安城理沙-5
長谷神家は私の家から二駅離れた住宅街の中にあった。
長谷神とは不釣り合いな、白く清潔感のある二階建ての一軒家。
この家を見上げるのは今日で三度目だ。
一度目は迷ってしまい、日が暮れてから辿り着いたので接触は諦めた。
だって長谷神と鉢合わせてしまう可能性が高い。
二度目は明るいうちに着いたものの怖気づいてしまい、二・三回家の前を通り過ぎただけで帰った。
二度の失敗から、別の方法を考えようかと悩んだが、結局また来てしまった。
悩んではみたが一度コレと決めてしまうとソレが唯一のものだと思ってしまう。
深呼吸をしてから門柱を越え、直線上にある玄関の扉まで歩く。
豪邸ではないので数歩程度で玄関の前までやってこれる距離なのに、私は何故か
「やっと着いた」
と声を漏らしていた。
無意識に出た心の声だ。
まぁ確かに、やっと着いたのだ。
三年の時を経て、やっと。
寒くもないのに足が震える。
久しぶりに味わう緊張というやつかも。
そのせいか、目と鼻の先にあるインターフォンに手が伸ばせない。
そんな状態でしばらく躊躇っていると
扉の向こうから棚を閉めたような重い音が微かに届いた。
途端に脳の血液が足の裏まで一気に下降する。
緊張は恐怖に変わっていた。
すぐに踵を返し走り出そうとしたが
逃げ出したい気持ちが先走ってしまい、つま先を折って地面を踏みつけると
私はそのまま門柱の手前まで飛んだ。
着地と同時に膝から崩れたが、今度はそれをバネにして勢いよく敷地から脱出した。
咄嗟の動きだったからなのか、それとも運動不足が祟ったか、足の筋に痛みを感じて門柱のすぐそばの塀に背中を預ける。
今日はもうやめて帰ろうかと少し思った。
玄関まで行けただけ進歩だし、インターフォンを押すのは次の私に任せてしまおうかと。
そう考えると、今日を逃したらもう二度とここへは来ないような気がした。
この緊張感を達成と錯覚して、自分は立ち向かったと満足してしまうのではないか。
それは自分の中では進んだ気になれても、現実は何も変わっていない。
それじゃ駄目だ。
失われた時間の代償をそんなことで補ってはいけない。
鼻から流れ込んできた空気をわざとらしく飲み込む。未だ消え失せてはいない緊張感を重い荷物のように抱え、塀から背中を離そうとした時だった。
左耳に金属の擦れる音が一瞬だけ響いた。
それは自転車のブレーキを握った音だと認識しながら、音のした方へ顔を向ける。
そこでは、長谷神家から出てきたであろう女の人が、自転車に跨りながら私を凝視していた。
顔がガーゼマスクに覆われているせいで表情を読み取ることはできないけれど
発せられている雰囲気から私を訝しんでいることが読み取れた。
彼女が乗っている自転車の後輪付近が、門柱からゆっくりと出てくる。
何を言われるのだろう。
腹筋に力を込めて相手の出方を伺った。
恐らく、いや間違いなく、このマスクの女が長谷神の嫁だろう。
若く見えるが娘のわけがないので、きっとそうだ。
長谷神の嫁が足で地面を弱く蹴りつけて門から道路に出てくる。
あなたは誰? と聞かれるか。
ここで何をしているのかを聞かれるか。
予想を立て、それについての返答を用意して見つめていると、繋がっていた視線の糸が突然ブチリと切られた。
長谷神の嫁は関心を失ったかのように目線を通りの先へ移すと、ペダルを踏み込んで私の前を通り去っていった。
しばらく消えていく後ろ姿から目が離せずにいた。
置いていかれたような感情を抱いて、なんだか寂しい気持ちになる。
そういえば休みがちだった小学校時代、久しぶりに教室へ行って仲の良かった同級生に話しかけた時、今と同じ気持ちが生まれた気がする。
他人に存在を認めてもらえない辛さ。
寺丸の言っていたことが、改めて胸に突き刺さる。
やはり、長谷神にも同じ思いをしてもらはなければならない。
そう着地すると、さっきまでは強張っていた全身の筋肉が柔らかくなり、今度はリラックスするように塀に体重を預けた。
やっぱり帰らなくてよかった。
今日でなければならないのだ。
長谷神の嫁の恰好を見た限り、そんなに長く外出するつもりではないと思う。
使い古したエコバッグがカゴの中で潰れていたので、きっと買い物に出ただけだ。
それならここで待つことにする。
その間に言うべきことを、言い回しから語尾まで決めて、台詞のように覚えておこう。
あの女を精神的に威圧する言葉を選んでおく。その方がいいはず。
自分の旦那がしたことを知れば、まともなら私に強い態度で接することはできないだろうし。
そして小娘に上から威圧された悔しさは相対的に生まれるはず。
その悔しさからくる怒りは、原因を作った長谷神に向くことは確実だ。
始まる。
遂に奴の転落が始まってくれる。
あの太陽みたい、消えてしまえばいい。
儚きレムの中 五十嵐文之丞 @ayanojo
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