番外編 民法七七〇条

「あなた、いよいよですわね」


 私は時計を見ながらしみじみと夫と会話をします。時計はもうすぐ十一時半を指すところです。


「ああ、あいつがいなくなって明日で三年だ」


 夫も晩酌のウィスキーの水割りをカランと音を立てながら相槌を打ちます。


「ひどい男でしたわね。結婚の挨拶にきた時は誠実で優しい人だと思ったのだけど」


「ああ、あの青年なら娘を任せられると思ったが、わからんものだな」


 娘があの男を連れてきたのは四年と半年前。友人の紹介で知り合ったと言う彼は見た感じは夫の言うとおり、好青年でした。いい人が来たと夫共々に安心したのですが。


「結婚したら豹変するという話は聞くが、まさか身近に起こるとはな」


 夫が残り少なくなったつまみのナッツを皿の隅に寄せながら、つぶやきます。


「本当に。あ、新しいつまみを用意しますわ。サラミがあるからここで切りますね」


 私はキッチンからカッティングボードと果物ナイフを持ち出し、テーブルの上で切り始める。


「おお、済まないな。お前も飲むか?」


「ああ、祝杯はもう少し……日付が変わってからにします」


「お前は本当にきっちりしているな。娘もそういうところは似たと思ったのだが」


「あの子は男を見る目が無かったというより、私たち同様騙されたのだと思います」


 そう、本当にひどい男でした。結婚した途端、暴力を奮う、浮気をする、借金を重ねるなど豹変したのです。

 逃げてきた娘から聞かされた時はにわかに信じられませんでしたが、裸足であざだらけの姿からして嘘はついてないのは一目瞭然でした。

 それから夫と二人で娘を匿いつつ、いろいろと調べました。

 話からしてまともに話し合いができる相手とは思えなかったからです。


「ま、直後に書き置き残して愛人と駆け落ちしてくれたから良かったとでも言うべきかな」


「ええ、少なくとも娘に執着しなくて助かりましたわ」


 私は切り終えたサラミを夫の前に出し、果物ナイフを鞘にしまってエプロンのポケットに入れ、入れ替わりに夫の水割りを作り直すマドラーを取り出しました。夫は一時退院中でお酒は本当は駄目なのですが、今夜は特別です。


「娘は『連絡取れないから離婚の話し合いができない』と言ってましたけどね。ほら、あなたが本を見せたじゃないですか」


「ああ、離婚の本に載ってた民法七七〇条の第一項の三だな。『配偶者の生死が三年以上明らかでないときは裁判所に離婚の訴えを提起することができる』これを見せて探さずに三年待てと説得したのだったな」


「ええ、その間にあの子も立ち直りましたからね。最近は気になる人ができたらしいけど、『ちゃんと戸籍の上で別れてからでないと告白しない』と言ってましたわ。真面目な子ね」


「それでいいじゃないか。さて、もうすぐ日付が変わるな。明日であの男が音信不通になって丸三年。民法の要件を満たすまであと十分ほどか。裁判所にすぐ提出できるように申請書を書いたし、娘から委任状ももらったし、明日の朝一番で裁判所に出しに行くぞ。このために一時退院を今週にしたのだからな」


「ええ。あら?」


 私は玄関の方向に違和感を感じて、目を凝らしました。何かの気配がします。


「どうした?」


「いえ、なにか玄関に。最近エサをあげている猫かもしれません。ちょっと見てきますね」


 ドアをそっと開けるとボロボロになったあの男が倒れかかるように弱々しく懇願してきた。


「ああ、お義母さん。助けてください。三年前にいきなり拉致されて、タコ部屋送りにされたんです! 隙を見て逃げ出したんです! 心を入れ替えます! もう遊びませんし、あいつも殴りません。だから、警察に……ぐはっ!」


 私はポケットから出した果物ナイフで男の心臓を一突きしました。

 そして、そのまま倒れた男を後目に携帯を取り出す。


「ああ、ボス? ちょっとすみません。私用で一人殺ってしまいましたの。死体の始末をお願いできます? 埋め合わせはいたしますので」


 連絡はしたから間もなく組織の人間が死体を片付けに来るはずです。

 私はエプロンを外して素早く死体に被せて、夫の元へ戻りました。それにしてもタコ部屋送りにすれば外部と遮断できて完璧と思ったのですが、逃げ出すとは計算外でした。


「おう、遅かったな。ってどうしたんだ?! 血がついているぞ」


「あなた、いつもの猫が車にひかれていたのです。助けを求めて血だらけのままうちへ来たのよ。手当をしようとしたのだけど、さっき息を引き取りましたの。そのままではなんですからエプロンにくるんで庭に埋めてきましたわ」


「そうか、かわいそうだな。明日、花を供えるか」


「ええ。あ、十二時過ぎましたわね。さあさ、明日は裁判所に行きますから早く寝ましょう」


 そう、明日、いえ今日はあの男がいなくなって三周年。娘が新しい第一歩を踏み出す記念すべき日。

 私の名前はキヨコ。またの名をスイーパー・キラーと呼ばれるキヨコと言います。

 まさか、この仕事が私用で役に立つ日が来るとは本当にわからないものです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スイーパー・キラー ~掃除のおばちゃんは殺し屋~ 達見ゆう @tatsumi-12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ