魔王さま、悪に徹して

枕木きのこ

魔王さま、悪に徹して

「おお、お前は百年待ちわびた神の子だ」


 ——古い記憶をさかのぼってみるに、僕は生まれた時から「選ばれた人間」だった。

 

 東の国に住まう魔物の軍勢を倒す——と、誰が言い出したものか、左肩に稲穂の紋章に似た痣を持つ子どもが長年僕たちの国では待たれていた。その紋章を携えた子は悪を挫き、世界を統一し、永劫の安寧をもたらすと、言い伝えられていた。


 それが僕だった。


 幼子の僕は、剣術を習い、肉体を鍛える一方、東の国の魔物たちのその悪しき所業をとにかく頭に詰め込まれ、こちら、西の国の憎しみを全身くまなく刻み付けられて育った。

 齢十五を超えるころには歳近い子どもたちを率い、東寄りの森へ魔物退治の命を受けることもあった。


「奴らは言語を操る。言葉に騙されてはいけない」


 僕の住む村の長は、顔を合わせるたびにそう言った。週に一度のお祈りの日、部下——友人たちが広場で焚火を囲み踊っているのを視界の端に、僕だけが訥々とした村長の話を聞かされ続けていた。まるで今これが騙されているみたいだ、と思っていても、そんなことをおくびにも出さないように、もちろんあくびも出さないように、ただただひたすらに耐え続けた。


 その村長が死んだ年、東の国がついに均衡を破って攻め入った。幼いころ、必死になってかき分けたあの森を、木々をなぎ倒し、蜘蛛の子を散らすように雄たけびを上げ、容易く侵攻し、——まず絶やされたのは、ここからほど近い小さな村だった。

 当然、僕たちの村に一報が入るころには、周囲の目は、期待するように、あるいは憐れむように、僕を見ていた。


「勇者」

「勇者よ」

「勇者よ立ち上がれ」


 呪文を唱えるように、人々の口が言う。そこにはもはや意志も感じられなかった。

 

 旅立ちの日、父は僕に一言だけ言った。農夫らしい武骨で大きな手を肩に置き、

「死ぬな」

 空いた手で僕の胸を強く叩いた。



 ——部下を従え、いくつかの年を超えた。自分の年齢が今どれほどかを気にする余裕もないほどの、戦いの日々だった。連れてきた数十の内、半分ほどは疲弊し、死んでいった。

 僕だけが生きながらえている。それが選ばれた故にであるのかは、もはや誰もわからない。わからないのに、僕はただ、目立つ痣があるだけで、最後の砦として、彼らの精神の中心にいなければならなかった。


 それはひどい重圧だった。

 誰も言葉にはしないのに、頼られているのがわかる。僕だけを生かそうとしているのがわかる。

 ——僕が魔王を殺さなければならないのが、よくわかる。


 魔王城に着いたとき、僕の後ろには三人しかいなかった。国との連絡手段もなく、増員を頼めるわけもない。ましてやすごすごと帰れるわけもなかった。


「ここは私に任せて」


 魔法使いのジュニは、二本角のヴァンパイアとの死闘に身を投じた。


「いいから先に行け!」


 武闘家のメイヤーは、レンガ造りのゴーレムの拳を抑えて叫ぶ。


「おねがい、世界を救って——」


 巫女のマコは、城外から現れたドラゴンの鉤爪に攫われていった。



 重厚な扉を開くと、玉座に一人の男が座っている。

 ——二本の角もなく、巨体でもない、恐ろしさのかけらもない、ただの男だった。


「やあ」


 男は、構えた僕に向けて、柔和な笑みを投げた。間は数歩分。彼が立ち上がり、こちらの切っ先を避けることはほぼ不可能——なはずなのに、気圧されたわけでもなく、また、拍子抜けしたわけでもないのに、僕は近づくことができなかった。


 男はそれきり、何も語らなかった。

 僕は次第に、剣を握る手の力が、落ちていくのがわかった。ジュニの叫び声が、ゴーレムの落とす拳の音が、旋回する風の音が——すっと耳に入らなくなっていく。


「私を殺しに来たのだろう」


 いくらかの沈黙の後、魔王は言った。抗いもせず、静かに。凪を思わせる、やわらかい声音だ。

 ——奴らは言語を操る。言葉に騙されてはいけない。

 ずいぶんと昔に聞いた村長の言葉が、頭の底から掘り起こされる。ここまでの疲労感が、この声音だけで救われてしまいそうな錯覚を、何とか振り払う。


「構わない。殺してくれ」


 魔王は続ける。まるで僕の頭の中を覗き込んでいるのかと思われるほど、優しい言い方をする。

 ついに剣先は地を向いた。


「ここまでの旅路、ご苦労だった。国は衰え、仲間は死に——さぞかし、私が憎かろう。私はもう疲れ果てた。君を待っていたのだ。どうか勇者よ、私を殺すがいい」


「——魔王さま!」


 小さき鬼が玉座のわきから飛び出してくる。


「いけません魔王さま! 奴らを殺さなければ真の平和は訪れませぬ!」


「構わぬ。平和など、虚構だ。まやかしなのだ。——これは私の起こした争い。私の正義は、世の理屈に反した。それだけのことではあるまいか」


 ——これでは、斬れない。

 ——僕はこの男を、斬れようはずもない。


 いっそのこと、世界征服以外の何をも構わぬ者でいてほしかった。

 悪は悪らしく、悪として眼前に現れるべきだ。そうでなければ、——そうでなければ剣は向けられない。

 もちろん、やつの言うとおり、多くの仲間を失った。恨みもある。憎しみもある。

 しかし。

 しかし、その柔和な笑みで、穏やかな声音で、——殺せと言われて、そうですかと殺せるわけがない。


 その時、ステンドグラスを突き破ってマコが部屋に転がってきた。白を基調としていた彼女の様相は、今や真っ赤に染まっている。頬に大きな傷ができている。息はしているが、——永くはないだろう。


 ——マコ。

 同じ村で育ち、「選ばれた子」ではなく「幼馴染」として唯一接してくれた彼女を、僕は心の底から愛していた。長い旅のさなか、何度も互いを励ましあった。目と目を合わせ、言わずとも交わった愛情は——、もちろん今もある。

 心中がどす黒い感情に支配されていくのはよくわかる。よくわかったが、剣を振り上げることができない。

 ——勇気が出ない。

 本当にこの男を殺すことが「正義」なのか。

 その確信が持てない。


 ただ、勇者だともてはやされて、国の抱える暗部を一心に背負わされて、僕はこの男を憎むべく育てられた、ただの小童なのだ。神話のごとき語り草こそ、まやかしなのだ。

 僕は彼のことが、同じもののように思えて——


「何している! 殺せ!」


 背後から、メイヤーの声が聞こえた。右足が一切ない。血を噴き出し、今にも倒れる寸前だ。


「殺して!」


 ジュニの腹部には、突き抜けたままの角が、未だ血を滴らせている。


「殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」




 ■


「そうだ勇者よ。それが正解だ」


 血が混じって声を出しづらい。

 眼前の若い男は、今にも気を失ってしまいそうなほど、情けない顔をしていた。


 長い回想は——、走馬燈という奴だろうか。

 ——きっとあの時の僕も同じ顔をしていたことだろう。


 ふらつく足のまま後ずさりをした彼を、仲間たちが支える。


 よもやとどめを刺す度胸がなくなったわけではあるまいが、彼はもう剣を落としてしまった。彼の仲間たちも、憐みの目を僕に向けている。


 ——そうか。理解したか。

 ——すべては繰り返しであることに。

 ——平和の下には、いくつもの犠牲があることに。


 ならば多くを語ることはあるまい。

 

 僕は最後の力を振り絞って、——あの日見た魔王の、あの笑顔を真似して——、彼らに笑みを向けた。




「新たな魔王よ。——悪に徹することだ」



 ——それがお前の、唯一の平和なのだ。

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