オーパス

宇佐

1.Allegro ma non tanto

 アダム・スミスもホロヴィッツもジョン・アーヴィングも知らなくてもあたしは生きている。留美子はそんなこともわかってくれなかったので、ついカッとなって家を出てしまった。

 激しく口論したせいであたしの目からは涙が出ていたし、途中でお酒のグラスを割ったせいで指からは血がぼとぼとと落ちていた。服は部屋着のジャージの上から玄関にあったコートをひっかけたアンバランスなものだったし、足元なんてクロックスだ。それでもあたしはどこか向かう先があるかのように一心不乱に歩いていたから、この奇妙な格好で涙と血を流しながら歩く女のことを誰も気に止めようとはしなかった。

 ちくしょう、とあたしは歩きながら毒づく。留美子は私のルームシェア相手で、大学の頃からの友人だった。お互い持ちつ持たれつで何年もやってきたというのに、あいつはまた無神経にあたしの心を踏み荒らしてくる。何度言ったところでわからないのだ。彼女にはある種ひとの気持ちを読む能力が欠けている。

 

「私からしたら」と留美子は言った。「あなたみたいに教養のない人間が生きてること自体が不自然なのよね」

 それは夕食後の細やかな晩酌の時間——あたしたちが顔を合わせて話す貴重な時間——に、他愛無い会話の延長線上で始まった。留美子は私があまりに“ものを知らなさすぎる“ことを憂いていた。

「生きてるのに自然も不自然もないでしょう」

 あたしはそう言い返して、新しいハイボールを作った。この時はまだ全然頭に来てなんかいなかった。留美子と付き合うにはこういう憎まれ口には慣れなくてはいけない。

「生きるの定義が違う。生きるというのは学ぶことよ、あなた、この一年で何か学んだの?」

「仕事に必要なことを学んでる」

「それはあなたが望んでやってることじゃないでしょう。私が話してるのは自分から学びたいと思った機会のことよ」

 あのねえ、と私は言った。作ったばかりのハイボールは薄くて気の抜けた味がした。

「あたしは留美子みたいに暇じゃないのよ。毎日したくもない仕事しながら電車でもみくちゃにされながら生きてるわけ。その合間の細やかな時間を楽しく過ごしたいんだから、そういうつまんない話やめてくれないかな」

「時間なんて作ろうと思えば作れるものよ。あなたのはただ単に甘えてるだけ」

 留美子は平気な顔でそう言って、私が買ってきたビーフジャーキーの封を勝手に開けた。

 それがきっかけになって、いよいよあたしたちは口論を始めた。刺々しい言葉をぶつけるうちにそれは不満の噴出になり、やがて日々積み重ねてきたものをお互いなすり付け合うだけの不毛な争いができあがった。

 あなたなんてアダム・スミスもホロヴィッツもジョン・アーヴィングも知らないくせに、と留美子は最後に言った。私の返事は持っていたグラスをテーブルに叩きつけてやることだった。顔に向かって投げなかっただけ感謝してほしいくらいだ。

 

 あたしは途中立ち寄ったコンビニで絆創膏を買い、イートインコーナーの席でそれを指に巻く。切ったばかりの傷口はじくじくと傷んでいて、巻いている間に血塗れになって一枚をだめにした。

 ちくしょう、とあたしはもう一度つぶやく。いくら思い出しても留美子の言葉は最悪で、しかもまっとうな反論を思い浮かばない自分にも最高に腹が立った。

 こんな思いをさせられる相手が赤の他人なら、あたしだってここまでムキになったりはしない。二十年余りも生きていれば大抵の理不尽な物言いには慣れてもくる。けれどそれを留美子に言われるのは我慢ならなくて、いつもいつもあたしたちはこうして喧嘩をしてしまうのだった。

 余った絆創膏の残りを全部ごみ箱に捨て、あたしは再び夜の街へ出る。行くあては今のところない。家から持ち出したのは財布と、充電が残り少ないスマホだけ。せめて着替えやメイク道具を持ってくればホテルにでも泊まれただろうに、それすらないとなると明日の朝が面倒だ。自分のことながら無計画すぎる行動に呆れたが、衝動的でない家出というのもナンセンスだと思った。

 とりあえず新宿に行こう、とあたしは駅へ歩きながら決める。こういう時にはあそこがぴったりだ。

 あたしは新宿が好きだった。愛していると言ってもいいかもしれない。あの街特有の彩度の高さと、あらゆる人種がごちゃ混ぜになった活気と、それでいてどこか寂しいところが好きだった。あそこなら大抵のものは揃っているし、部屋着にコートを羽織っただけの指から血を流した女だって目だったりはしない。

 それに比べてこの町は静かで、穏やかすぎる。留美子には向いているかもしれないけれど、あたし向きではない。ひとは皆自分にあった場所にいるべきなのだ。それを見つけられるかどうかが、人生の一つの境目であることは間違いないと思う。

 

 留美子とは大学のベンチで出会った。そこは図書館の裏手にひっそりと置かれた木製のベンチで、ほとんどの学生は見向きもしないような場所にあったから、いつも目立って孤独だった。

 その時のあたしはちょうど急にかかってきた電話を受けていて、思った以上に話が長くなってしまったので、どこか落ち着いて座れる場所を探していた。立ったり歩いたりしたまま話すというのは不安定で、好ましくない。話すという行為には常に安定が必要だからだ。

 だからあたしは、そのベンチのことを唐突に思い出した。そこはまさに座るためにぴったりの場所だと思ったし、それ以上に電話を続けることに疲れ果てていた。何しろその相手というのが母親で、父親が浮気しているかもしれないなどという極めてくだらない話題だったからだ。

 そんなこと知ったことか、とあたしは思った。仮にその疑惑が真実だったとして、あたしに何の関係があるのだろう。遊びで済ませるか本気になるかは父の問題だし、それを非難するかどうかも母の問題だ。くだらない。

 そうして通話したままベンチの方へ歩いていくと、そこには珍しいことに先客がいた。それが留美子だった。彼女は呑気にハードカバーの本を読んでいて、実に我が物顔で座っていた。

 けれどあたしはもうそのベンチに座る以外の選択肢を持っていなかったし、とにかくばかばかしい母とのやりとりに疲れ果てていたので、構わずに留美子の隣に腰を下ろしてしまうことにした。今思うとびっくりするほど自分勝手な行為だったけれど、留美子は特に非難の声をあげたりしなかった。

 それから更に三十分、あたしは喋るだけ喋り倒した。隣に座っている女のことなんか全然考えていなかった。母の話は堂々巡りでナンセンスでヒステリックで、あたしはなだめたり怒鳴ったり見えもしないのに身振り手振りまで使った。そうしてなんとか一定の着地点を見つけて電話を切り、押し当てすぎて痛くなった耳を触ってようやく、留美子の存在を思い出した。

 驚くべきことに、彼女はまだそこに座っていた。しかもあたしが騒いでいる間に本をほとんど読み終わったらしくて、手に持った栞を後ろの方のページに挟めていた。大声で騒ぎながら電話をしていた女がすぐ隣にいたというのに、変わらず集中して本を読み続けられるというのはある種の才能だ。と、あたしは密かに感心した。

「ごめん」とあたしは今更ながら言った。しでかしたことに比べれば間抜けすぎる謝罪だったけれど、それ以外に選択肢はなかった。

 すると留美子はあたしを見て、一度まばたきをした。

「災難ね」

 さぞ非難されるだろうという予想に反し、留美子はそう言った。災難ね。その言い方があまりにカラッとしていたので、あたしは持っていた様々な感情をそっくり放り出して笑ってしまった。

「そう、災難なのよ。まったく、ろくでもないわ」

 これが他の言葉——たとえば「大変そう」や「気にしないで」だとしたら、あたしたちの出会いはもっと違った形になっただろう。そう思うくらいにこの時の「災難ね」は絶妙な響きを伴っていたので、あたしは罪悪感や羞恥心をあっさりと忘れることができたし、母に感じていた苛立ちや留美子への警戒をもどこかに追いやることができた。

 留美子はいつも適切な言葉を知っている。それが助けになるかどうかは別問題だが。

 ところで何を読んでたの、とあたしはたずねた。本の作者もタイトルも知らなかったけれど、留美子はそれをあたしに説明してくれた。ゲルマン民族がどのように移動し、どうやって国家を築いたかという本。

「あなた、有名人でしょう」と留美子は言った。

「有名? あたしが?」

「そう。噂は色々聞いてたけど、本当に面白いのね」

 留美子はそう言って、まるで犬や猫を見るような目であたしを見た。彼女は黒い髪を腰まで伸ばしていて、大人しくはない顔立ちに変わった色のアイシャドウをしていた。爪はワイン色で、耳には三つのピアス。

 こんな辺鄙なところで本を読んでいるのだから、きっと地味でつまらない人間に違いない。心のどこかでそう思い込んでいたあたしは、少しずつその考えを修正し始めていた。この女はなかなか個性の塊かもしれない。と、そんな風に考えて。

「あんたは有名人なの?」

 そう尋ねてみると、彼女は唇の端を歪めた。それが彼女なりの笑顔なのだと気づくまでに、少し時間がかかった。

「さあ、興味がないから。あなたは私のこと知りたい?」

 是非、とあたしはこたえた。それからあたしたちは小一時間ベンチで話し続けて、学食に移ってさらに二時間話して、お互いへとへとになってようやく連絡先を交換して別れた。

 留美子は今まで接してきたどの人間とも違っていた。驚くほど自分というものを持っていて、感心するくらい色々な知識を持っていて、けれどそれ以外はてんでダメで、とにかく世間一般からズレて生きていた。

 あたしと留美子は似ているとは言い難い二人だったけど、ズレてるという部分は共通していた。だから、仲良くなれたのだと思う。

 

 夜のメトロには色々な人が乗っている。酒の匂いをまとった中年、はしゃいでいる若者たち、スーツケースを持った旅行客、ギターを背負ったミュージシャン。彼ら彼女らは日常と夜の間をこの車両によって移動していて、その歩みには常に帰るべき場所が染み付いている。夜というのはいつも人を動かすのだ。

 暖房の効いた車内は、このコートを着たままでは少し暑かった。しかし前を開けようにも中に着ているのは部屋着なので、あたしは我慢して車内広告を睨む。

 すぐに身につく英会話、資産運用、建売住宅、夫の操縦法。毎日数え切れないほど行き交う乗客達のうち、一体何割がこれに関心を寄せるのだろうか、と思う。目に入るのはいつだってスマホを睨む姿ばかりで、あとは動画サイトや漫画を読むくらい。人々はもう、知識なんてものを必要としていないのではないような気さえする。

 一方で留美子はあらゆることを知りたがった。子供が大きくなったような性格で、それに感心させられることもあれば、無遠慮すぎる物言いに腹が立つこともあった。

 駅で電車が止まって、新しい乗客が乗り込んでくる。すれ違った何人かの視線がこちらに刺さるのを感じたが、あたしは決してそちらを見ない。着の身着のまま家出をして指から血を流している女のことなんて放っておいてほしいと、心の底から思う。人々は知識には興味がないくせに、他人への好奇心だけは一向になくさない。

 大学を出て、自然とあたしたちは同棲を始めた。あたしは医療品メーカーの営業になって、留美子はあちこちに記事を書くライターになった。生活時間も仕事も違ったけれど、それとあたしたちがあたしたちでいることは何の関係もなかった。

 言わせておけばいいのよ、と留美子は時々言った。例えば誰かが私のことをヴァージニア・ウルフだと思ったとしても、私自身が本当にヴァージニア・ウルフに変わってしまうわけないでしょう、と。そのウルフという人物が誰かは知らなかったけれど、もっともな言い分だとあたしは思った。あたしたちは自分が何者であるかを自分で決めて生きていける。

 

 ひとまず飲み直そう。新宿駅の無駄に多い階段を歩きながら、あたしはそう決める。悪い飲み方のまま一日を終えるのは人生の無駄遣いだと、あたしの辞書には書いてあった。記憶をなくすにしろ、寝てしまうにしろ、酒というものは満足いくまで飲むべきなのだと。明日以降のことはその後で考えてしまえばいい。

 キャッチや人混みを適当に交わしながら、あたしは行きつけのバーへ足を進める。そこは三丁目の雑居ビルの中で、気の置けないママと半年前にボトルキープしたままのラムがあった。今の気分にはぴったりの場所だ。

 コートの前をおさえて歩きながら、留美子とのやりとりを思い出す。指の切り傷は熱を持っていて、じくじくと熟れて痛む。

 三つ子の魂百までとは言うけれど、まさしく彼女の物言いには呆れるばかりだった。「甘えてるだけ」だなんて、良くも堂々と言えたものだ。自分だってあたしがいなければろくに家事もできないくせに。

 家を飛び出して一時間弱、あたしはずっと怒り続けていた。思い出してまた涙が滲みそうになるくらいには腹が立っていた。あるいは、冷静さを取り戻すのが怖くて、怒りの熱を持続しなくてはいけなかった。

 本当は留美子のことを憎みたくなんかはなかった。何しろ彼女は私の数少ない友達だったし、家族や仕事なんかよりもよっぽど大事な存在だった。望みさえすれば、何年でも何十年でも一緒にいられるという確信もあった。だから、本当はこんなくだらない喧嘩なんてやめるべきなのだ。そんな風に、理性はささやいていた。しかし理性なんて役に立ったことがないとあたしは思う。あんなの、おままごとみたいなものだ。

 

 ひどい顔、とママは開口一番に言った。

 あたしはカウンターの奥の席にどっかりと腰を下ろして、ぶっきらぼうにラムトニックを頼んだ。今は他に何もいりません、という意思表示付きで。

 肩を竦めるママの姿を横目に、あたしはぼんやりと店内を見回す。平日の夜だというのにここはそれなりに賑わっていて、客たちは思い思いに過ごしている。話したり、食べたり、飲んだり、タバコを吸ったり。ここにはいくつもの人生があって、それぞれがこの場限りで頼りなく重なっている。そういう希薄さを、あたしは好ましいと感じた。

 近すぎるというのは往々にして危険なのだ。何事もふさわしい距離というものがある。ひとが他人の噂を好むのは、それが自分とは無関係な相手だからだ。親しかったり自分と密接に関わる相手だったりすれば、情報は時として重荷になる。

 結局、あの時父は浮気をしていた。母が正しかったということになるが、離婚まではしなかった。世間体や生活を守ることを選んだのだ。どうせそうなるだろうと、あたしは予想していた。

 夫婦というのは歪なシステムだと思う。家族も同じだ。血や契りを理由にするには、この関係性は近すぎる。

 暖かい店内でラムを飲むと、少しは気分が良くなってきた。追加でジンとおつまみのピザを頼み、手持ち無沙汰な指で絆創膏の端をいじる。切り傷は痛みの次に痒みを発してきていて、体の細々とした神経がしっかりと動いていることがわかった。

「今日は一人?」

 飲み終わったグラスを下げながら、ママがそうたずねてきた。

「二人に見える?」

 そう答えてすぐに、あたしは後悔した。この返しはまるで留美子みたいだったからだ。

「いいえ、待ち合わせがあるかどうか気になっただけ。今日は混みそうだから、隣に人をいれてもいいわよね」

 あたしは頷いて、ジントニックのグラスを受け取る。本格的に混み出す前には行き先を決めなければなと考えながら。

 ママだって、あたしと留美子のことを知らないはずはない。留美子と出会う前からここには一人で来ていたし、留美子と出会ってからは二人で来ていたからだ。けれど今日こうして一人でいる理由まで聞かないあたりが、ママなりの気遣いなのだろう。

 それに引き換え、あの女と来たら。思い出すとまた留美子に対する感情が湧き上がってきて、あたしは酒を流し込んだ。

 

 一時間か二時間が過ぎた頃、隣の席に女がひとり座ってきた。店に入った時からもう酔っていて、甘い香水と酒の匂いがこの距離からでも漂っている女だった。

 軽く会釈をした後も視線がこちらに向いているのを感じて、あたしはくすぐったいようなうんざりしたような気持ちになる。昔からいつもそうだ。あたしは他人の注目を浴びやすくて、顔も名前もすぐに知られてしまう。望む望まないに関わらず。

 なるべく隣を見ないようグラスを傾けていたものの、やがて女の方から声をかけてきた。ねえ、とかそんなことを口にしたようだが、酒のせいでそれは不可解な言語のように聞こえた。

「それ、美味しいの?」

 彼女はそう言って、あたしの食べているおつまみを指さした。店の名物である、ママのお手製ベーコン。薫製が効いていて、噛み締めるとうっとりするような味わいが出る。

「食べてみれば」

 そう言って皿を差し出すと、女は迷うことなく一切れを手に取って食べ始めた。そのまま黙っていてくれると助かるのだけど、そうも行くはずがない。それをきっかけとして、彼女はあたしにしきりに話しかけてくるようになった。

「何か心配事でもあるの?」

 相変わらず舌先に酔いを宿した声で、彼女はそうたずねてくる。子供みたいな口調や言動に派手な風貌。きっと水商売関係だろう、と下世話な想像が脳裏をよぎる。あたしの知ったことではないが。

「何もないけど」

 と、あたしはこたえる。強いて言うならば今夜の宿だが、それをバーで出会った見ず知らずの相手に言う意味をわからないほど愚かでもない。

「嘘、そういう顔してたでしょ。私、そういうのわかるの」

「あ、そう。でも残念ながら勘違いよ」

 素っ気ない返しに、女は芝居がかった仕草で肩をすくめた。

 話し始めるきっかけとしては、随分とありふれたやり方だなとあたしは考える。誰しもに共通した問いかけをして、そこから話を膨らませる。テクニックとしては平凡だ。その平凡さは嫌いではないけれど。

 留美子のやり方はもっとめちゃくちゃだった。学生時代なんとなくお互い疎遠になりかけた時期があるのだが、その時は何の前触れもなく電話をかけてきてこう言ったのだ。

「山頂からの日の出って見たことある?」

 ないけど、とあたしは言った。脈絡のない問いかけを不審に思いながら。

「私もない。だから今から行きましょう」

 今から? とあたしは聞き返した。山に行ったことなんて一度もないけれど、事前にしっかりした準備が必要だということは想像がついたからだ。間違っても素人が思いつきで日帰りできるようなものではない。けれど留美子は本気だった。今読んでいた本に書いてあったから気になったなどと言って、一時間後にはあたしの家の扉を叩いていた。

 あれは傑作だったな。新しいグラスを傾けながら、あたしは思い返す。結局二人で行き当たりばったりの格好で山へ行った挙句、麓を少し登り始めたくらいでギブアップして、そのまま近くの温泉に行って泊まったのだ。本当に滅茶苦茶な日だったけれど、あのおかげであたしたちは別れずに済んだ。

「誰のこと考えてるの?」

 不意に隣の女からそう話しかけられて、あたしは思慮の中から戻ってくる。

「何も考えてないわよ」

 そう返すと、女は可笑しそうに目を細める。

「嘘つき。今のは絶対に誰かのことを考えてたわ。多分、恋人でしょう」

「さあね」

 とあたしは言った。段々と胃の奥がむかつくのを感じていた。留美子のことばかり考えてしまっている自分への苛立ちと、明け透けに詮索してくるこの見知らぬ女への不快感を。ただの酒の席での世間話だったとしても、あたしと留美子の間には誰も入ってきて欲しくはなかった。

 そう、あたしだってわかってはいたのだ。留美子が本当はあたしとただ話したかっただけだなんてことは。そのやり方がどうしようもなく下手くそなことも知っていた。気づいていたのに、その通りに振る舞えなかった。鈍感で不器用なのは、あたしも同じことだから。

「じゃあそれは聞かない。代わりに私の相談に乗ってくれない? 大したことじゃないんだけど」

 冷たくあしらっても、なおも隣の女は親しげに話しかけようとしてくる。その矛先を変えたくて、あたしはつい口にしてしまった。

「アダム・スミスって知ってる?」

 予想もしていなかったであろう言葉に、女はぽかんとした顔で目を見開く。それでも健気に考えるような素振りを見せたが、あたしは間髪入れず続けた。

「ホロヴィッツは? ジョン・アーヴィングは?」

 ちょっと待って、と女はたじろいだ様子で言った。でも彼女がどんな反応を見せようと、もうあたしにはどうでもよかった。

「それって、人の名前?」

「そう」

 あたしは頷いた。

「ごめん、知らない」

「でしょうね」

「でも待って、調べてみるから——」

 そう言って女がスマホを取り出すのを見て、あたしの中で何かが切れた。グラスの中に残っていたスコッチを一息で飲み干す。喉がかっと熱くなる感覚。アルコールと体温で脳がぐらぐらと揺れて、それが体中からエネルギーをかき集めたような気分がした。

 衝動に突き動かされるまま、あたしは勢い良く立ち上がった。

「やめて」とあたしは言った。あるいは叫んだのかもしれない、店中の視線がこちらに集まるのを感じたから。

「それをあたしに教えていいのは一人だけよ」

 興奮で震える声でそう告げて、あたしはふらつく足でカウンターから離れた。女は何も言わなかった。ママがこちらを見るのを感じたので、財布の中から適当に抜き出したお札をその辺に置いた。もうたくさんだと思った。こんなところはあたしの居場所ではないと、それだけがはっきりとわかっていた。

 

 それからどうやって家まで帰ったかは覚えていない。途中で何度か吐いたり、転んだりしたような記憶はある。でもとにかくあたしは家まで戻ってきて、ドアノブを回して玄関に倒れ込んだ。てっきり鍵が閉まっているかと思ったけれど、幸運なことにそこは開いたままだった。

 玄関マットに倒れ込んだまま、あたしはリビングの方を見る。もう深夜だというのに、そこは数時間前あたしが飛び出した時のまま煌々と明かりがついていた。

「留美子?」

 ひりひりする喉から、声を絞り出した。返事はなかった。家の中はしんと静まり返っていて、墓場や病院のような気配がした。

 目を閉じて眠ってしまいそうになる自分を叱咤して、あたしは立ち上がった。フローリングに手をついた拍子に、指に巻いていた絆創膏がなくなっていることに気がつく。せっかく固まりかけていた傷口が少し開いていて、新しい血の跡が床板に微かな線を描いた。

 留美子、ともう一度呼びかけて、苦労しながらリビングの入り口を跨ぐ。

 いないかもしれないという恐れに反して、そこにはちゃんと留美子が待っていた。けれど彼女はもう椅子には座っていなくて、カーペットの上で子供みたいに丸くなりながら寝息を立てていた。テーブルには飲みかけの酒。冷めたピザ。それにあたしが買ってきたビーフジャーキー。それらは時間が止まったかのように出て行った時のままで、まるで誰かを待っていたみたいに見えた。

 留美子はあたしが帰ってきたのにも気づかず眠り続けていた。自室に戻って眠ればいいのに、いったい何をしているのだろう。そう思って近づいてみると、彼女の手の中にスマホがあるのがわかる。どうやら眠る直前まで触っていたようだ。

 あたしはのろのろとした動きでコートのポケットを探る。サイレントモードにしていたスマホには、着信履歴が一件だけ残っていた。

「ばーか」

 あたしはそう言って、コートとスマホを一緒くたにして床に落とす。もう眠くてたまらない。頭も痛いし、口の中も気持ち悪い。だから本能と重力に従って座り込み、留美子に寄り添うように横になった。カーペットは案外柔らかかったので、これならよく眠れそうだ。

 電気も消さず化粧も落とさず、あたしは留美子の気配を感じながら目を閉じる。

 アダム・スミスもホロヴィッツもジョン・アーヴィングも知らないけれど、あたしはそれを不幸には思わない。ただそれを知っている女の側にいてやることだけはできると、誰に言われるでもなくわかっていた。

 

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オーパス 宇佐 @usa1975

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