしさよりも、同じ時空の住民でない事実を自覚した寂しさの方が遥かに凌いでいた。

「喜多っ! 」

 寿々音が、がっちりと抱き着いてくる。

「終わったの? 」

「終わってない。残念だけど」

 俺は天空を見上げた。空はまだオレンジ色の光を帯びたまま、渦巻く次元の顎を閉ざしていない。

 まだ何か来るのか。

 目を凝らして、忌まわしき時空の裂け目を凝視する。

 何も見えない。

 否、あれは?

 けし粒の様な小さな点が、裂け目の中央部に見える。

 俺は両眼の視点をそれに固定した。同時に、澄み切った脳内を、思考がとてつもない速度で駆け巡る。

 空が急降下してくる。

 一瞬おののいたものの、すぐにそれが錯覚であることに気付く。

 空が落ちてきた訳でも、俺が近付いた訳でもない。視力が急激に向上したのだ。

 広い原野で生活する民族の視力が5.0もあるという逸話を耳にしたことがあるが、そんなの比じゃない。これも、惑星大の衝撃をエネルギーとして取り込んだ結果なのか。

 妙に細長い、何処かで見た事のある形状。これって……!

 視覚で捉えた像を基に、思考が解析したデータ結果は、とんでもない事実を突き付ける。

「核ミサイルだ……」

「えっ?」

 怪訝そう表情で、寿々音は空と俺の顔を交互に見比べた。

 間違いなかった。たぶん、あれは時空の間に迷い込んだもう一基のミサイルだ。

 実際に大国が喜多の家を破壊しようと打ち放ったものなのか、それとも喜多が空間を操作し、虚構の世界大戦を現実化する為に、意図的に大国の軍事施設から盗み出したものなのか。確か異空間に弾かれたまま、行方不明になってたやつだ。

 砧が言っていた手土産ってのは、ひょっとしてこれの事?

 厄介な。

「寿々音」

「ん? 」

 俺は寿々音の唇にそっと唇を重ねた。

 唐突な俺の行動に、面食らった表情で茫然と佇む彼女。

「じゃあな、デザート喰ってくる」

 俺は笑みを浮かべると両手を彼女の両肩に掛け、そっと身体から遠ざけた。

 再び、天空を見上げると、俺は地を蹴った。異世界のエネルギーを喰らった俺の身体は、スペースシャトルを遥かに凌ぐ推進力を生み出し、天空を超高速で駆っ跳んでいく。

 見る見る間に迫り来る脅威の異物を、俺はじっと見据える。

「いただきます! 」

 全身から夥しい気の噴流が迸り、厄介な手土産を包囲する。

 刹那、閃光が視界を白一色に埋め尽くす――。

                                 (了)

     

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IKOKU しろめしめじ @shiromeshimeji

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