シャングリラ紀行

 彼女の葬儀は実にあっさりとしたものだった。

 美しく白く儚い彼女は、美しく燃え、白い灰になり、儚く空へと昇っていった。彼女が亡くなった満月の日と同様に、シャングリラの光がよく見える日のことだ。


「ありがとうございました。月が綺麗な日に旅立てて、あの子も幸せだと思います」


 葬儀も終わり、皆が散り散りに去ってゆく最中、空を仰いで彼女とシャングリラに思いを馳せる僕を呼び止めたのは、彼女の母だった。火葬場の外には月明かりしかない。その中でもひと際目立つ白い肌と細い目は、まだ飄々さを垣間見せていた当時の彼女を彷彿とさせた。


 僕に頭を下げる彼女の母に、僕はひどく胸を締め付けられる。僕は病に伏す彼女を毎夜連れ出していた張本人なのだ。恨み事のひとつでも浴びせてほしい、そんな気分だった。


「あの子は貴方と一緒になってから、笑顔が増えました。私の死に場所をようやく見つけたんだと、私の死に場所は彼の隣なんだ、と」


 そう言うと、彼女の母はもう一度深々と頭を下げる。

 ああ。こういう現実離れした所作が、彼女そっくりだ。ふと彼女のことを思い出して、思わず涙が零れそうになるのを、ぐっと堪える。



「ありがとうございます。



 僕の生き場所と彼女の死に場所が決まった次の日、歩くこともままならない彼女を連れて役所へ行き、籍を入れた。彼女の母――義母は止めることもせず、ただひたすらに僕たちを祝福してくれた。

 

 僕の生き場所である彼女は、5年経って僕の隣を死に場所とした。

 余命半年を宣告されていたものの、必死に5年間生き抜いたのだ。医師曰く、『誰かのために生きようという強い気持ちのお陰かもしれません』とのことだ。


 彼女の隣が僕の生き場所だから、彼女は頑張って余命の数倍も生きてくれたのかもしれない。僕の生き場所を、奪うまいと。そうだったら、彼女を愛した身として、この上ない幸福である。


『シャングリラの向こうから、見ているわ』

 

 彼女はシャングリラへ旅立つ直前に、こう言った。

 出会った当初に言っていた、『シャングリラで待ってるわ』という言葉と似た、真逆の言葉を。久しく見ていなかった、くっくっと笑う、意地の悪い笑みを浮かべて。


 天蓋の向こうには、シャングリラには、きっと彼女がいるはずだ。

 生き場所を失った僕に、もう迷いはない。天蓋に空いた穴からこちらを見ている彼女の所へ向かうとしよう。この5年間、実に幸せだった。


 次の満月の日、僕もシャングリラへ向かうとしよう。

 僕の生き場所、彼女のいる、シャングリラへ。



2019年9月20日 勝間一平





 全てを書き終えた便箋を封筒に入れる。

 封筒の表に『遺書』と書いたところで、ゆっくりとペンを机に置いた。


 何を書けばよいかわからず、結局彼女――家内との出会いから今までのことを綴っただけになってしまった。けどまあ、いいだろう。僕の人生とは、僕の生き場所は、家内の隣だったのだから。


 窓から差す月の光にふと気づき、空を見上げてみる。

 もうすぐ十五夜だ。天気予報も確認済み、問題はない。シャングリラへ旅立つにはもってこいの日となるだろう。


 あとは天蓋の向こうにいる家内に会うだけだ、と肩の力を抜いてやると、いよいよ手持無沙汰となった。何度か開いたり閉じたりした両手は宙を彷徨って、何気なくテレビを付けてみた。


『続いてのニュースです』


 これから死ぬというのにニュースなど見ても仕方がないだろ、と思わず笑ってしまう。耳障りなだけだ、消してしまおう。そう思って電源ボタンに手をかけた。


『地球から数千光年先にある新たな恒星を発見したと、国立天文台が本日発表しました。発見したのは先週、13日のことで――』


 かけた手が、思わず止まった。

 13日。それは家内がシャングリラへと旅立った日だ。



『13日に発見された恒星の明るさは6等星であり、秋や冬の澄んだ夜空であれば肉眼でも確認できるそうです。続いてのニュースです――』



 さらりと次の番組内容に入ってもなお、僕はテレビの前から動けないでいた。

 脳内で繰り返されるのは、家内が言っていたあの言葉。


『星も月と同じ、天蓋に空いた極小の穴ね』


 星の光も、シャングリラの光だと言う。


『死んで天蓋の向こう――シャングリラに行った人はきっと、天蓋に小さな穴を空けてまだ生きている人を見守っているのよ』


 死んだ人間が星になるのではない。

 死んだ人が天蓋に空けた穴こそ、星なのだ。


 彼女の言葉が鮮明に思い出される。僕の生きる場所だった彼女の言葉は、一語一句すべて脳内で再生できる。そうだ、彼女は亡くなる直前にも、こう言っていたじゃないか。



『シャングリラの向こうから、見ているわ』



 彼女は言った通り、シャングリラの向こうから僕を見ていたのだ。

 世界を覆う天蓋を穿ち、星という小さな穴を空けて。


 大粒の涙が頬を伝うのがわかった。それを止める気も、止められる気もしない。肩を震わせ、手で顔を覆ってもなお、涙は手から手首を伝い机の上を湿らせた。先ほど書いた『遺書』の字が、じわりと滲んでいるのが見える。


 そうか。彼女は、まだ僕の隣にいたのだ。

 シャングリラに行ってもなお、天蓋に穴まで空けて。


 体内の水分を出し尽くしたのだろうか、いつの間にか涙は枯れていた。

 くしゃくしゃになった遺書を破いて、窓から放り投げる。



「窓からゴミを捨てるなんて、怒られるかな」



 窓の外ではシャングリラの小さな光が、僕を咎めるように見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャングリラ紀行 稀山 美波 @mareyama0730

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ