第3話
ぐるぐる回る洗濯機。ドラム式。
空は椅子を持ってきて、その回転の様をじっと見ていた。
入籍をして一緒に暮らし始めたのが先週で、二人分の洗濯物に対応出来るようにと元気がこの洗濯機を購入した。そして今日それが届き、設置して二時間は使えないと言うことで夜の今、初運転をしている。
まだ秋とはいえ夜はよく冷える。ちょっと薄着だったなと反省するも、回転は待ってはくれない。
「くーちゃん、どこ行ったの?」
元気の声がする。
「こっちだよ」
とたとたと歩く音。
「何してるの?」
「覗いてるの」
目を離さずに。
「洗濯機を? それとも洗濯を?」
「それは分からない」
「そっか」
夫は居なくなる。と思ったら戻って来た。
ぱふ。
背中に毛布を掛けてくれる。
「ありがとう」
「ごゆっくり」
後三時間もある。途中で飽きたらやめよう。
そう思ったら、夫が椅子を持ってやって来た。
「見ながら話せる?」
「うん」
「名前のことなんだけどさ」
空はちょっと考える。呼び名かな。本名を結婚のときに伝えたけど、結局今も元のままだから。
「私の?」
「うん。くーちゃんの『空気』って、字を変えた方がいいんじゃないかって思うんだ」
「そうなの? どうして?」
「パトロンとして、と言うよりも、ファンとして、かな。『空気』じゃどうしようもない心許なさがあるんだ」
そうなのかな。
「でもずっとこれで通ってるし」
「字をさ、変えてみようよ」
「空の鬼で、空鬼とか、そう言うこと?」
そんな自虐的にならなくてもいいと思う、呟いた夫はプレゼントを開けるみたいに。
「空の姫で、空姫、でどう?」
「元気くん、前からそれ、練ってたでしょ」
「バレたか」
彼は照れ笑いのときには頬を掻く。
拒否はもちろん出来る。でも受け入れたい気持ちが灯った。その理由は捉えられない。
「うん。分かった。それにするよ。それなら空のイメージは残したままだから」
「よっし」
付き合うと言ったときと同じポーズ。
最初に「空気」を名乗ったときのフィット感は、長年愛用した自分に既に付いていたものだからではなく、恐らく、人に名付けられたからあったのだと思う。活動をするにあたって名前を考えたけど、自分に適合したものは出て来ず、「空気」のままだった。
空姫、これも誰かに付けられた名前だ。
でもその誰かは大事な人。彼から貰った名前なら、きっともっとフィットするに違いない。
洗濯機はときどき止まっては、また激しく回る。
新しい名前になったら、途端に今の自分が見えた。
「元気くん」
空は夫に向き直る。
「今私は傍観者じゃない」
「僕と君がここに居る」
「うん。だから、私は今当事者として元気くんを見てる」
空はそっと夫の手を取る。夫は軽く握り返す。
「これはまるで存在の証明が済んでしまったかのような、盤石さ」
洗濯機が気を利かすように静かになる。夫はじっと私を見てる。私もじっと彼を見てる。いつかピーパーとさよならした日と同じ気配がする。
「私は、『覗く』傍観者、想像をする、そこから一生抜け出さないなら、作品という形で世界に残ろうと思った」
「その作品が僕達を引き合わせた」
そうか、今は作品の結果でもあるのか。
「その元気くんが、私を当事者にした」
洗濯機が回り始める。
「もし、覗くのをやめたくなったら、僕には構わずやめたらいい。パトロンをそんなことでやめたりしないし、夫だって」
「元気くんがそう言うってのは分かってた」
優しく微笑む夫。空も、同じ。
「だって盤石なんだもん」
ふー、と周囲を見渡す空。
洗面台、ハブラシ、床にはマット。始まった二人の生活のしるし。
視線が夫に還る。
「元気くんと居ることで、私はさよならしなきゃいけない」
元気は顔色はそのまま首を傾げる。
「でも私は進むことが必要で、必然で、誇らしい」
夫の姿勢が戻る、空の次の言葉に備えている。
「私は傍観者の覗きから、当事者の覗きに進むよ」
元気は空をじっと見たまま、ちょっとだけ黙る。彼女の言葉とその言葉を発した彼女を把握するまでの間。
「くーちゃん、両方ではダメなの?」
「どうして?」
「あまりに寂しそうだから」
そうなのか。でもそれは実を結ぶために散る花に、儚さを見るようなものではないのか。私は実が欲しい。……欲しい?
「元気くん。これは私の欲だ。作り手としての欲なんだ」
「個人ではなく」
「そう。いつの間にかすり替えられていた。私個人と、作り手の私の主従関係」
夫はまたちょっと考える。
「イコールじゃ、ないんだ?」
今度は空が考える。確かに今までは悩んだことはなかった。私は「空気」で、作り手そのもので、疑問はなかった。私は傍観者で、覗く人で、だから作って。
毛布が滑りかけて、裾を掴む。
彼の掌を離れた自分の手がほんの短い間に触れた空気。その刹那の感触。
「ずっとイコールだったのが多分さっき、割れた」
「当事者であることを受け入れた、からだね」
空は頷く。
「『空気』じゃない方の私が生まれて、そっちの私は最初から元気くんに認められている。だから私は傍観者の覗きの私ではない、もう片方の当事者の私を、決めなくちゃいけなくなってるんだ」
いつかピーパーが生まれたときとも、さよならしたときとも違う。そのどちらとも私はずっと傍観者だった。元気くんによって引き起こされたこの分裂は、私がどう在るかを問うている。
「『そらひめ』の方の『くうき』は、そこまで内包するってことで、いいんじゃない?」
元気の考えが、その視点で見る空の像が、平地からは見えなかった全体像が空から眺めたら捉えられるように、空の景色を映す。
全部含める?
「悩むことも含めて?」
「そうだよ」
そっか。
それでいいんだ。
いや、それがいい。それしかない。
また元気くんが足場をくれた。
雨が上がるようにもやもやしたものが晴れる。約束されたいた虹が架かる。
「私は当事者の覗くを作品にする」
「期待してる」
「いや、もう出来た。私単独では出来ない技術が必要だから、協力して欲しい」
元気は立ち上がる。
うぉっしゃー! これまでのどのガッツポーズよりも力の入ったそれをして、眩しいくらいの瞳で空を見つめる。
「ついに! くーちゃんの作品に関わる日が来た。何でも言ってくれ」
「空間の中に居る特定の人物を、周囲の人を全部消して、その人単独を映像の中に再構成して投影する、って出来る?」
「出来る。ARの技術と対象をロックオンする技術、あとは対象を三次元再構成する技術を組み合わせれば可能だよ」
空は頷いてみたが、技術の要諦はよく分からない。
「どういうのがやりたいか伝えたら、作って貰える?」
「もちろん」
「ありがとう。それと、『空姫』、いい名前」
元気はさらに喜んで、空はそれを見ていた。
「空姫」としての最初の作品は好評を得て、都立美術館の特別展の「現代アート、限界とその向こう側」にも展示されることになった。
ABCの三つの覗き穴を順に覗いてもらうだけなのだが、もちろんそこに仕掛けがある。
Aの穴を見ると覗いた本人が周囲の人と共に背後から見た形で見える。つまり、自分を後ろから覗いていると言う状態だ。ここで実は、見える自分と周囲は三次元再構成されたもの。この後と画質を揃えかつ、この穴はこういうものが見えると言う印象を与える。
Bの穴は、覗くと本人以外が消去された状態で見える。
そしてCの穴も最初はBと同じなのだが、ちょっとすると少年が覗いている本人を脇から覗く。
重層的な覗くは、全て当事者のものだ。万能の覗く、空想の覗く、の先にある第三の「覗く」を鑑賞者に強制する。
タイトルはそのまま「覗く」にした。「空気」の終わりと「空姫」の始まり、元気くんによって起きたことと彼と一緒に作ったこと。覗くの歴史。全ての交点が「覗く」にある。
「覗く」の二ヶ月間の展示が終わり、それから数カ月経って年の瀬も近付いて来た頃、制作の場である大学に女の子が訪ねて来た。
短髪の一部が赤いその子はバンドをしてると言う。
「どうして私のところに来たの?」
その子は凛と名乗った。
「『覗く』に感銘を受けました。その影響を受けた歌を歌いたくて、許可を貰いに来ました」
「作品は出した時点でみんなのものだから、許可なんてないよ」
「じゃあ、目一杯影響を受けます」
満面の笑みで頭を下げる。
少しだけ、怖さよりも興味が勝って、空は普段なら決して訊かないことを口にする。凛の熱にあてられたのかも知れない。
「あの作品に、何を感じたの?」
「最初は覗くことが幾重にも重なってることに表現し難い感覚を得たのですけど」
普通だ。
「半年考えて感じてる内に、すべての終わりとすべての始まりの交点を、あの作品に感じました。私が表現したいのは、そこです」
異常だ。
どういう仕組みでそこに到達するのかが全く分からない上に、あの作品の裏にある核を貫いてる。
こんな子が居るんだ。
空は生まれて初めて、総身が粟立ち髪が逆立つのをおぼえた。目がギラリと輝きを見せている筈だ。
「凛さんは私をどう思う?」
「勝手にですが、尊敬してます。同時に吸収しようと思います。並べたらと思います」
吹き抜ける風、触れられ揺れる、琴線。
「私はあなたの歌を聞いたことがないけど、あなたという人と、ライバルになりたい」
凛は目をぱちくり、そしてにっこりとする。鞄からCD。
「聞いて下さい」
ファイアーバタフライ。
「空姫(そらひめ)さんがいいのなら、ライバルです。私、バンドでは燐姫と名乗っています」
空姫は右手を差し出す。燐姫はそれを握る。
作品が出会いを呼んで、出会いが私と作品を変える。進化させる。
空気だった私は「空気」になり、「空姫」は「くうき」から「そらひめ」になる。
私は四番目の覗くを作品にする。その次もきっとずっと繰り返す。
最後には空に届くのかも知れない。
(了)
空気(連作「六姫」②:空姫) 真花 @kawapsyc
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