埋葬虫

深川夏眠

埋葬虫(シデムシ)


 人気ひとけのない林に車が着いたのは夕方だった。トランクから、シーツに包んだ遺体を下ろす。私の姉だ。二時間前まで活き活きとして美しかった彼女はもう、冷え切った一塊の物体に過ぎない。ところどころ布地に滲む血の染みだけが、かつての命のあかしである。

 姉の恋人であったはずの彼は、まったく平然として淡々と作業を進める。それどころか、私が彼の目の前で姉を刺してしまうという今日のを、前もって察していたかのように、準備は既にできていた。シャベルで掘った深い穴が、黒い口を開けて待ち構えていた。私たちは、先ほどまで姉であった重い荷物を放り投げた。

 出発する際、彼は、美大生だった姉が彫刻の型取りに使っていた石膏を持ち出していた。遺体の上からこれを流し込んで固めれば死臭が漏れるのを防いでくれるから、野犬に掘り返される心配はない……と言う。私たちは、そこへ更に土を投げ込んで大きな穴を埋めた。完全に塞いだ後、シャベルの背で叩いてならし、仕上げに車を小刻みに前後へ走らせて、何事もなかったように地面を整えた。

 彼は運転席、私は助手席で、シートを傾けて大きく溜め息をついた。すっかり夜になっていた。

「どうしよう……」

「考えたってしょうがないさ」

 彼はぶっきらぼうに、ほとんど投げやりに答えた。恋人の死を、特に何とも思っていない様子だった。

「そうね。ここまでやっちゃったんだし……」

「邪魔者がいなくなって清々したろ」

 彼はある意味、私を救ってくれたわけだが、真意が掴めないのが不安だった。それとも、上手く行っているフリをしながら、実はずっと姉を疎ましく思っていて、こんな日が訪れるのを待っていたのだろうか……。

「――ホイ」

 彼は煙草を咥えながら、私の膝に財布を投げて寄越した。姉のものだった。開いてみると、中には多少の現金と、数枚のカードが入っていた。

「要る物は買えばいいさ」

 私はライトを点けて、カードを一枚、取り出した。裏面のサイン――姉の筆跡は、簡単に真似できると思った。なるほど。確かに、あんなにこのまま帰るのは御免ごめんだった。しばらく逃避行と洒落しゃれむのも、悪くはなかろう。


 インターチェンジを降りると、けばけばしいネオンが連なって目の前に広がった。事前の予約もなく、しかも身元を明かさずに泊まれる場所といったら、ラブホテルしかなかった。

 彼が時計を見て、

「ちょっと早いかな。腹減ってない? メシ食って時間潰すしかなさそうなんだけど」

「うん……」

 とは言ったものの、食べ物など喉を通るはずもなかった。ただ、激しく喉が渇いていた。近くの店に入り、当たり前の調子で食事する彼を、ぼんやり眺めつつ、私は冷たい水をがぶ飲みした。

「さて、どの宿にする? より取り見取りですけど」

「別に、どこでも――」

「あ、そう」

 すると、彼は空室有りのサインを認めて、林立するホテルの中の適当な一軒に車を寄せた。駐車場からエントランスへ、先に立ってズンズン歩く彼の後を、私は重い足取りでついていった。彼の言う「ちょっと早い」というのは、休憩でなく宿泊する気でチェックインするには規定の時刻まで大分間がある、という意味だった。しかし、フロントの係員は、オーバーステイと同じように時間外料金を払えば問題ないと説明してくれた。

「じゃあ、どれにする?」

 内装など、どうでもよかった。私はパネルの写真を碌に見もせず部屋を選んだ。が、鍵を受け取り、エレベーターに乗り込む直前、

「着替え……!」

「もうここまで来ちゃったんだから、諦めな。明日買えばいいだろ」

「嫌だ、また汗だくのTシャツを着るなんて」

「洗って干しときゃ、朝には乾くさ」

「……」

 部屋に入ると、彼はテレビを点け、冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。私は先に入浴した。はできていた。彼が私に性的な興味を持っているとは思えなかったが、こんな特殊な状況下では何が起きても不思議はないだろう。

 今日を境に、犯罪者になってしまったのだから――と、頭の中を開き直りに似た感情が支配していた。後悔はないが、やはり、実の姉を殺した事実を反芻するたび、何とも言えない恐ろしさが込み上げてくる。しかし、自分に取ってこれ以上に深刻な問題は生起しようがないだろうと思えるのだった。

 だから、彼が気紛れに、あるいは単なる好奇心から、もしくは、手を出さないのは私に対して却って失礼だといった考えでに及ぶのであれば、甘んじて受け容れようと思っていた。もちろん、それを心から期待し、望んでいるわけではなかったが。

 備え付けの、寝巻き兼用のバスローブを纏って脱衣場を出た。入れ替わりに、彼が浴室に向かう。私はミネラルウォーターのボトルを出して立ったまま呷った。疲労がドッと押し寄せる。ベッドに寝そべると、すぐにも眠ってしまいそうだった。

 少しウトウトしていたらしい。彼が戻ってきた。私は余白を空けるようにベッドの端へ詰めた。右側を下にして横向きの姿勢を取り、彼に背を向ける格好になった。彼はテレビを消した。軽い溜め息が聞こえた。やがて、彼が空白のもう一端にドッカリと腰を降ろした。私は息を殺して待った。が、何も起こらなかった。しばらくすると、彼もまた遠慮がちな体勢で寝つこうとするのがわかった。我々はダブルベッドの両端で、背中合わせになっていた。下手をすると床に落ちかねない状態だった。

 静かに夜が更ける。だが、二人が作ったシーツの上の空間に、カッと目を見開いて天井を睨む、血みどろの姉の死体が横たわっている気がして、私は一度も寝返りを打てなかった。


 チェックアウトする頃、やっと食欲が出てきた。コンビニで買い物をし、それぞれおにぎりやサンドイッチを頬張りながら、ショッピングモールへ向かった。当座の着替えや化粧品などを買い込むと、私は不意に、海を見たくなった。

「いいんじゃない、気分転換に」

 車は、とある海水浴場に着いた。七月下旬。学生にとっては夏休みの始め。浜辺は多くの人で賑わっていた。自分とは無関係の幸福そうな人々をぼんやり眺めていると、気が紛れると言おうか、不思議と落ち着く気がした。

「かき氷とか、どう?」

 相変わらず、世界のほとんどの出来事に無関心らしい口調で、彼が言った。私は黙って頷いた。そうだ、そもそもこの人は何者なんだっけ――?

 大学に通うため、私と年子の姉は実家を出て二人暮しをしていた。そこへ去年の暮れ、ひょっこり現れたのが彼だった。知人の紹介で姉に出会ったという彼は、他の大学の院生で、専攻は民俗学という話だった。基本的に口数は少ないが、たまに喋り出すと極めてシニカルな物言いをした。見かけは上品ぶっていても性格のひねくれた姉とは、いい取り合わせかもしれないと思った。

 彼はちょくちょく私たちの部屋に顔を出した。姉が課題とは別に取り組んでいる彫刻に興味があるようだった。一度、どういう行き違いか、姉の留守に彼がやって来た。玄関先で不在を告げると、彼は言った。例の作品、最初の約束より少し早く仕上げて欲しいんだけど――と。伝言の内容は、彼が制作者である姉と依頼主の間を仲介していることを語っていた。

「溶けるよ」

「あ、うん……」

 機械的にスプーンを動かしながら、私はまた、考えた。なにがしかの仕事を取り持っていたのなら、姉の死は彼に取って不都合ではないのだろうか。

「訊いてもいい?」

「うん?」

 先刻からの想いを口にすると、彼はニヤリと笑って、

「事情が変わってね。逆に具合だった」

「……事情って、何なの?」

 彼が説明を始めようとした途端、着信音が鳴った。ポケットから携帯電話を出して応答する。その様子を目の当たりにして、ようやく重大な事実に思い至った。見る見る青褪める私に、彼も気づいたようだった。電話を切ると、

「どうかした?」

携帯ケータイ。お姉ちゃんの……」

「ああ、そう言えば」

 昨日、彼女と一緒に土の下に埋めてしまった……。

「もしかして――」

 一晩のうちに、彼女の友人や誰かが、連絡しようとしていたら? 今頃はもう、不審に思い始めているだろう。だが、焦り出した私をよそに、彼は悠長に煙草を咥えて、

「あんな辺鄙な場所だし、第一、埋まっちゃってるし。電波届かないんじゃない?」

 彼の苦笑はむしろ、私に対する嘲りだった。

「だから余計に変だって感じるわよ」

「そんなこと言ったってしょうがないでしょう」

 しかし、私はあの林へ戻ろうと頑なに主張した。すると、彼は結局折れて、

「見た目も性格も似てない姉妹かと思ったら、ワガママなところだけはソックリだな」

 不承不承といった調子で、吸い殻を灰皿に押しつけて立ち上がった。


 例の山林に辿り着いたのは夕方近くになってからだった。道々、ようやく彼が説明したところによれば、この辺りは特異な信仰を持つ団体のテリトリーなのだそうだ。民俗学を専攻する彼は、フィールドワークの過程で風変わりな集団と接触し、興味をそそられて足繁く通うようになり、様々な聞き取り調査を行なったという。そして、親密になってきたところで、代表者に相談を持ちかけられた。一団は老朽化した現在の偶像に代わる新しい彫刻を欲していた。それなら当てがあると請け合って、姉に制作を依頼したというのが事の次第だった。古い像の写真と共に、彼らの希望に添って描かれたイメージ画を預かって、姉は作業を開始した。ところが、昔からよくある突然の気紛れによって、彼女は仕事を途中で投げ出してしまったのだ。

「もう何だかんだ、前からいろいろあって、噛み合わない気がしてたからね。はっきり言ってよ」

 彼は代表者に事情を告げ、ついでに進言した。彼女はあなた方の神様を侮辱したも同然ですから、しかるべき措置を取られてはいかがでしょう――と。

「そうしたら、間がいいっていうのか……キミが彼女を殺しちゃったのさ。俺がちょっとトイレを借りてる隙にね」

「他人は突然って思うでしょうけど、私には、いつかこうなるって、わかってた気がする」

 姉は私の過去の恋人の話題を蒸し返し、無邪気に残酷な言葉を投げつけた。彼女の口から飛び出した、ほんの二言三言で、積年の鬱憤が弾けてしまったのだ。殺すつもりはなかった。怒りをぶつけたかっただけだった。が、結果として、私は彼女の命を奪ってしまったのだ。

「ふぅん。でも、まあ、しょうがないですな。ああいう人は」

「あなたって本当に冷淡ね」

「お互いさまでしょう」

 彼は私の神経を逆撫でするように薄笑いを浮かべて言った。ごく最初のうちに、キミら姉妹の間に確執があるのは読み取れたから、大して驚かなかったし、付け加えれば、彼女を失っても痛手を感じないのは、もうくだんの団体に属する女と付き合い始めていたからだ――と。

「ひどい人」

 しかし、彼はどこ吹く風といった調子で一頻り煙草を吹かすと、

「ここら辺は、彼らの神に捧げる生贄を屠る場所なんだよ」

 だから、埋葬の準備が整っていたのだ。姉の遺体が運ばれてくるか、もしくは彼女がこの場で殺されるか、いずれかの結果になると予め決まっていたからだった。だが、そう聞かされても、私は驚かなかった。怖いとも思わなかった。顔色一つ変えずに黙っていると、

「全然こたえてないみたいだな。頼もしいね」

 昨日言った、野犬に掘り返されないようにというのは、この付近は信仰集団に属さない外部の一般人も通行する可能性があるので、部外者に気取けどられぬよう、死体を埋めた痕跡を徹底的に隠さなければならないという意味も含んでいたのだと、彼は続けた。しかし、石膏を用いた理由は無論、第一に死臭を防ぐためだが、同時に、彼らの大切な神像を造り損なった彼女への懲罰の意図が籠められている――という言葉には、さすがに悪寒を禁じ得なかった。

 茫然としていると、彼は近くの納屋からシャベルを持って戻ってきた。私は黙って受け取り、姉を埋めた辺りの土を掘り起こし始めた。汗が噴き出した。彼は手を貸そうともせず、傍でじっと眺めていたが、

「――っていうか、固めちゃったんだからさ、彼女のポケットに入ってる携帯ガラケーなんか、取り出しようがないんじゃない?」

「……!」

 何故、気づかなかったのだろう――。私は唇を噛んだ。だが、嘲笑的な彼の態度に腹が立って、意地でも死体を確認しなければ帰れないと思った。いや、たとえ駄目でも、独りでやり遂げることに意義があるような気がし始めていた。

「ま、頑張って。ちょっと向こうに挨拶してくるから」

 彼はスタスタと去っていった。私は躍起になって力を振り絞り、ひたすら地面を掻いた。

「……」

 ひたいの汗を手の甲で拭う。何十分経っただろう。ようやく、辛うじて人間一人が収まる程度の窪みができた。しかし、姉の遺骸はもっと深くに眠っているのだ。私は溜め息を漏らした。すると――。

「そこで何してるの?」

 細く、鋭い声が響いた。振り返ると、二十代半ばくらいの華奢な女性が立っていた。私と同じようなTシャツとジーンズ姿だが、その上にエプロンを着けている。綺麗に切り揃えた黒い髪が縁取る頬は、不健康に青白い。化粧っ気のない、能面のような顔が、じっと私を見つめていた。

「あ、あの……」

 しどろもどろになりながら、私は彼女が漂わす独特の空気を受け止めねばならなかった。彼女は彼の言うのメンバーだと、すぐわかった。いや、もっと言ってしまえば、姉に代わる彼の新しい恋人というのが、この人なのだ。きっと。

 彼女は地面に開いた穴を見て、

「こんなことをして、ただじゃ済まないわよ」

 弱々しい口振りが、却って不気味な気迫を醸していた。私は怯んだ。

「黙って帰すわけにはいかない――」

 彼女は、私が聖なる墓所を傷つけ、冒瀆していると思ったのだ。エプロンのポケットからナイフを出し、後じさりする私に向かって振り翳した。切羽詰まった私はシャベルを掲げて防御の体勢を取った。無意識に目を瞑る。ガツッ、ガツッと、何度か互いの武器がぶつかり合う音がして、身体からだに衝撃が伝わった。無我夢中でシャベルを振り回した途端、踵がズルッと滑った。私は穴に落ち、姉の遺体を覆って固めた石膏の上に尻餅を突いた。

いたっ……」

 怖々こわごわ目を開けると、相手も一緒に転落していた。仰向けに倒れた彼女の額が血に染まっている。シャベルで殴ってしまったのだ。気を失っているようだったが、とにかく傍を離れたかった。足を挫いた私は、痛みを堪えて必死で這い上がった。

「何やってんの?」

 彼が戻ってきた。私は呂律が回らなかった。が、どうにか経緯を説明した。

「はぁ。また面倒なことになったもんだ」

 彼は冷笑を籠めて呟きながら、窪みに落ち込んだ女性を見下ろした。てっきり助け起こすものと思っていた私は、次の瞬間、驚愕した。彼は私が使っていたシャベルを拾うと、掘り返された土を彼女の上に払い落とし始めたのだ。

「ちょっと……!」

 私が制止すると、彼はキョトンとして手を止めた。いや、わかっていてわざと、おどけた仕草をしてみせたに違いない。

「助けないの?」

「冗談じゃない。ややこしい話になるのは勘弁」

「あの人、ただ気絶してるだけなのに。死んじゃうわよ」

「じゃあ介抱しろってか? 目ぇ開けた途端に襲いかかってくるぞ」

 言い終わらぬうちに、彼は作業を再開していた。目顔で私に手伝えと促して。

「……」

 昨日と同じだった。私たちは再び穴を塞ぎ、地面をシャベルの背で均した。但し、今度は生きている人間を埋めてしまったのだ。苦悶の呻きが、厚く覆い被さった土の向こうから響いてくる気がして、恐怖を覚えた。

「実際、死んだヤツより、まだ生きてるって方が怖いもんだね」

 彼は私の内心を見透かしたように、足許あしもとを指差して言った。私は黙って、小さく頷いた。

「もう、ここへは来れないな。こっちが殺されないためには、しらばっくれて逃げるしかないよ」

「うん……」

 またしても、何事もなかったかのように地均じならしをして、秘密の墓所を後にした。車が一散に林を抜けると、彼はポツリと言った。

「旅行、キャンセルしなきゃ」

「お姉ちゃんと二人で予約してたの?」

「そう。でも、代わりの女も始末しちゃったからなぁ」

 彼の口調には、一片の罪悪感も含まれていなかった。だから、私も平然と言ってのけた。

「私が代わりに行っちゃダメ?」

「ハハハハ」

 彼はさもおかしそうに笑ったが、満更嫌でもなさそうだった――というのは、勝手な思い込みだろうか。

「取りあえず、どこに行こうかな」

「足首が痛くって。薬局で湿布を買いたい……」

 返事をしながら、私は眠りに引き込まれていた。夢の中は夜の闇と区別のつかない暗さだった。が、月明かりが異様な強さで辺りを照らし始めると、生き埋めにされた女が必死に土を掻き分けて這い上がってくる姿が浮かんだ。まだ死んでいなかった――。私は慌てて身を翻し、走って逃げた。振り返ると、木立の隙間を縫って追ってくるのが見えた。彼女は裸足だった。だが、エプロンを着けた女性ではなかった。それは、頭の上から爪先までビッシリと乾いた血をこびり着かせた姉だった……。

「――!」

 冷や汗を掻いて目を覚ました。車は信号待ちで停まっていた。じっと前方を見据える彼の横顔を、虚ろに眺めていると、ふと、こんな考えが脳裏をぎった。研究のために特異な信仰集団と関わり合って云々――というのは、もしかしたら彼の作り話だったのでは? 私に襲いかかったのが、単なる通りすがりの狂女だったとしたら……? その可能性は否めない。

(でも……)

 行く先を持たない我々を乗せた車が、また走り出す。細かい話は、どうでもいい。私は、いつ果てるとも知れぬ小さな旅を精一杯愉しもうと心に決めていた。



                【了】



■シデムシ〈埋葬虫〉

 甲虫目シデムシ科の昆虫の総称。体は扁平、前翅はやや短く尾端が露出している。夜行性で、動物の腐肉などを食う。(出典=デジタル大辞泉)


◆ 初出:個人ホームページ(現存せず)


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