パレイドリア・パレード

Nico

パレイドリア・パレード

 たった一度しか見ていないのに、たしかに見覚えがあった。


 十年……いや、もう十五年になるのか。目前に見える景色は記憶よりも草木がより濃く鬱蒼と茂り、大地はむき出しの野性を一層強かに誇示しているように思えた。


 俺は風を受けて膨らんだTシャツの下の腹を手のひらで撫でた。


 この十五年で腹が出た。髪が薄くなったと自虐するほど歳はくっていない。だが、眼下の谷底に繁茂する草木ほど、両手で収まらない歳月のうちに自分が成長したのかはわからなかった。


「本当にやるの?」

 ハーネスを付け、欄干の外に設けられたジャンプ台に立ってもなお、彼女は心配そうにそう口にした。

「けじめみたいなものだよ。じゃないと、いつまでも過去の残像にさいなまれるんだ」

「飛べば解放されるの?」

「それは、やってみないとわからないよ」


 俺はできるだけ何でもないように笑ってみせた。頭上に揺蕩たゆたう出来損ないの雲が、ひどく醜い男の顔に見えた。




 十五年前の夏。大学最後の年を迎えていた俺は、谷間を流れる川の縁でキャンプをしていた。男女を問わず、五十人ほどの同年代の人間がそこにはいた。そのうちの十人は仲のよい友人で、十人は仲がよいとは言えない知人で、残りの三十人はまったく知らない他人だった。なぜ俺がその場にいることになったのかはよく覚えていない。たぶん仲のよい十人の友人の誰かに誘われたのだろう。


 とにかく、その夏の一夜を俺はそこで過ごしていた。夕食のバーベキューを横目に見ながら、まるで命懸けの競争でもするみたいに、缶やら瓶やらに入ったアルコールを片っ端から胃袋に流し込んでいた。俺だけじゃない、みんなそうだった。向こう見ずと世間知らずが服を着てどんちゃん騒ぎをしていた夏の夜だった。


 天地と上下の概念が一致しなくなり始めたころ、ある女の子が話しかけてきた。三十人いた見も知らぬ他人の一人だ。彼女の発した言葉をいまでもはっきり覚えている。

「オープニングカーに興味ある?」

「オープニングカー?」

 当然ながら俺は訊き返した。

「そう、オープニング……うん? 違う、キャンピングカーか」

 回る視界の中で笑う彼女の言っていることを必死に理解しようと、手にしていたスミノフだったかジーマだったかをあおった。そのころには、時間は時計の針が刻む分数ふんすうではなくて空いた酒の瓶の本数で計るものになっていた。


 瓶の中身が空になるころにやっとわかったのは、彼女が「興味があるか」と訊いたのはキッチンカーのことで、オープニングカーというのはオープンカーのことで、キッチンカーで金を稼いでプジョーのオープンカーを買うのが彼女の夢で、キャンピングカーは彼女の夢にはまったく関係がないということだった。


「キッチンカーを持ってるの?」とたしか俺は訊いたと思う。

「これから買うの」

「お金は?」

「バイトで貯めた」

「何のバイト?」

「ハンバーガー屋」

「じゃあ、キッチンカーでハンバーガーを売るの?」

「パンに挟んだ夢を売るの」

 どんな種類の冗談だろうかと彼女の顔を見たが、彼女は笑っていなかった。俺が握りしめていた空き瓶を見て、「ジーマって、どっかの国の言葉で『冬』って意味なのよ」と言った。どうして夏のキャンプ場で突然そんなことを言うのだろうと不思議に思ったのを覚えている。そうか、俺が飲んでいたのはスミノフではなくジーマだった。


 次の日の朝、俺は割れそうに痛む頭をできるだけ動かさないように彼女の姿を探した。彼女はペットボトルのミネラルウォーターをお守りかなんかみたいに抱きしめながら、友人の肩に身を預けていた。


 それぞれ別々の車に乗り込む間際、俺は彼女に「オープンカーが買えるといいね」と言った。それが別れの言葉のつもりだった。彼女は不思議そうな表情を浮かべたまま、黙って車に乗り込んだ。


 一時間後に停まったサービスエリアで、彼女は「私、昨日の夜は酔っ払ってたみたい」と言った。別れの言葉のつもりが一時間後に再会してしまったことに酔いの覚めた俺はバツの悪さを感じたが、彼女は前夜に飲みすぎたことを気にしているようだった。


「酔っ払ってなければ、きみはすごくまともに見える」と俺は言った。

 なぜそんな失礼なことを言おうと思ったのかわからないけど、彼女はそんなことはまったく気にも留めず、「あなたは、明るいところで見るととても背が高いのね」と言った。

「小さいころからバレーボールをやってた」

「なんだか、あなたに合ってる気がする」

 何を指してそう言ったかはわからないが、彼女はやけに嬉しそうに言った。

「オープンと言えばさ……」

 そう言いかけたところで、誰かが彼女の名前を呼んだ。

「ごめん」

 彼女はペットボトルを持ったまま、拝むみたいに手を顔の前で合わせた。ペットボトルはすっかり空になっていた。


 結局、それが最後の会話になり、俺たちは連絡先も交換せずに別れた。もし連絡先を交換していたら、俺はあの話の続きをしていただろう。


「オープンと言えば、バレーボールにはオープントスっていうのがあって」


 ふわりと山なりの大きな弧を描くトス。息つく間もなく展開するゲームの中で、ボールが宙に浮いている間だけは時間が止まる。再びボールが手のひらに触れた瞬間、ゲームは再開する。


 いまとなってみれば、きっと話の続きはしなくてよかったのだと思う。




 三年前の冬に、テレビでそのキャンプ場のある山が紹介されていた。寒波が列島を覆いつくし、川という川が凍てつき、山という山が雪にうずもれた冬だった。


 その山では、いまでもマタギが生計を立てるために猟を行っているのだという。白い息を吐きながら熊や鹿を追うマタギの真剣なまなざしを見たとき、俺は不意に彼女のことを思い出した。


 彼女が「パンで挟んだ夢」と言ったハンバーガーは、彼女に本当の夢をもたらしたのだろうか。厳しい冬が過ぎ、草いきれにむせるような夏が来たとき、彼女は山の稜線を撫でる風の中をオープンカーで走っているのだろうか。




 サン、ニー、イチ!


 掛け声にあわせて胸の前に開いた両の腕が、谷底から吹き上がる風を抱く。


 息つく間もなく過ぎ去る現実の中で、体が宙に浮いている間だけは時間が止まる。

 再び彼女の声が耳に届いた瞬間、未来はそこにある。



 ふわりと山なりの大きな弧を描き、俺は谷底に身を投げ出した。

 



 決して飛び越えられない過去を飛び越えようとして。


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パレイドリア・パレード Nico @Nicolulu

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