第3話 chilling

 あれはまだロボットとしての私のバッテリーが今より長持ちしていましたから、確かお嬢様が高校生の頃だったでしょうか。


 その夜、ご夫婦は寝静まっていらっしゃいました。虫の鳴き声がして、人間にとっては暑くもなく寒くもない、過ごしやすい季節のことでした。不意にマンションのベランダの窓が開いて閉まる音がしました。人間の聴覚では聞き取れないくらい微かですが、私の機械の耳はそれを逃しませんでした。


 私がそろそろと近づくと、ベランダの柵の外側に後ろ手でしがみつき、足をヘリに乗せてぼうぜんと立っているお嬢様が視界に飛び込んで参りました。あまりの突然さに声も出ませんでした。数分の間、真下に広がるマンションの庭を見つめた後、彼女は顔を夜空へと向けました。満天の星がお嬢様を照らします。私は、お嬢様とその向こう側の天の川をしばらくずっと見ていました。というよりも目が離せませんでした。どれほどの時間が流れたでしょうか。やがてお嬢様は器用に柵を越えるとベランダの中へ猫のようなしなやかさで戻り、ぼうっとした表情でご自分の部屋へ入られました。


 何事もなかったかのように日の出を迎えるまで夜の帳は閉じたままじっとしていました。


 あの時の能面みたいに張り付いたまま動かないお嬢様の表情が、今でもメモリーの奥にこびりついて離れないのです。あれは何だったのでしょうか。何がしたかったのでしょうか。未だに怖くて聞けません。聞けませんが、おそらくは彼女なりの救命信号を遠いどこかへ送っていたのではないかと感じます。


 相変わらず最近はこんこんと眠り続けています。お嬢様にとって1日は24時間にも48時間にも、あるいは永遠にすらなり得るのでしょうか。それとも受験に失敗して傷ついたあの日からお嬢様の時間は止まってしまったのかもしれません。


 これほどまでお側にいながら、どうしてそんなことにも気づいて差し上げられなかったのでしょうか。


 お嬢様が大学の卒業を控えた頃、世界は未曾有の大恐慌時代に突入していました。空前の就職氷河期のなかでも夢を描いて就職活動に励まれていましたが、受けても受けても不採用のオンパレード。悲しい通知が届くたびにお嬢様の心は儚く虚しく砕け散るばかりでした。フリーター時代もバイト先のお局様の社員にいじめられるなど波瀾万丈でした。その頃の我が家は重く暗い空気に占領され、ご夫婦に就職が決まらなくて叱責されるたび声も立てずに咽び泣くお嬢様のお背中をそっとさするのが私の役目でありました。


 それでも、お嬢様は憧れのある方と一緒にお仕事をするために日夜奮闘し続けました。それはある著名な芸術家の方で、その方が手がけた作品を紹介する本を自分の手で出版することが彼女の夢でした。一時は完全に身を引いて学校の先生になるための勉強もしましたが、心の隅っこでは諦めていなかったようです。


 そんな中で100社目の面接を経て、ようやく芸術関係の雑誌を発行するちいさな会社とのご縁がございました。彼女は念願だった芸術家の方へ何度か企画書を送りますが、タイミングや企画の方向性などが合わず、なかなかスムーズに事は運びません。それでも「いつかは実現してみせる」と思うことで仕事に打ち込み、ようやく手にした職場で充実した日々を送られていました。


 もう少しで勤続3年目を迎える直前だったある日、お嬢様は社長から無情にも会社の経営不振を理由とした雇い止めを言い渡されます。お嬢様が退職されて間もなく、その会社は潰れてしまいました。経営陣が会社のお金を持ち逃げしたとか、ある上司の愛人が業務中に刃物を持って乗り込んできたとか、その上司の他の愛人が社内にいて愛人同士が鉢合せとなり殺傷事件にもつれ込んだとか、嘘か真か分からない話がたくさんありましたが、辞めてしまった後のことなのでお嬢様には真偽の程など確かめようもございませんでした。


 しっかりとしたキャリアがついても不器用で要領の悪いお嬢様は、ツテを頼るもなかなか思うように次のステップへと繋げることができず、忸怩たる思いで無為の日々を過ごす毎日。隣で見ている者としても、とても歯がゆいものでした。やがてお嬢様が1日のうち寝て過ごす時間は増えていきました。起きていれば最悪なことばかりが頭をよぎるからです。約束を破ると罰金が発生するなど、よほどの理由がない限りお家の外へも出なくなりました。お腹が空いてもご夫婦との会話が怖いせいか、なかなかリビングへお越し下さいません。よって、私がお嬢様のお部屋までお料理をお運びするようになりました。それでも口をつけない日もあり、大いにご夫婦や私をやきもきさせるのでした。


 お嬢様は、周囲の知り合いは新しく家庭を得て次のライフステージへと進んでいくのに、ご自分だけは同じ場所をいつまでもぐるぐる回っている気がしていました。そんな心境を気軽に吐き出せる友達もいないのです。その現実がますますお嬢様を打ちのめしました。起きては泣いて寝ては泣いて、どのタイミングで人生をやり直したらいいのかを夢の中で模索するほどに追い詰められていました。思えば、幼い頃から塾漬けの日々で頑張ることをずっと強いられてきたお嬢様でしたから、ここに来て何かがプッツリと切れてしまったのかもしれません。頑張りたくない。無理したくない。我慢したくない。この3つが口癖となり、夢遊病患者のように延々と唱え続けているのです。再び立ちあがる気力がまだ湧いてこないのでしょう。それまではゆっくり寝て、人生の踊り場で少しお休みされてもいいのかもしれません。


 私のようなロボットは楽天的な思考でプログラムされているので、どうせ将来性のない会社にいつまでもいるよりさっさと見限って新しい会社で働く方が、より早く芸術家の方と一緒にお仕事ができるかもしれないのに、と考えるのです。生きていれば想像もしてなかったようなステキな出会いもあるかもしれません。ですが、お嬢様のお気持ちもロボットなりに分かります。これまで誰より努力しても報われることが少なく、傷ついてばかりの人生を歩んでこられたのですからね。「どうせまた頑張っても無駄」「ショックを受けて傷つくのは嫌」と、何か物事をやる前から悪い記憶が蘇ってきてしまうのでしょう。すっかり臆病になって新たな一歩を踏み出すことができないのです。そして、それはお嬢様だけに限らず、人間には多かれ少なかれそういった性質があるのだということも存じております。私たちロボットは、失敗や嫌な経験は忘れてしまいます。メモリーの容量が少ないからというのもありますが、覚えていても意味のないことは消去されるように効率重視で設計されているからです。裏を返せば、失敗や嫌な経験をいちいち忘れないでいる人間の心は、記憶に惑わされる非効率的なことも時にはありますが、その分だけ奥行きがあって豊かなのでしょうね。


 それは例年になく暖冬で、東京に初雪が降った日でした。私は彼女の温かい部屋におりました。大きな窓際のベッドでお嬢様はお眠りになられていました。お布団を掛け直して差し上げた時の、穏やかな表情を浮かべて眠るお嬢様はとても綺麗でした。彼女を苦しめる全ての悩みから解放され、まるでマリア様のように美しいと思いました。お嬢様は、ついにタマネギの形をした教会を見ることができたのでしょうか。きっと隣には華やかな青のドレスに身を包んだ貴婦人のお友達がいらっしゃることでしょう。一緒にお喋りでも楽しまれているのでしょうか。きっと今は自由に好きなことを何でもなさっていますよね。私はお嬢様の手にそっと自分のアームを添えました。掠れ行く視界の端でとらえたのは、まっさらな白い雪。窓の形に切り取られた泡沫の世界へ、私はゆっくりと旅立っていくのを感じていました。

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小説 ロボットの話 It was a story of dark and quiet nights. 66号線 @Lily_Ripple3373

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