第2話 僕の世界は姉でできている
1
ゆるやかな時間。小気味よい硬質音。深緑色の板に流れるように文字が記されていく。その度にまた固い音が鳴る。耳あたりは良好だ。周りのみんなはその音に合わせ、色とりどりのノートに文字を書き出す。学校の教室では当たり前の景色。そして今は国語の時間。教科書に載る様々な物語を読み解いていく時間。
読書は好きだ。しかし、やらされる読書は嫌いだ。読書への意欲が沸いた瞬間、興味を掻き立てられる物語を手に取り、最初のページを開く。続けて最初の文章を読む。これがたまらなく楽しいのである。登場人物が巻き起こすストーリー、現実よりも美化された表現で綴られる文章。それを一つ一つ吸収している時間が面白い。その主人公の生き様が面白い。
今の自分はそれに比べてどうだろうか。もしも今現在の自分を登場人物とした物語があるならば、きっとそれは退屈な文章からスタートしているに違いない。と、なぜか存在しない読者に申し訳ない気持ちになる。
「ここの内容はしっかりとノートに書いておくように。テストに出るかもしれないよー」
女教師はニヤッとしてこちら側を見る。一瞬目が合ったような気がして姿勢を正す。だが時すでに遅かった。女教師は完全に僕の姿を捕らえ、そして不敵に「今、話きいてた?」
と言わんばかりの視線を示す。しかし特に注意はされなかった。
「さて、そろそろ鐘が鳴るかな」
女教師がそう言った十秒後に見事鐘が鳴った。
「よし、鳴った」
教師は笑みを浮かべた。無事に授業が終わったことに教師自身が安堵しているようだ。そりゃそうだ。教師も僕ら生徒と同じ、人間だから。
「じゃあ六時間目の授業を終わります。礼」
ようやっと一日の授業が終わった。長かった。今日は十月七日、月曜日。一週間が始まったばかり。そんな一日の最後に国語をもってくるとはなかなか世知辛い。見事な時間割である。両手を上げ、ぐぐぐいっと背伸びをする。
教室の窓からはうっすらと赤く焼けた空が見えた。教室の中もその空によって赤く染め上げられる。
「おつかれさん、瞬」
唐突に後ろの席から声をかけてきたのは、運動神経抜群な村木悟(さとる)であった。僕こと矢切瞬の一番の親友といえるだろう。悟は僕よりも背が高く、体系もがっちりとしている。そしてサッカー部の主将である。顔はすこし濃いめで女子人気はまあまあであった
「俺さあ、今日部活休みなんよ。久しぶりに一緒に帰ってゲームでもしねぇか?」
「うーん、どうしようかな。いや、それは無理だ」
「なんだよ即答かよ。また断るのかよ。また愛しのお姉ちゃんかよ」
「そんなんじゃないよ。ていうか、こんなみんながいる中で、でかい声で言うなよ」
「へいへい。そりゃすんませんでした」
瞬は教室の時計を見て、時間がないことに気付いた。急いでリュックを背負うと、悟には簡単に別れのあいさつを済ませて教室を出た。階段を一段飛ばしで一階へ降りる。急いで玄関にて靴を履き替え、校門を目指して走った。走ることには自信があった。実は去年の冬まで自分もサッカー部に所属していた。しかし、やめた。理由はサッカーに集中できない、他に気になる事ができたからである。一言で言うならある違和感だ。
外に出ると体にひんやりとした空気が纏わりついた。季節は十月初旬。夏も終わり秋到来である。周囲の空気はそう感じさせた。
校門に着くと、一人の女生徒が校門脇の壁に寄りかかる体勢で立っているのが見えた。黒髪の誰よりも艶のあるロングヘアー、弱い風にもゆらゆらと揺れる柔らかい髪。両手をお腹の前で握り、ただ立っているだけで周囲の目を引くほどの、清純さと美しさを溢れさせていた。しかし同時に透き通った肌は透明感を際立たせ、そこに存在するのにどこか朧げな、そんな矛盾を生じさせていた。そして、この女生徒が前述した違和感の原因であった。
「ごめん、お姉ちゃん。遅くなっちゃって」
瞬は頭を下げて深々と謝罪した。すると頭に少しだけ冷たく、柔らかなものを感じた。
「瞬、顔上げて」
「う、うん」
瞬は言われて顔を上げた。姉は同時に僕の頭に置いていた手をどけた。息がかかりそうな位置に姉の顔があった。透き通るような肌に、整った顔の輪郭、少し厚めの唇。真っ白に揃った歯並び。すべての悪を浄化するほどの柔らかな笑顔。どくん、と心臓が大きく鼓動した。
「学校お疲れ様、瞬」
姉は優しく、そしてゆっくりと微笑みかけた。その表情に僕の顔は熱くなる。全身を巡る血液が、一気に体内で活発になり騒がしくなる。
「お、お姉ちゃんもお疲れ、さま」
僕は何とか返答を絞り出したが、変な話し方になってしまい勝手に落ち込んだ。
「うん。じゃあ帰ろうか」
姉は僕とは対照的に冷静に、静かに答えた。
(とくん、とくん)
「うん」
僕が短く答えると二人は歩き出した。校門を出てからすぐに長く緩い下り坂がある。その坂を下りていると、姉は僕の手を優しく握ってくれた。その刹那、周囲の音はしんと静まりかえり、先程まで吹いていた風も僕ら二人を避けて吹いているように感じられた。僕らの空間には何ものも入ってくることはできない。二人だけの特別な空間、時間。
(とくん、とくん)
交わした言葉は少ないが、僕の心は一気に満たされた。今日一日の穢れ、疲労、退屈だった時間すべてがどうでもよくなった。姉との時間にすべての意識を集中させたい。これから一緒に帰る道のりが心を躍らせた。
矢切燦(さんな)。僕の三つ年上の姉。僕は十四歳の中学二年生。姉は十七歳の高校二年生。
姉は確かに僕の姉なのだが、実は分かっていないことが多い。というのも僕には七歳よりも前の記憶がない。そして気付いた頃には僕の隣には姉がいた。つまり、僕が小さい頃に姉と一緒に遊んだ記憶がないのである。もちろん小学生になってから、姉と遊んだ記憶なら鮮明に残っている。
また姉とは学校の敷地内でほとんど顔を合わせる機会がない。それは当然、中学生と高校生だから校舎が異なり会うことは少ないのだが、この臥人(がと)市に構える「臥人真原中高学校」は、中学校と高校が一つの敷地の中に建てられているのである。そのため、中庭や食堂には中学生と高校生が入り乱れる状況となる。そのため実は姉が近くにいても、気付かなかった可能性もある。いや、そんなことはない。ないはずである。
中学生と高校生を見分けるには制服の色がポイントとなる。制服は中学生も高校生もブレザーではあるが、男子の場合、中学生は上着の首元からへそまでのボタンを締める部分にかけて、緑色のラインが入っている。対して高校生には青いラインが入っている。これがまた非常に見分けがつけづらい。それでは学年ごとの区別は?それは学年ごとに胸にある黄金の星の紋章が増えていくのである。僕は二年生であるから星は二つだ。そして女子に関してはリボンの色が高校生と中学生で異なる。色の区別は男子の場合と同様であり、学年の区別も男子同様に星の数で分けられる。
そのポイントを踏まえてみても、姉を構内で見かけたことはない。だから朝二人で帰りの待ち合わせ時間を決めてから登校するのである。もし時間に遅れることがあるなら、先に帰っても良いということにお互いに決めている。そのため時間ギリギリの場合は、置いて行かれないように急いで校門前に行かなくてはならない。
もちろん、この約束が少し変わっていることは自分でも分かっている。時間に遅れそうになったのなら、携帯に電話をすればいいじゃないかと思われるだろう。しかし姉も僕も携帯を持っていないのである。あったらいいなとは思うが、姉が必要としないため、僕にも必要ない。とりあえず、今は無事に時間に間に合い、こうして姉と一緒に帰ることができている。これが、僕にとって一日で最も幸福な時間だった。
「最近一段と寒くなったね。これはもう、一足早くマフラーの季節ね」
唐突に姉に話しかけられて、一瞬慌ててしまった。
「そ、そうだね。もう今すぐにでも首にかけたいよね、マフラー」
姉はこちらを見て微笑んだ。
「じゃあ、今からマフラー買いに行こうか」
「えっ。いいの?」
普段姉から買い物に誘うことがないせいか、慌てて意味不明な返答をしてしまった。いいの?って何だよ。気持ち悪がられるのではないかと不安になる。
しかし、その心配をよそに姉は、僕の手を握り「こっちに前から気になっている店があるの」と言って、優しく引っ張った。僕らは傍から見たら、付き合いたてのカップルに見えていることだろう。瞬は照れながら姉に連れられた。こんな姿を悟に見られたら、なんて言って茶化されるかわからない。
通学路の表記がある道のりを右に外れ、二人は狭い路地裏へと入った。学校からそれほど離れていない場所だが、こんな道があったとは今まで知らなかった。なぜ姉は知っているのだろう。すこし疑問に思ったが、心に留めておいた。
長めの道を抜けると、今度は下に長く続く石の階段が目の前に現れた。まさか今からここを下りるのだろうか。そう思っている間に、姉は僕の手を引っ張りその階段を下りだした。僕も姉に続いて階段を下りる。階段の両脇には草が生えており、顔に当たらないように歩くのが大変であった。それにしてもこの自然が露出した景色は、小学生の頃にやった探検ごっこを思い出させた。あれは好奇心を掻き立てられた遊びだったなぁと振り返っていると、やがて店らしき建物が視界に入ってきた。これが目的の店だろうか。
「ここね」
「こんなところに店があったんだね」
「うん。噂で聞いたことがあって、前から気になってたの。でもごめんね。けっこう歩かせてしまって」
「ううん。大丈夫だよ。全然疲れてないから」
「よかった」
改めて姉が来たかったという店を眺めてみた。弁柄色の屋根、柔らかなクリーム色をした外壁。その壁には所々に扇型の模様のような塗装が施されている。店の屋根には明朝体風の白文字で「BBan」と書いてあった。「ビビアン」と読むのだろうか。姉に尋ねようとしたが、なんとなく止めておいた。間違っていたらなんだか恥ずかしい。店舗の規模はそこまで大きくないが、小さくもない。また店の雰囲気は全体的に若者のファッションを多数取り入れてますよ、といった派手さもない。それなのに姉はなぜこの店に寄りたがっていたのだろうか。
店の前にある大きなショーウィンドウを覗くと、どうやら上質な洋服を取り扱っている店であるとわかった。高校生が立ち寄るにはまだ早いのではないかというほど、目の前のマネキンが身に着けている洋服は、大人の高級感を醸し出していた。
姉に連れられて店内に入ると、意外にも一人の男性店員の姿しか見受けられなかった。
「いらっしゃいませ」
低音をお腹の奥から響かせた、ダンディーな声であった。白髪と黒髪がほどよく混じり、縁のない控えめなデザインの眼鏡は、大人の上品さをより一層際立たせていた。下にはグレーのスラックス、上には白のワイシャツにブラックのベストを身に着けている。しっかりと大人な男性を演出している様は、なぜか僕の心を傷つけた。ちらっと姉の方を見たが、すでに目的のマフラーコーナーに直行しており僕はなぜか安堵した。
「瞬こっちに来て」
姉から声がかかると急いでその場へ向かった。
「瞬は何色がいい?」
言われて見てみると、目の前の棚には十種類ほどのマフラーが並べられていた。マフラーにこんなにも種類があるとは思わなかった。毛が柔らかく、撫でるとさわさわしてるもの、少し硬めの毛で覆われたしっかりした厚みがあるタイプのもの、一本一本の毛が長く高級感があるものなどなど。様々なマフラーを前にして悩んだ。どれが流行りなのか、世間のファッション事情に疎い僕にはわからなかった。
「どうしようかなぁ。悩むなぁ。どれも良いと思うけど、この赤いマフラーはどうかな」
言ってから姉の顔を見ると、すこし嬉しそうな表情をしていた。
「実はね、私もこれがいいと思った」
「え?ほんとに?」
僕もなんだか嬉しくなる。
「うん。少し深みのある赤がなんだか落ち着いて好きなの」
赤が好きだったのか。知らなかった。姉の好みの色を押さえていなかった自分を恥じたが、姉と意見が合ってよかった。
「瞬、こっち向いて」
「ん?」
振り向いた瞬間、姉は先程僕が選んだマフラーを首にまわしてきた。また心臓がどくんと鼓動する。
「うん、やっぱり似合うね。じゃあこれ二つ買おうね」
「え?同じやつにするの?」
「だめ?」
「い、いや、だめじゃないよ!むしろ嬉しいというか、その……なんていうか」
明らかな動揺を見せてしまった。さすがに変な奴と思われただろうか。
「瞬、かわいい」
「かわ……いい?」
唐突な言葉にまた戸惑ってしまった。
「うん。瞬は反応がいちいちかわいいね」
姉に言われて「そ、そうかな」と自分の鼻を掻いた。
「私は瞬とお揃いがいいの。いいでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ、これ買ってくるね」
「うん、ありがとう」
変な動揺を見せてしまったが、かわいいと言われて不思議な気持ちになった。僕のどこがかわいいんだか。自分には分からなかった。それでも姉とお揃いのマフラーを買えたことは、一生の思い出になる。身に着けるのがもったいないとも思えてくる。
支払いを済ませている姉を待っている間、店内をぐるっと見渡してみる。中に入ってみると以外にも広い店内でると分かった。また品物の数も多い。明らかに手の届かない壁にも洋服が掛けられている。今になって気付いたが、姉と僕以外にも他に三・四人はお客さんが入っていた。こんなにも品物があって、お客さんの応対も一人でやって、あの店員さんは大変だろうなと思った。だがそう考えて今度は不思議に思った。こんなに品数も揃えて、店内も広くそれで店員が一人。なんともおかしい設定ではないだろうか。しかしまあ、そんなことを自分が考えても仕方がないことである。何かしらの理由があるのかもしれない。勝手に納得していると、支払いを済ませた姉が戻ってきた。
「お待たせ。じゃあ帰ろうね」
「うん。後でお金は返すね」
「いいの。これは私が瞬に買ってあげたかったんだから」
(とくん、とくん)
「いいの?ありがとう」
鼓動が踊りだす。思いがけないサプライズなプレゼントに全身の血が倍速で巡る。
「どういたしまして」
これまでと変わらず微笑んでくれた。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
店を出る際に、例の店員は出口まで見送りに来てくれた。なんて真摯な対応だろうか。二人は会釈をして自動ドアを抜けた。店外に出ると外はすっかり夜の景色に変わっていた。あまり実感はないが、ある程度の時間を店内で過ごしていたらしい。姉と過ごす時間というのはいつも感じている時間の流れよりも、圧倒的な速さで過ぎていく。
瞬は携帯の時計を見た。デジタルの数字は十八時五十分を表示していた。
2
長い階段を上りきり、僕と姉は仲良く家に向かって歩いた。家に帰る道のりは街灯も少なく道も狭い。ちょこちょこ個人経営の商業店は見受けられるが、一九時ともなるとここの地域ではほとんどの店が閉まっていた。
僕と姉は少しくっついた状態で歩いた。姉は僕の腕に軽くしがみ付くようにして歩いている。姉の温かさがじわじわと体を蒸らした。同時に姉の胸が自分の腕に当たっている状況に緊張してもいた。
「暗いね」
姉の声が小さく耳に届いた。
「まだこの時間なのにね」
僕は辺りを見回して言った。
「あ、そういえばね、今日特別授業が私のクラスであったの」
「特別授業?」
姉の声色がこれまでと少し違っていることに気付いた。唐突に出た特別授業という単語に、僕は少し不穏な気配を感じる。
「どんな授業だったの?」
「まだはっきりこんな授業だったとは説明できないけれど、ある生物に関する授業だった」
「ある生物って、人間じゃない生き物?」
姉は一拍置いて答えた。
「先生の説明から普通の人間ではなかったと思う。確か灰脳類って言ってた」
「はいのうるい?」
「そう。灰色に脳みその脳で灰脳類」
「脳が灰色ってこと?」
「うん。そんなことを言ってた。なんで脳が灰色なのかは、直接授業を聞いたほうが分かると思う。担当は幕間先生」
幕間……。聞かない名の教師であった。特別講師なのであろうか。構内は広大な敷地であるため知らない教師がいても不思議ではないが。
「もしかしたら、瞬の学年でも近いうちにその授業があるかもしれないね」
「そうだね。なんだか不思議な授業だから気になるね」
姉と話していると、家の近くでよく見る看板が目に入った。中華料理屋の看板であった。息を吹きかければ消えてしまうくらい微かに灯る看板。これが見えたら家はもう目と鼻の先だ。今日もこの店は、創業何年目になるのか想像できないほどに寂れていた。そういえば日中も何度かこの店を見るが、営業している人の姿を見たことがない。営業しているのか、それともいないのか定かではないが、明かりがまだ点いているということは、しっかりと人は中にいるのだろう。しかし住民の期待に応える料理店として存在しているかというと、できていないのだろうと見て取れる。だが誰かに家の近くの目印はと聞かれた際には、あの中華料理屋の看板が目印だと説明できる。そんな感じで役に立っていた。
かれこれ三十分ほど歩き家に着いた。マフラーを買いに店に寄ったためいつもよりは家に着くのが遅くなった。しかし姉と特別な時間を過ごすことができたので良し。姉と時間を共有するとができるためなら、僕は……。
「おかえりぃ」
何か決め台詞を考えたが、浮かぶ前に玄関に入ってしまった。入ると、スリッパの音をパタパタと立てながら見送りに来てくれた。母であった。軽くウェーブのかかった黒髪。すらっとした体形、背は僕よりも一センチほど高い。そして例によってエプロン姿。周りの友達からは瞬の母親は美人だとよく言われるが、そんなことを言われても自分の母親だからか実感がない。
「今日は少し遅かったわね。どこかに寄ってたの?」
「瞬とマフラーを買ってたの」
「へえ、仲がいいのね。マフラーを買うなんて、なんだかカップルみたいじゃない?」
僕の方を見て母は、にやっと不敵な笑みを見せた。
「なに言ってるんだよ。そんなんじゃないよ」
そんなごまかしの例文のようなことを言いながら、僕は姉の方を見ることができなかった。もしも姉が不愉快な表情を浮かべていたなら、僕は立ち直れなくなるからだ。
「ちょっと歩いて疲れたから二階で休んでるね」
母親の余計な一言で姉は迷惑を被ったかもしれない。姉に嫌われるのだけは嫌だった。どうしかものかと悩んでいると、姉はそんな僕をよそにさっさと二階に上がって行ってしまった。はあ。深々と体内の空気をすべて吐き出したかのようなため息が出た。
「あ、そうだ瞬。町内の回覧板に載っていたんだけどね……」
母親はすっと真顔に戻って話し始めた。その変貌ぶりに瞬は一瞬戸惑った。
「最近この地域で、通り魔の被害が二件も起きているらしいのよ」
「通り魔だって?こんな平和な地域で?」
「そうなのよ。こんなことこれまでなかったのに……」
臥人市はこの県内でも治安が圧倒的に良い場所であった。そんな臥人市で通り魔なんて警察も市長も驚いているのではないだろうか。
「あなた達も気を付けてね。学校が終わったらなるべく早く帰ってくるのよ」
「わかった。基本的にはお姉ちゃんと二人で帰っているから、他の人よりは安心かもね」
「あなたはお姉ちゃんを守らないとね」
「もちろん」
とは言ってみたものの、実際に通り魔に出くわした場合、僕は姉を守ることができるのだろうか。正直自身はなかった。
僕はとりあえずリビングにいつも置いている部屋着に着替え、ソファでくつろいだ。何も起こらない三十分が経過したところで、「お姉ちゃん呼んできて。夕御飯にするから」との指令が入った。ありがとうございますと思ったが、口には出さず階段を上がり二階の姉の部屋に向かった。階段を上がる足音と心拍音が重なる。部屋の前に着くと少し緊張して扉をノックする。
「お姉ちゃん、ご飯だってよ」
……返事はない。二階に上がってからそれほど時間は経っていないため、寝ているということはないと思うがもう一度ノックをしてみる。やはり返事はない。先程通り魔被害の話を聞いたせいか不安な感覚が泡立ち、失礼ながらも勝手に扉を少し開けてみた。
部屋は暗かった。久しぶりに姉の部屋に入るが女子高生の部屋にしては殺風景である。床には一切の物がなく、きちんと片づけが行き届いていた。まあそもそも物自体が少ないのだが。部屋の電気は消えていたが、カーテンは開いており月明かりで仄かに室内は照らされていた。ふとベッドの方を見やると、そこに横たわる人影が見えた。一瞬驚いたがそれが姉であるとわかった。しかし見てすぐに目を覆った。
「これはまずい」
姉は仰向けで寝ていたが、制服のまま寝ておりスカートが大きくめくれ上がっていた。下着が少しだけ目に入る。瞬は慌てて部屋から出ようとしたが、若干室内が暗かったため、足を本棚にぶつけてしまった。
「いって……」
しまった。声が出てしまった。
「う……ん」
姉の声がした。
「誰?……瞬なの?」
慌てて扉まで走り、寸でのところで部屋から脱出することに成功した。まるでたった今部屋の扉を開けたかのように装う。
「そ、そうだよ。ごめんね寝てたのに」
「いいの。私、寝ちゃってたんだね。あ、なんかあったの?」
「あ、いや、夕飯できたよって……お母さんが」
「ああそういうことね。ありがとう。呼びに来てくれたんだね」
そう言って姉はぐぐっと背伸びをして起き上がった。
「あ、ごめんね。ちょっといい?」
「え?なに?」
僕は戸惑う。姉は少し頬を赤らめる。
「今から着替えるから、その、いいかな?」
僕はなんて空気が読めない男なんだ。姉に気を遣わせてしまった自分を恥じた。
「あっ、ご、ごめん。今閉めるね。下に行ってるから」
「うん。ありがとう、瞬」
心臓が盛んに脈を打っていた。それにしても夕飯を伝えるだけでこんなにも動揺してしまうとは。自分はなんてちっぽけな男なんだ。でも……。ちらっと姉の部屋の扉を振り返ると、階段を降りていった。心拍音と足音が重なる。今度は階段を上がるときよりも音が早い。二つの音が畳み掛けるように重なり合った。指揮者が会場を一気に盛り上げる。盛り上がりが最高潮に達したところで、僕はリビングの扉を開けた。
リビングに入った瞬間に、醤油の良い香りが鼻腔をくすぐった。この白米が進みそうな香りは……。ぶり大根だ。
「ちょうど出来上がったわよ。これテーブルに持っていってくれる?」
「了解」
台所に向かうと母親から料理を渡された。やはりぶり大根だ。それとサラダ。冷蔵庫からドリンク、マヨネーズなどを取り出しテーブルに持っていって置くと、違和感に気付いた。マヨネーズにいつものシールが貼ってないではないか。うちでは母さんが超の付くほど整頓好きで、家じゅうの物にしっかりと名前が打たれたシール(名札のようなもの)を貼っている。冷蔵庫に作り置きしている料理にも、ラップで包み名前シールを貼っている。
「母さんマヨネーズにシール貼ってないよ」
「あら?この前買った時にちゃんと貼ったんだけどな」
「貼っとくよ?」
「うん。いつものようにテプラで作って貼っといてくれる?」
「おっけー」
このように母さんによってきっちりと整理されているのである。なんでもきっちり名前付きで揃っている方が見栄えが良く、気持ちいいんだとか。
テレビから笑い声が飛び交う音が聞こえた。誰か芸人が気の利いた発言をしたのだろう。すると、番組は突然切り替わった。
「こんばんわ。二十一時のニュースをお伝えします。」
前の番組の快活な女性アナウンサーとはうって変わって、暗い表情の男性アナウンサーが画面に現れた。唇をきつく締め、瞳がいつも以上に黒く見える。決まってこういう場合は、これから視聴者側にとって暗いニュースが伝えられるのである。
「今朝十時頃、臥頭市内の※※※区の公園で人間のものと思われる遺体が発見されました。遺体は損傷が激しく、身元や死因が未だ判明されていない状況です。ある専門家の話によると、遺体の腐敗状況から見ると、おそらく昨日の深夜頃に殺害されたのではないかということです。今後詳しい情報が入り次第お伝えいたします」
これで三件目か。そして今のニュースで気になる点があった。冒頭の「人間のものと思われる遺体」という文言である。そのような表現はこれまでの人生で耳にしたことがなかった。人間かそれとも動物の遺体なのか、どちらか判断できないほどに遺体が損傷していたということになる。殺した犯人は一体どんな方法で殺害したというのだろうか。いや、もしかしたら殺したのは人間ではないのかもしれない。と現実離れした想像が頭を過る。
「ほんと最近嫌なニュースが続くわね。通り魔の事件とは関係あるのかしら。というか最近の通り魔事件とされているものも、ほんとうにただの通り魔の仕業なのかしら」
母親の言った疑問は確かにと自分も思う。何かこの臥頭市でおぞましい何者かが動き出したような気がする。この広大な世界で日本の臥頭市だけが、すっぽりと暗黒の空間に隔離されているような気持になった。そんなことを考えていると、後ろの扉が突然開く音がした。
「ごめん、寝ちゃってた」
「あら、おはよう燦。て、おはようはおかしいわね」
「じゃあ、こんばんわ?」
「それはそれで他人行儀じゃない」
くすくすとお互い笑い合った。なんだか見ていてほっとした。
「じゃあ夕飯にしましょう。今日は和食よ」
僕は心の中でガッツポーズを決めた。母親の作る和食は、塩分量がちょうどよく、このぶり大根に至っては白米がびっくりするぐらい進む。
三人は食卓の椅子に座ると、揃って「いただきます」のあいさつを済まして食べ始めた。少し食べてから瞬は疑問に思った。
「あれ?父さんは今日も遅いの?」
「遅いみたい。ちょっと前に電話があったから」
母親は少し残念そうに答えた。せっかく作った料理を是非とも父さんに食べてもらいたかっただろう。
「食べてくるのかな?」
味噌汁を啜りながら姉は言った。
「食べてくるって言ってた。もう、ほんとに何を食べてくるんだか」
少し呆れた調子で言った。母親にとっては自分が作る料理以外のものは、できれば夕飯時には食べてほしくないのだろう。ちらっと母親を見た。その瞬間、全身にぞろりと寒気が走った。母親はどこか遠くを見つめ、瞳が瞼に隠れるほどに睨んでいた。手は小刻みに震えていた。
「ま、そんなことはほっといて食べちゃいましょう」
瞬時にいつもの母親に戻ったが、瞬はこの時の母親の姿を就寝の時まで忘れられずにいた。夕飯を済ませ、自室のベッドに上がり目をつむると先程の映像が流れる。母さんと父さんはうまくいっていないのだろうか。心配でなかなか寝付けない。だが寝ないといけない。明日も学校があるんだ。瞬は部屋の電気を消し、布団を頭まですっぽりとかけると無理やり眠りについた。窓の外では救急車だろうか、消防車だろうか、サイレンが臥頭市の闇を呼び覚ますように鳴り響いている。
3
「昨日の午後十一時半頃、臥頭市内の歩道を歩いていた二十七歳の女性が、後ろから突然ハンマーのようなもので頭を殴られ、二十針以上も縫う重傷を負いました。たまたま近くを歩いていた男性が発見し、声をかけると犯人は逃走したそうです。外は街灯も少なく暗かったため、犯人の特徴は男性のような体格、黒い服を着用していたとしか分かっていません。近頃通り魔被害が続出しているため、夜道の一人歩きは出来るだけ控えてください。以上、午前七時のニュースでした」
また通り魔被害か。これで四件目か。瞬は朝から重苦しい気持ちになっていた。外の空も瞬の気持ちとリンクしたかのように、雨までとはいかないが今にも降り出しそうな天気だった。
ニュースを見ながら瞬は朝食をとっていた。トースト一枚の簡単な朝食である。そして通り魔被害のニュースが流れると、気付かないうちに手を止めて釘付けになっていた。姉は残念なことに友達と一緒に学校に行くため、すでに朝食を済ませて家を出ていた。母さんは昨日夜遅くまで父さんを待っていたため、まだ起きるのが辛いという。今朝心配で親の寝室を開けた際に母さんがそのように言っていた。隣では父親が普通に眠っていた。そして理由はよく分からないが、父さんは今日午後からの出社で問題ないという。ちなみに父さんは不動産会社勤務。母は午後からスーパーのパートである。
「行ってきます」
登校の準備を整え玄関で一人挨拶をする。まあ返事はなし。玄関の扉を開けると寒暖の差におののいた。寒い。先程までは暖かい屋内という極楽にいたせいで、外気に触れるのが痛寒くて辛い。瞬は決心を固め一歩外へ踏み出した。
瞬の家の周りには住居が少なく、車通りも多くはない。遊ぶような場所もない。しかし草木は周囲にたくさん咲いており、寒いのに強いなと感心するとともにこの場所がやっぱり好きだなと思う。人よりも自然が多いのは落ち着く。
少し歩いて、草木の間に無理やり作られたような道路に差し掛かった。瞬が家に着く時も出る時も必ず通る一本道であった。その道の左手側には、目印となる例の中華料理屋が見える。
十五分以上歩くと自然に溢れた風景が、建物が多い市街の街並みに変わる。ここまで来ると自分と同じ制服を着た生徒がたくさん目に入るようになる。同じ学校の生徒を見ると、なぜか安心する。自分はみんなと同じ空間に存在していることへの安堵。瞬は時々孤独感を感じることがある。よく自分は人と同じように生きるのは嫌だ、という人がいる。しかし瞬は、他人と同じように生きていることで安心感を得られるのである。
上り坂を上がっていくと、やがて校門が見えてきた。強面の先生が生徒たちの登校姿を見張っている。あいさつをする生徒もいれば、しない生徒もいる。しない生徒には何か注意しているようだ。ここからでは何を話しているのか聞こえないが。漫画のように竹刀を持っていないことだけは分かった。
ようやっと坂を上り切り、先生の忠告を躱(かわ)し校舎へ入った。靴を下駄箱に入れ上履きを履く。少し深呼吸して玄関から廊下に一歩踏み出す。今日はなぜか少し緊張している。自分でも理由はわからない。
「あら瞬君、おはよう」
「えっ」
唐突にあいさつをされ驚いてしまった。慌てて「おはようございます」と返し顔を上げる。見覚えのない顔であった。しかし生徒ではない。年齢は三十半ばくらいだろうか。端正な顔立ち、ポニーテール、柔らかな笑顔。なかなか魅力的な女性であった。グレーのスーツを着た、美人教師というところか。名前は知らないが。
「今日も勉強頑張ってね」
「あ、はい、頑張ります」
美人教師はにこっと微笑み、その場を去っていった。去り際にちらっと名前のプレートが見え、はっとした。そのプレートには「幕間」と記されてあった。
「さっそく幕間先生に会うとは……」
そう呟いてからあることに気が付いた。
どうして自分の名前を知っていたのだろうか。僕はあの先生のことを初めて知ったのに。先生だから立場上知っていただけなのだろうか。いやそうだとしても、そもそも全校生徒の前で紹介されていない。急遽この学校に来たために紹介する時間を作れなかったのだろうか。謎である。
二年生の教室に入ると、すでにクラスのほとんどの生徒が揃っていた。みんな登校がはやすぎる。朝のホームルームまであと十五分はある。ついでに悟も来ていた。
「おいす、瞬。昨日はお姉ちゃんとよろしく過ごしたのか?」
「なんだよよろしく過ごすって」
「いちゃいちゃしたのかってことだよ」
「朝から怒ってもいい?」
「冗談でーす。怒らないでくださーい」
調子の良い奴だ。朝から疲労を感じさせないでほしい。
「てかさ瞬。今日はなんか特別授業があるみたいだぜ」
「特別授業?まさか、幕間先生って人の?」
「なんで知ってるんだよ。瞬が教室に来る前に担任が来て、特別授業が今日あるって話していったから瞬は知らないと思ったのに」
「昨日姉から聞いてさ。女の先生だよ。しかもけっこう美人の」
「まじかよ。儲けもんじゃん」
そんなやり取りをしていると、校内アナウンスが入った。内容は中学生に向けてのアナウンスであった。今から体育館に集まってもらいたいということが伝えられた。その後すぐに教室に再度やってきた担任から同じことを言われた。
「今のアナウンスの通りです。特別授業の先生のあいさつがあります。すぐに廊下に並んでください」
他のクラスの生徒も、巣を荒らされた蟻のようにわらわらと教室から出てきた。瞬はさっそく昨日姉から言われた話が、現実化しようとしていることに驚いていた。
瞬の予想に反して、幕間先生の紹介は特に問題なく終わった。何か特別なあいさつがあるわけでもなく、当たり障りのない、可もなく不可もなくといったあいさつであったが、幕間先生の美貌には男子全員が盛り上がった。あいさつが終わった後、時計を見ると十分ほどしか経っていなかった。その十分のために中学生全員が五分かけて体育館に集合したのは、なんだか勿体ない気持ちになった。
幕間先生の話のあとに、校長先生が出てきて本日の授業スケジュールを生徒たちに伝えた。
「本日幕間先生の特別授業は、一組から順に行います。時間は通常の授業よりも長く、二コマにわたって行われます。休憩は一コマ目が終わってから取ってもらいます。ちなみに特別授業が行われていないクラスは、通常の授業になります」
ということであった。自分のクラスは三組であるから、五時間目からスタートということになる。だいぶ後半の方ではないか。きっと眠くなるだろうなと瞬は思った。今日も辛い一日になりそうだなと、ため息と共に肩を落とした。
4
四時間目の授業が終わった。いよいよ次の授業が幕間先生による特別授業である。
(確か灰脳類って言ってた)
昨夜の学校からの帰り道、姉が話していた言葉がふと頭を過る。知らないはずの単語だったが、なぜか嫌な感覚に囚われる。辺りを見渡すとクラスの皆はいつも以上に落ち着いて見えた。
「来た」
背後からの悟の声に瞬は驚いた。はっと教室の扉の方を見ると、静かに扉が開いていくのが見えた。ゆっくりとした歩みで教室へ入ってきた女性は、この授業の担当者である幕間先生であった。ふと心臓の鼓動が早くなる。
教室中がしんと静まり返る中、先生は教卓前に凛と立った。ゆっくりと頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げると、
「みなさん、本日はよろしくお願いします」
と透き通った声で話した。僕は先生の放つ繊細な空気感を受けて挨拶を返せなかった。
だがそれはクラスのみんなも同様であった。静寂な雰囲気の中、クラスの号令係が遅れてあいさつを返した。
「よ、よろしくお願いします」
それに続いてみんながあいさつを返した。エコーがかかったような、なんとも締まりのない挨拶となった。
「はい。それでは授業を始めます。まずは今から行う授業の趣旨をお話しします」
幕間先生は淡々と話し始めると、黒板の方を振り返り何かを書き始めた。みんなの六十個の瞳が黒板に注目する。黒板に書かれたのは、
「人間に利用された人間」
という何とも重いワードであった。その文言を目にした瞬間、心を締め付けられる思いがした。何故かはわからないが。また幕間先生が書く文字が、端正な文字であるがゆえに余計に釘付けにされた。
「人間に利用された人間。ここに書いた通り、過去に人間によって利用された挙句、命を落とした人間の話をしたいと思います。言ってしまえば人間の黒歴史の授業です」
今朝会った時とは別人であった。今朝あいさつした時の幕間先生は、もっと快活で愛想のいい感じであった。それが今目の前に立っている先生は、不気味に落ち着いた陰のある暗い表情をしている。
「今からする話は人間とはまた違った人間の話。脳に異常がある人間の歴史。今こうして私達が生活できているのは、その人間達の犠牲があったからなのです」
まっすぐに前を見つめて先生は話す。
「脳に異常とは?それはどんな人間なんですか?」
さっそくクラスで最も勉強家の丸眼鏡の女子、椎名さんが質問した。幕間先生の話すいわゆる「普通でない授業」にすでに興味を持っている。
「理性を排除し、抑えられている力を発揮できる脳を持った人間よ。私たち人間は脳が行う正しい情報処理、刺激の伝達によって理性を保てているの。また理性を保っているからこそ、普段発揮できる身体エネルギーには限界があるの。
でも、その脳に異常を持った人間は、簡単に脳のリミッターを外すことができました。それはもう、人間では絶対にありえないほどの力を発揮できたのです」
聞いていて引き込まれる内容であった。他のみんなも僕同様に聞き入っている。教室内はとても静かである。
「実際どれほどの力を出せたんですか」
椎名さんが質問する。
「そうですね……。握力だけで人の首を引きちぎれるほどです」
全身に鳥肌が立った。先程までとはまた違った静寂が流れる。
「脳のリミッターさえ外してしまえば、それはもう歩く兵器。その驚異的な力を買われ、その人間達は利用されたのです。」
先生は何かを思い出すように話している。
「では何に利用されたか、……それは戦争です。その驚異的な力は当時あらゆる武力行使として利用されました。そう、小さい戦争から大きい戦争まで。太平洋戦争にも利用されました。」
先生の語尾が少し強くなったような気がした。
「結果、日本は太平洋戦争で敗れ、今後二度と戦争を起こさないことを誓った。それによって、武力の化身でもある脳に異常がある人間は不要となった。生かしておいては危険である。ではどうするか。それなら………殺してしまおう、ということになったのです。」
幕間先生は笑みなのか無表情なのか分からない表情をした。
クラスで発言する者は誰もいない。物音さえしない。まるでこの空間にいるのは、自分と幕間先生の二人きりであるかのようだ。
「そして日本政府は軍隊を用いて、例の人間達を殺害しました。戦争は二度としないと言っておきながら、政府は大規模な殺戮を実行したのです。それから現在までに、ほぼすべての脳の異常者を殺害したのです。」
………ほぼ、すべて?
「ほぼすべてを、です。」
先生は二度強調して繰り返した。
「つまり現在、まだ生き残りがいるということです。」
クラスでどよめきが起こった。お互いがお互いを見つめ合っている。
「その生き残りは二人であるとされています。ちなみに異常者の見た目は普通の人間と見分けがつきません」
たった二人だけ生きている……。しかも危険な存在であるのにも拘らず普通の人間と見分けることができないという。その二人は今どこで、どのような気持ちで生活しているのだろうか。警察に追われる指名手配犯の気持ちだろうか。いや、それよりも重くて辛い心地でいるのではないだろうか。見つかったら殺されるのだから。
「そしてそんな危険な存在である、その人達のことを政府はこう呼んでいます。」
昨日姉から聞いた文言をふと思い出す。それは……。
「灰脳類」
先生は黒板の真ん中に大きな文字で書いた。恐いほどに荒々しい字で。そして生徒たちの方を振り返った。
「これで一コマ目の特別授業を終わります。」
そう言うと、終わりのあいさつをさせる間も与えずに、先生は教室から出て行った。
クラスのみんなはただ茫然と先生の背中を目で追った。そして授業終了を知らせるチャイムが学校中に鳴り響いた。
次の授業開始のチャイムが鳴った。しかし幕間先生はやって来ない。クラスのみんなは先程の授業の圧によって緊張を強いられた。普段は賑々しい教室も静寂に包まれている。時計の秒針の動く音が、はっきりと耳に聞こえる。すると、教室の扉が開いた。
「遅れてしまってすみません。二コマ目の特別授業を始めます。」
以外にも先生からは、先程まで纏っていた重苦しい空気は感じられなかった。
「それでは灰脳類に関してより詳しく説明していきたいと思います。灰脳類とは脳の表面を覆う大脳新皮質に異常が発生している人間です。この部分は健常者の脳の場合、灰白色をしています。しかし、灰脳類ではこの部分は非常に濃い灰色をしています。人間の感情や、正しい情報処理など人間として生きるために必要な、いわば制限機能に異常をきたしているのです。そのため、火事場の馬鹿力のような普段は出せない力を制限なく出すことができるのです。そしてその力を灰脳類は、自由に出したり、抑えたりすることが出来る種族なのです。」
「先生。自分が聞いた話だと、確か限界を超えた力を出すと、人間は体が壊れてしまうんじゃないですか?」
今度は野球部の池田君が質問した。それなら僕も聞いたことがある。というか多くの人が聞いたことがあると思う。
「灰脳類は意図的に脳信号を操り、筋組織を異常に高めることが出来る者もいると聞きます。つまり、個人差はありますが、体を壊すこともなく異常な力を発揮できるのです。」
なんと恐ろしい存在であろうか。そんな者に道端で出くわしでもしたら、一体誰に助けを求めればよいのだろうか。もし幕間先生が話していることが本当なら、きっと警察でも太刀打ちできないだろう。戦争に利用される兵器に警察が敵うわけない。それこそ同じような力を持つ者にしか殺せないのではないだろうか。なんだか漫画みたいな話だ。
「灰脳類を見分けることができないと言いましたが、過去に戦争に利用された際にはどうやってこの人達は灰脳類だと見分けたのですか?やはり脳を検査したのでしょうか?」
椎名さんが質問した。
「なかなか良い質問ね。確かに脳を検査すれば灰脳類だと分かるでしょう。しかし、いちいち脳を検査していたのでは膨大な時間とお金がかかってしまいます。そこで過去にもっと簡単に見分ける方法がないのか研究がなされました。それによってあることが二点わかりました」
先生はみんなの顔を見回して言った。その時自分と一瞬目が合ったような気がした。
「まずは目の色が赤くなる点です。うーん、赤というよりはオレンジ色に近いのかな。力を発揮するとオレンジ色に瞳が変色することが発見されたのです。これは分かりやすい特徴ですが、力を発揮していない間は瞳の色が変わらないという問題点があります。
ではもう一点は何か。それは……」
先生が答えを言おうとしたその時、突然校内アナウンスが入った。
「たった今、学校近くで通り魔被害の情報が警察より入りました。各担任の皆さんは直ちに生徒達を速やかに誘導し、校庭に避難させてください。繰り返します……」
こんな時間帯に通り魔被害が出るとは誰もが思ってもみなかったことである。しかも学校近くでなんて。
「おいおい、なんだかやばいことになったんじゃないのか」
悟が不謹慎にニヤついて話しかけてきた。
「何楽しんでるんだよ。早く非難しないと」
僕は姉のことで頭がいっぱいになった。きっと怯えているに違いない。そう思いふと教卓を見ると、幕間先生がいつの間にかいなくなっていることに気付いた。
「あれ、幕間先生は?」
同時に椎名さんの声が聞こえた。みんなが幕間先生の消失に気付いた。
「あ」
さらに池田君が何かに気付いた。
「みんな、黒板見て……」
そこには異常なほどに整った文字で、ある四文字が書かれていた。
色覚異常
ぞわりとした。そういえば、幕間先生が答えを言おうとした時にアナウンスに阻まれたのであった。ではこれが先程の答えだというのだろうか?灰脳類には色覚異常があると。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます