銀の月
天柳李海
◆前編
今夜も釣り針のように細い銀の月が昇る。
自分でも何故かわからないが、このか細き月が出る夜は、心が凍えるほどの寂しさを感じて、私は毎夜のごとく領主の館で行われている社交場へと向かってしまう。
「……冷たいキスですこと。あなたの心はここにあらずということかしら」
人気の絶えた階段の踊り場で、私はアーチ型の窓の外から見える月をながめていた。
「いえ。そういうわけでは」
私は視線を細い月から静かに引きはがした。
心ここにあらず――か。そう言われれば、そうなのかもしれない。
「今宵は私と過ごして下さる約束のはず。だから、他のひとの事を考えるのはおよしになって」
目の前のふくれっつらの女性が、高く結い上げた栗色の髪を震わせて私をにらみつけている。
そんな約束をしたような気もするが、私にとってはどうだっていいことなのだ。
私は勝手に言い寄ってくる女性の相手をしているだけ。
この夜の寂しさを紛らわせるために。ただ、それだけだ。
「私の悪い噂はご存知でしょう? あなたはそれを承知で、私を選んだ」
「ええ存じていますわ。一度付き合った女性とは、二度とお会いにならない浮気者の子爵様。だからこそ今宵だけは、その流れる白金の髪も憂いに満ちた群青の瞳も……私だけのもの」
私は反射的に彼女から体を離した。
「どうなさいましたの」
すがるような瞳で彼女が私を見つめる。
「……用事を思い出しました。申し訳ないが、これにて失礼させていただきます」
「えっ! あっ!」
私は外套の裾を押さえ、きびすを返してその場を立ち去った。
女性のかん高い声が背後から追いかけて来るのに怯えつつ、半ば駆けるように社交場を後にした。
◇
まだ夜は半ばを過ぎたあたり。
あの細い月は消え入りそうな光を放ちつつも、私の頭上を煌々と照らしている。
『私だけのもの』
その言葉が私の体の中を、汚水のようにかけめぐった。
理由などわからない。わからないが、その言葉をきいたとき、えも言われぬ不快感に胃がむかついた。この世のすべてが一瞬のうちに死に絶えて腐食していく様を見るような気がして。
領主の館を後にした私は、あてどなく夜の街を歩いていた。
私の屋敷は街を出て小さな森を越えた郊外にある。
だが私はもう何年も屋敷には帰っていない。
帰る必要がないから。
屋敷には誰もいないのだ。私の帰りを待つ者など、誰も。
そんな寂しい所へ、何故帰らねばならない?
街にいれば日常という退屈から気を紛らわせる手段に事欠かない。
それにしても。今夜はいつもより冷えるようだ。
私は手先を摺り合わせ、そっと外套の袂をかき寄せる。
いや。あの月のせいだ。
あの月の光のせいで、そんな風に感じるのだ。
細く細く痩せ細った、けれど闇を切り裂くように輝く、あの銀の月が。
住居代わりに使っている旅籠の一階は酒場になっている。
この街一番の老舗で、元は貴族の館だったものを改築したせいか、高い天井を持つホールや流線形を描く柱の造型、洗練された建築様式が、とても私好みで気に入っている。
こんな冷える夜は人肌が恋しくならないわけでもない。
が、今宵すごすつもりだった女の元から逃げ出したので、私は体を暖めてくれるもう一つの方法――酒にすがることにした。正体がなくなるほど飲めば、あのいまいましい銀の月も地の果てへと沈み、このえも言われぬ寂しさを追い払う、朝日によって目を覚ます事ができるはずだから。
私は酒場へ足を踏み入れた。宵の口のせいか、酒場は多くの男女でひしめきあい、陽気な雰囲気に満ち満ちていた。一人陰鬱な気分で沈みこんでいる私には、似つかわしくない場所だった。そこでやはり部屋に戻って飲む事に決めた。
その時。
「そんなもので、あなたの寂しさは消えはしない」
密やかな声が私を呼び止めた。それに驚き後ろを振り返る。
そこは酒場の奥まった席で、淡い紫のヴェールを目深に被った女性が一人、座っていた。ほっそりとした手には数枚のカードを持ち、私と目が合うとゆっくりとうなずいた。酒場の軒下を借りて商売をしている辻占い師のようだ。
金や銀のスパンコールがきらきらとちりばめられたヴェールの下から、唯一隠れずに見えている唇が「こちらへ」と言葉を紡ぐ。
女が淡い紫の装束に身を包んでいるので、そのふっくらとした唇だけがとても鮮やかに見えて、私はついふらふらと彼女の席まで近付いていった。
「なにか、ご用ですか」
「まずはお掛けになったらどうです」
私は女のいいなりになることに少しだけ不快感を覚えながら、正面の椅子へと腰掛けた。途端、まるで私達だけが酒場の喧噪から切り離されたように、その騒がしい音が遠のいていった。
「私にはわかります。あなたが何故……寂しいのか」
赤薔薇の蕾のような唇が動き、占い師の女はそっと被っていたヴェールを頭の上へとはぐった。
磁器のような色素の薄い肌と流水のような輝きを持つ長い銀の髪。伏せた睫の下には月影の光を宿す青い瞳。
まるで人形のように、人間離れした美しさを持つ女だった。
「占い師をさせるには、勿体無いほどの器量だな」
だが女はにこりともせず、真意が見えない深い湖のような瞳で見つめ返した。
「私にはわかります。あなたはどんなに美しい女にも、魅力的な女にも、決して心を動かされた事がないということを」
「……」
私は一瞬息を詰めた。
目の前の占い師は、淡々とした表情のまま、薄い銀の板のようなカードを切って、机の上に一枚二枚と並べていく。
「ああそうだ。今まで多くの女性と付き合ってたが、誰も私の寂しさを紛らわせることができなかった」
誰も。
夜毎囁かれる愛の言葉も、私の心には何も響かない。単なる遊びだった女性もいるが、私に本気で愛を打ち明ける者もいた。
だが、それでも私の心は氷のように冷たく、何も感じなかった。
感じられなかった。
私の心ない言葉に傷つき、泣き崩れた女性をひとり残して部屋を出ることもあった。彼女に対する憐れみは感じた。だがそれ以上に私の心には虚しさしか残らなかった。いつも、いつもだ。
「何故だ?」
私は思わず占い師に問うた。
「いつからこうなってしまったのだ? 私は……? これでは、まるで私は誰かを愛する事ができないみたいじゃないか!」
すっと、占い師の細い枝のような指が動きを止める。
「そう。あなたは誰も愛する事ができない。だから寂しいのです。でも仕方がありません。あなたは、その心を
「えっ……?」
占い師はすっと立ち上がり、相変わらず静かな湖のような、不思議なまなざしで私を見下ろした。
「よかったら取り戻しに行きませんか。あなたが無くしてしまったものを、私と一緒に」
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