生き場所と死に場所
僕が生き場所を求めてから――つまるところ彼女と出会ってから、どれくらいの時が流れただろう。夜逃げも当然で地元を飛び出した僕にとって日数とはそれほど重要でもなく、一週間を過ぎたあたりから数えるのをやめた。
「二ヶ月と十日よ」
満月には遠く及ばない三日月を見上げながら、いつのも場所で僕の横に腰かける彼女は淡々とそう言った。
僕たちはあれから、
「仕事は慣れたのかしら」
「まあ、ぼちぼちかな」
「くっくっ、あら生意気」
僕は今、民宿で住み込みで働いている。ただならぬ様子の僕に何も聞かず、居住地と働き口を提供してくれた店主には頭が上がらない。朝早くから夜まで働き、深夜に彼女と会う。生まれて初めて、『生きている』という実感があった。
「ふう」
彼女特有のわざとらしい笑いも束の間、その純白の表情に陰りが差した。
悪性の腫瘍の進行が速いとはどうやら事実のようで、最近彼女は時折ひどく辛そうな顔をする。闇夜の中に映える彼女の顔は、日に日に夜へ溶けていくように見えた。
「シャングリラへ行く時が近いのかもしれないわね」
生気が失われつつある彼女は自嘲気味にそう言うが、かつての飄々としたそれではない。舞台上であるかのようだったその言動も、今は痛々しい。
「死に場所は、ここでいいのかい」
いつかこのまま夜の中へ、うねる波の奔流の中へ消えてしまいそうな彼女を見て、思わずそう聞いた。病的にまで細く白くなった頬に、玉のような汗を滲ませた彼女は僕と向き合った。
「そうね。今のところ最終候補ね」
そう言って笑う顔も苦悶に満ち満ちていて、見ていられない。
この時ばかりは、天蓋に空いた穴が憎らしく思えてならなかった。シャングリラの光が、彼女を連れていってしまいそうだったから。
翌日の夜、僕宛ての電話が民宿にあった。
店主に頭を下げて車を借り、山道をひた走る。街灯も月明かりもない漆黒に、車のライトだけが伸びる。
10分程山を登ったところに、その家はあった。豪邸と呼んでも差し支えない家の玄関には、家の大きさとあまりに不釣り合いな、弱々しい女性がうずくまっていた。
「しっかりしてくれよ」
「ごめんなさい。どうしても体が動かなくて」
彼女を車にのせ、来た道を引き返す。いつもの、僕たちの場所を目指して。
今日は止めよう、とは決して言わなかった。彼女は死に場所を、月に近い場所を、シャングリラを求めているのだ。『生まれる場所は選べないのだから、せめて死ぬ場所は選びたい』、そんな彼女の願いをどうして踏みにじれようか。
「今日はあいにくの天気ね」
今にも消えそうなか細い声は、実際に風と波の喧騒の中へと消えていった。
分厚い雲が空を覆い、シャングリラの光を見ることは叶わない。僕らが出会ったあの日を彷彿とさせる夜だった。
「満月でもない、シャングリラの光も見えない。だから今日死ぬべきじゃない」
「そうね」
僕がそう宥めると、彼女は痛々しく笑った。
そうだ。こんな日に彼女が死ぬわけがない。彼女は天蓋の向こうへ、天蓋に空いた穴の先へ、シャングリラへと行くのだ。天蓋の中で燻って死ぬような人間ではない。
彼女の死に場所は、本当にここでいいのか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
「ねえ。貴方の生きる場所、見つかったのかしら」
僕のそんな考えを見透かしたかのように、彼女はぽつりと呟いた。気になってシャングリラへ旅立てないわ、そんな風にも聞こえる。
僕の生き場所。僕の生きるべき場所。そんなことは、とうの昔に忘れていた。ここに来てからというものの、僕は君に会うことしか考えていなかったから。
「ひとつ、お願いというか。提案なんだけど」
そんな歯の浮くような台詞を喉の奥に押し込んで、何でもない風にそう言った。
君に会うことしか考えていなかった僕の生きる場所なんて、ひとつしか思いつかない。だから君も今死なずに、どうかこれから僕の言う提案のことを、少しでもいいから考えてほしい。
自然の喧騒が鳴りやむ頃合いを見計らい、僕は彼女の肩を抱いた。
「僕の生きる場所を、君の隣にしたい。だから君も、僕の隣を、死に場所にしてくれないか」
力を入れたら粉々に砕けてしまいそうな儚い彼女が、腕の中でピクリと動くのを感じる。吹きすさぶ風が、渦巻く奔流の音が、僕たちの間をすり抜けていく。一瞬とも一生ともとれる沈黙を破ったのは、流れた雲の隙間から差し込んだ、シャングリラの光と――
「くっくっ。それも悪くないかもね」
彼女の、意地の悪そうな返答だった。
「貴方の隣で、貴方と、シャングリラを目指すのも。ね」
それから
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