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「本当にすみませんでした!」
桜田さんは五十歳くらいの、ややふっくらした女性だった。待ち合わせの喫茶店。名刺を見ると、高岡さんの部署の部長に当たる人のようだ。桜田さんはテーブルの向こうで頭を下げっぱなしだった。
「ええと……頭を上げてください。どういうことなのか、説明してもらえますか?」
彼女の話はこうだった。
婚約者が浮気しているようなフシがある、という相談を高岡さんから持ちかけられたのが、今年の九月頃だった。それで、彼女は彼女自身の離婚の際に使った興信所を紹介した。調査の結果真っ黒だったことが分かり、高岡さんは婚約破棄、(元)婚約者と浮気相手に対して慰謝料を請求した。と言っても微々たるものだったらしいが。
しばらく高岡さんは落ち込んでいたようだが、最近は随分笑顔を取り戻してきていた。そんな時、取引先の会社の御曹司が結婚相手を探している、という話を聞いた。その御曹司は個人的によく知っており、ちょうどいいと思い、彼女は高岡さんに、その御曹司と会ってみたら? と言ったのだそうだ。高岡さんは最初はあまり気乗りがしなさそうだったが、「気に入らなかったら断ってもいいから」と言うと、了承したという。
ところが。
その御曹司と会った翌日から、高岡さんはずっと病欠で会社を休んでいる。何があったのか聞こうとしても、上手く連絡がつかない。御曹司の方に話を聞いてみると、彼は彼で落ち込んでいた。
"あの娘、彼氏がいたんですよね……"
そんな話は初耳だ、と彼女は思ったが、どうも高岡さんと彼が一緒にいたところに、高岡さんの「彼氏」が偶然出くわして修羅場になったらしい。高岡さんを気に入っていた御曹司は、酔っていたこともあり、悔し紛れに高岡さんをその「彼氏」の前で抱き寄せた。そうしたら「彼氏」が走り去ってしまい、追いかけようとする高岡さんを捕まえて「あんなヤツより僕と付き合おうよ」と言ったら、次の瞬間ぶん殴られたらしい。それもグーで。
……。
桜田さんの言う「高岡さんの『彼氏』」というのが俺なのは間違いない。彼女の話は俺が見た事実と全く矛盾するところがない。だがそれだけに、あまりにも話ができすぎている、という気もしなくもない。
「確かに殴られた瞬間は頭に来て『何するんだ!』って高岡さんを睨み付けたんだけど、その後彼女が……大声を上げて泣き始めたんだって。子供みたいに……それでね、彼も目が覚めた、というか、悪いことをしてしまった、と思ったらしい。根は悪い人じゃないのよ。今日も、一緒に謝りに行きたい、って言ってたんだけどね、わたしが止めたの。あなたの気持ちを逆なでするかもしれないから。でも、一応名刺を預かってきたわ」
そう言って桜田さんは名刺を一枚渡した。顔写真はまさにあの時の男だ。俺も知ってる地元企業の社員。会社名が名字と一致している。
「で、今度は高岡さんの家に行ってみたんだけど……彼女、すごくやつれてた。食事がのどを通らないんだって。そんなに好きな人がいたんだったら、なんで彼と会うのをOKしたの? って聞いたら……やっぱりわたしの言い方が悪かったみたい。『取引先の御曹司』ってのが引っかかったみたいで……だから無碍にはできないって思ったんだって。でも、最初から断るつもりでいたみたいよ」
「……」
「それに、あなた……まだ彼女と手をつないだこともないんでしょ? だったら、あなたも胸を張って『彼氏』って言える立場でもないような気がするんだけど……どうかしら?」
「う……」
俺はうつむいてしまう。桜田さんの言うとおりだ。よく考えれば、俺は確かに高岡さんの彼氏……と言えるほどのことはしていない。だから、彼女のことを責める権利は……なかったのかも……
「でもね」そこで桜田さんは、少し申し訳なさそうな顔になる。「やっぱり、高岡さんはそんなあなたが好きなのよ。彼女はね、『長坂さんの過去を考えたらそうなるのも仕方が無い』って言ってた。だから、時間をかけてゆっくり気持ちを育てていこう、と思ってたんだって。それなのに……わたしが余計なことをしたせいで……本当に、ごめんなさい」
桜田さんが再び頭を下げる。
……え? ちょっと待てよ?
「俺の……過去?」
そう。
俺は、高岡さんに自分の過去の恋愛について話したことは一度も無い。思い出すのも嫌だったからだ。
「……!」
桜田さんが、しまった、と言う顔つきになる。
「どういうことですか? 何で彼女が俺の過去を知っているんですか?」
俺が詰め寄ると、桜田さんは観念したようにうなだれる。
「ごめんなさい……彼女から口止めされてたのに……でも、しょうが無いわね。これから話すことは、信じられないかもしれないけど全て事実よ」
そう前置きして、桜田さんは話し出す。
「あなたの元彼女は、清水沙智だったわよね」
……!
その通りだ……何でこの人が、その名前を……
「清水沙智の浮気相手にはね、婚約者がいたのよ。その婚約者が……高岡さんだったの」
「!」
俺は言葉を失う。
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