言えなかった
白雪花房
「思井悠」
たった5文字が言えなかった。
「好きな子いるの?」
高校の休み時間、彼がおもむろに尋ねてくる。
私はうつむき、口をつぐむ。
長いようで短い沈黙の後、答えた。
「いないよ」
あっさりと、なんでもないことのように。
「そっか」
彼はつぶやくと、去っていく。
まるできれいさっぱり興味をなくしたかのように。
彼の姿を目で追ってから、机の上に視線を戻す。そこには本があった。手に取って、顔を隠す。
言えるわけがない。
それが素直な気持ちだった。
三文字の名字と二文字の名前。それさえ伝えられたら、よかったのに。
それでも、できない。私には、無理だ。
頭に浮かぶのは、数日前の出来事。
となりの席の友達は、喜々として話していた。
「私、あの人が好きなんだ」
彼女の瞳は、彼へと向いていた。
愛らしい目とバラ色の頬を思い出すたびに、心が締め付けられる。
友情と恋愛のどちらを取るか。見ようによっては情けなくも見えるし、美しくも感じる。
だけど私の場合は違った。私はスタートラインにすら立てていない。
名前を呼べなかった。
声をかけることすらできない。
難しいことではないはずなのに。
彼と相対するときはいつだってそうだった。
一度意識してしまうと、身がすくむ。視線を合わせられない。キョロキョロと目を泳がすばかりだった。
できることといえば、見ることだけだ。彼を遠くから眺めることしかできない。
そんなものだから、結末は決まっていた。
まともに戦ったとしても、敗北するのは私になる。
要するにこれは逃げなのだ。
全てを言い訳にして、仕方がないとあきらめただけ。
そんなものだから、私は――
大切なものをなくしました。
言えなかった 白雪花房 @snowhite
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