屋上にて

12

 落ちたのか。落下しているという感覚はない。恐る恐る瞑っていた目を開いた。楓は僕の前に倒れていた。鮮血が流れている。遠くで誰かの叫び声が聞こえた。僕は楓に近寄った。ちゃんと息がある。が、触れられなかった。そうか戻って来れたのか。このままではまずいと思ったが、すぐに校舎から先生らしき人が大勢飛び出してきた。そして、すぐ救急車に連絡を入れたようだ。

 数分後、楓は危ない状態ではあったが、無事運ばれていった。周りにはたくさんの人だかりが出来て、騒がしかった。僕はそこから離れ、学校を出た。

 この世に戻って来るための条件とは何だったのか。恐らくそれは恐怖に立ち向かおうという決意だろう。あの世はそれに反応して僕たちを弾き出したのだ。ふとあの日見た親猫を思い出した。我が子が死んでも何食わぬ顔で立ち去っていた。あの時は薄情だと思ったが、彼も辛い現実を受け入れて、新たな人生を歩む決意をしていたのかもしれない。

 さてどうするか。あの世で、僕の高校に行く前に思いがけず帰って来てしまった。楓のことは心配だが、柊院長がきっと救ってくれるはずだ。それに彼女の目を思い出した。決意の籠った力強い眼光を放っていた。こんなことで死ぬ彼女ではない。それに今楓の為にできることはない。僕は楓の無事を祈りつつ、まずは僕が通っていたという柱山高校へ向かうことにした。どんな悪夢が待っていようが立ち向かうと決めた。必ず過去を思い出して人間に戻ってやる。

 僕は空を見上げた。照り付ける太陽と青い空、白い雲。

「やっぱりこっちが良いや」

そう呟いて僕は飛び立った。


13

 柱山高校の場所は思い出した。春雨女子高校と案外近い距離にあった。共学の公立校だ。

 まだ12時台だろう。こっちに戻ってきても、楓が地面に落ちた瞬間からまったく時間が進んでいなかったからだ。この世とあの世とでは時間の流れ随分違うようだ。

 公立らしい年季の入った壁や床、制服姿の男女が歩いている。校舎の中は見覚えがあった。しかし、ここで体験したことはまだ思い出せない。まずは自分のクラスだ。2年生の階は確か3階のはずだ。

 たくさんの教室が一列に並んだ3階に着いた。心なしか鼓動が早くなっている。僕は心を落ち着かせながら教室を覗いていった。そして、鼓動が急ピッチまで達した所で立ち止まった。ここだ。2年5組。教室を沢山の生徒が出たり入ったりを繰り返している。合間を縫って、僕は中に入った。騒がしかった廊下と比べ、随分と静かだった。いや、静かというより張り詰めたような感じだった。そして僕はその原因を悟った。黒板の前で一人が酷い暴力を受けている。しかも複数からだ。その人は殴られ蹴られ、呻き声を上げていた。僕は教室の前へに行った。虐められている方は腹を抱え、床にうずくまっていた。そして脇腹を蹴られ、仰向けに倒れた。唇が青く腫れあがった顔が露になった。僕はその顔を見て、全てを思い出した。こいつが僕を虐めていた張本人、渡辺だ。周りの奴らも過去、このクラスで虐めに加担していた者たちだった。

「お前のせいであいつは飛び降りちまったんだよ」一人が言った。「お前人殺しだぞ。どうすんだ?お前も死んで償うか?」

「やめろ!」

僕は思わず叫んだが、当然聞こえていなかった。これでは僕の二の舞になってしまう。どうやら僕の自殺が原因で渡辺は虐めれているようだ。僕は思わず舌打ちをした。こいつのことは憎いが、僕が新たないじめの原因を作ってしまったのだ。

 チャイムが鳴った。そして、周りの奴らはぞろぞろと席に戻り始めた。渡辺は辛そうに身を起こし、足を引きずりながら席に戻った。席に座った渡辺の黒目は一点を見つめ、虚ろだった。これはまずい。恐らくこいつは今日中に自殺する。死のうと思った日、僕もこんな状態だった。僕は壁の時計を見た。13時。とりあえず授業は終わるまでは大丈夫なはずだ。僕は教室全体を一瞥し、この学校で起きたこと、当時の心境をより鮮明に思い出した。悪夢が頭を駆け巡った。だが、ここで負けたら楓に合わせる顔がない。渡辺も救えない。これで条件は揃った。柊病院へ行って、僕の体に戻る。そして再度ここに戻り、あいつの自殺を食い止める。僕は教室の窓から飛び立った。

 柊病院、205号室に到着した。ドアを勢いよく開け、中へ入った。僕がいた。母はドアが急に開いたことに驚いている。僕はベッドに眠る自分の体に触れた。すると、途端に吸い込まれるような感覚に襲われた。そして僕の視点は真っ白な天井を捉えた。どうやら成功したようだ。僕は人間に戻れた。しかし、これを喜んでいる暇はない。僕は重たい体を起こした。そして自分の体に付いている色んなものを引っぺがした。体の自由が利くと、僕は急いでベッドを降りた。頭や腕には包帯が巻かれている。左手の手首は骨折しているようだった。僕は痛みに耐えながら、一歩踏み出した。母は先程から声を上げて驚いている。申し訳ないが構っている暇はない。「これからもよろしく」とだけ言って、病室を抜け出した。

 病院を出てから裸足で、柱山高校まで走った。翼がなくなった以上、足に頼るしかない。

 学校に着き、ヒリヒリする足で階段を駆け上がった。急激な運動で頭が相当痛くなってきている。が、休んでいる場合ではない。

 2年5組の教室の前まで来た。扉は閉まっている。僕は意を決して、扉を開けた。クラスの全員が僕の方を向いた。授業をしていた先生も含めみんな、唖然としている。僕はそれを気にも留めずに中に入った。そして冷や汗が垂れた。あいつが、渡辺がいない。

「先生、渡辺はどこへ行きましたか」

「あいつならさっきトイレに行くって……」

僕は先生の言葉を最後まで聞かず、教室を飛び出した。向かうは屋上だ。僕は再度階段を駆け上がった。

 扉を開け、屋上に出た。案の定、渡辺の姿があった。右手に上履を引っかけ、とぼとぼと屋上の淵へと歩を進めている。ここにはフェンスがない。ちょっとした塀があるだけだ。このままでは簡単に落ちてしまう。

「待て!」僕は叫んだ。

渡辺が振り返る。虚ろな目は充血していた。

「お前……」

「渡辺、死ぬな」

「大丈夫なのか…」

「見ての通りまったく大丈夫じゃない。でも人が死ぬのを見過ごすわけにもいかないから病院を抜け出してきた」

「え?」

「渡辺も虐められたみたいだな」

「ああ……。俺がお前を傷つけちまったせいでな。自業自得だよ」

「だからと言って虐めが正当化されるはずはない。現に僕は生きているし、君のことも許す」

「なんでだよ。俺がお前のこと殺したようなもんだぜ?俺に恨みはないのか?」

「もちろんある」

「じゃあなぜ俺を止める?」

「真っ当な人生を歩むためだ。それには恐怖に立ち向かう必要がある」

「恐怖に立ち向かう?」

「僕にとって恐れは君であり、この学校での過去だ。それを克服するには恐れず向き合うしかない。でも君も今は怖がっている。そしてまさに今、君はその恐怖から逃げようとした」

「佐野は生きててよかったか?」

「当然だよ。どんなに怖いものでも生きてる限りはそれを克服するチャンスがあるってことだから」

「もしまたあいつらに虐められたりしたら怖くないのか?」

「そりゃ自分より強い相手は怖い。でも僕は、あいつらも怖がっていることを知っている。君も自分の立場を守るために僕を虐めてたんだろ?それは僕という反乱因子が怖かったせいだ」

「そうだな。いつ自分が虐めの標的にされるかわからない恐怖。佐野があいつを守ったときは怖かった。俺が悪者になって次の標的が俺になるんじゃないかとビクビクしてた。それで佐野を率先して虐めちまった」

「僕らはみんな臆病だ。怖がりながら生きている。でも互いに恐れなかったら、きっと争いもなくなる」

「恐れないか……。お前……強くなったな。俺も立ち向かったら、真っ当な人生を歩めんのか?」

僕は深く頷いた。

「それにしても佐野、包帯に痣にひでえ格好だな」

「君こそ顔がパンパンで酷い見た目だ」

2人して笑った。

「あっそうだ。佐野から預かってたものがあった。お前が来なくなった後、あいつらが勝手にお前のロッカー荒らしてよ。沢山置いてあった小説を勝手にどっか持って行ってたんだ。だから俺、ロッカーからこっそり一番ボロボロの本、取られないように抜き取った。お前がよく読んでた本だ」

渡辺はズボンのポケットから文庫本を取り出し、僕に渡してきた。タイトルを見て思わず笑った。『氷の風車』だった。楓にこの本について熱く語ったのを思い出した。僕は礼を言った。

「じゃあ戻るか」渡辺が言った。

「そうだね」

僕はふと本の裏表紙を見た。きちんと出席番号11番、佐野翔と書かれていた。僕は本をポケットにしまった。すると、暖かな風が吹いた。春の訪れを感じさせる匂いが僕の鼻腔をくすぐった。

「来年は受験か……」

これからも困難は多そうだな。そう思い、僕は屋上を後にした。

 その日の夜はぐっすり眠れた。悪夢は見なかった。


終わり

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