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「高岡さんは興信所を使って、婚約者の浮気相手……清水沙智のことも徹底的に調べ上げた。もちろん、その人に彼氏がいたことも、ね。でもその時点では、彼女はあなたの名前しか知らなかった。だけど……あなたは医王山で、彼女を助けたんだってね。彼女はね、あの時、婚約破棄が成立したばかりで抜け殻のようになっていたの。このまま山の中で死んでしまってもいい、とすら思っていたらしい」


 ああ。それであの時、訳アリ臭がぷんぷんとしてたのか。


「だけど彼女はあなたに助けられた。でも名前は分からなかった。どうしてもお礼がしたかった彼女は興信所に頼んでナンバーから車の所有者を調べさせたの。もう馴染みだから格安でね。そして……それが例の清水沙智の彼氏だと分かった時、彼女は驚きながらも運命的なものを感じたらしいわ。それで、どうしても会いたくてあなたのところに押しかけたの。そこから先は、あなたの知っている通りよ」


 ……。


「『同じ傷を抱えたもの同士だから、私はあの人のことが分かってあげられるし、あの人も私のことを分かってくれる。だから、あの人が私にとってベストのパートナーだった。だけど……もうどうにもならない』って、彼女は泣いてたわ。ね、長坂さん。彼女はあなたを裏切ったりしてなんかない。全て誤解なの。悪いのは全てこのわたし……だから、できればもう一度彼女と……やり直してもらえないでしょうか。この通りです」


 そう言って、桜田さんはまたも深々と頭を下げた。


 ---


 数時間後。


 俺は自宅のベッドに転がり、今日の出来事を反芻していた。


 桜田さんには「少し考えさせてください」と言って引き取ってもらったが、正直、どうしたらいいのか、よく分からない。


 一応SNSで検索して、例の御曹司と桜田さんの素性は確認した。名刺の通りだった。となると、どうも俺が誤解しているのは本当のようだ。高岡さんが上司まで使ってこれだけ手の込んだでっち上げをするとも思えない。


 しかし……


 彼女とやり直す、となると、また裏切られる不安に常にさいなまれることになる。それに、彼女は俺の過去を知っていることを隠していた。ある意味俺を騙していたのだ。そんな彼女をまた信じることができるのか?


 だけど。


 目を閉じると、彼女の笑顔が浮かんでくる。もう一度会いたい。そう思っている自分に気づく。


 ……。


 結局、凍り付いていたはずの俺の心は、彼女のぬくもりによって随分解かされてしまっていたらしい。そして、氷が解ける過程はエントロピーが増大する方向であり、不可逆だ。


 そう。一度ぬくもりを知ってしまったら、知らなかった昔には戻れない。


 気がつくと俺は、スマホを取りだして電話帳で彼女の名前を検索すると、通話ボタンを押していた。

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不可逆過程 Phantom Cat @pxl12160

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