◇後編

 何がどうなっているのかがわからない。

 私はあの人間離れした美貌を持つ占い師と共に、彼女の用意した馬車へ乗り込んでいた。


 道中私達は無言だった。

 けれど馬車に乗っていた時間は思った程長いものではなかった。

 十数分といった所だろうか。


「ここは……」


 馬車から降りた所は、月の光を受けて鏡のように光る湖畔だった。辺りは鬱蒼とした木々で覆われた森が取り囲み、湖のちょうど中程に、あの細い月が昇る空が見える。葉の茂みの間から、まっすぐ湖面へ月の光が降り注いでいる。

 しんとした静寂の中で、私は再び心の底から凍えるような寒さを感じた。


「何故こんな所へ連れてきた。私は……」


 ここは、よく知っている。

 この湖は、私の屋敷の近くにあるそれだ。


 私は何故かこの場所を避けていたような気がする。

 この場所を訪れたくないが為に、屋敷へ戻るのをやめたような気がする。


 歯ががたがたと震えた。

 唇が青ざめ、手足がとても冷たい。


「私は戻る。どうせ連れ込むならもっと色気のある場所にして欲しかったな」


 私はきびすを返し、街へ戻ろうと湖へ背を向ける。だがそれをあの占い師が制した。しなやかなほっそりとした指が私の頬に添えられる。

 月の光に煌めく銀糸の髪が、光の洪水のごとく私から視界を奪っていく。

 人形のように作り物めいた、儚い美しさを伴ったその顔は、私のそれと触れあうほど間近にあった。


「そうやって過去に背を向ける方が、あなたにとってよいことなのかもしれない。でも、私には重すぎるのです。あなたの――」


 私の唇に彼女の唇が触れる。


「あなたの愛が……リゲイラ」



◇◇◇



『嫌だ。私が愛しているのはあなただけだ。あなただって……』

『許して、リゲイラ。私は領主のもとへ嫁ぎます』


 そういってあなたは私の手を振りほどき、森の奥へと駆けていった。

 仕方がなかった。

 貴族とはいえ下位のそれでしかない私には、領主に見初められたあなたと結ばれるはずがないのだから。

 けれど、彼女が領主の花嫁になることはなかった。

 彼女は一旦街へ戻ってから、再びあの森の湖へと赴き、そこで身を投げたのだった。



 身も痩せ細った月が昇る夜だった。

 姿を消した彼女を探して、私はすぐ湖へとかけていった。

 あの静かな湖畔の木陰で、私達は一緒にお昼を食べたり談笑したり愛の言葉を囁き合った。思い出深い場所だった。


 けれど彼女はもういない。

 湖の岸辺で変わり果てた彼女を見つけて以来、私はずっと屋敷に閉じこもりきりになった。いっそ病気になって死んでしまっても構わなかった。


 そんなとき。私は召し使いのうわさ話を小耳に挟んだ。

 王国一の人形師マルグリットが、この街に滞在しているという事を。


 私はただ……寂しかったのだ。

 いつも一緒にいた彼女を突然失って。

 私は人を遣ってマルグリットを屋敷へ呼んだ。


「金はいくらかかっても構わない。彼女の人形を作ってくれないだろうか」


 マルグリットの作る人形は、完成度の高さから、まるで生きているようだと国中に評されていた。国王すらも、自分の影武者がわりのそれを、マルグリットに作らせたと聞いている。


「リゲイラ様。私の作る人形は、確かに生きているのでございます。それには、報酬の他に、あなたからならないものがございます」

「彼女が再び私の側にいてくれる為なら、私は何だって代価を支払おう」


 その時、マルグリットがその吹き出物だらけの顔を歪め、満足げに笑みをもらしたのを覚えている。


 人形師はひと月、私の屋敷の一室にこもって、ひたすら彼女の人形を作り続けた。その作業工程を覗き見る事は厳禁で、食事すらも部屋の扉の外に置かせるという徹底ぶりだった。


 かくして。彼女の人形が完成した。

 腰の所で切り揃えられた流水のような銀の髪。磁器で作られた抜けるように白い肌。月影を宿した神秘的な瞳には、青い紅玉から作られたそれがはめられ、薄桃色の唇は今にも語りだしそうに少し開かれている。


 彼女は私の部屋に置かれた一脚の椅子の上に座っていた。

 幾重のドレープが描く淡い紫のふわりとしたドレスをまとって。

 素晴らしい。

 そこには紛れもなく彼女がいた。


「今度こそ、私はあなただけのものだ」


 私は跪き、人形の――いや、彼女のほっそりとした指を手にとり頬に当てた。磁器で作られたそれは冷たいはずなのに、私は彼女の優しい手の感触を思い出していた。


『許して、リゲイラ』


 今ならわかる。

 あなたが許しを請うたのは、領主の花嫁となることではなくて、私へのに、ひとり暗き黄泉路を歩む事を選んだ事だ。


 私はそっと彼女の小さな手を再び膝へと戻した。

 彼女は私の顔を無邪気な笑顔を浮かべながら見つめている。この顔を見たいと何度願い続けた事か。


 ――私だって、あなたを愛しているんだ。

 あなたのためなら、この身も心もすべて捧げよう。


「私の心はのもの」


 私は立ち上がり、その月影を映す彼女の瞳を見つめながら、深く深く口付けた。


『私の心はあなただけのもの』



◇◇◇



『リゲイラ様。私の作る人形は、確かに生きているのでございます。それには、報酬の他に、あなたから頂かなくてはならないものがございます』


「私、は……」


 私ははっと我に返った。


『そうやって過去に背を向ける方が、あなたにとってよいことなのかもしれない。でも、私には重すぎるのです。あなたの愛が』


 私は目の前の美しい銀髪の女の顔を見つめた。

 磁器で作られたように色の抜けた白い肌は冷たく、月影を宿した瞳は虚空に浮かぶ、それを受けて青い紅玉の様に光っている。


 彼女は急に力が失せたように、その美しい顔を後ろへのけぞらせた。

 私の首に回されていた両腕が、するりと解けて落ちていく――。


 私は夢中で、崩れ落ちるその体を抱え込んだ。

 両腕に抱きしめて共にその場へ膝をつく。


 全てを思い出した私の頭上で、あの痩せ細った銀の月が、白みだした朝焼けの中で消えようとしていた。




  ―完―


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銀の月 天柳李海 @shipswheel

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