最終話 虚無の神サン・ヒャン・ウィディは、形なく、色もなく、限りもない

 薄暗い部屋の中には、大小の、異常な数の鏡があった。アンティーク調の大きな化粧台、等身大の姿見、壁掛け用の様々な大きさの鏡、テーブルやチェストの上には丸や四角の写真立てのような鏡が林のように立ててあった。どれも、バリ島独特の、原色で着色された彫刻の枠に納まっている。

 彼女はその異様さを気にも止めず、すぐさま粗末なベッドに乗って服を脱いだ。探検服めいたキュロットパンツとTシャツを脱ぐと、その外見とおよそ不似合いな、黒いレースの下着が現れた。肌が、暗い部屋で、ひときわ白く浮き立った。私も服を脱いで下着だけになった。

 するとその時、脇の方で物音がした。店主か、と思ったがそうではなかった。チェストの後ろから、女が現れたのだ。チョコレート色の肌をした現地の少女だった。そこにかくれていたか、あるいは、チェストの裏に外とつながっている通路があるのかもしれない。よく見ると、ここに来てすぐに会った、みやげ物屋の客引きの幼女だ。しかし、なぜか今は十四、五才に成長している。体つきは幼いが、ふっくらとした胸や腰の丸みは、すでに男の気を引くものがあった。チョコレート色の肌に、黒いレースのブラジャーとパンティを着けていた。それは、ベッドにいる彼女とまったく同じ物だった。反射的にベッドの方を見ると、幼馴染の彼女は消えていた。

 微笑しながら近寄って来るみやげ物屋の娘をもう一度見ると、体がさらに成長していた。胸は大きくなり、尻は肉付きがよくなっている。

 娘は愛想良く手招きをしながら片言の英語で言った。

「ミラー、ミラー」

 私が化粧台の前に行くと、彼女はどこからか化粧道具を出してきて、喜々として、鏡に映った私の顔に化粧をし始めた。私の顔ではなく、鏡の面の上に。

 私はそれに協力した。鏡の面の化粧と、映った私の顔がずれないようにじっとしたまま、だんだん変っていく自分の顔を、面白がって眺めていた。彼女は、くすくす笑いながら手を動かし続けた。

 そうするうちに、私は、自分の顔が見覚えのある他人の顔に近付いているのに気付いた。

 それは妻の顔だった。

 私はパニックを起こし、次の瞬間、娘を制止するために、手首を強く握っていた。彼女は突然の暴力に怯えた。私は再びゆっくりと顔を鏡の前に持っていき、抜け殻のような化粧の跡に顔を重ね合わせた。もうそれは、妻の顔ではなかった。

 単なる錯覚だ。

 私は、怯える彼女に微笑みかけ、安心させると、ベッドに行こうと合図した。

 彼女は黒い下着を脱ぎ捨て、全裸で仰向けになり、性交のポーズをとった。薄闇の中で、白い手のひらと足の裏が舞った。

 私もベッドに上り、彼女の両足の間に腰を置いた。私の硬直したものが、まさに押し入ろうとした時、後ろのほうで、かすかに虫の羽音がした。次の瞬間、何かが私の尻を噛んだ。

「痛!」

 女は私の下からすりぬけて、尻の噛み跡を確めると、納得したように頷いた。

「島の虫。男と女のアソコの匂いに寄って来る。噛まれても、すぐ、薬つければ心配ない」

 そう言って、軟膏のようなものを塗ってくれた。

「こうしないと、痺れて一生動けなくなる」

 彼女は、にこにこしながら、平気で言う。

 一生…、軟膏を塗り忘れるだけで、一生を棒に振るわけか?いまいましい虫め、これじゃあろくに集中できやしない。

「それより…」

 彼女は私のものをしごき、我慢できないというふうに仰向けに寝た。事に及ぶと、また羽音がやってきた。

「くそっ!」

 彼女は起き出し、スリッパを片手に虫を追い掛けた。あちこち叩いて回るうちに、チェストの裏に追い詰めたらしく、何度か叩く音がしたが、静かになるとそれっきり彼女はチェストの裏から出てこなかった。

 ふとベッドに目を移すと、そこには、幼馴染みの女がさっきの娘と同じポーズで横たわっていた。

 ああ、戻ってきたんだ、と私は思った。

 彼女の肌の色は、見慣れた日本人の白さだった。私は安心して、早く彼女としたくなった。

「あなた」

 彼女は日本語で言った。

 再びさっきと同じ体勢になり、腰を押し付けた。

 例の虫は、なぜか今度はやってこない。

 私は彼女の中に収まった。それはさんざん待たされた末の幸福な結合だった。粘るような、チョコレートの甘みのような心地好さがあった。妻とではありえない感動があった。まったくなぜだろう、この異常な状況のせいだろうか。それとも、濃厚な花の匂いのせいだろうか。

 私は腰を使い、できる限りの快楽を得ようとした。快楽はその度ごとに高まった。妻、いや、他のどんな女を相手にしても、いままでこんな感覚は得られなかった。

 まわりのたくさんの鏡に、私たちの体が映っていた。私はそれを順繰りに眺めた。絡み合う手、足、尻、背中、胸…、それらが四角く、丸く、切り取られている。顔だけはどれにも映っていない。最後に見た一番大きな鏡に、二人の全身が映っていた。それを見た時、何かとても妙な感じがした。それで、もう一度見直した。

 四つん這いになっている自分の背中があり、その下に、両足を上げて仰向けになった彼女がいる。腰の部分はぴったりくっついている。彼女の両手が、私の背中に回っている。大きな乳房が、私の動きに合わせて揺れている。そして、彼女の顔は…。

 彼女の顔があるべきその場所には、私の顔が……この私自身の顔があった。鏡の中では、私が、私自身を相手に性交していたのだ。

 私の腕の下にいる、本当の彼女の口から声がした。その声は、さっきの、チョコレート色の娘の声だった。

「ミラー・オブ・トゥルース」

 真実の鏡?

 彼女は同じ言葉をもう一度繰り返し、呻き声を上げ、絶頂に達した。私にも快感の洪水が一挙に押し寄せた。そして、あとは…、あとは覚えていない。

 長い長い空白があった。目を開けると、私は、清潔なホテルの天井を見ていた。そばには妻が心配そうに座っていた。

「だいぶうなされてたみたいね」

 私は、バリへ来たその日から、高熱を出して苦しんでいたと妻は言う。下腹部に何かが載っているのを感じ、反射的に毛布を捲り上げてみると、ランダの面があった。

 じゃあ、あれはみんな夢だったのか?

 しかし、二日目に買ったランダの面は、確かにここにある…。

 私は、結局、妻に何も話さなかった。残りの三日間を観光して回り、海で泳ぎ、店を見て回って過ごした。昼は相変わらず親密な友達同志のようにはしゃぎ合い、夜のベッドでは別々に眠った。

 帰りの飛行機の中で、私は、妻のことを友人のようにしか思えない理由を考えた。妻だけでなく、妻より以前に付き合ったどんな女性も、私は友人のように愛することしかできなかった。

 その理由は、おそらく、私が自分しか愛せない人間だからだろう。自分以外の異質なものを受け入れ、その結果起こるかもしれない様々なトラブルを、私は恐れている。

 これが、大学時代に心理学をかじった私の自己分析だ。

 あの鏡に写った自分の顔は、そういうことだったのではないか? 女性との深い関わりを避けることで、精神の安定と、穏やかな日々を手に入れた。その代わり、無上の快楽を放棄した。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないが……。

 もし、どこかの世界に女として生まれた私がいて、その私とこの私が交わるとすれば、それが最高なのかもしれない。

 と考えた私は、最後の鏡に自分の顔が写ったときのおぞましさを思い出し、身震いした。

 機内アナウンスが成田への到着を告げている。

 夢のことはどうあれ、明日から、またいつもの日々が始まる。

               


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妻がランダでオナニーしてました ブリモヤシ @burimoyashi

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