たやすく人が死ぬ、それが絶対的客体美


 人の死以上に人を感動させるものはない。


 実名を出すことは叶わないが(というか、世論的・丸C的に敵うものか!)、ロマン時代を舞台とした某アクション漫画原作のアニメが昨今はやっている。筆者もテレビの前でリアタイ視聴していた口だが、正直あそこまでの熱狂ぶりをきっする内容ではなかったように思う。たしかに現実、家族愛や仲間をたすく大切さをうたって、心にしみるアニメだったことは否めない。しかし、果たしてどうだろう――こうも人間を殺す必要はあるか?――具体的にいうと、モブキャラ・サブキャラのたぐいまでもいちいち掘り下げてその死を描写するのはなぜか? そのような疑問を持たざるをえないものでもあった。一方世間は、やれどいつが強いだとか、ストーリの作り込みが凄いだとか、作画が神がかっているだとか(これは本当に蛇足。サブカル知識の浅薄さをさらしているようなもの)、いろいろ騒ぎ立ててくれているようだが、毎週毎日個別のジャンルと声優陣で垂れ流されるアニメらを同時間帯に総覧していれば、当作がずば抜けておもしろかったという感想が浮かぶはずもないのである。テレビ視聴者とはもはや演者だ、次々と観るものへの情感や反応を切り替えていかなければならない。……もっとも、あまり感情的になって作品を拒絶することはしたくないのであと数行でやめるが、筆者のようにつけ上がったキモヲタたちに当作品の悪評が少なからず出回り始めている事実を見過ごしてはならない。ひどくなれば制作会社や原作者に風評被害がおよぶ可能性もある。ブームになるのはかまわないが、どうも一般人たちに作品の取りあつかいを今いちど考えて直してほしいというのが所感だ。


 さあて! 前置きはこのくらいにして、本題にいこう。ちなみにサブタイトルの物騒さと今までの悪句雑言の嵐は今回できるだけ再現しないようにしまするので、安心して読み進めていただきたい。これが最後の項であるため、読後感はさっぱりなほうがいいだろう。


 人の死、生死、生涯。それらを得意げに語る大人は少なくない。まだ経験したことのないもの、にわか仕込みのもの、読書ではじめて知ったものをあたかもマスターしているかのように話すのが大人はうまい。みえすいているけど。だから彼らをみとめてあげて、説教されるのがうまいのが子どもだ。よく説教される人はそれを誇りにしたほうがいい。説教している側はとても気持ちいいから、説教されるのがうまい人はだれにも好かれる。

 ともかく、将来とか死とか目に見えないし聞こえの重たいものはしばしば、サブカル上の表現において軽視されている。いつか書いたと思うがキャラクターはみな作者の人格の一部から発しているのだから、作者が死とかそういう部類のものに詳しくなかったり興味がなかったりすれば掘り下げが甘くなるのは当然だろう。これの問題点はすなわち、読者や視聴者側の受け取り方になんの配慮もされていないということだ。名言ふうにいうと「創作物は作者にとってつねに現実めいて見え、主観的だ。だが、第三者にすれば単に情報であるだけで、客観的でしかない」ということだ。ううむよくわからん。迷言ふうの間違いだったか。ようするに「人の死以上に人を感動させるものはない」という↑にあった言葉のとおりだ。これは『シュ旨』にもあった、筆者の好きな言葉ランキング第1位だ。第2位はない。というのも、萌え系アニメも戦闘アニメもパロディーアニメも最低限の有名どころを押さえてきた筆者はいつしかこの言葉にたどりつくくらいキャラの死に涙した。とくに天才だーまえの作品では(ループするとわかっていながら)何度も。たとえ二次元であってもキャラクターの死による喪失感は無条件で感動を呼び起こす。それを主人公の挫折・苦悩・成長につなげることが目的だったり、作者自身の憎らしい立場(親・クラスメート・職場の同僚・政治家など)をおとしめることが目的だったりするのなら合点がいく。良心も憎悪も、だれもが持つべきものだからだ。


 生死・生涯は自分の一度しかできない体験であり、同時にそれは眠りのように、自分の記憶では掌握しょうあくすることのできないものである。だからこそ、生存を、死別を話題に取りあつかうとき、人は安易に感情的になりがちなのである。


 筆者のゆがんだ精神面をさらしたところで、ようやく異世界ものに言及するときが来た。いや、実を言うと、筆者がこの最終章を執筆しようとおもったとき、本気で「たやすく人が死ぬ」サブカルは異世界ジャンルしかないと思い込んでいた。これをちかって撤回する。気づいた発端は異世界だが、この平安時代にあまねく生まれる漫画やアニメやゲームやドラマや映画は、そのどれもが「たやすく人を殺す」。またそこに作者の悪意がないのがおそろしい。みずからSNS活用や動画配信をとおして名を上げようともくろむ若者たちは、それがフィクションであるというだけで人の生き死に・性差・価値をなんとも思わないでもてあそんでいる。そうだろう? 本当に戦争とか身内・ペットの死を経験したものは、このんで創作に生き死にを持ち込む傾向があるが、それは自身の負の感動を芸術に昇華しょうかさせんとするすばらしい行為にほかならない。だが今のサブカルチュア(特にラノベ・漫画など)の発展を左右するのは10~20代の若者だ。戦争も知らなければ、自分専用にカスタマイズされたスマホで見たくもないものは視界からかんたんに排除できる。そんな彼らが決してニーズを発信するのではなく、みずからを表現したり不特定多数の人間に認められたりすることをこのむわけで、人間の生死について深い洞察どうさつのある作品が品薄になるのは道理なのだ。

 特例でいえば去年の秋アニメだったか、非現実的ファンタスティックなサスペンスものがあったが、あれは純粋にすごかった。筆者の想定する『塔』の理想世界に近い新域思想、最終話目前の善悪に対する侃々諤々かんかんがくがくの議論の描写、一人の女がもたらす現実味と幻想味それぞれの色の死etc……斬新だから、ではなく、独自だからおもしろかったと思う。死で遊びまくっているくせにこちらに一切の同情をゆるさず、一方的な情報操作と考える機会をかの作品は与えてくれた。まあ個人的には煮え切らないエンドだったなと感じたが、原作と抱き合わせであったことを考慮すれば違和感はないだろう。タイトルは出せないが、観ていないけど心当たりのある人はぜひに。意志のよわい人にはすこし過激かもしれないが一見の価値ありと筆者は断言する。


 さて、いったいいつになったら読後感はやってくるのだろうと思った読者の方々。このひち面倒めんどうな筆者のエッセイに最後までつき合っていただけたことに、心より感謝を申し上げます。

 こう言ってはなんですが、いわば『異世界終末宣言』とは、ニコ動時代ともいえるサブカル全盛期を今世に取りもどしたいと願うすべての人々に向けて、反逆のきっかけとしていただきたく、執筆したものなのです。だから悪意しかありません。その悪意の渦に立ち向かい、ここまで読んでくださった方を勇者と見なし、魔王屋鳥 吾更はあなたがたに全霊の敬意を払います。つねづね思うのですが、丁寧語で書かれた文章というものは結局自分以外の誰かに読んでもらうことが目的なのではないでしょうか。そういうことです。最後は最大ボリュームで、と定番で決まっておりますゆえ、順守させていただきました。すみません。これで失礼します。あぁけして高評価などなさらずともかまいませんので、どうか、順風満帆なポップカルチュア時代が再来するように、ともに祈ってやってください。もしくは新たな創作にいそしんでくださいませ。隙あらば、わたくしめの駄作をよりいっそうの駄作にするような、すばらしいものを創ってください。ただそれだけです。三文作家からでした。





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異世界終末宣言 屋鳥 吾更 @yatorigokou10

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