第3話 灰脳類


第二章 灰脳類






 色覚異常。その文字に目を奪われている際に担任が教室に入ってきて、僕達は校庭に避難させられた。異様な空気が漂ってはいたが、その後は特になにも問題は起こらずに生徒達は帰宅することになった。当然通学路には何人もの警官が配置されていた。僕は帰る際になんとか姉を発見することができ、一緒に帰ることができた。僕はその際、特別授業のことを姉に話してみた。


「色覚異常?」


「そう。最後に幕間先生が言ってたんだ」


 実際には書いていた、だが。


「そんなことは私の授業では話してなかったよ。灰脳類と人間との見分けは目の色の違いとは聞いたけど」


 おかしい。なぜ授業内容に差があるのだろうか。調子に乗って嘘でもついたのだろうか。いやいやそんな感じの先生ではなかった。真面目すぎるくらいに話していた。


「でも色覚異常って、正しく色を判別できないってことでしょ?」


「そうだと思う。灰脳類にはもしかしたら、自分達とは違った風に世界が見えているのかも」


 自分で言っておきながらイメージはできなかった。どんな色合いで世界が塗られているのだろうか。そんな疑問を抱いたままその日は早々に家に帰った。家に着くなり母さんに帰宅の早さを驚かれたが、簡単に説明し納得させた。そして僕らが家に帰ってから三十分程経過したところで、


「ただいまぁ」


 玄関から父さんの声が聞こえた。一日会っていないだけだがなんだか久しぶりに会う気がした。玄関まで姉が見送りに向かった。続いて僕もなぜか付いて行った。

 父さんはグレーのスーツに、白地にピンクのストライプが入ったネクタイを身に着け、見慣れた太めの黒縁の眼鏡をかけている。夕方になり若干髭が伸びてきていた。


「おかえり。今日は仕事早く終わったんだね」


「おう。今日は早く上がらせてもらうように課長に頼んだ。昨日のこともあるし」


 昨日のこと……。ああ、夕飯に間に合わなかったことか。思い出してぞっとした。あの時の母さんのことも思い出してしまった。


「今朝母さんに怒られてな。特別なことがない限り夕飯は家族みんなでとろうって」


「そうなんだ」


 言われてなんだかほっとした。父さんと母さんの関係は特に問題ないらしい。


「ところで今日は学校も早く終わったのか?」


 案の定同じ質問をされたため、母さんにしたのと同じことを伝えた。


「通り魔?そんな時間帯に出たのか。ほんとに最近物騒だな」


 父さんはやれやれという表情を見せたが「とりあえずビールが飲みたい」と適当にその辺に鞄を置くと、部屋着に着替えに行った。

 今夜は家族四人揃って夕飯を食べていた。今夜の献立はスープカレーとサラダであった。ごろっとした野菜に、骨付き鶏肉。それらをスープと絡めて食べるのは本当にうまい。そんな食の喜びを感じていると、旬のニュースが耳に入ってきた。


「本日十六時過ぎ頃、臥人真原中高学校の付近で不審人物の身柄を確保しました。ここ最近発生していた通り魔事件の容疑者として現在聞き込みを行っているそうです。ただ、容疑者は一連の通り魔事件との関与を否定しており、俺は一切関係ないと身柄拘束時に叫んでいたそうです。詳しい情報が入り次第ご報告いたします」


 さっそく取り上げられたか。しかし本当にこれまでの通り魔事件に関係ない人物であるなら、一体犯人はどこに潜んでいるのだろうか。あるいは堂々と自分の近くに存在しているのかもしれない。しかし最近の通り魔事件は残忍な殺し方をしているという。実は人間ではないのかもしれない。自分で思ってふと、灰脳類というワードが頭を掠めた。


「灰脳類、なのかな?」


 突然姉が呟いた。まさに自分が考えていたことであったため、心臓の鼓動が早くなった。


「そんな、まさかー」


 僕は大根役者のように誤魔化そうとした。


「燦、どこでそれを聞いた?」


 意外にも父さんが反応した。なんだそれという様な、いかにも怪しげっている表情を浮かべている。


「学校で最近習ったの」


「へえ、そんな種類の生き物がいるのか」


「うん、見た目は人間に似た生き物らしいよ」


 ふうんと父さんはお茶を一気に飲み干した。少し咳き込む。


「あれ、そういえばケチャップ出てないじゃないか」


 父さんはテーブルにいつも置いてあるはずのケチャップが無いことを確認すると、少しイラっとした様子で冷蔵庫に向かった。父さんは少し変わっていて、サラダにケチャップをかける人間なのだ。父さんがいる時はいつもケチャップを出しといてあげるのだが、今日は出し忘れていた。


「まったく」


 父さんはため息を吐きながら戻ってくると、サラダにマヨネーズをかけ、放り込んだ。そしておもいっきり咳き込んだ。いや、それケチャップじゃないじゃん。父さんはテーブルに勢いよくマヨネーズを置くと、容器の口からぴゅうっとマヨが飛び出した。その光景に少し笑いを堪える。


「おいー。これマヨネーズじゃないか」


 ついにみんなはそれを見て笑ってしまった。母さんも笑っている。久しぶりに思いっきりみんなが笑ったような気がする。姉は完全にうずくまって体を震わせている。


「ごめん、ごめん。またシール貼り忘れてたみたい。ていうか間違って二本マヨネーズ買ってたみたい」


 母さんがてへっと舌を出して笑った。


「もう、母さんかわいい」


 姉は笑いながら母さんを小突いた。


「ほら、食べ終わったんならさっさと風呂入ってきな」


 父さんは一連の行動の恥辱を覆い隠すように、僕達に向かってせっかちに言った。


「今はなぁ、あんまり風呂っていうタイミングじゃないんだよなぁ」


「じゃあ私が入っちゃおうかな」


 なぜかこちらを見て悪戯に笑って言った。この感じは……まさか、振りか?振りなのか?


「えぇと、なんか僕も入りたくなっちゃったなぁ……、なんて」


「じゃあ、一緒に入ろうか」


「え?」


 突然の姉の提案に目が丸くなった。いやいやそれはまずいって。いくら兄弟でも高校生と中学生はまずいって。僕は姉に対して清純な感情を持っている。決して姉の裸を見てみたいなんて不埒な考えは持ち合わせてはいない。


「どう?痛くない?」


「う、うん、だいじょうぶ」


 結局入っていた。男という生き物はなかなか気持ちを抑えられない動物だな、そんなことを考えながら背中を洗ってもらっていた。常識よりも男が勝ってしまった。後ろにはタオル一枚隔てて裸の姉がいる。こ、これは非常にまずい状況なのでは……。今更になって緊張してきた。姉は服を着ている時でも、胸の大きさがはっきり分かるほどのバストをお持ちである。そんな姉が今、後ろにいる。後ろを振り向きたいが、振り向きたいが……。なんとか我慢した。


「じゃあ今度は瞬が背中洗って」

 き、きたー。やったあ。いやいや、そうじゃなくて。大丈夫か瞬よ。


「い、痛くない?」


「うん。大丈夫だよ。気持ちいい」


 濡れた綺麗な長い黒髪が背中に貼り付いている。透き通るようなサラサラな素肌に付いている様はなんとも素晴らしい。背中を丁寧に擦ってあげると、お互い泡を洗い流して湯船に浸かった。姉と対面する形に入ってしまった。やばい。


「さっきの父さん面白かったね。母さんもぼけちゃってね」


「面白かったね。もう二人とも老化が始まっているんじゃあ……」


「まさか」


 くすくすと笑い合った。ああ、なんて幸せな時間なんだ。もうずっと浸かっていたい。

 十分くらい浸かりのぼせてしまったので、お互い上がることにした。髪を乾かしリビングに戻ろうとしたが、そこで姉に止められた。


「なんだか今父さんも母さんも二人で話しているから、このまま二人で二階に行ってゲームでもしようよ」


 姉に誘われ二階に上がった。その後二時間ほどゲームをして遊び、お互いおやすみのあいさつを交わし自室に戻った。瞬はこの楽しい時間がずっと続けばいいなと思った。なんだかふわふわした心地でベッドに入った。それにしても、父さんと母さんは何を話していたんだろうな。割と真剣な表情で話していたように見えた。


「まあいいや」


 瞬は布団を顎まで上げると深い眠りについた。

 外ではまたサイレンの音が鳴り響いていた。

 瞬の知らないところでまた犠牲者が出た。






 九日水曜日。朝家を出るとひんやりとした空気の中、近所の公園には早朝にも拘らず大勢の人が集まっていた。ある一部分がブルーシートで隠され、物々しい雰囲気が辺りに充満していた。瞬は何が起きたのか感づいてはいたが、どうしても気になり野次馬に加わった。しかし当然一般の人達には見えないよう上手く隠されていた。


「瞬、もう行こう」


「うわっ」


「えっ、どうしたの?大丈夫?」


「ご、ごめん。ちょっと集中してて」


 物々しい雰囲気に圧されて姉と家を出ていたのを忘れていた。朝から変なことは気にしないようにしよう。せっかくの姉との朝だ。この登校は一日の始まりの重要な栄養なのだ。


「何があったんだろうね。まさかまた通り魔被害かな」


「その可能性が高いよね」


「怖いよね最近……」


「大丈夫。お姉ちゃんは僕が守るから」


「まあ、頼もしい弟ね」


 恥ずかしいことを言ってしまった。漫画で言うようなセリフじゃんか。しかし、からかっている様な感じではない姉の笑顔に、僕も穏やかな笑顔を返した。

 学校に着くと、案とは校舎が別のため校門から少し入ったところで別れた。昨日は急遽(きゅうきょ)通り魔に授業を邪魔されたおかげで早下校となってしまった。今日は何も起こらないといいけど。


「はあ、退屈だなあ」


「おい、先生に聞こえるぞ」


 三時限目。午後の授業になって悟は、特に何も変わらない日常にうんざりしたといった様子を見せている。僕は何も起こらないほうが平和で好きだ。


「おーい、そこ二人。話してるんじゃないぞ。授業聞く気ないなら出ていけ」


 ほら怒られた。悟のせいで。瞬は先生に向かって謝罪の意を込めて軽く頭を下げた。そして顔を上げた瞬間、教室の扉の窓からちらっと幕間先生の顔が見えたような気がした。いやいや、気のせいだろう。今日幕間先生はこの学校にいないはずであるから。ありえないと頭を振った次の瞬間、突如としてありえないほどの眠気に襲われた。意識が遠のく。


「お、おい……、しゅ……」


 悟の声もわずかに聞こえたような気がしたが、そこで瞬の意識は途切れてしまった。


「はっ」


 真っ暗な闇の中から目を覚ますと、瞬はなぜかトイレの便座に座っていた。訳が分からず瞬は思考が停止していた。なんだか体が熱い。顔は燃えるようである。便座の中を覗くと特に何もしていなかった。ではなせ自分はトイレに座っているのだろうか。とその時、トイレの外から女子の悲鳴が聞こえた。只事ではない様子の悲鳴により、瞬は慌ててトイレから飛び出した。すると廊下には生徒が大勢窓の外を覗く形で群がっていた。覗いている先は中庭の方である。


「なんだこれは……」


 瞬はあっけにとられていた。瞬の学年全員が廊下にいるんじゃないかと言わんばかりの人数だ。窓の外が気になるが、とても割り込んで見れる余裕はない。近くにいた女生徒に尋ねてみることにした。


「ちょっとごめん。今何が起きているの?」


「四時限目の授業中に突然中庭の方から悲鳴が聞こえたの。そして窓から覗いてみたら、人間の片腕が落ちているのが見えたのよ」


「片腕だって?」


 どくん。心臓の鼓動が高まる。


「そう。でも不思議と血は出ていなかったみたい。さっきはっきり見たっていう子が言ってた」


 瞬は自分の脈が速くなっていることに気付いた。なんだか不気味な話なのに、何かに期待している自分がいる。だがその感情の真意は全く分からなかった。いやいや、それよりも先程の女生徒の話で、片腕の状態なのに血が出ていないって、そんなことあり得るのだろうか。不思議に思ったがとりあえず教室に戻ることにした。戻る途中で瞬はあることに気が付いた。さっきの子は四時限目の最中に事が起きたと言っていた。自分の最後のはっきりしている記憶は、三時限目までの記憶しかない。空白の一時間がある。

 自分のクラスの教室に入ると、悟がいきなり飛びついてきた。


「な、なんだよ悟。やめろって」


「だって、お前三時限目に急に倒れるんだもん。それから保健室に連れて行ってやったけど、全く目を覚ます雰囲気がないしさ。心配したぞ。本当にもう」


「そうだったのか。それはすまんな」


「返答軽っ」


 悟に構っていられないほどに瞬は内心焦っていた。今の悟の話が本当であったとするならば、瞬は無意識のままに保健室を出てトイレに向かったことになる。ついに僕の頭はおかしくなってしまったのか。その後悟から先程の片腕事件に関して話題を振られたが、自分には何も答えられなかった。

 十分ほど経ち、校内アナウンスが入った。


「えー皆さん、教頭の橋詰です。もう皆さんの耳には入っていることかと思いますが、先程中庭で人間の片腕と思われるものが発見されました。しかし落ち着いてください、あれは誰かの悪戯による精巧な模型でした。念のため警察には連絡をしていますが、今後危険性はないとして本日はこのまま授業を再開いたします。繰り返します、先程……」


 模型だって?悪趣味な悪戯をする奴がいたもんだ。最近は通り魔事件に続き、片腕模型事件かよ。どうなっているってんだよ全く。というか、授業は続けるんかい。瞬はイラついたが、悪戯ということに対してのイラつきだけではなかった。何か釈然とはしないが、求めていたものを取り逃した感覚であった。


「なあんだ。本物の片腕がこんなところにあるわけないもんな。つまんねえ」


 悟の不謹慎な言葉を合図に皆は自分の席に着いた。悟と同様の消化不良発言をしている者もいれば、模型とは判明しても気味悪がっている者もいた。まあ、だいたいこんな反応が一般的だろう。

間もなく担任が戻りその後は通常の時間が流れた。しかし、瞬は先程の片腕事件のことが頭から離れず、授業内容は一切頭に入らなかった。

 一日の学校が終わり瞬はいつも通り、姉と校門のすぐ外で落ち合った。時間は夕方。今日はこのまま帰ろうか、それともどこかに寄り道でもしようか。姉との有意義な時間の使い方を考えていると、姉から嬉しい提案があった。


「今日はなんだかもやもやする一件があったから、気分転換にこれから映画でも見に行かない?」


「映画?いまから?」


「あ、ご、ごめん。今から映画は非常識だよね……。あんなことがあったのに……」


「いやいや、そういうことじゃないよ。僕も行きたいってずっと思ってたから嬉しいよ」


「ほんと?嬉しい」


 姉はいつもよりも少し子供っぽく笑った。普段とのギャップの笑顔に僕の心はまた火傷しそうになる。姉の提案で女の子らしい、恋愛映画を見ることに決まった。姉と見れる映画なら何でも良かった。タイトルは「恋愛交差点」。……なんて少女漫画風のタイトルなんだ。

 意外にも二時間を超える長編映画であった。しかしながら、まあ面白かった。高校生の男女が両想いでありながらも素直になれず、すれ違う二人。何度も何度もお互いの気持ちを打ち明けるチャンスがあったのにもかかわらず、活かすことができない。そんなもやもやした展開が続くが、最後には主人公の男がヒロインを窮地から救い、自身の想いを打ち明ける。それに対して少しの沈黙の後、ヒロインの子は満面の笑顔で「世界で一番あなたを愛しています。付き合ってください」という一言が観客の胸を刺した。その瞬間がまさに恋愛交差点。会場の熱量が一気に上がったのを感じた。そしてその時姉が僕の右手を握ってくれたことに感動した。本当に良い映画であった。僕と姉にはお互いの気持ちがうまく交わることがあるのだろうか。そんな淡い願望を抱くとともに、タイトルを馬鹿にしてごめんなさい、とも思った。


「ふう。なんだか心温まる映画だったね。気分が晴々したね」


「うん。本当に面白かった。ああいう恋愛をしてみたいと思ったよ」


 言葉にしてはっと口を押えた。


「瞬ったらぁ。お姉ちゃんの前で照れることを言うねぇ。他に好きな子でもいるのかな?なんだか妬けちゃうな」


「い、いないよ。僕にはお姉ちゃんが……」


「え?」


「い、いや、何でも、ない」


 危ない危ない。つい映画に呼応して想いを打ち明けるところだった。でもいつかちゃんと姉に告白したいと思っている。映画を観て思った。観ている人の人生に何か影響を与えることができたなら、その作品はその人自身にとって良い映画であったと思う。


「ねえ、瞬。手を繋いで歩こうよ」


「うん」


 姉はなんだか楽しそうである。その姉の笑顔が僕の喜びである。


「はあ、なんだか今日はあったかいな」


 ふんふんふーんと鼻歌を交えて歩く姿は、なんだかいつもよりも子供っぽく見えた。姉のこんな姿を見ていると素直に可愛いと感じた。僕はいつまでもこの姿を見ながら生きていきたいと強く思った。

 映画館から少し歩いたところで赤が長めの信号にぶつかった。辺りはすっかり暗くなっている。いつもよりも赤信号の灯りが強く点灯して見える。先程までふわふわしていた姉だが、今は落ち着いて見える。すうっと横断歩道よりも先を見つめる姉の姿は、どこか遠い存在に見える。

 信号が点滅し、青に変わる。姉はちらっと自分の方に振り向き、笑顔を見せた。

 どくん。

姉は自分よりも少し先に一歩を踏み出した。

 瞬間、鼓膜を突き破るような轟音が鳴り響いた。目の前が激しい光で覆われる。

同時に鈍い音が目の前で弾けた。

真っ赤な滴が眼前に舞い上がる。

どくん。

 気付くと目の前で軽トラックが歪んだ状態で電柱に追突しているのが見えた。そしてトラックのボンネットには大量の真っ赤な、そう、おそらく血が付いていた。


「え、と、まさか、そ、そん、な」


 僕はゆっくりとトラックに近付こうとしたが、思うように歩くことができない。脳からの信号がうまく伝わらない。ついには足がもつれて転んでしまった。動悸が激しい。できれば目の前の現実を認識したくない。道路に蹲り(うずくま)、言葉にもならない声で叫んだ。もう僕の人生も終わった。何もかも。僕の希望はもうここで終わった。もう生きる力はない。

やがて周囲からサイレンの音が聞こえた。瞬はのそりと起き上がると、放心状態でトラックに近付いた。そして、瞬は現実を見た。

 びっしりと血が飛び散っている現場から、姉の姿は……。

消えていた。






 目が覚めると、見慣れた天井が迎えてくれた。しばらく眺めていると、はっと起き上がった。瞬は自宅のベッドにいた。なぜ自分がここにいるのか、あの夜の後どのようにしてベッドまで連れて来られたのか。思い出そうとしても思い出せない。


「確かあの後大量の血を見て……。お姉ちゃんが……し…ん」


 じわじわと昨日のあの悲劇の実感が湧いてきた。自分は今考えてみれば姉といる生活で、僕自身の人生は満たされていたと思う。僕の人生でありながら、姉を意識する人生であったと思う。本当に好きだった。いや、心から愛していた。その存在が目の前から消えてしまった。絶望というよりはむしろ、それさえも感じない虚無感が襲ってくる。もう二度と立ち直ることはできない。

 しかし、瞬はあることを思い出した。そういえば昨日のあの時、大量の血は確認した……。だが、姉の姿はどうだっただろうか?記憶を辿る。確か……、姿はなかった。いや、むしろ消えていたんだ。血痕が不自然に途切れていたように思える。いや、ショッキングな出来事であの瞬間はおかしくなっていたかもしれない。見間違えだったのかもし!ない。


「おはよう、瞬」


「おはよう」


 ……。ん?あれ?


「何してるの?早く起きなさい。一人で朝も起きられないの?」


 今、目の前に、昨日失ってしまったはずの姉が凛と立っていた。


「先に朝ごはん食べてるからね」


「は、はい」


 姉は部屋の扉を少しきつめに閉めた。

少しの間静寂が流れた。今のはまさしく姉であった。これまでと変わらない淑(しと)やか、淡(たん)麗(れい)、優(やさ)姿(すがた)。でも、どこかこれまでと異なるような。いや、違う違う、しっくりこない。そう、先程の姉は艶(あで)やかであった。昨日までの姉は高校生らしい可愛らしさを纏っていたが、先程の姉は大人びた様子であった。僕は寝すぎたのだろうか。それで不機嫌になっていたのだろうか。


「そんなことはいい。お姉ちゃんが生きてた」


 独りで笑った。今まででこれほどまでに笑ったことがあっただろうかって思えるくらい笑った。心の奥底から湧いてくる安堵。昨日の事故は何かの夢だったんだ。瞬はベッドから飛び起き、下のリビングに駆け足で階段を下りていった。



 ある日の夜のこと。

 一人の人間は光の少ない空間にいた。

 はあ、と深い溜息が地面に落とされる。ひどくがっかりした様子だ。

 まあいい。あとはこれしかないが、なんとか上手くやってくれるだろう。

 そう呟いて重い扉を開け、あるものを解放させた。

 解き放たれたものは、ちらりとこちらを見たが、すぐに飛び出して行った。もの凄い早さで離れていったが、放した者は確かに見た。放たれたものが笑っていたのを。




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あなたも灰を宿すのね 峰歌 @kenshow

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