ひとつしかない、ひとつだけある

おっしー

第1話

  1 ペリオンの山にて




「息子のアキレウスだ。よろしく頼む」

「帰れ」

 世捨て人として山奥に暮らす自分を訪ねてきた数少ない友人に、ケイロンは素気ない態度をとった。

 腰まで届く亜麻色の髪を持つ男――名をペレウスという――は、今や一国プティアの王であり、このように共も連れずに山深くにある洞穴に来る立場にはないはずだ。久方ぶりの再開を喜ぶ気持ちもないこともない。だが、素直に口にできないのは、その腕に抱えられた小さな生き物が原因だ。

 首こそ据わっているが、一人で立ち歩けもしない。乳離れもしていないであろう赤子。

 ケイロンは乞われて何人かの人の子に武具の扱いなどを教えてきた。その自分に『よろしく』と差し出すということはつまり、そういうことだろう。

「教師の真似事はしてきたが、乳母役は御免被る」

 いくら長く生きているとはいえ、ここまで幼い弟子をとった経験はない。更にいえば、実子はカリクロとの間に生まれた神しかいない。神の子はあっという間に成長するため、乳飲み子の世話も碌にしたことはない。

「そう冷たくしてくれるな。あなた方に望まれてこの子は産まれたのだから」

 言外に責任を突き付けるペレウスは、表情こそにこやかだが、眼だけは笑ってはいなかった。

 ペレウスの一粒種を産んだ妻は、オリュンポスの神々の思惑によって宛がわれた海の女神テティスだった。互いに恋も愛も情もない強制された婚姻。それにケイロンが一枚噛んでいたのは確かだ。

「この子の人生はきっと俺とは比べものにならないほど箒星のように目映く、瞬く間に走り去っていくものになるのだろう? 人と同じようには育てては、間に合わない」

 ペレウスがアキレウスの額を撫ぜ、双眸を覗き込む。母譲りの透き通る碧い眼は宝石のように鮮やかな色をしている。

 赤子の左の踵から脹脛ふくらはぎにかけて、腱のあるはずのそこに不自然な瘤がある。繭のような、蛹のようなそれこそがこの子どもが只人ではないことの証左であった。

 ――これから先二十年、三十年はかつてないほど多くの国を巻き込んだ戦乱が起きる。予言ではない。オリュンポスの神々の総意で確定した未来の事実だ。

 そのきっかけは何を隠そう目の前の男の結婚式だった。ペレウスがテティスを娶る晴れの日に、なぜか・・・オリュンポス中の神々がわざわざ祝いに出向いた。しかし、これもまたなぜか・・・不和の女神エリスだけが招かれなかった。不吉の象徴の神々は他にもたくさんいるというのに。

 エリスは腹癒せに黄金でできた林檎に「最も美しい女神へ」と記し、会場に投げ入れた。その所有権に美の女神アプロディテはともかく、婚姻の女神ヘラ戦女神アテナが名乗り出ることも彼女たちの性格を鑑みれば本心とも思い難い。それぞれ信念を抱くところの違う女神たちだ。そうそう衝突するような相性ではない。

 三柱の美の審判を大神ゼウス本人ではなく、全く無関係のトロイア王子パリスに命じるあたりも腑に落ちない。

 結果としてパリスはアプロディテを選び、その賄賂として世界で一番の美女――ただし、既に夫も子もいる――であるスパルタ王妃ヘレネを手に入れることになる。

 しかし、ヘレネは昔アカイアギリシャ中の王族から求婚されたことがあり、その際求婚者の一人であったオデュッセウスの発案で「誰が選ばれるにせよ、選ばれた男が困難に陥ったときは他の全員が力を合わせて助ける」と誓約を交わさせていた。それにより事態は大きなものとなってしまった。アカイア諸国の連合軍とトロイアの全面戦争が幕を開けようとしている。

 パリスに攫われたヘレネはゼウスの子であり、オデュッセウスは処女神アテナがいたく気に入っている勇士だ。詰まるところ、この大戦は仕組まれたものなのだ。パリスはヘラを選んでも、アテナを選んでも戦禍の火種となり得た。誰も選べないと拒否しても、殺されて代わりの審判者が用意されるだけだっただろう。

 最早、この戦争は免れない。そして、ペレウスとテティスがつくらされた子どもはその中心に座すことになる。

 ケイロンは一つ長く息を吐いて、赤子の養育を承諾した。

 友から預かった小さな命は熱く、指一本で壊せそうなほど柔い。

「アキレウス――『乳に唇を触れない者』とは、ペレウスにしては皮肉が利いている」

 そうしてケイロンはペレウスの子アキレウスを育て始める。ケイロンの居住する洞穴には生活の細々とした手伝いをする少年がおり、その者が小さな兄弟の面倒をみていたことがあるというのは都合がよかった。

 暫くは山羊の乳を飲ませ、少し大きくなればすり潰した果物やら乳で煮たパンやらを与えると数年でむくむく大きくなっていった。煩わしいこともあったが、人の子を育てるということはケイロンの元々強い好奇心を掻き立てるものでもあった。

 とりたての新鮮な熊の髄液、猪や獅子の内臓をそのまま口にさせようとしたときは、少年が慌てて止めに入り、火を通して細かくしてから食べさせたりもした。

 朝には書物の手習いをし、昼には狩猟をしながら傷を癒やす術を身につけ、折に触れ神々や兄弟子たちを始めとした英雄の話を聴き、夜には竪琴を弾きながら歌を口遊む。アキレウスとケイロンと少年の暮らしは、穏やかに過ぎ去っていった。

 預かってから九度目の年が巡る。アキレウスは大きく強くなった。六歳のころにはペリオン山を縄張りとする野獣を一人で狩れるようになり、少年が『強くなりすぎだ』と腰を抜かすほどだ。

 ケイロンの新しい弟子の噂は尾鰭や背鰭がついて世に流れ始めた。曰く、「赤子のときに神であるテティスが足を掴んで聖なる火に炙り、蒸発させた人の魂の代わりに神薬アンブロシアを塗ったため踵以外が不死となった神が如き英雄である」と。

 噂を聞いたケイロンは大いに笑った。テティスの耳に入れば烈火の如く怒りそうな、何とも間の抜けた物語だ。

 アキレウスの左の踵には成長してなお大きな瘤がある。確かにその瘤はアキレウスの急所であり、切り裂かれれば命を落とすことになる。革でできた靴を常に履き、そこを傷つけないよう言いつけていた。

 新たな英雄の噂に湧き立つ世間をよそに、アキレウスは市井のどこにでもいる、普通の人の子らしい感性も備えていた。

 今も夕餉を準備しながら、少年――いや、人の子であれば青年と呼ぶべき歳に達した――にケイロンと青年が揃いで身に着けている馬の皮の腰巻を強請っている。自分も二人と揃いのものが欲しいと。歳が近いせいか、兄弟のように育ったせいか、アキレウスは青年にとても懐いていた。勉学にあてる時間以外の子守りは青年に任せており、時折二人で遠駆けに出かけていく。青年は馬の扱いが上手く、よくアキレウスに世話の仕方も教えていた。

 最近ケイロンは、まるで二人の師匠や主人というよりは、父親になったような気分だと思うことが増えていた。




 ◇◆◇◆◇◆




 その日、アキレウスと青年は果実を摘みに山を歩いていた。旬の山葡萄を籠いっぱいに集めるのだ。これを干したものを混ぜたパンが師の好物の一つだったので、二人とも張り切っている。

 ぱきり。

 背後。木の枝が折れる音に気が付くのはアキレウスの方が早かった。近い。己の庭とも言えるこのペリオン山にあって、ここまで距離を詰められるまで気配を察することができなかったことにアキレウスは歯噛みする。

 太い幹の向こう側から現れた、真っ黒な毛で覆われた大きな影。熊だ、と少年たちは身構えた。いざというときのために短刀と弓矢、そして手製の毒は持ち歩いている。

「お前たち、ケイロン先生のところの新しい弟子か?」

 聞こえたのは獣の雄叫びではなく、快活な人間の男の声。樹々の合間から現れたのは見たこともない立派な体格の男だった。広い肩に大きな熊を平然と担いでいる。

 熊と同じような毛並みの黒く短い髪。獅子の毛皮で首から下の大部分を覆っており、腰には常人では振ることもできないであろう大きさの棍棒を下げている。

「先生のお知り合いですか?」

 年長者としての精いっぱいの矜持だろう。アキレウスに先んじて腰が引けながらも青年が尋ねれば、男は一呼吸思案してから、問いに答えた。

「何、怪しい者じゃない。俺は先生の昔の男さ」

「妙な物言いをするな、戯け」

 アキレウスと青年は心臓が外に飛び出るかと思った。一体いつから隠れていたのか、ケイロンは二人の背後に立っていた。驚いた様子もないので、客人が来ることを知っていて出迎えに来たのかもしれない。

「ここは変わらないな、先生」

「お前はまた一段と図体がでかくなった」

 いつも眉間に皺を寄せている師が珍しく頬を緩ませている。アキレウスはそれに少し面白くない気持ちになった。

「紹介しよう。大神ゼウスの御子の一人にして、稀代の英雄ヘラクレスだ。お前の兄弟子でもある」

 ヘラクレス。アカイアのどの国でもこの名前を知らない者はいないだろう。彼の冒険譚はその一つ一つが並みいる英雄たちを霞ませるほど、痛快で輝かしいからだ。

 ネメアの獅子退治に難攻不落と言われるトロイアの攻略、レルネのヒュドラ退治やケリュネイアの鹿の捕獲。幼い時分から寝物語でケイロンから聴かされるそれらに、アキレウスも青年もしばしば目を輝かせたものだ。

 物語の英雄が身の前に現れた興奮に紅潮したアキレウスの顔をヘラクレスはじっと見つめると、得心がいったというように手を打った。

「ああ、噂のペレウス殿の御子か。火炙りだか水責めだかで踵の他は不死になったとか」

 火炙りは聞いたことがあるが、水責めとはどんな噂だろうと世俗に疎い三人は首を捻る。

 その夜、手土産だと渡された熊を捌いた肉と芋を煮込んだ鍋を囲んだ食卓は、いつになく賑やかなものとなった。アキレウスを除く三人は葡萄酒も水で割って飲んでいる。

「ペレウス殿とは短い間だったが、同じ船に乗っていたんだ。驕ったところがなくて、良い意味で半神や王族には見えない人で、俺は好きだったな」

 あと女狩人のアタランテ殿に何度も相撲レスリングで挑んでは、投げ飛ばされているのは面白かった、たまに船から落とされていた、とヘラクレスは語って聞かせてくれた。

 父ペレウスと会う機会は年に一度か二度しかない。王として国を治めているのだから仕方がないと諦めている。だが、父親がどのような人物なのかという感心はやはり捨てきれないでいた。

 翌日からケイロンに代わってヘラクレスが弓矢や相撲の稽古をつけてくれるようになった。英雄の中の英雄と称されるに相応しい驚嘆に値する強さだった。特に弓の妙技は度肝を抜かされた。常人の倍以上の距離から放ってなお、鏃が的の板を貫通していたのだ。

 組み手でヘラクレスと立ち会うと、構えているだけで全身から汗が噴き出た。自分が縊り殺されるイメージしか浮かばず、一歩踏み込むどころか、瞬き一つできない。アキレウスが気を失うまで対峙すると、ヘラクレスは構えを解く。そこで飛んできた青年がアキレウスを介抱するという稽古を午前と午後に一回ずつこなす。日を追うごとに長い時間耐えることができるようになったが、未だに踏み込みすらできていない。

 ヘラクレスはケイロンの儀式の手伝いに来たのだという。予言神アポロンから予言の術を修めたケイロンは、時折アキレウスや青年には理解できない儀式を行うことがある。今回は愛弟子のヘラクレスを呼び寄せるほど大掛かりなもののようだ。食事の時以外、洞穴の最奥にある自室に籠っているのもそのためなのだろう。

「先生の手伝いが終わるまで、まあ、三日くらいか」

「終わったら、すぐにここを発ってしまうのですか?」

「そうだな、俺もやらなきゃいけないことの十や二十あるからな。なんだ寂しがってくれるのか、かわいい奴め。もう五年も育っていたら一晩くらい名残惜しんでも・・・・・・・いいんだが」

 隣に座っていた青年になぜかヘラクレスから引き離すように抱き寄せられた。

「お前のその尻の軽いところが玉に瑕だ」

「先生は愛でるべき者を男や女で選り好みするのは損だと思わないか? どっちもそれぞれのさがある」

 二人の会話の意味が分からず、アキレウスは置いてけぼりになった。だからこそ、気が付いた。

 青年の腕が微かに震えていることに。




 ◇◆◇◆◇◆




 その夜、深い眠りについていたアキレウスを青年が優しく揺り起こした。何事かあったのかと尋ねようとする口を、青年は素早く掌で塞ぐ。

「大きな声は出さないで」

 いつになく緊張した面持ちの青年は、青褪めていて、まるで死体のようだった。

「私と一緒に来てほしい」

 反射的に頷く。青年の頼みは出来る限り叶えてやりたかった。頷いてから、なぜ、どこに行くのだと首を少し傾げてみせる。

 彼はゆっくりと息を吐いてから、崖から飛び降りるような悲壮な表情でアキレウスに告げた。

「逃げたいんだ、先生から」

 青年はアキレウスの手を引いて山を駆けた。本当はアキレウスの方が圧倒的に足が速いのだから、逆に引っ張って行ってやればいいのだろうが、常とは異なる様子の彼に、アキレウスは何もことばをかけられないでいた。

 山の中腹から続く獣道のような山道を駆け降りるころには、青年の額に滝のような汗が流れ落ちていた。このまま行けば、夜明け前に麓の村に辿り着く。そこから先はいくつかの街道があるはずだ。

 だが、アキレウスと青年は足を止めざるを得なかった。道の真ん中で岩のように立ち塞がる大男。手には狩りで使う弓が握られている。

「ここまでだ。お前たちを先生のところに連れて帰る」

 青年の行動を予見していなければ、こんなところで待ち構えていられるはずがない。ヘラクレスは青年が――アキレウスは未だ理由を知らないが――ケイロンに怯えていることを知っていたのか。

「お前の故郷に帰っても捕まるだけだ。そんなことは分かっているだろうが」

 優しいとも、悲しいとも違う色をした声だった。それを憐れみと呼ぶのだと知らなかった。

 不意に、アキレウスの首に冷たいものが当たる。青年がいつも獣を捌くときに使う刃物だった。柄は持ち主である青年が握りしめている。

「馬鹿か。お前がその刃で描き切るよりも俺の矢の方が速い。なにより、アキレウスがお前の腕をへし折って振り解く方が断然速い」

 吐き捨てるように叱責を飛ばすヘラクレスは、アキレウスに視線を送った。だが、アキレウスはそれをただ見つめ返すだけで身動ぎ一つしない。

 ヘラクレスの舌打ちが夜陰に響く。

「アキレウス」

「虐めるのは、英雄のすることではないでしょう?」

 怯える青年を守りたいと思った。人質にされるくらい、なんでもない。ヘラクレスが手を上げるというのであれば、青年の腕を振り切って戦おうとさえ考えている。アキレウスにとって、青年は師ケイロンと同じくらい、何にも代えがたい家族だった。

 沈黙は永遠にも似た心地を与えたが、三人の間に走る緊張の糸は、刃が地面の石の上に落ちる音でぶつりと切れた。

「ごめんな、アキレウス」

 そういって青年はアキレウスの頭を胸に抱えた。ヘラクレスが歩み寄り、青年の肩を優しく撫でる。短い二人の逃避行は終わりを告げた。

 洞穴で待っていたケイロンは、咎めるようなことばを口にはしなかった。ただ黙って、青年に奇妙な匂いのする杯を手渡した。なみなみと注がれていたそれを彼は、一息で飲み干す。

「十年、共に暮らしたな。アキレウスを預けられて、予定がこんなに延びてしまった」

「……はい」

「徒にお前の覚悟を揺らがせてしまったのかもしれない」

 アキレウスには、二人が何を話しているのか分からなかった。

「いえ、でも、私は、ここでの暮らしで、私の人生が好きになりました。惜しんでしまうくらい」

「私のような人でなしにはもったいない。だが、どうかこれからもよろしく頼む」

「――はい」

 ただ、青年が今この瞬間命を散らそうとしているのだけは分かった。

 やがて微睡むように意識を失った青年は担ぎ上げられ、ケイロンとともに洞穴の奥に運ばれた。ケイロンと青年、ヘラクレスとアキレウスの間には大きな衝立があり、向こう側でケイロンが何をしているのかは窺えない。

 儀式が始まると、ヘラクレスはおもむろにアキレウスに語りかけてきた。

「先生は人じゃない。古くから生きている神々の一柱だ」

 先代の神々の王クロノスと女神ピュリラの間に産まれた賢者。ゼウスの異母兄弟に当たるということは知っている。だが、ペリオン山という狭い世界で、物心つく前から当たり前にケイロンと暮らしていたアキレウスには、改めて神とは何なのかと考える機会がなかった。

「神々の姿形っていうのは本来そう見られるもんじゃない。なぜなら、掌に収まるほど小さい上に、他の生き物の中にいるからだ。樹や馬や人の身体を宿としている」

 ヘラクレスは続ける。

「神の入った身体は丈夫で強くなるが、不死ではない。所詮は肉だ。時が経てば腐りもする。そうして器が傷んだら、新しい器に移るということを繰り返すから、大抵の神は美しく強く若い姿なんだ」

 どうして今、こんな話を聴かせるのだろうとアキレウスは思った。これではまるで、ケイロンが青年を。

 衝立の向こう側から、聞きなれない声がした。とても小さくて掠れた声。

『私は昔、一つの部族と契りを結んだ。騎馬に長け、牛とともに野を渡り歩く彼らは、ケンタウロスと呼ばれ、長く暮らせる豊かな土地を求めていた』

 これが本当のケイロンの声なのだと気が付いた。

『ケンタウロス族に土地と庇護を与え続ける代わりに、私は百年に一人、器となる身体を得ている』

 アキレウスは今すぐ衝立を倒してケイロンに掴みかかりたい衝動にかられた。それも予想していたというように、大英雄が子どもの肩を押さえつける。

「決して衝立の向こう側を覗こうと思うなよ。器を脱いだ神を人が見ることは死に値する不敬だ」

 肩に指が食い込むほど強く掴まれた。

「俺がここにきたのは、今夜の儀式を見守るためだ。先生が最も無防備になるこのときを狙う輩がいないとも限らんからな」

 そうか、とアキレウスの心はようやく納得した。ヘラクレスはこのために来たのだ。アキレウスを抑えるために、ケイロンが呼び寄せたのだ。

 いつからかケイロンを父のように、青年を兄のように思っていた。血のつながりこそないが、二人とも同じように思ってくれているのだと訳もなく信じていた。だが、ケイロンと青年は奪う者と奪われる者という無情の関係でありながら、アキレウスを育てるため、家族の真似事に付き合わされていただけだった。

「先生が化け物に見えるか? だけどな、今の俺たちがあるのは神々の研鑽の賜物とも言えるんだ。人がより善くなるよう導く者。神とはそういう存在には違いない」

 ヘラクレスは歌うように語る。

「より強く、より賢く、より美しく、より善い人間。そうした器を神々は欲している。そのために弱く愚かで醜く悪い人間を間引く。優れた器に入って犯して、更に優れた人の子を創ろうとする神も少なくない」

 それは、家畜ではないのか。都合のよい生き物になるよう交配させられるそこに、人間の尊厳はあるのか。

 幼い同胞へ英雄は自分の知り得る真実をそのまま伝えた。それは、かつて自分も対面した残酷な現実だった。

「俺たち半神はそうした目的で生み出されている。神の期待がかけらた秘蔵っ子というやつだ」

 どの国の王族にも神が大なり小なり関わっている理由が分かった。交配の結果生まれた優れた資質を持つ人間は、自然と人を束ねる王となり、それをまた更に改良しようと干渉し続けているのだ。

「俺の身体もいずれかの神の器になるのだろうさ。なにせ俺は出来がいいからな」

「俺もいつか誰かの器になるのでしょうか」

 何気なく尋ねると、兄弟子は妙に歯に物が挟まったような反応を示した。

「ん、んん。まあ、そうとも言えるし、そうでないとも言えるというか」

 ヘラクレスの視線は、アキレウスの左足に向いていた。

「いつか、ではない。お前はもう既に、だ」

 そして、アキレウスは自分の踵の瘤の正体に気が付く。もしかすると、この中には誰かがいるのか。

「お前の母殿は特別な海女神さ。『父より優れた子を産む』という予言を与えられていた胎の持ち主だった。だから、神々は恐れて人間と番わせた」

「では、父と母は愛し合っていなかったのですね」

「愛は、あったさ。なにせテティス殿はペレウス殿の亡き妻アンティゴネ殿の身体に入れられていたからな」

 アキレウスは段々気分が悪くなってきた。

「テティス殿は他の神にお前を渡したくなかったからこそ、最も信頼する神を赤子のお前に宿らせたのだろう。それだって子を想う愛だ」

 自分の中にもう一人別の存在がいると思うと、背筋に怖気が走った。

「でも、俺は俺です。自分を神だと思ったことなど、一度だってありません」

「それはお前の中におわすのが慎ましい女神だからよ。彼女は器の自我を奪うこともなく自由にさせ、自らは静かに眠ることを選んだようだね」

 その声は、毎日聞いていたケンタウロス族の青年のものだった。

「そう怖がることはないさ、アキレウス」

 青年の姿形をした師が衝立から現れる。姿形だけではなく、話し方までもが生前の青年そのものだった。

「完全に神が乗り移るのは稀だ。寧ろ個人差はあるけど、器の記憶や自我は色濃く遺ることが多いんだ。こんな風にね。あの子は今も私とともに生きている」

 アキレウスが好きでたまらなかった微笑み。だがこれは、青年ともケイロンとも違う生き物だ。アキレウスは父と兄の両方を失い、途方に暮れた。




 ◇◆◇◆◇◆




 役目を終えたヘラクレスが去り、青年の姿となったケイロンとアキレウスの二人での生活が始まった矢先。洞穴の門戸を叩く新たな来訪者があった。

 プティア王であるペレウス、そして父と肩を並べる女。どこか見覚えがある気がする。

「ご健勝そうでなによりだね。テティス殿、ペレウス」

 ケイロンのことばで、彼女の髪と眼が、川の水面でたまに見る自分と同じ色であることに気が付いた。赤毛に近い金糸に碧い目。

 初めて逢う母に、アキレウスは少し身を固くした。

「人の子はすぐに大きくなるな」

 若い娘の姿をしたテティスは、息子の両頬を掴み自分の顔に引き寄せてじっくりと見聞する。

わたしと同じ海神の眼の色だ。よく見せてくれ」

 慣れない事態に視線を彷徨わせるアキレウスは、母の肩越しに父母のほかに誰かがいることにようやく気が付いた。

 葦毛と栗毛の二頭の馬。その手綱を手にしている少年と視線がばちりと重なった。

 反射的に少年に向けて発しそうになった声は、直前に遮られた。低く空気を振るわせる声。奇妙な発音のことばは、注意しなければ聞き取れないものだった。

『女神よ、子どもの頭一つ撫ぜたことのないのだろう? 力加減を誤って首を千切りとるなよ』

「馬が喋った……!」

 母を揶揄うことばは確実に葦毛の馬の口内から響いている。加えて、隣の栗毛の馬の口からも人のものに近い笑い声が漏れ出ていた。

「ああ、クサントス殿、バリオス殿。これは久しい。結婚式依頼だね」

『ケイロン殿はまた人の子に入ったのか』

『此度の器は前のよりも擦れていないようだ』

 師と馬たちはどうやら旧知の仲のようだ。目を白黒させているアキレウスにケイロンは笑いかけた。

「お二方はポセイドン様に仕えられている神々だよ。人よりも馬の器を気に入られているんだ」

 アキレウスは純粋な興味で尋ねる。

「馬は人より善いのですか?」

『そうだな。思慮深く、情の深い。人間などよりもよっぽど上等な生き物だ』

 その割に二柱からは情の深さを感じさせない、などとは迂闊に口にしたりはしなかった。

「俺がテティス殿と式を挙げた際に、産まれる子の後見人にと海神殿が申し出てくださったのだ」

『子守は気が進まんが、主殿の頼みでは断れん。戦車くらいは曳いてやろう。光栄に思えよ』

『勘違いするなよ、小僧。我らが後見役を務めるとはいえ、盾になってやる気はさらさらない。そのときは骨の一つでも海女神に渡して弔ってやろう』

「戦車、ですか」

 なぜ戦車に、と疑問を抱くアキレウスの両肩を掴み、ペレウスは地面に膝をつくことで息子と目線を合わせた。

「一つ、お前に問おう。よく考えて答えよ」

「はい」

「今、ギリシャの国々はトロイアに向けて挙兵しようとしている。かつてない大戦だ。我が国もいずれ攻め入る。そのトロイアとの戦に出れば、お前は命を落とすという予言が下った。お前は王子として国を治めるため留まるか? それとも英雄として遠い異国に征くか?」

 ペレウスのことばにテティスが横槍をいれる。

「夫殿。それでは真実に足りぬ。オリュンポスの神々からの予言はもう一つある。アキレウス、お前が参戦しなければ、ギリシャの兵たちはトロイアに勝てぬそうだ」

 アキレウスは己に課せられた使命を悟った。誰よりも早く英雄としての技能を仕込まれた理由も。

 アキレウスに選択させる問いにしたのは、父の優しさなのだろう。アキレウスを含め全員が理解している。

「俺は、トロイアに征きます」

 このために自分は産み出されたのだから、答えはこれしかなかった。

 ペレウスはケイロンに向き直ると最も敬意を込めた礼をとる。

「ケイロン、息子をここまで育ててくれて感謝する」

 さて、とテティスが切り出すことには。

「お前の決断は確かに聞かせてもらった、アキレウス。だが、その踵におわす方は、私の大切な、大切なお方だ。呆気なく身を滅ぼすようなことは見過ごせぬ」

「先生は女神だとおっしゃっていましたが、いずれの女神であられるのでしょう」

大洋神オケアノスの娘エウリュノメ殿だ。慈愛に溢れた愛おしき方。本当は戦場になど連れて行きたくはないが、私の子に入るのはこの方でなければ許せなかった」

 そう語るテティスは花も恥じらう乙女のようで、父は複雑そうな顔をしてこちらを見ていた。

 アキレウス自身は今すぐにでも戦場で一人前の働きができると自負していたが、母は早すぎる、英雄たちは山の野獣よりも野蛮で強大であると譲らなかった。

「先の予言は遅からずアポロンの巫女シビュラや各地の予言者たちにも伝わる。そうすればトロイアを狙う王どもは、お前を戦場に引き摺り出さんと挙って探し求めるだろう。お前の身体がもっと成熟するまでは、その身を隠しておくのがよい」




 2 スキュロスの花園にて




 テティスがアキレウスを隠す地として選んだのは、島国であるスキュロスだった。四方を海に囲まれたその国では海に縁の深い神々への信仰が篤い。特に当代の王リュコメデスは敬虔な男で、海女神たちネレイデスの一柱である母の願いを快く引き受けたらしい。

 物心がついて初めてペリオン山から離れるアキレウスは世間知らずだろうから、と後見人もとい馬もとい神のクサントスとバリオス、それに二柱の世話役を務めていた少年が付き添うことになった。

「アキレウスだ。よろしく頼む」

「パトロクロス、です」

 アキレウスの差し出した右手を少年――パトロクロスは両手で控えめに握り返した。

 薄茶の癖のない髪を紐で縛った、朴訥とした印象を与える少年だ。ひょろりと背が高く、アキレウスよりも五歳年上らしい。

「まあ、この姿ではピュラと呼んでもらうことになるが」

 スキュロスの王宮に匿われるにあたり、リュコメデス王はアキレウスに上等な布でできた衣装キトンや宝石の髪飾りを用意していた。スキュロスには王子がいないため、少女のふりをして王女たちの間に隠れろというのだ。

 大きめの衣服で鍛えた肩や脚を覆い、長い髪を編み込み、可憐な花があしらわれた冠を被れば、アキレウスは立派な乙女に見える、そうだ。

 『ピュラ』という偽名はリュコメデスの第一王女であるデイダメイアが名付けてくれた。燃える炎の色。人目を引く赤みを帯びた金髪に由来する名前だ。

 二、三歳上のデイダメイアは最もアキレウスに歳が近いこともあり、面倒をみたがって、毎日なにかとアキレウスを誘った。アキレウスに兄弟はいないが、姉がいたらこのような感じなのだろうか、と想像する。

「ピュラ、今日は機織りをしましょう。私がゆっくり教えますので、大丈夫ですよ」

 昨日は散歩と花摘み、一昨日は縫物、その前は野苺を取りにいったのだったか。初めは娘たちの遊びや仕事に興味も引かれたが、日を追うごとにアキレウスは気乗りしなくなっていた。端的に言えば、つまらないと感じてしまう。娘たちはおしゃべりで一日中一緒に過ごすのは疲れるし、裁縫よりも狩猟に出かけたいし、花を摘むより薬になる草木を集めたかった。

 ひらひらとした衣装にさえ煩わしさを感じるようになったアキレウスは、一息つく話し相手を求めてパトロクロスのところに毎日顔を出すようになった。

 クサントスとバリオスはポセイドンに仕える神馬としてリュコメデスから厚遇を受けている。城の厩の最も奥。恐らく王の愛馬が使っていたのであろう広く豪奢な区画で、質の良い飼葉や野菜を食みながら寛いでいる。

 その日はパトロクロスが見当たらず、二柱に尋ねても知らないと返されてしまったので、アキレウスはあたりを捜し歩いた。

 何十頭もの軍馬が並ぶ区画に入ると、見慣れない黒髪の少年が馬の世話をしていた。年のころはパトロクロスと同じくらいだろうか。王城にアキレウスとパトロクロス以外の男の子どもがいるのを初めて見た。

「ねえ、パトロクロスを知らない? 茶色の髪の背が高い、あなたと同じくらいの歳の」

 気持ち、少し高めの声をつくって、声をかけてみる。少年は振り向いて『ピュラ』の顔を見ると、目を剥いて慌てた。

「え、あ、ああ、パトロクロスなら、今水を汲みに……え、と、すぐ、呼んでくるっ」

 どもりながらそういうと、彼は井戸のある方の出入口に駆けていった。数分待つと、両腕で水瓶を抱えたパトロクロスを黒髪の少年が引っ張ってきた。

「ありがとう」

 デイダメイアを参考にしながら、愛想よく微笑んで礼を述べると、少年は耳まで紅潮させた。

 奥の厩に二人で戻り、アキレウスも衣装の裾を結わえてパトロクロスの手伝いをする。クサントスとバリオスの身体を拭いたり、掃除をしたりするパトロクロスが目に入ると、アキレウスの心は不思議と和んだ。

「さっきのやつはなんていうんだ?」

「アウトメドン。この国一の将の息子らしいです。今は軍馬の世話が仕事なんだそうで」

「親しそうだった。よく話すんだな」

「毎日顔を合わせますから、それなりに。正直者な男です」

「顔が赤かった。体調が悪かったんじゃないか?」

「アキレウス様に笑いかけられたら、誰でも鼻の下が伸びますよ」

「そうか、この顔はそこそこ人に気に入られるんだな」

 師にも共に暮らしたケンタウロス族の少年にも容姿を誉められたことはなかったので、考えもしなかった。

 以降、時折パトロクロスが「好きな食べ物はなんでしょうか? アウトメドンが知りたがっていました」「アウトメドンに訊かれたのですが、釣りはお好きですか」と面倒くさそうに訊いてくるようになった。

「ところで、お前は槍は握ったことあるか?」

「一応、あります」

「よかった。身体を鈍らせたくない。付き合ってくれ。夕方の北の岬の方なら人目もないだろう」

 そう約束したとおり、夕暮れにパトロクロスは北の岬で待っていた。薄く現れた月や星々に雲が掛かっていない、まだ明るい空だ。

 手には背丈ほどの二本の棒が握られている。本来刃の付く穂先には布が何重にも巻き付けてある。身体を解してからその一本を受け取り、二人は立ち会った。

 思いのほか迷いなく打ち込まれる棒を先端でいなし、肩を突く。衝撃でパトロクロスは手から柄を落とした。お互いに体制を整えてからもう一度。今度はこちらの出方を待つ姿勢の少年に、アキレウスが踏み込む。その分パトロクロスは身を引き、腹への打ち込みを躱す。だが、続く二打目を受けきれず、脇に重い一打が極まる。

 そうして二人は何本も稽古を重ねた。パトロクロスは弱かったが、基本の動きはできており、何度も挑んでくる気持ちは強かった。

 久しぶりの運動に身も心もすっきりとしたアキレウスだったが、そこでようやく対面するパトロクロスが呼吸を乱しているのに気がつき狼狽えた。

「悪かった、やり過ぎた。今日はここまでにしよう」

 変調に気が付いたのはアウトメドンだった。

「こんなに腫れていて、なんでやせ我慢しているんだ」

 左腕が赤黒く変色してぱんぱんに腫れている。

「これ、骨が折れているじゃないか」

「ちゃんと手当しないと痺れが残ったりするぞ。木か何か添えて固定して、安静にしていた方がいい」

 一先ず厩の隅にパトロクロスを腰掛けさせ、師から教わった痛み止めの薬湯を煎じたものを飲ませた。

「すまない、折ってしまったと思わなかった」

 アキレウスの謝罪にパトロクロスは身を縮ませるばかりだった。その代わり、クサントスとバリオスが嫌見たらしく、アキレウスを咎める。

『アキレウス、お前はひどい乱暴者なのだなあ』

『神を宿しているお前の筋力は、人からすれば常人離れしたものよ。無闇に振るえばパトロクロスなんぞ、すぐに壊れてしまうだろうさ』

 これまでの稽古の相手といえば、ケイロン、山の獣、ペレウスにヘラクレス。手加減をする必要がなかった。

 アウトメドンが細々したところに気をかけてくれたこともあり、パトロクロスの骨は二月もしないうちに元に戻った。痺れや変形が遺ることもなかったのは、ほっとした。

 武芸の稽古は一人で行うことにした。型を繰り返し、太い樹に打ち込む。時たま、野兎や鳥を弓で狩りに行くこともあった。

 パトロクロスはそれをただ傍で見ていた。無理に付き合うことはないといっても、やめることはなかった。

 五年も経つと、それらもすっかり習慣となっていたのだが、ある日、いつまでも現れなかったパトロクロスが顔を青褪めさせて駆けてきたことがあった。アキレウスの瞳孔が開き、剣呑な色を帯びる。

「どうした? 誰に何をされた?」

「王女の侍女の子に、抱きつかれて、驚いただけです」

 弱弱しく原因を語るパトロクロスに拍子抜けする。

「それだけか?」

「……得意じゃ、ないんです」

 少女に襲われて逃げてきたことを恥じ入るように、その声は虫が鳴くようにか細くなっていた。

 なんとなく想像していたことが確信に近いものとなった。パトロクロスは女よりも男を好む性質なのだろう。

 子を成すには雄と雌が番にならなければならない。人間だってそうだ。だが、女よりも少年を愛する男がいることも知っているし、同じように女同士で愛し合うこともあるのだろう。ヘラクレスのように愛する者を男や女で問わない者もいる。ならば、逆に愛せない者だっている。

 王女たちやその侍女たちもアキレウスと同じ年月だけ成長した。胸や尻に肉が付き化粧を覚え、含んだような笑みを寄こしたり、不意に身体を寄せてきたりするようになった。ついに、アキレウスだけでなくパトロクロスにも迫るようになったか。

 翌日、アキレウスは水浴びに行く途中で見かけたパトロクロスに声をかけた。昼間、デイダメイア王女たちと連れ立って歩いている『ピュラ』のときにパトロクロスを呼んだことはなかったので、相手は驚いていた。

「ねえ、あなた。良ければ召し上がって」

「アッ、……ピュラ、様?」

 ピュラの差し出した深めの皿には布が被せてあり、それを取り払うと、ふわりと甘い香りが立ち上った。朝早くに厨を借りて拵えたものだ。蜂蜜をたっぷり使ったパンケーキソップ。肉や川魚や野草を煮炊きしたり、簡単なパンを焼いたりすることはあったが、菓子の類は初めて手がけた。

「あなたのために焼いたの」

 ピュラが一口分を手で千切り、パトロクロスの口元に運ぶ。乙女たちや通りがかったアウトメドンが固唾を飲んで見守る中、プレッシャーに屈したパトロクロスが菓子を口で受け取ると、辺りから悲鳴のような歓声が上がる。

 何を企んでいるのか、と言いたげに怪訝そうな顔で咀嚼するパトロクロスに、素知らぬ顔で「口に合うかしら?」と尋ねれば、「ええ、甘いです。どうも……」と空返事が返ってきた。

 そこで、それまで固まっていたデイダメイアが金切り声を上げてピュラの腕を引っ張った。パトロクロスに皿ごと菓子を渡し、またあとでと手を振る。

「ピュラ! あなたったら、もう、何を!」

 はしたないことだと窘める王女の声を余所に、アキレウスはほくそ笑んだ。ここまでやれば、アキレウスやパトロクロスに粉をかける少女たちも大人しくなるだろう。

 昼間はデイダメイアを始めとした王女たちと乙女として過ごし、夕はパトロクロスと勇士として過ごす。退屈ながらも、人とかかわる暮らしは嫌ではなかった。




 ◇◆◇◆◇◆




 冬の雨の夜だった。王の不在を狙ったように王城に大勢の男たちが押し入ってきたのは。正門からではない、裏口から足音を潜めて忍び込んだ彼らは、まず巡回する兵を殺し、手早く女子どもたちを縛り上げながら、手あたり次第金品を集めていった。

 何かが割れる音と甲高い悲鳴でアキレウスは目を覚まし、異常な事態に気がついた。床に素早く耳をつけると、部屋に近寄ってくる足音が一つ。部屋を見渡すが、まともに武器になりそうなものはない。稽古で扱う棒や弓矢はパトロクロスの寝所に隠している。舌打ちをつきながら、扉の死角になる場所に身を潜めた。

 ほどなくして、斧で扉を壊しながら男が部屋に入ってきた。瞬間、飛び出したアキレウスが男の左脛を渾身の力で蹴り飛ばす。折った、という手応えがあった。呻き声を上げて膝から崩れ落ちる男。斧を手放した。とどめを刺すため、首を狙って踵を振り下ろす。

 だが、その足を二倍の太さはありそうな腕が寸前で止めた。一旦距離を取ろうと軸足に力を込める。男はもう片方の手でアキレウスの服の長い裾を掴むと、力任せに引いた。

 重心がずれ、床に引き倒される。拳闘パンクラチオンもケイロンに仕込まれているが、肥えた男の身体に圧し潰され、身動きが取れない。何より、男が掴んで離さない足首。ちょうど瘤のある場所を握られており、アキレウスは本能的に恐怖した。心臓を直接握られているような、純粋な生存危機への震え。

「餓鬼が、舐めやがって」

 男は手負いの獣のような目でアキレウスを睨みつけ、足の拘束はそのままに乱暴な手つきで寝間着を剥いでいった。

 半ばまで肌を晒したところで男の手が止まった。膨らみのない胸と隠しようのない陽物。少女と思っていた子どもが同性であったことに戸惑っているようだった。

 興を削がれて手を離すことを期待したが、男は更に息を荒くして踵を握る力を強めた。男は腰に佩いた短剣を抜くと、アキレウスの股の間に添わせた。根元に冷たい金属の触感が当たる。

「……これ、取っちまおうか?」

 仄めかされた去勢に全身が緊張した。

 直後、眼前の男が目剥いて悲鳴を上げる。痛みのせいか、身体を仰け反らせた隙に腕を振りほどき、間合いを取る。

 顔を上げると、男が破ってきた扉の向こうに弓を構えるパトロクロスがいた。男の背に一本の矢が突き立てられている。続けざまにもう一本矢が放たれるが、男は躱す。ひどい悪臭がした。鏃に馬糞が塗られているようだ。

 パトロクロスに襲い掛かろうとする男よりもアキレウスの方が速い。床に放置されていた斧――細腕ではとても持ち上げられないような厚みの獲物を――を片手で拾い上げ、禿げた後頭部をかち割った。

「アキレウス様」

「怪我はしてない。動ける」

 駆け寄ってきたパトロクロスに目尻を拭われて、自分の両目から雫が滴っているのに気が付いた。

 こんな状況で落ち着いているパトロクロスが意外だった。

「お前、案外肝が据わっているんだな」

「充分動揺しています。ただ、人殺しは初めてじゃないので」

 どういうことだと訊き返す前に、追ってきたアウトメドンが合流した。血に汚れた槍を手にしているところを見ると、何人かを倒してきたようだ。ピュラが男であることに驚きながらも、デイダメイアがまだ助けられていないと告げる。

 三人は館の最奥を目指して廊下を駆けた。

 王女の私室はアキレウスの部屋と同じく破られている。荒い息と、女の呻き声。部屋の隅で床に蠢く男の背が視界に入った瞬間、アキレウスはアウトメドンの手から槍をぶん取り、全力を乗せて投げた。凄まじい風を切る音。精密にコントロールされたそれは、正確に男の頭を射抜き、即座に絶命させた。

 急いで駆け寄り、まだ温かい死体をデイダメイアから引き剥がす。床に伏し、男の血と脳漿に塗れた王女は、歯を食いしばって屈辱に耐えていた。

 助け起こすアキレウスの腕に、彼女は爪を立てるほど強くしがみついた。

「お願い、私を今ここであなたの妻にして」

「デイダメイア」

「だって、こんな、子が産まれたら、嫌」

 想像はしていたことだが、見れば、太腿に白い液体が伝っていた。涙に濡れた声。可憐な造りの顔は絶望に歪んでいる。

 出逢ってから五年。彼女に姉のような情を抱いていた。

 親愛を込めて、アキレウスはデイダメイアを抱き寄せる。傍目からは本物の姉妹のように見えたであろう。

 パトロクロスとアウトメドンを壊れた扉の前に控えさせ、アキレウスはデイダメイアを抱いた。

 そしてその後、暴漢たちは一夜にしてその大半をアキレウスの槍によって殺された。

 数か月後、スキュロス王女デイダメイアの懐妊の知らせはギリシャ中に広まることになる。

 スキュロス王のリュコメデスは、アキレウスに対して多くを問いも語りもしなかった。この年齢に至るまでデイダメイアとアキレウスを引き離さなかったということは、いずれはこうなることを容認していたのだろう。父ペレウスと許婚のような取り交わしをしていたのかもしれない。

 半死半生で捕らえられた暴漢の残党に事の次第を聞き出せば、王女付きの侍女が手引きをしたことだと分かった。街の男の一人と関係を持つようになったその娘は、男の仲間たちを王城の侍女たちの部屋に連れ込むことを何度も繰り返していたのだという。それを利用され、今回の一件に至ったため、関係していた男たちはもちろん、侍女たちも重い罰を課されることとなった。




 ◇◆◇◆◇◆




 未婚の王女の出産は様々な憶測を呼んだ。人の噂に戸は立てられないとはよく言ったもので、世間には失踪したプティアの王子が夫なのではないかという話題が持ち上がっているらしい。

 そしてついに今日スキュロス島にやってきた大きな軍船。これこそがトロイアに侵攻し、奪われた王妃ヘレネを取り戻さんとするアカイア軍の総大将アガメムノンの兵団だという。

 アキレウスとパトロクロスはいつもの岬から港を見下ろす。一際目を引く、舩から兵に囲まれて現れた二人の男。二人とも立派な身なりをしているだけではなく、立ち振る舞いに隙がない。獲物らしい弓や槍も遠目でも分かるほどの見事な業物だ。

 より体格の大きい方の男と眼が合った気がして、アキレウスはパトロクロスの首根っこを掴んでその場に伏せる。この距離で感づいたとすれば、とんでもなく戦に長けた嗅覚だ。

「どちらも強そうだ」

「イタケ王オデュッセウス様とアルゴス王ディオメデス様だそうです。戦女神アテナの加護篤い、知勇武に優れた王だと評判を聞きました」

 アテナのお気に入りとあれば、間違いなく一級品の勇士たちなのだろう。手合わせを想像するだけで心が躍る。

「不用意に近づかないでくださいね」

 本気で心配するパトロクロスに、了承の意味を込めて肩を叩いて安心させる。

 これまでも度々使者がやってきたが、そのたびにリュコメデス王は知らぬ存ぜぬを貫き通した。今回もまたそのように追い返すつもりのはずだ。

 実際、二人の来訪者と接触するのはパトロクロスの方が先だった。

「そこの坊主、ちょっと顔を見せてみろ」

 そう井戸でパトロクロスを呼び留めたのは、背の高い方の来訪者――ディオメデス――だった。アルゴスの王にしてテバイ攻め七将の子エピノゴイの一人。厳めしい顔つきで、地を這うような低い声をしている。

 命令されるがまま、顔を上げると親ほども歳の離れた男二人につぶさに見定められる。

「ペレウス殿に似ていないか?」

「ふむ。亜麻色の髪に歳のころも近いが……」

 ディオメデスの隣の男――オデュッセウス――は、顎に手を当てて考える素振りを見せる。

 意を決し、パトロクロスは震える声を発した。

「私が、ペレウスの子、アキレウスです」

 ディオメデスが息を飲む音が間近で聞こえた。心臓が破裂しそうに痛んだ。この虚偽にうまく嵌まってくれれば、アキレウスを隠し通せるかもしれない。その代わり、ばれた瞬間、八つ裂きにされるかもしれないが。

 緊迫する空気を吹き飛ばしたのは、オデュッセウスの場違いに間の抜けた笑い声だった。

「違うな、君はメノイティオス殿の息子だろう。覚えていないだろうが、君が幼いときに一度会ったことがある。国を出たとは聞いていたが、こんなところで会うとは奇遇だ」

 何年も聞いていない父の名に頭が真っ白になった。似ているなんて、初めて言われた。と、同時に頬骨に強い衝撃が走り、パトロクロスの呼吸と意識は一瞬途切れた。

 気が付けば地面に伏して、涙に鼻水に血。顔面から出せる液体は全部出していた。

「立て、泣くな。これくらいは覚悟の上の謀だったのだろう」

 ディオメデスに頬を張られたのだとそこでようやく気が付いた。患部はただただ熱く痺れ、痛いという感覚が付いてきていない。生理的な恐怖で身体が竦む。

「浅はかな出来心でした。申し訳ございません」

「いや、返って助かった。そうか、メノイティオスからみればペレウス殿は異父兄の子か。君が出てきたということで俄然噂に信憑性が増した。ディオメデス、アキレウス王子はこの島にいるぞ」

 本当に、自分の浅はかさに嫌気が差す。食いしばった奥歯が音を立てて欠けた。




 ◇◆◇◆◇◆




「こちらはデイダメイア王女や城の乙女たちに」

 そう言って客人であるオデュッセウスは持参した贈り物を女性たちの前に広げてみせた。鮮やかな染色を施された織物、鳥の羽根や宝石をあしらった髪飾りや腕輪、上質な化粧品、中には護身用だろう細やかな細工を施された短剣も混ざっていた。女たちは嬉々として眺めたり、手に取ったりしており、アキレウスも関心のあるふりをしてやり過ごそうとしていた。

 オデュッセウスとディオメデスの後ろには荷運びを頼まれたのか、パトロクロスとアウトメドンもいたが、パトロクロスの顔を見てぎょっとした。赤く腫れあがった頬でひどい顔になっている。駆け寄って問い質したいところだが、視線で構うなと合図を送られたので耐え忍ぶ。

 突然、部屋の外から大勢の男たちの雄叫びと武具を打ち鳴らすようなけたたましい音が鳴り響いた。場内は騒然となり、特にあの夜に襲われた女たちは恐怖を思い出して次々と叫び声をあげる。

 ピュロスを抱いたデイダメイアは一早く動き、傍にいたアウトメドンの背に身を隠している。強く逞しい妻だ。

 アキレウスは贈り物の山から短剣を掴み、パトロクロスの腕を捕まえて自分の後ろに下がらせた。神経を研ぎ澄ませ、槍だろうが剣だろうが対応できるように構える。

「貴女がアキレウス王子でしたか。お初お目にかかる、イタケのオデュッセウスと申します」

 罠にかけられたと気が付いた。

 この館に賊が押し入ったことを知っていたのか定かではないが、知っていてこの策を弄したというのであれば、相当に性質が悪い。

「女子どもを怯えさせるやり方は、感心しません」

「先に虚言で礼を欠いたのはそちらの方だろう」

「ここで争っては本当に王女たちを害してしまう。お互いの思惑があってのことだ。無礼は水に流そうじゃないか。彼女たちには相応の詫びもしよう」

 一旦席を外したアキレウスは編み込まれた髪を解き、化粧を落とし、装飾品や染色された衣装を脱ぎ捨てた。代わりに髪を手早く一つに結上げ、長い麻布を全身に巻き、ベルトを締めた。

 装いを改めるアキレウスをじっと見守っているデイダメイアを安心させたくて笑って言った。

「正体を明かすには、ちょうどいい機会だった。いつまでも君やピュロスから夫と父を取り上げておくわけにもいかなかったのだから」

 そうお道化て見せるが、妻の表情は固かった。

「ピュロスは私が王に育てます。いつかあなたがここを出て行かなければならないことは、知っていましたから」

 夫が戦地に征くこと、そこから帰ってこないこと。デイダメイアは既に覚悟を決めていた。

「ここの心配はなさらないで」

 気丈で強かな、自分には勿体のない妻だと思う。

 再びオデュッセウスたちの前に現れたのは、乙女とは見間違えようのない均整の取れた容姿の青年だった。

「これはこれは。麗しい姫君が忽ち立派な若武者に変わるとは、見事なものだ」

「プティア王ペレウスの子、アキレウスと申します。初めまして、イタケ王、アルゴス王」

「随分と手間をかけさせてくれた。賢者ケイロンに師事したという腕前、ともに存分に働いてもらうぞ」

「出立は明後日。一度プティアに立ち寄ってからアウリスに向かう。そこが各国の軍勢の集合地点になる手筈だ。アガメムノン殿への連絡はこちらでとっておこう」

 とんとん拍子に話が進む。

 待ったをかけたのは、パトロクロスだった。

「待ってください。アキレウス様が征く必要は、ないんじゃないですか」

 アキレウスの従者という立場を鑑みれば、この場で口を挟むことは分不相応極まりない。だが、オデュッセウスも礼に厳しいディオメデスでさえも無言でそれを許容している。

「参戦すれば死ぬなんて、それが分かっていていかせるなんて、どうかしている。見も知らない女を、見も知らない男のもとに取り返すためだなんて」

「これは既に意地や名誉のためだけの戦争ではなくなってきている。アカイア内での権力を示し、大義名分を盾に豊かで栄えているトロイアを搾取することで王たちの頭はいっぱいだ。プティアもスキュロスも、乗り遅れれば取り返しがつかなくなるぞ」

 オデュッセウスの率直なことばに窮することなく、パトロクロスは反論した。

「それは、アキレウス様の命と秤にかけてまで守るものなのですか」

 それを鼻で笑うものは、この場にはいなかった。

 議論はここまでだというようにオデュッセウスは小さく首を横に振りながら、宥めるかの如くパトロクロスに優しく語りかけた。

「語り継がれるような英雄譚になれるのは、ごく一握りの人間だ。幸運と言ってもいいだろう」

 それに、とイタケの王は言葉を紡ぐ。

「君にだって悪い話ではないはずだ。アキレウスがこの大戦で名を馳せれば、従者の君も大手を振って故郷に帰れる。栄誉によって、君の殺人の罪は濯がれるさ」




 ◇◆◇◆◇◆




 セレネが空の天頂に昇る刻限。アキレウスとパトロクロスはいつものように北の岬に訪れていた。男の格好で外を出歩くのは六年ぶりだ。肩が凝らなくて楽だ。嗅ぎなれた潮の風ですら、新鮮に感じる。

「お前、どこの生まれでなぜ父上に仕えているんだ?」

 なにげなく訊いたつもりだが、今更尋ねるのが、どうにも据わりが悪かった。

「何年も暮らしたのに、聞いたことはなかったな」

「父はロクリスを治める立場にありました。プティアの南にある国です。メノイティオスと言う名前で、ペレウス様の父アイアコス様の異父弟になります」

 それでは、パトロクロスとアキレウスも遠縁とはいえ、親族ということではないか。

 昼間にオデュッセウスとディオメデスがパトロクロスを咎めなかった理由も分かった。パトロクロスは同じく王族の生まれだったのだ。

「私はアキレウス様にお逢いする数年前に、故郷で友人を殺しました。十三のときです」

 賊を弓矢で射たとき、確かそんな話をしていた。あれ以来あえて触れてはこなかった話題だった。

「王族が務めでなく人を殺めるのは、重い罪です。父は民からひどく責められました。亡くなった友人がロクリスでは名の通った家の後継者であったということもありましたが」

 松明一つ持ち歩かないで来たものだから、アキレウスからはパトロクロスがどのような顔をしているのか確認することはできなかった。

「私は国から追放され、罪を清めるためにペレウス様にお仕えすることになりました。ペレウス様の前にプティアを治めていたのが父の弟だったので、乗っ取られたと思っているというか、うちの家ではあまり良く思ってはいなくて」

「嫌っている男のもとに、息子を預けたのか?」

「贖罪は、苦行に耐え忍ばなければなりません。ヘラクレス様の功業と同じ、というのは烏滸がましいですが」

 ヘラクレス。懐かしい兄弟子の姿が脳裏に過ぎる。彼もまた狂気に踊らされた殺人の罪を償うため、因縁深いミュケナイ王エウリュステウスに仕えたのだと語っていた。

「ペレウス様には、ご迷惑をおかけしました。突然、私を預けられて、困ったと思います。クサントス様とバリオス様の手伝いは、王族としての仕事としても、罪人への役としてもちょうどよかったんです」

 引け目のあるペレウスは、パトロクロスを受け入れたが、持て余したに違いない。

 クサントスとバリオスの身の回りの世話をすることは、神官の仕事をさせているとも言えるが、実状は下男の扱いである。

 アキレウスに仕える毎日を、屈辱の苦痛の中過ごしていたのだろうか。そう考えただけで、胸を掻き毟りたくなる衝動に駆られる。

「故郷に帰りたいか? 俺が赦して従者の任を解けば、お前は帰れるのか?」

「いえ、狂気で友人を殺し、王の治世に泥を塗った私を故郷は赦さないでしょう」

 帰りたいと、素直にことばにこそしなかったが、そう語るパトロクロスの声には、抑えきれない郷愁の念が込められていた。

「では、なぜ俺がトロイアに征くのを止めるんだ」

 オデュッセウスの言うとおり、一刻でも早くアキレウスが旅立ち、戦い、名声を得て果ててこそ、パトロクロスの宿願は果たされるというのに。

 いつまで経っても答えないパトロクロスに苛立ったアキレウスは、

「戦うのが怖いのか? 一生ここで馬の世話をしていれば、安全ではあるだろうな」

と、批難するように煽り上げた。

 パトロクロスは口を閉ざしたまま、アキレウスの正面に歩み寄り、片腕を振り上げて顔に思い切り降り下ろした。躱すことは簡単だったが、アキレウスはそれを受け身も取らず受け止めた。体重の乗ったいい拳だ。

 胸倉を掴まれ、パトロクロスがもう一度振りかぶる。黙ってされるがままにしていたのは、そこまでだった。首元の麻布を掴む手首を握力で強引に捻り上げ、同時にパトロクロスの軸足を払う。身長ばかりが先行して大きくなった身体はいとも容易く宙を舞った。

 馬乗りの体勢をとり、先ほど自分がされたようにパトロクロスの顔を殴り返した。元々腫れあがっていた頬は、血が溜まって水袋のような感触をしている。目や鼻を潰さないように加減はしているが、多少痕が遺るかもしれない。アキレウスはパトロクロスの顔のつくりが好ましいわけではないので、気にはしないが。

 強情なのか、痛みで話せないのか。定かではないが、アキレウスはパトロクロスの頬を打つのをやめなかった。初撃以外は平 手だが、それなりに痛みを与えているはずだ。拷問のようなそれが続く音と潮騒だけが、月夜に響き渡っている。

 掌で触れる頬が濡れていることに気が付いたアキレウスは、そこで手を止めた。

 パトロクロスは、荒い呼吸と鼻水だか鼻血だかを啜りながらぽつぽつと語り始めた。

「あなたが死んでしまうのが、怖ろしい。私には、もうあなたしかいないんだ。気にかけてくれる、人なんて」

 なんとも情けなくて、

「あなたに遺されて逝かれたら、耐えられない」

 弱くて、

「どうか、私のために生きてください」

 傲慢なことばだろうか。

 こんな本音であれば、それは顔をしこたま殴られて正気を失った譫言くらいでしか人に話せまい。だが、それがなぜこんなにもアキレウスの胸を焦がすのだろうか。

 そういえば、生きてほしいと誰かに望まれるのは、初めてだと思った。

 父も、母も、師も、兄弟子も、妻も、アカイアの王も、民たちも。誰もかれも、そして自分自身さえも『アキレウス』の運命を受け入れている。

 嫌だ、駄目だ、死ぬなと駄々を捏ねるのは、この青年、たった一人だけだ。

 アキレウスはパトロクロスの弛緩した身体を労わるように肩に担ぎあげた。

「俺はトロイアに征く。諦めてくれ」

 ゆっくりと王城に帰る足を進めながら、独り言のようにアキレウスは呟く。実際、パトロクロスに聞こえていようがいまいが、どちらでも構わなかった。

「だが、何もなさないまま死ぬつもりもない。その間に、お前は何かを見つけておけばいい」

 きっとそんなに難しいことではないはずだ。人の営みの中で、誰もが息をするようにしている。

「俺が死んでもなくならない、妻……は無理か。そうじゃなくて男でもいいし、友人とか、仕事とか、何でもいい」

 一人で生きていく支えになる何か。それを与えてからでないと、本当に後を追ってきそうで死んでも死にきれない。

 そしてあわよくば、上手く名声を轟かせて、パトロクロスがロクリスに迎え入れられる未来を手にしたい。悪くない、と思う。アカイアの名誉や富や美女のためよりも、この傷だらけの男を故郷に帰すために戦う方が、ずっと気分がいい。




 3 アウリスの港にて




 アカイアでも有数の大規模な港を保有するアウリスには、オデュッセウスの話の通り、既にアカイア各国の王バシレウスたちが集っていた。

 殆ど記憶にない故郷プティアの地を踏んだアキレウスは、待ち構えていた父母に様々な餞別を手渡された。中でもとりわけ見事だったのはケイロンが結婚祝いにペレウスに贈ったトリネコの槍だ。手によく馴染み、切れ味も素晴らしかった。

 スキュロスの軍は父が将であるアウトメドンが率いており、アキレウスは故郷のプティアの軍を率いることになる。 

 プティアの兵たちはミュルドネスという通称で呼ばれる練度の高い戦士たちだ。その実力はアカイア一とも評されている。

 アキレウスは賢者ケイロンの教えを得たということで有名だが、若く、故郷にほとんど滞在していたことがない。更にこれが初陣である上に、副将に親類の王族だったとはいえ、廃嫡された罪人のパトロクロスを据えている。反感を買う理由はごまんとある。ありすぎる。

 そこでペレウスは親しい友であるピュロス王ネストルに息子のことをよろしく頼むと話していた。ネストルには神々からの好意により人の三倍の寿命を賜ったという伝説があり、事実、何十年も老人の姿で戦場に立っているらしい。もしかすると、いずれかの神が宿っているのかもしれない。

「兵士としての資質と将として身につけなければならん技能は別のものだ。無能な将は敵よりも多くの味方を嬲り殺す。私はペレウス殿の手足とも言うべき兵士たちミュルドネスを犬死させる気はない」

 ネストルは大層口が悪かったが、賢く正しかった。アキレウスもパトロクロスもことばを交わしてすぐに敬意を払うようになった。

 何より、雰囲気が昔の師ケイロンに似ているところにアキレウスは好感を持った。

ネストルの子アンティロコスもアキレウスは気に入った。この者は足がとにかく速かった。アキレウスより二つ三つ歳年下だったが、競えるほど速い者に初めて出会った。これにはパトロクロスも手を叩いて賞賛した。

「アキレウス様と足駆けで競える人間がいるとは」

「正直、負けると思いませんでした。世界は広いですね。天狗になっていたようで恥ずかしいです」

 人懐っこい笑みを返すアンティロコスに、似てない親子だなとアキレウスとパトロクロスは思った。

 アキレウスにとって嬉しい出会いはもう一つあった。父方の従兄アイアスだ。サラミスの王子であり、アキレウスとはちょうど十歳離れているそうだ。

「どうだ? まずは一本勝負で」

「謹んで受けよう」

 挨拶も済まぬうちに訓練用の槍と盾を差し出され、アキレウスは確信した。この従兄とは気が合いそうだ。

 手数はこちらの方が勝っていたが、アイアスの打ち込みは尋常ではなく重かった。何より、盾の扱いが絶妙だった。

 長い時間をかけてアキレウスが一本とったところで、汗みずくのまま握手を交わす。

「やっと逢えて嬉しく思うぞ、従弟殿」

「俺の方こそ、初めて父母以外の親族に逢えたのは、この陣に来て一番の喜びだ、アイアス殿。それもこれほど腕の立つ男とは」

「俺のことはアイアスと。ここではアイアスが二人いるから大アイアスなんて呼ばれることもあるが」

 そういってアイアスと並び称されるもう一人のアイアスは、アキレウスよりもパトロクロスと縁のある男だった。

 小アイアスとも呼ばれているこちらのアイアスは新しいロクリス王の息子、失脚したパトロクロス父子の後を治めている王族だった。

 アイアスはパトロクロスの事情をアキレウスよりも詳しく知っているようで、あちらから声をかけてきた。

「メノイティオス殿は隠居されたが、お元気だ」

 それを聞いたパトロクロスの表情は、ほっとしたようにも、苦虫を嚙み潰したようにも見えた。

「ロクリスに帰りたいなら、俺の下で働かせてやってもいいぞ。同郷の誼だ、相応の手柄を立てればとりなしてやる」

 一瞬、賛同すべきかという考えが過ぎったが、アキレウスがことばを発する前にパトロクロスが丁重に遠慮する旨を話し始めたので、それは喉の奥にしまい込んだ。

 声をかけてきた者はもう一人いた。オリゾンの領主ピクロテテスだ。ヘラクレスに長く付き従っていたという彼は、かつての主の弟弟子にあたるアキレウスは元より、パトロクロスにも興味津々の様子だった。

「ヘラクレス殿は立派な体躯の方だったが、お前の主人もまだまだでかくなりそうだ。準備や作法を知りたかったら聞きに来るといい」

 正直何のことだかさっぱり分からなかったが、なにやら耳打ちをされたパトロクロスが葡萄酒を原液で飲んだように赤くなったので、自ずと察せられた。兄弟子は師に窘められるほど好色だったが、その情人も大概似た気質のようだ。

「あと十年若ければ、実地で教えてやっても良かったがな」

 けらけらと揶揄ってくる男に内心アキレウスは焦った。男の恋人でも見つけろとは言ったものの、ああした玄人はだめだ。パトロクロスのような不器用な男では味見をされて捨てられるのがオチだ。

 アキレウスは自分のことを高い棚に上げて、そう思った。己こそが男を誑し込んで弄んだりしたというのに。

「おお、なんと美しい碧い瞳だ。大神に見初められた女神の御子だけある。はは、これでは姫に化けられても分からんわけだ」

 スパルタ王メネラオス。傾城の美女ヘレネに夫として選ばれた男。この戦の発端にも係わる軍の中心人物だが、初めての顔合わせで鼻の下を伸ばされて、緊張はすっかり削がれてしまった。

「他の誰に言われるより、あなたに褒められるとその気になってしまう。今度化粧もしましょうか」

 だからつい、アキレウスも戯れに流し目なんて送ってみてしまった。

「奥方と俺、どちらが美しいですか?」

 上目遣いで顔を寄せれば、生唾を飲み込むのに上下する喉仏が目に入った。この男、本当に見目が美しいものに弱いのだなと実感した。

 会談後、背後ではらはらして見ていたらしいパトロクロスから、苦言がたっぷりと呈された。このころパトロクロスはアキレウスとごく私的な話をするときは、敬語ではなくなってきていた。

「その気もないのに煽るな。洒落にならない」

「いやだってなあ。かわいいぞ、あの人」

「襲われても今度は助けないからな」

 いつになく不機嫌なパトロクロスにばれないように、緩みそうな頬を引き締める。

「しかし、これだけの男たちが挙って求婚したとなると、ヘレネとは傾城の美女だったのだな」

 その呟きを耳聡く拾ったのは、たまたま居合わせたオデュッセウスとディオメデスだった。

「お前らは見たことがあるはずだぞ。求婚の場に父君らに連れられて来ていたからな」

「まあ、パトロクロスは物心つくかつかないかといったころだったし、アキレウスに至っては乳飲み子だったがな」

 そのような子どもに求婚させて、誰も異を唱えなかったのだろうか。

「あれは求婚をだしにした権力争いさ。全員が全員、本気でヘレネの美貌に心奪われていたわけじゃない」

「それはお前のことだろう。初めからヘレネの従姉のペネロペを狙っていたくせに」

 オデュッセウスとディオメデスはいつもこのように軽口を叩いていた。軽薄で胡散臭そうなイタケ王と高潔で頭の固そうなディオメデスの相性がいいというのは、アカイア軍内の解けない大きな謎となっている。

 逆に、大方の諸王とはそつなく挨拶を交わすことができたが、不思議とどうしても相性の悪い相手という者もいた。アキレウスの場合、アカイア諸国の軍団を束ねる総大将ミュケナイ王アガメムノンその人だった。彼はメネラオスの実兄でもあるが、弟とは全く異なる性質の男であった。

「逃げ回っておいて、よくのうのうと顔を出せたものだ。私は半神だろうが、賢者の子弟だろうが、褒めそやす気はない。そんな者石を投げれば打つかるほどいる」

 初の対面。皮肉は言われるだろうと覚悟していたが、閉口一番にここまで罵られるとは思わなかった。

 まあ、確かに事実として、アカイアの軍には偉大な医神アスクレピオスの子マカオンやケイロンに師事した智慧者パラメデスなど勇士が数多いるのだから正論とも言えるだろうが。

 鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くするアキレウスを見兼ねて、付き添っていたオデュッセウスがとりなす。

「アガメムノン殿、それを言われると私も辛い。こうして予言を叶える条件を整えられたのだから、まずは喜んではどうか」

 後から聞いた話だが、オデュッセウスも初めはトロイア出征を免れようとしていたらしい。驢馬と牡牛に鋤を曳かせて畑を耕し、種の代わりに塩をまくという気の触れたふりをしてやり過ごそうとした。しかし、アガメムノンの参謀パラメデスがオデュッセウスの息子を牡牛の進路に置いたため、オデュッセウスは狂人の真似をやめなければいけなかったのだという。

 オデュッセウスの言を鼻で笑い、アガメムノンは傍らに備えていた杯を傾けた。その手指が細かく震えているのに気がつく。酒に飲まれた人間の症状だ。

「戦での働きで遅参の代償を払ってくれると期待している」

 そういうと、アガメムノンはアキレウスへの興味を失ったと言わんばかりに手を振って二人を追い出した。

まるで部下のように扱われ、アキレウスは不快に思った。王の中の王。そう皮肉混じりに称されるのも頷ける。

「アガメムノン殿とは距離を置いていた方がいい。お前たちは馬が合わないようだ。癇癪を起こしたアガメムノン殿からは庇いきれないかもしれん」

 ミュケナイはアカイア最大の勢力を持つ大国だ。戦争に集った各国の王はそれぞれが対等な地位ではあったが、軍議を行う上で、アガメムノンを総大将としていた。実父であるアトレウスの苛烈で惨虐的な部分を色濃く受け継いだとも言われている。

 馬が合わない。まさにそれだ。ただ一点、アガメムノンの言葉の端々から、強大な神々への反撥を感じる。そこだけは好感を抱いたが。

「あの機嫌の悪さ、メネラオス殿が何か余計なことを言ったな。先に弟殿に引き合わせたのが裏目に出たか」

「仲の悪い兄弟なのか?」

「いや、逆だ。仲が良すぎて過干渉というか、依存症というか。優れた政治手腕をお持ちなのだが」

 こうして理解しがたい人間と出会うたびに、自分は本当に世間知らずだったのだなと思い知る日々だった。




 ◇◆◇◆◇◆




 軍議や兵の調練が終わった後、アキレウスは夕食前にパトロクロスに一対一で槍や剣の稽古をつけるようになった。スキュロス島では怪我をさせるのを恐れて初回以降、やめてしまったのだが、戦場をともにするのであれば、弱いままで放っておくわけにもいかない。

 元々基礎はできており、筋自体は悪くはない。鍛えれば、人並みには扱えるようになるだろう。そう率直に伝えると、パトロクロスは目を輝かせて喜んだ。

「腕を折ってから一度も手合わせしてくれなかったから、見込みがないと呆れられたんだと思っていた。ずっと悔しくてさ」

 ヘラクレスを始めとした英雄たちに憧れており、年下なのに幼いときからケイロンに鍛えられていたアキレウスが、内心羨ましかったのだと照れながら語った。

 日が落ちた後は、毎夜パトロクロスの天幕を訪れ、竪琴と歌も教えた。師は音楽も英雄の資質だと言っていた。

 弦を爪弾く指のぎこちなさもさることながら、稚拙な詩と調子外れな音程に、鍛え上げられた腹筋も耐えきれなかった。肩を震わすアキレウスにパトロクロスは顔を赤らめて拗ねた。

「槍と比べて、こちらは上達するのに時間がかかりそうだ」

「なあ、楽器や歌を習ってどうするんだ? 戦では役に立たないだろう」

「戦中はな。だが、平和になれば今度は槍が役に立たなくなる。一芸があれば、無一文となっても食っていける」

「俺が吟遊詩人に?」

 いつもの冗談だと思ってパトロクロスは首を竦めたが、アキレウスは本気だった。万が一、しくじってパトロクロスを故郷に帰せなければ、彼は『プティア軍の副将』の肩書を失って放り出されるのだから。

「そうだな、俺のトロイアでの武勇を歌って歩くといい。歌われるなら、お前のことばと声で歌われたい」

 名案だと思ったのだが、それは嫌な仕事だ、とパトロクロスは眉を顰めた。

「ああ、そうか。なら、練習しないと恥を掻くな」

 そう言って練習を再開するパトロクロスの歌にアキレウスは瞼を閉じて耳を傾けた。

「『――燃える灯の髪、海を湛えた瞳よ』」

 音は外れているが、低過ぎず高過ぎない佳い声だ。少し掠れた響きも佳い。心地好い調べにアキレウスは暫し聴き惚れたのだった。

 ――そんな日課を続けていると、アカイア軍内には『プティア王子のアキレウスと腹心のパトロクロスは道ならぬ恋をする仲である』という噂が実(まこと)しやかに流れた。オデュッセウスあたりからすれば当然の事態なのだが、当人たちは解せないと頭を抱えた。

 始めはそんなことを匂わされるたびに、できていないと両者否定していたが、誰も本気にしないので段々面倒になり放っておくようになった。

 旧知の者からすれば、この二人の関係はわざわざ騒ぎ立てるだけ野暮だ。スキュロスの島にいたときから七年もずっとこうなのだから。まあ、島での噂は夫婦の役柄が逆転していたが。

「お前、ここでもすっかりアキレウス様の妻として認識されているなあ」

 剣を研ぎながらアウトメドンが呑気に語りかけると、

「ここでもなにも、私はずっと独り者なのですが」

 矢に鏃を固定しながらパトロクロスはため息交じりに返事をする。ここが外でなければもっと棘のある言い方をされていたかもしれない。アキレウスやアウトメドンといった幼馴染に対しても、他の目がある場所ではパトロクロスは敬語を崩さない。

「念者を疑うのであれば、私よりもアンティロコス殿の方が美男同士でお似合いだと思うのですが」

 勝手に愛人候補に相応しいと挙げられたアンティロコスは、革の道具入れを直す手を止めて、困ったように頬を掻いている。

 ピュロス王子のアンティロコスは、神の覚えめでたき名君の後継者であり、戦場での働きもアキレウスが認める実力で、容姿もアカイア軍内ではアキレウスの次に整っている。その上、性格もさっぱりとした好青年の鑑だ。

 確かに、とアンティロコス以外の全員が思う。

 男同士での恋といえば、うら若い美しい少年を愛でるというのが一般的だ。ゼウスの愛人ガニュメデスアポロンの愛人ヒュアキントスも絶世の美少年だったと聞く。

 それに比べてパトロクロスは少年というにはとうが立っているし、特段美しい見た目もしていない。そもそもアキレウスよりも年上だ。噂が出回るのが不思議なほど一般論に当てはまらない。

「アンティロコスは女たちにもてる上に何人か囲っている。だが、お前には女の影一つない。その差だ」

 ずばりと答えを突き付けるアキレウスの頬をパトロクロスが摘み上げる。何気なく行っているが、アキレウスの筋肉が付いた頬肉を摘まむのに、相当な力を込めているはずだ。

「どの口がそれを言うんですか、どの口が」

 女の影がないのはアキレウスも同じだった。置かれている立場からいえば寧ろ、パトロクロスよりも愛妾一人いない大将の方が不自然だろう。

「俺は残してきた妻子に操を立てているからいいんだ」

 既婚者の大義名分を振りかざして胸を張った。痴話喧嘩染みたやりとりを見兼ねたアンティロコスが助け舟を出す。

「もしや求める理想が高いのでは? アキレウス殿の顔を毎日見て過ごされたのでは、無理もないだろうし」

「どうでしょう、そんなつもりはないんですが」

 アキレウスの芸術品のような造形に慣れたというのであれば、名を馳せる美姫でも美男でも路傍の石のように見えてしまうだろう。それはある意味、不幸とも言えるかもしれない。

「なら、責任取ってやろうか」

 アキレウスはにやりと笑ったかと思うと、副官の後頭部を鷲掴み、遠慮なく唇を奪った。アウトメドンが飲みかけていた水を吹き出す。次の瞬間、アキレウスは先ほど抓られていた頬を今度は平手で思い切り打たれた。勢いよく肉が叩かれる音が響き、傍目でもかなり痛そうだ。容赦がない。

「私は犬猫ではないですよ」

「お前がそんなにかわいいものか」

「あなたは人の子の親になった自覚が足りません。いつまでも子ども染みた悪戯をして」

 最近小言をいうときに二言目には『親になったのだから』とため息を吐くようになった。少し煩わしい。

 息子のピュロスは見事な母譲りの・・・・赤毛だった。大きな垂れ目や鼻の形など顔つきもデイダメイアにそっくりだ。それ以上、誰も余計なことは言わない。

 パトロクロスだけはアキレウスによく似ていると嬉しそうに語る。アキレウスもただ一人の実子だと思っている。

 ただ、デイダメイアがよく思わないだろうから、とパトロクロスは決してピュロスに触れようとはしなかった。

「お前は時々母上や先生よりも親っぽくなる」

 説教は御免だとひらひら手を振る。

「妻に飼い犬に親に。役が多いな」

「もうなんでもいいんですけどね」

 そんな風に各々武具の手入れをしながら雑談に興じる。アキレウスとパトロクロスが明日の朝食の献立について話題を移したころ、アンティロコスはそっとアウトメドンに耳打ちをした。

「……アウトメドン。私はミュシアでパトロクロス殿が怪我をされたときの看病の仕方が噂の原因だと思うのだけど」

「だろうな。横抱きで天幕に運んで、手ずから丁寧に手当てしているのをみたら、普通は勘繰るよなあ」

「二人とも無自覚なんですか……?」

「さあ……アキレウスは兎も角、パトロクロスはどうなんだろうな」

 あの二人に関してはアウトメドンは深入りしないようにしている。自覚があってもなくても、進みが遅くても早くても、どうせ結果が変わらないのだから。




 閑話休題 アウリスのとある夜にて




「正直なところ、お前とパトロクロスは寝所ではどんな風に遊んでいるんだ?」

 唐突に友であり従者である男との情交について訊かれた。

 オデュッセウスの問いにアキレウスは杯を傾ける手を一瞬止める。束の間、穏やかだった宴の席に緊張が走った。

が、青年が一つ溜息を吐いて苦笑いを零したところでその糸はぷつりと切れた。

「また何かの企てか、とは思っていたが……気を張って損したな。ちなみに、どっちに賭ける奴が多かった?」

「そこまでばれたか。さて、どちらだったかな」

「俺に殴り飛ばされる危険を冒してまで訊くんなら相応の旨みがあるはずだからな」

 胴元として利を得る対価として、賭けの真相を暴きに上物の葡萄酒を片手に尋ねてきたというところだろう。それもアキレウスが手を出しても止められそうな護衛役まで連れて。

「ディオメデス殿はこの手の戯れに興味がないのだと思っていた」

「まあお前の床事情にはまったく興味がないな。だが、こう何日も燻っているだけでは空気も悪くなる。娯楽は必要だろう」

 トロイアに向かうために集った各国の兵たちはアウリスの港で長らく足止めされている。不自然なほど船を進めるための風が吹かないのだ。今日はついに業を煮やした王たちに請われ、カルカスが予言の儀を執り行う準備を始めたところだ。

 兵たちの気晴らしの必要性は理解しているが、それで何故アキレウスとパトロクロスの閨の話になるのか。

「軍一の勇士が常に側置くのは女でなく従者。それも傍から見ても面映ゆくなる寵愛ぶりときたら、気にもなるさ」

 茶化すオデュッセウスにアキレウスの眉間に皺が寄る。

「それだ。それが分からん。何故かいつも俺が『寵愛』していることになっている。俺は美女が好きだし、子もいる。男が好きなのはあいつなのだから、噂になるにしても納得いかん」

 パトロクロスがアキレウスに恋い焦がれて押しかけているのだとは誰も思わないのだろうか、と口にしたところで、

「それはアキレウス、お前の方が立場が強いからだ」

 と、オデュッセウスが少し酔いを醒ました声で返した。諭すような口ぶりが、王と王の名代という対等な地位である以前に、相手が親に近いほどの年長者であることを思い出させる。

「お前はパトロクロスを拒めるが、パトロクロスはお前を拒めん。社会的にも物理的にもな。関係の主導権は絶対にお前にある。お前の『寵愛』なしにはありえん」

「確かにあいつに抵抗されたところでどうということはない。両の腕と脚をぱきっと折ってでもすればいい」

 焚火にくべる小枝を折るのと変わらない。造作もないことだ。

 その上、パトロクロスは罪を負い、国を追われた身であり、アキレウス以外の後ろ盾がない。

「だが、情を交わすというのは、拳闘と同じではないだろう。そうでなければ大神が奥方を恐れるはずがない。力でどうこうできるほど簡単じゃない」

 この時点でオデュッセウスもディオメデスもおおよその目的は達成していた。ゼウスに自分を、ヘラにパトロクロスを重ねていては、語るに落ちると言うものだ。

 話す間にも次々に杯を空けていたアキレウスの口は常よりも緩くなっており、更に墓穴を掘っていく。

「大体、なんで俺らばかりが槍玉に挙げられるんだ。誰かの前で抱き合ったり口付けしたりしたわけでもないのに。あなた達だって仲睦まじいじゃないか」

「俺はオデュッセウスの天幕に通ったりしないぞ」

「お前がスキュロスを出てからずっと側に置く女をつくらないからみんな邪推するんだ。じきに娘を新しい妻に、と勧める輩も出るだろうさ」

「それは、あいつがいつまで経っても女も男も囲わないから、仕方ないだろう。俺が顔を出さなければずっと一人なんだぞ」

 まだ続きそうなアキレウスのことばをオデュッセウスの手が止める。既に惚気を聞かされている気分になっていた。

「分かった――お前たちが想い合っているのだと言うことはよく分かった。正直胸焼けがしそうだ。で、結論としてはお前がパトロクロスを抱いているということでいいのか?」

「全然分かってないじゃないか」

「何と言う話を肴にしているんですか」

 呆れたような顔をして天幕に入ってきたパトロクロスは酒の共にと干した魚や切った果物を中央に置くと、アキレウスの隣りに腰を落ち着けた。

 背格好はアキレウスとあまり変わらないが、良くも悪くも凡庸な若い男だ。客観的に見て、神々に愛された稀代の英雄と釣り合いが取れるようには見えない。そこが興味深くもある。

「なんだ、てっきり激昂するかと思ったからいない隙を狙ったんだが杞憂だったか」

 パトロクロスの酌を受けながらオデュッセウスは意外そうに笑った。この青年は控えめに見えて、案外直情的なところがあるのだ。

「アキレウス様とのことは稀に訊かれますからね。慣れました」

「ほう、俺らの他にも命知らずがいたか」

「ペレウス様です」

 オデュッセウスとディオメデスは身を捩るほど笑い転げた。故郷での針の筵を思い出したアキレウスが顔色を暗くさせ、二人の呼吸が整った頃合いを見計らって、パトロクロスが宣言する。

「はっきり言っておきますが、私とアキレウス様はあなた方の想像する行為はほぼしたことがないです」

「……微妙に濁してないか? それは」

「お二方、私にも一応好みというものがあるんですよ」

 暫く、考え込むような間が空いた。

「いやいや、アキレウスで不満があるのなら、駄目だろう。その理想は洟をかんで捨てた方がいい」

「お前、アキレウスに慣れ過ぎて感覚が麻痺しているんじゃないか? 世の中にそんなに万能な男はいないんだぞ?」

「だそうだ。そんな贅沢を夢見て赦されるのはヘレネくらいの美人だけだ。妥協を覚えろ」

「別にアキレウス様より美しくて強い男がいいなんて言ってないでしょう」

 三人から生温かい目を向けられ、パトロクロスの語気がやや荒くなる。

そうして、やや恥じらったように告白した嗜好に、

「歳を重ねた渋い勇士、とか」

 オデュッセウスとディオメデスはいかにも申し訳なさそうな顔をつくった。

「すまんな、俺には故郷に愛する妻が」

「俺もだ」

「はい、重々存じております」

 そうして大概酔いの回っている年長者たちを受け流し、パトロクロスは隣りで苦虫を潰したような顔をする幼馴染の肩を叩いた。

「だから、何十年かすれば私の好みの佳い男になるでしょうから、長生きしてみてくださいよ」

 英雄としての短い生を定められたアキレウスの神託を知った上でこれを言うのだから、叶わない。

「……父上には懸想するなよ」

「あなたとテティス様に殺されますね、それ」

 人生の春を謳歌する青年たちを尻目にオデュッセウスは困ったように頭を掻いた。

「さて、これはどう賭けの結果を出すか迷いどころだな」




 4 アウリスの祭壇にて




「もう一度言ってみろ、その舌を切り落としてやる」

 アカイアの軍議を執り行う大きな天幕に、ミュケナイ王アガメムノンの怒声が雷のように響き渡った。

 アガメムノンが詰め寄っているのは、ミュケナイで名の知れた預言者カルカスだ。代々続く予言者の一族にあってひと際腕のいい彼に従軍を乞うたのは他ならないアガメムノン本人だった。

 今回、いつまでもここアウリスから船を出す風の吹かない凪の海に業を煮やした彼の王が神託を求めたのだが、その結果が逆鱗に触れた。

 カルカスは小枝のように細い手足を震わせながら、もう一度神から受け取ったことばを口にする。

「船を進める風が吹かないのはアルテミス様の神罰によるものです。アガメムノン殿が使いの鹿を狩ってしまったことに大変お怒りであらせます」

 騒めく諸王たちにアガメムノンは大声を張り上げる。

「出まかせもいいところだ。私が狩ったのは雄だった。アルテミスの聖鹿ケリュネイアの鹿のはずがない」

 アガメムノンは虚言を話しているわけではないだろう。ただ、相手が悪い。例え真実とは異なっていても神々に人の言い分が通ることは、残念ながら非常に稀だ。神が黒といえば、白銀の鳥も黒くなる。天災のようなものなのだ。更にいえば、数多の神々の中でもアルテミス神はとりわけ厳しい制裁を科すことで知られている。

 アキレウスは今にもカルカスの細首を手折りそうなほど興奮したアガメムノンを制するため、二人の間に割って入った。

「予言者はアポロンの寵愛を受けている。不当に扱えば銀の弓矢で射られるぞ」

「そうだ、アポロンはなぜだかトロイアを贔屓している。姉神のアルテミスもだ。いつもこちらを罰する口実を探している」

 アカイアとトロイアの戦争がただの人間同士の争いの枠に収まらなくなっている。アカイアを後押ししているのは、婚姻神ヘラ戦女神アテナ海神ポセイドン鍛冶神ヘパイストス。対してトロイアの肩を持つのは、美女神アプロディテ軍神アレス予言神アポロン狩猟神アルテミス。オリュンポスでも特に強い権能を持つ神々が二分して戦争を煽っている。

「トロイアに密通している者が確実にいる。ならば、アポロンやアルテミス、アフロディテを信奉する者を疑うのは当然だろう」

 密通者。諸王の間に冷たい緊張が走る。戦争において、味方の裏切りは最も警戒すべき案件の一つだ。

 オデュッセウスが場の空気を刺激しないよう、穏やかな口調でカルカスに尋ねる。

「して、カルカス殿。アルテミス神の怒りを解くにはどのように贖えばよいのだ」

 カルカスは重い口を開いた。

「――ミュケナイのイピゲネイア王女をお望みです」

「馬鹿なっ!」

 真っ先に声を張り上げたのはメネラオスだった。

「いくら神とはいえ、そのような横暴を受けいれるわけにはいかん。イピゲネイアはなんの罪咎もない乙女だぞ」

 姪を庇うメネラオスは不当であると諸王に訴えかけた。生きた人間、それも王族の生贄というのはあまりに代償が大きすぎる。

「だが、その理屈は神には届かない。そんなこと、ここにいる大半の者は身をもって知っているだろう」

 オデュッセウスのことばに頷き同意を示す王が何人か見受けられた。

 どの国の王族も神々とは切っても切れない縁の一つや二つ持っている。オリュンポスの神々は驕った者を厭い、罰し、殺す。そして優れた者を愛で、試し、殺す。

「不当な要求ならば、抗議すべきだ。神にも耳はある。でなければ、神と人が同じ言葉を操る意味はない」

 神が養い親のようなものだったアキレウスはそう提案したが、賛同を示す者はいなかった。他の王たちと根本的に神という存在の捉え方が違うようだ。

「それで更に怒りを大きくさせたらどうする。風を止めるくらいでは済まないかもしれん」

「トロイアは島ではない。いざとなれば陸路で進めばいい」

 メネラオスの案は現実には無謀な策だ。この大軍を移動させるには海路しかあり得ない。首を横に振るオデュッセウスに、メネラオスは掴みかかる。

「イタケの王は王女を差し出せと言うのか」

「神の怒りは天災だ。名指しで要求されている以上、それがイピゲネイア王女の運命だったのだと思うしかあるまい」

 紛糾する議論をアガメムノンは口を閉ざして聞いていた。

 議論は平行線を辿った。




 ◇◆◇◆◇◆




 風が吹かないとはいえ、いつ出航してもいいように船の整備は欠かせない。

 アキレウスの指揮のもとミュルドネスが修繕作業を進めている時だった。一隻の船がすぐ近くに停船した。軍船ではない、立派な商船だ。どこの貴人を乗せてきたのだろうか。

 見れば、二人の女性が兵の手を借りながら桟橋に降り立つところだ。

 一人は壮年ながらも髪の毛の先まで美しく整えた栗毛の女だった。もう一人は、立ち振る舞いを見るに、その娘のようだ。まだ相当に若い。肌も髪も瑞々しく、立っているだけで人目を引く春を象ったような乙女だ。

 少女の金の目がこちらを振り向く。眼が合ったことにお互い気が付くと、彼女は遠くからでも分かるほど、刷毛で佩いたようにさっと顔を赤く染めた。

 それだけであればよくあることだったので気に留めないのだが、二人がこちらに近づいてきて、最終的には声をかけてきたので面食らった。

「もし、プティア王ペレウス殿のご子息、アキレウス殿でしょうか」

「ええ、そうです」

「初めまして、ミュケナイから参りましたクリュタイムネストラと申します」

 クリュタイムネストラ。現ミュケナイ王妃の名だ。ということは、隣りで恥じらっている少女は。

「ほら、貴女もご挨拶なさい、イピゲネイア」

 なぜ、今、ここに。最も来てはいけない者が現れてしまった。アキレウスの顔色が変わったこと気が付いていない母娘は、朗らかな挨拶を続けた。

「イピゲネイアです、この度は、その、光栄です」

「本当に。戦が続いて、国の空気も重くなりがちでしたが、おかげで久しぶりに民を喜ばせる知らせができます」

 なぜか突然礼を言われ戸惑う。

「申し訳ない、実は私にはお二人の話が見えないのです」

 そう正直に伝えると、王妃と王女は怪訝そうにお互いの目を見合わせた。

「こちらにいらっしゃいましたか、王妃、王女。父君があちらお待ちですよ。案内しましょう」

 現れたのは、イタケの王とアルゴスの王だった。どうしようもなく嫌な予感がする。

「オデュッセウス殿、ディオメデス殿。これは、一体どういうことか」

 二人とも何も答えはしなかった。

 有無を言わせず母娘を誘導する二人の男に、アキレウスも黙ってついていくことにした。。

「ここまでよく来てくれた、イピゲネイア」

 アガメムノンの私室となっている天幕は、中に入ると強い酒気を感じた。昼間から相当強い酒を浴びたようで、ミュケナイ王の目は据わっていた。

「一番上等な衣装は持ってきたか」

「はい、式を挙げるということだったので、一式すべて持ってまいりました」

「式? 式とは結婚式のことだろうか?」

 尋ねたのがアキレウスだということにクリュタイムネストラも、おかしい事態になっていると感づく。懐から皮でできた書簡を出した。

「アカイア一の勇将アキレウス王子との婚姻が決まったと、確かにこの手紙に」

 この男、自分の妻子を罠にかけたのか。

 婚姻の約束なんて、もちろんアキレウスは知らない。

「旦那様、どういうことですか?」

「状況が変わった。イピゲネイアはアルテミス神の巫女として仕えることになったのだ。魂となって、エリュシオンでな」

 クリュタイムネストラの唇が過ぎた憤りに戦慄く。

「私たちを騙したのですか……!」

「なんという口を利く。半神の側室よりも金の矢の女神にお仕えすることの方がよほど稀有なことなのだ」

 アキレウスは我慢ならなかった。

「あまりに汚い手だ。男として、侮蔑に値する」

「碌に国を治めず、山で獣を追い回していただけの小僧が知った風な口を。私は民の呪詛を知らぬお前のような者のことばを聴く耳を持ち合わせていない」

 娘を攫って逃がそうか。その考えが過ぎったとき、アキレウスの二の腕をディオメデスが強く掴んでいた。本気でやりあえば勝てるだろうが、怪我では済まないだろう。

「――貴方はやはり人の皮を被った獣です。人の親になっても、本性は変わらない」

 クリュタイムネストラの前夫がアガメムノンの姦計で戦死したことは有名だ。トロイアに攫われたヘレネの異父姉でもある彼女は歳を重ねても衰えない美貌を有している。

 夫に向けるその顔には滴り落ちるような憎悪が沸き上がっている。

 アガメムノンの目もまた、狂気に彩られていた。

「喧しい。お前たち弱者はいつもそうだ。与えられるのが当然という顔をして、強者に生まれた者から搾取する。助けを求めるばかりで、こちらを助けようとは考えもしない」

 何かが溢れだしたようにアガメムノンは捲し立てた。

「庇護されたいのならば、せめて私の言うことを聞け。どうしてメネラオスのようにできない」

 そのことばたちは支離滅裂で要領を得ないが、

「一度父のために死ぬくらい、してくれても良かろう」

 ぞっとするような毒を孕んでいた。




 ◇◆◇◆◇◆




 夜。アキレウスはミュケナイ軍の天幕の一つを音もなく襲撃した。パトロクロスとともに一人ずつ、見張りの二人を首に腕を回し、気を失うまで締め上げた。イピゲネイアを助け出したいと打ち明けたアキレウスに、親友は義憤に滾り手を貸してくれた。

 無音で忍び込んできた男に、王女は大層驚いた。

「アキレウス様? どうなさったのですか?」

「俺の妻になってくれ」

 単刀直入に用件を伝えた。雰囲気を盛り上げる時間がないとはいえ、少女の夢をぶち壊すような、あまりに事務的な求婚だった。

「今、ここで妻になれば、処女神も捧げものを受け取るまい」

 アルテミスはアテナや炉女神ヘスティアと同じ、数少ない処女神だ。中でもアルテミスは特に貞潔を信条としている。そこにかけて既成事実をつくってしまうしかないと思った。パトロクロスの発案なのが、複雑ではあるが。

 突然の申し出にイピゲネイアは目玉が零れそうなほど目を見開いた。そして、少しの逡巡の後、

「傷物になるのは、嫌です」

 とあっさり断った。

「何をふざけて」

「あの後父さまとも話したんです。やっぱり身代わりの娘を用意するなんて言うから、怒っちゃいました」

 あのアガメムノンがそんなことを言うのか、とアキレウスは耳を疑った。

「アルテミスさまは女を無碍に扱う方ではありません。このために王女として生まれたのだと、思うことにしたら、ちょっと誇らしいくらいです」

 そう語るイピゲネイアが自分と重なり、二の句を継げなくなる。人柱の決意を強がりと呼ぶのは、この上ない侮辱になる。

「父を悪く思わないでください、というのは難しいでしょうね。恨んだり恨まれたりすることの多い、そういう運命のもとに生まれた人で、自分と血のつながった人間しか心を許せないんです」

「失礼だが、本当にアガメムノン殿と血が繋がっているのか。とてもそうは見えない」

 あ、とイピゲネイアが思い出したように声を上げた。

「こんなに巻き込んでしまってごめんなさい。奥様や恋人の方を差し置いて求婚のことばプロポーズまで言わせてしまって」

「俺の妻は懐がでかいから気にするな。あと恋人はいない」

「あら? でもここの兵士の方々が、その、ずっと傍で連れ添っていらっしゃると」

「とんだデマだ。それにあれもここで君を見捨てる方が烈火の如く怒るだろう」

「まあ」

 くすくすと笑う王女は少しだけ顔を赤らめた。

「なんだか、今更恥ずかしくなってきました。結婚したくて飛んできたのを知られてしまっているのに、断るなんて」

「実をいうと振られるのは、初めてで、少し傷ついた」

「それは、ちょっとだけ、いい気分です」




 ◇◆◇◆◇◆




 誂えられた祭壇に自らの足で歩む一人の娘を王たちが神妙な面持ちで見届ける。花嫁衣装となったはずの真っ白な服に長いベール。橙の鮮やかな芥子の花をあしらった冠を被る姿は、花の女神ニュンペのようだ。

 死装束になってしまうことが無念ではないかと尋ねると、

「一度も袖を通さないのは勿体ないでしょう?」

 そういってくるりと回って見せた。

 祭壇に横たわるイピゲネイア。儀礼に則り、神へ捧げることばを述べるアガメムノンの額には汗がだらだらと伝っていた。

 祝詞を終え、ついにアガメムノンが短剣を振りかざす。それを、――苦しまぬようにという願いからだろう――鋭く薄い胸に突き立てようとした。

 その場にいる者は目を疑った。アガメムノンの大きな体躯が数メートルほど勢いよく吹き飛ばされた。いや、蹴り飛ばされた。

 アガメムノンの立っていた祭壇の中央には、片足を上げたままの女がいた。ほどよく筋肉を纏った体つきをしているが、それでも人外の所業だ。

 只人の身ではあり得ない驚異的な脚力。

 誰もが息を飲んで静まり返る中、美しくも怖ろしい女の容姿を目にしたネストルが驚きとともにある名前を零す。

「あれは、アタランテ殿の」

 全員が確信した。眼前に降り立ったのは、大神ゼウスの子にして狩猟と貞潔を司る女神アルテミスにほかない。

 アルテミスは男たちには一瞥もくれず、驚愕に目を見開くイピゲネイアを恭しく抱き起こした。

「アルテミス、様」

「姿もだが、心も美しい。気に入った」

 女神は乙女の身体を抱き寄せ、その耳に紅い唇を寄せる。玲瓏としたよく通る声は慈しみが湛えられていた。

「お前はここにいるどの勇士よりも気高い。私に相応しい娘だ。その魂に敬意を表そう」

 恩赦が下ったのだと、イピゲネイアやアキレウスたちの目に喜びの色が宿った。

「あ、……」

 それは束の間のことだった。ふらりと王女の身体がアルテミスにしな垂れかかる。それを受け止めた女神の手には、イピゲネイアの背に突き立った、血濡れた剣の柄が握られていた。

 クリュタイムネストラの痛切な悲鳴が響く。

 なぜ、と声に出す者はいなかった。アルテミス神は当初の要求通り、正しく生贄を受け入れただけなのだから。

「この乙女は確かに受け取った。これをもって父の不敬は赦す。風は愚弟アポロンの話では二、三日で吹き始めるはずだ」

 そう宣告し、満足げな笑みだけを残してアルテミスは駆け去っていった。

 最も深く関わった神が情の深いケイロンだったので、アキレウスは思い違いをしていた。師は稀有な存在だったのだろう。

 メネオラスをはじめとした反対勢力は、オデュッセウスたちが死に追いやったのだと攻め立てた。だが、イタケ王は彼にしては冷たく返答した。

「被害者面をするな。進軍を諦める提案もしなかったくせに、本気で彼女の命を救いたかったなどと抜かすなよ」

 文句のつけようのない正論だった。

 英雄たちが挙って王女を殺した。せめて目が潰れ、足を失い、首を切り落とされるその瞬間まで戦場で槍を手放さないことでしか、彼女の命を贖うことはできない。




 ◇◆◇◆◇◆




 予言どおり三日後の朝、アウリスの海には帆を押す風が吹き始めた。

 アカイアの軍勢はこれを逃すまいと、トロイアに向けて出航した。

 肋の骨を砕かれたアガメムノンは、軍随一の名医マカオンの手当てを受けた後、幾日も軍船の奥から出てこようとはしなかった。妻のクリュタイムネストラもまた、儀式の一件が終わったあと、夫とことばを交わすことなくミュケナイの地に帰っていった。彼女の目の奥には仄暗い炎が宿っており、アカイアの男たちに呪いあれと恨みを唱えた。

 そしてアキレウスもまた、昼間こそ将としての務めを果たしているが、日が落ちると部屋で一人塞ぎこむようになった。幼いときから傍にいるが、こんな風に傷つく主人は初めて見る。

 アキレウスは、多分イピゲネイアに敬愛と恋慕の情を抱きかけていたのだと思う。誇り高く、穏やかで、美しい王女だった。想う先を失う寂寥に、アキレウスは耐えている。

 パトロクロスには、それが見ていられなかった。

「お前は何も悪くない。イピゲネイアはお前のせいで死んだわけじゃない」

 いつもよりも濃く割った葡萄酒を飲ませ、自分でも多めに煽った。そうして箍を緩めなければ、口にする勇気を振り絞れなかった。決意をして言ったことばだったのに、自分の喉から発せられたそれは、どこか薄っぺらに聞こえた。

「彼女は女神に生まれ変わる。きっと不幸ではないさ」

 アキレウスを慰めるために、嘘を吐く。本当は、罪もない少女の人生が失われたことを哀れでこの上なく不幸なことだと思っている。

「初恋だったろうから、辛いだろうけど、イピゲネイアと同じくらい大切に想えるひとがきっと現れるさ」

 パトロクロスは真摯に伝えた。それは、自分自身も身をもって知っている事実だったからだ。

「お前、何か勘違いしてないか。俺は彼女を一人の人間として尊敬しているが、それは妻に迎えたかったというわけじゃないぞ」

 下手すれば、激昂して骨の一本や二本へし折られるかと身構えていたのだが、思いもよらない反応にパトロクロスは間の抜けた顔を晒した。

「第一、初恋はとっくの昔に済ませている」

「え、俺の知っている相手か?」

 思わず出た問いに、アキレウスはさあな、と答えなかった。

「ちょっと、神っていう存在に夢を見ていたから、なんというか、頭をぶん殴られたような気分だったんだ」

 そういうと、アキレウスは億劫そうにパトロクロスの横に這いより、逞しい筋肉の付いた膝に頭を乗せるように寝転んだ。高さがあるので寝苦しいと思うのだが、赤金の頭は動く気がなさそうだ。

「俺はトロイアで戦って死んで、死体は瘤の中身か、他の神かが使うんだと。多分産まれる前からそう決まっていた」

 訥々と語るアキレウスは横を向いており、パトロクロスからその表情は窺えなかった。

「そのために多くのものにも恵まれた。英雄譚として歴史に名も残るらしい。人も羨む輝かしい人生ってやつなんだろう」

 英雄として必要なすべてを与えられた。その人生は、周りの人々が脇道に逸れる選択肢を潰していった。

 ペレウスが息子を国で育てなかったことを、少しだけ恨めしく思うことがある。アキレウスはすべて逆なのだ。信念のもとに戦った末、人は英雄と称賛されるもののはずなのだが、彼の場合は英雄となる結果だけがあり、そこに至る心は養われなかった。だから、彼は虚しいのだ。故郷で人々とかかわりながら、命を懸けて戦うに値する愛を知っていれば、今よりましだったのではないか。

「だけど、なんだろうな。今更逃げようとは思わないけど、少しだけ、怖いのかもしれない」

 弱音を吐くアキレウスの髪を、ただ撫でることしかできることがないのが悔しかった。できることなら、彼を蝕むものから、このまま腕の中で守ってやりたかった。

「こんな情けないこと言ったの、初めてだ。失望したか?」

「そんなわけないだろう。そんなに寂しいことを、言うなよ」

 見えないけれど、少し笑ったような気がした。

「お前にくらいしか、言えないな。こんなこと」




 5 リュルネソスの街にて




 トロイアの地についてからというもの、アキレウスは戦いと侵略の日々に明け暮れた。ネストルの献策により、周辺の小国をいくつかの軍勢に分かれて一つずつ攻め落としているからだ。

 トロイアの都は海神ポセイドンと予言神アポロンの建てた巨大な城壁に囲まれている。ただの一度も砕かれたことのない難攻不落の壁。攻略するには周辺の国々を抑え、援軍や退路を断ちつつ、兵団の生活基盤を整える。

 そうやって既にいくつもの国を堕としたが、肝心のトロイアは攻めあぐねていた。トロイアの王子たちが非常に優秀だということも大きな障害となっている。特に第一王子のヘクトルは総大将として巧みに兵を使った。白兵戦ではアキレウスを凌ぐ才覚だ。

 第一線で誰よりも首級を上げるアキレウスには、真っ先に褒賞を選ぶ権利が与えられる。そのような場でアキレウスは討ち取った領主の武具や装飾品、葡萄酒や蜂蜜酒などの嗜好品を求めることが常だった。

 あるときは、

『小僧、あのペダソスと呼ばれている白馬は佳いぞ。あれを物にしないのは、目暗よ目暗』

『気品が顔に出ている。あれはヘレネより佳い牝だ。まさに絶世の美女よ』

『あの美姫なら我らと並んで車を曳かせても赦そう』

『死んだら身体を使ってやってもいい』

「最大限の賛辞なのだろうが、男神であるのに、牝馬に入ってもいいのか」

『器の性に拘る神もおれば、拘らん神もおる。雄雌よりも種族の方が肝要と思うがな』

『ああだが、パトロクロスなら入ってやってもいいと考えんでもない。あれはなかなか健気に仕えてくれている』

「あの白馬でいいんだな。あれをくれてやるから余計なことは考えないでくれ」

 と騒ぐクサントスとバリオスに従って、名馬を求めたこともあった。

 そのため、

「今回はどうする? 馬か? 槍か?」

「では、王妃を貰い受けたい」

 そんな清廉潔白な男色家として通っていたアキレウスが突然、戦利品に女を望んだときは、あのアガメムノンも少し眉を動かした。

 捕虜の女の名前はブリセイスといった。小国リュルネソスの王妃だった女で、彼女の夫はミュネスはアキレウスの手によって首を刎ねられた。涙を堪え、気丈に睨みつけてくる表情も見惚れるような美貌だった。

 ついにアカイア一の英雄に女の妾ができるということで、褥を奪われるであろうパトロクロスを男たちは痛ましそうに励ました。

「ちょっと放っておかれたからといって、変な気は起こすんじゃないぞ」

「まあ、あの王妃は飛びぬけて美人だったからなあ。これを機にお前も女を試してみたらどうだ?」

「男なんてそんなもんだ、気を落とすなよ」

「そうか、ついにお前もお役御免か。寂しいなら俺の床にでも来るか?」

「ははは、お気遣いいただき、ありがとうございます」

 本当に心底気の毒そうに声をかけられるものだから、性質が悪い。パトロクロスは日に何度も堪忍袋の緒を締めなおす必要があった。

 プティアの兵団ミュルドネスとスキュロスの兵団が固まって野営を行う区画に連れてこられたブリセイスは、これから己を待ち受ける屈辱に顔を青褪めさせていた。

 戦争において捕虜は大きな財産とされる。労働力として働かせ、名家の出ならば親族に身代金を要求できる。そして、女たちは夫や子、親兄弟を惨殺した男の慰み者になる。

 恐怖に震える唇を噛みしめ、ブリセイスは顔を上げた。王妃としての矜持だけは折られてたまるものか。

 辿り着いたそこで、ブリセイスの手足に結ばれていた麻縄が解かれる。そこは、

「どうも初めまして。早速だけどそこの小麦ありったけでパンを焼いてもらってもいいかい? こっちは肉と玉ねぎでスープつくっているから」

 そこは大きな竈のある厨だった。指示を出した茶金の髪の男のほかにも、何人か男ばかりが肩をぶつけ合いながら野菜を刻んだり、大鍋で煮炊きをしたりしている。

 予想とは大いにかけ離れた労働を課せられ、混乱するばかりだったが、慣れ親しんだ調理という行為に手は勝手に動いた。

 でき上ったパンとスープと簡単な総菜を兵たちに配膳する。最後にブリセイスの分だと、兵たちと同じ――成人女性が摂るには余るほどの――量の食事を手渡された。脱走しないように乱暴されたり、食事を減らされたりすることも捕虜には多いはずなのに。

「美味い。今までのはなんだったのだと思うくらい美味い」

「パンって難しいんだよ……水加減とか火加減とか」

「その辺大雑把だからなあ、パトロクロス」

 大将であるアキレウスも兵たちと並んで食べている。

 その日からずっとブリセイスは食事の用意を手伝うよう言いつけられるようになった。

 次に命じられたのは洗濯だった。小川から水を汲み、泥や血で汚れた布を無心で揉み洗った。

 背の低い木の枝に干していると、こちらに二頭の犬が歩いて近づいてくるところだった。

 野犬だろうか。自力で追い払う術を見つけるため頭を回す。だが、通りかかったアキレウスとパトロクロス――最初にパンをつくれと命じた男だ――心配いらないとブリセイスに教えた。

「パトロクロスの犬だ。徒に噛みついてこないが、撫でてくれと甘えてくるんだ」

 二頭の犬はブリセイスの足元にくると、暫く匂いを嗅いでから身体を押し付けてきた。本当に人懐っこい。

「かわいい」

 ぽろりと思ったことが口の端から零れ出た。

「九頭もいる。こいつが勝手に拾ってくるから」

「狩りに連れていけるし、冬に暖もとれるんだからいいじゃないですか」

 そうして犬の背を撫でるアキレウスとパトロクロスは、街中でよく見かける若者たちと変わりないように感じた。とても残虐な侵略者には見えない。

 夫を斬るその瞬間を間近で目撃したにも関わらず、そんな感想を抱いた自分に、ブリセイスは戦慄した。

 数日、数カ月。日々を重ねるごとにブリセイスは様々な仕事を任されるようになった。兵団内には徐々にブリセイスと同じく捕まった女たちが増えていき、王妃としてあった性質のためか、自然と彼女たちを慰め、励まし、支えることが自分の役目となっていた。

 そして、一度もアキレウスに穢されることもなかった。

「男所帯では気が回らなくて。助かるよ」

 そう労いのことばをかけてくるパトロクロスの天幕に毎夜通っているのだという話が耳に入る。

 だから、半年も経った今になって寝所に呼び出されたことにブリセイスは驚いた。

「床が寒い。隣で横になるだけでいい」

「私でいいのですか」

「犬臭いのは飽きた」

 ブリセイスはアキレウスの肌に触れないぎりぎりの距離で横になった。彼は本当にそれ以上を望んでいないらしく、暫くすると寝息を立て始めた。

 慎重に身動ぎし、帯の下に潜ませた小さな短刀を手に取る。厨においてあるものの一つ目を盗んで持ち出していた。

 夫は変わり者でたびたび妻である自分に弓や槍を始めとした武芸を護身術以上に教えた。生来身体を動かすことが好きな性質だったので、ブリセイスも面白がって覚えた。それがこのような形で活かすことになろうとは思わなかった。

 荒くなりそうな息を潜める。腹では致命傷にならない可能性があり、胸には深く突き刺す腕力が足りない。狙うのは首だ。

 短刀を鋭く急所に向けて突き出す。

 が、刃が肌を割く寸前でブリセイスの手は大きな豆だらけの手に掴まれ阻まれた。

「思ったよりも剣に体重が乗っている。が、軽いな。刃に糞でも塗っていればもう少し殺しやすくなる。いや、臭いで気づかれるか」

 手首を捻り上げられ、短刀を持っていられなかった。床に金属が転がる高い音が鳴る。

「俺に限ったことではない。お前程度の腕では、いつどの王の寝込みを襲っても返り討ちで殺されるだけだ」

「いつ気が付いたの……?」

「初めから。お前の目は復讐を誓った者の色をしていた」

「じゃあ、どうして、殺さないの」

 いや、もしかすると、これから殺すつもりなのかもしれない。一矢報いることのできなかった無念が込み上げる。

 だが、ブリセイスの悔恨をよそにアキレウスは暢気な口調で捕虜として望んだ理由を明かした。

「いい手本になる気がした。それに、優しい佳い女だから、慰めてやってくれるんじゃないかと思った」

 よく意味は分からなかった。

 ただ一つ言えるのは、優しいなんてとんでもない。自分は薄情な人間なのだ。

 夫を殺し、国を、何もかも奪ったアキレウスたちを憎めなくなりそうで。それがどうしても耐えられなかった。

「どうせこの地で死ぬと定められているのだから、お前にくれてやりたい気持ちもあるんだが。まだ、頷けない。あいつを置いて逝けない」

 そこまで聞いてやっと合点がいった。ひどい青年だ。わざわざ先立たれる側の仲間を用意してやるなんて。過保護だ。絶対余計なお世話だとあの青年なら叱るだろう。

「一人で遺していくのが、心配なのね。だからまだ死ねないと思うのだわ」

 思ったことをそのまま口にすると、

「やっぱり見込んだとおりだ」

 大変満足そうに英雄は微笑んだ。

「パトロクロスを頼む。あいつにはもっとたくさん置いていきたいんだ」




 6 クリュセの街にて




 トロイアに侵攻して気が付けば十年近い年月が経とうとしていた。戦況は膠着しつつあり、ここまで国を空けることになると思ってもいなかった各国の兵たちも疲弊は限界に来ている。

 事態が大きく動いたきっかけはアカイア軍に突然蔓延した疫病だ。次々に兵が倒れ、医師のマカオンやケイロンから医術を修めたアキレウスは患者を診るのに昼夜問わず奔走している。パトロクロスも感染者を隔離した区画に入り浸り、できるかぎり兵たちの世話をしていた。

 これ以上被害が拡大すれば、戦線は維持できない。

 アカイアが頼る先はカルカスの予言しかなかった。

「疫病が広まっているのは、アポロン神が銀の弓をもって病の矢を射続けているためにございます」

「また、レト神の双子神か……!」

「アポロン神は、神官クリュセスの娘クリュセイスを父のもとに帰すよう求めております」

 クリュセイスはアガメムノンがテーベの襲撃で褒賞として手に入れた愛妾だ。アキレウスの目にはどこかイピゲネイアの面影のある娘に見えていた。

 彼女の父クリュセスはアポロンの神殿に仕える神官だった。神に仕える者の身内であればなおさら、暗黙の了解で身代金を受け取って捕虜から解放すべきなのだが、神々に反撥心のあるアガメムノンはそれを跳ねのけた。

「馬鹿な。あれは私の娘だ。貴様らアポロンに従う者は信用ならん」

「アルテミス神よりも温情ある要求だ。命を捧げろと言われているわけではない」

 アガメムノンがことばを遮るように卓を拳で殴りつけた。

「アキレウス、お前はいつも私を貶めようとする。カルカスと手を組んでトロイアと密通しているのはお前だろう」

「世迷言を。いくら酒のせいで耄碌したといっても、赦しがたい」

「おかしいと思っていたのだ。予言によればアキレウスが戦えば勝つと出ていたのに、何年経っても一向にあの城壁を超えられないでいる」

 アガメムノンの震える指先がアキレウスを断罪せんと、刃物のように向けられる。

「お前、本気で戦っていないのだろう。ずるずると戦を引き延ばし、己が生き残るため、神の力を利用してこのアカイアを滅ぼさんとしているに違いあるまい」

 怒りで、目の前が真っ赤に染まった。

 アキレウスはこれほどの侮辱を受けたことはなかった。

「皆もそう思うだろう」

 諸王に同意を求めるアガメムノン。賛同の声を上げる者はいなかったが、逆にアキレウスを擁護する者もいなかった。皆が顔を俯けている。

「ステュクスの河に誓って、そのような不義理を働いたことはない」

「神気取りの宣誓など、なんの意味もない」

「では、何をもって誓いを立てれば納得されるのか」

 ミュケナイ王は僅かの躊躇いもなくそれを要求した。

「お前の寵愛するブリセイスを差し出せ。それであれば、信用の証として足りるだろう」

 周囲がざわつき、見兼ねた弟であるメネオラスが仲裁に入ろうとする。

「兄上、それはあまりに」

 ブリセイスはただの捕虜ではなく、既にアキレウスの家族のような存在になっていた。パトロクロスなどはよく『プティアに帰ったら正式に夫婦になるといい』とまで話している。

 お前の方こそ神を気取って人間の捧げものを求めるのか。そう叫びたくなった。

 胸の内に秘めていた黒い澱がどっと溢れる。

 ずっとずっと溜め込んでいたアキレウスの本心。

 こんな男たちの起こした諍いのために、どうして死んでやらなければならないのだ。

 アキレウスからすれば、ヘクトルやパリスよりも余程、アガメムノンが憎たらしい。

 いっそ、殺してしまおうか。

 アキレウスの心の天秤が揺れ動く。だがそれは、残り滓のような理性で押しとどめた。

「いいでしょう。それで貴方がたの疑念が晴れて、軍が割れることを避けられるのならば。ただし、彼女は貴賓として丁重に扱ってください。尊厳を穢すことがあれば、相応の報復は覚悟していただきます」

 努めて冷静にアキレウスは己の意思を伝えた。

「それともう一つ。――ミュルドネスは戦線から撤退させる。このように不当に名誉を穢されてなお、犬のように従うわけにはいかない。軽んじられることを誇り高い兵たちに耐えさせるほど、この戦には価値がない」




 ◇◆◇◆◇◆




 要求を飲みながらも、侮辱を甘んじては名誉に傷がつく。だから、戦いに出ることを拒否せざるを得なかった。それもまた不名誉なことだとしても。

 これしかない選択だった。だが、飲まずにはやってられない。葡萄酒を原液のまま飲んだくれるアキレウスは管をまいた。

「予言なんぞ知ったことか。俺は今まで、ただの一度だってアガメムノンやメネオラスのために槍を振るったことはないぞ」

 アキレウスが戦ってきたのは、一人の男を故郷に帰してやるためだった。だが、こんな形で戦線離脱という不名誉を被ってしまった今、それも叶わないだろう。

「この十年の努力が水の泡だ」

 相当参ったようなアキレウスにパトロクロスはほんの少し戸惑った。長い付き合いだが、彼がこんな風に酒に溺れるのは初めてのことなのだ。

「なあ、このままプティアに帰ろうか。スキュロスでもいい」

 そっとパトロクロスは囁いた。

「恥知らずの死に損ないだと後ろ指をさされて残りの人生を送れと?」

「嗤われたって、石を投げられたって、国を追われたって平気さ。ブリセイスもどうにか連れて行って、ちゃんと妻に迎えて。子どもを育てて長生きするんだ」

 そうしたら、お前はどうするのだとアキレウスは訊きたかった。十年経っても駄目だった。結局パトロクロスは、アキレウス以外に大切な相手をつくれなかった。いつまで経ってもアキレウスのことばかりだ。

 流石に、年貢の納め時なのかもしれない。

 アキレウスが死んだ後の幸せな生活なんてものは諦めて、惚れさせた責任をとってやるしかないんじゃなかろうか。

「一緒に寝てくれ」

 酩酊した頭では実に直球な単語しか出てこなかった。

「隙間もないくらい、交わって寝たい」

 もっと明け透けなことばを重ねると、パトロクロスは口をあんぐりと開けて、魚のようにパクパクと開閉させた。

「そんなに驚くことじゃないだろう」

「そりゃあ、気持ちは十分伝わっていたさ」

「これだけ特別に扱ってきて伝わってなかったら、死んでも死に切れないぞ、俺は」

 お互いを想う気持ちが友愛に収まらないものだと、言わずとも分かっていた。更にいえば周囲にも駄々洩れだった。

「でも、前にひどい目にあっただろう。だから、男に触ったり、触られたりするのは、嫌がると思っていた。心だけでも、良かったし」

 今度はアキレウスが驚く番だった。前に、というのは恐らくスキュロスであった強姦紛いの一件のことだろう。

「随分と昔の話だろう。そんなこと気にしていたのか」

「だって、あのとき泣いていただろう」

 それをずっと気にして、遠慮していたというのか。

「だから、なんていえばいいんだろうか……こう言うのは、変かもしれないけれど、こういうことがしたいと、言われて……嬉しいんだ、すごく」

 パトロクロスの指がアキレウスの手に触れる。それを絡ませたのはアキレウスからだった。

「友でも、妻でも、飼い犬でも、親でも。傍にいれるならなんだっていい……恋人だって、いい」

「そこは、が、いいって言えよ」




 ◇◆◇◆◇◆




 寝台に仰向けにさせられたパトロクロスは、はだけた胸に唇を寄せられ、堪えきれず肩を震わせた。すると、アキレウスが眉を顰めてこちらの顔を見上げてきた。

「何を笑っているんだ」

「いや、『アキレウス』に、乳を吸われていると思うと、つい。怒ったか?」

 予想に反してアキレウスは愉快そうに軽く笑うと、

「いや。緊張すると、笑うよな、お前」

 といってパトロクロスの左胸に耳を当てた。

「すごい音だ。心臓を破裂させて死んでくれるなよ」

 分かりやすく鼓動を速めている自覚があっただけに、図星を刺されると恥ずかしい。

「お前からしたがったのに、なんで余裕なんだ」

「経験の差、だ。手加減するから安心しろ」

 年上の癖に碌に経験を積んでいないこともまた、少々コンプレックスだったのだが、相手が気に留めていないのだからそれで良しとしよう。

 身体中のあっちこちを丹念に愛撫されて、パトロクロスの脳味噌は何度も沸騰しそうになった。胼胝で硬くなった指や美しい旋律を奏でる舌で触れられていると思うだけで、油断すると気をやってしまいそうだ。

 男同士で交わるとき、穴の代わりに太腿を使うことも多いらしいが、酒で箍が外れている二人はそれでは納まりがつかなかった。

 一本ずつ指が差し入れられ、時間をかけて割り開かれていく。実は性に目覚めたときから自分で慰めるときも弄っていたので、そこの肉は慣れたように柔らかくなった。

「お前、案外好き者だったんだな」

「煩い」

 解れた肉壺に逞しい剛直が宛がわれる。こちらが焦れるような速度で慎重に潜り込んでくるそれに、パトロクロスは身を捩った。

 竿を収めてアキレウスが腰を止めると、二人とも暫し無言で浅い呼吸を整えた。額から流れてくる汗を乱暴に手の甲で拭う姿を見上げていると、

「本当に佳い男になったなあ」

 素直な感想が感嘆をもって零れ落ちた。少し抉られる角度が変わったことがなんとなく嬉しい。つながったままだとどういうことにアキレウスが喜ぶのか分かって便利だなと思う。

 唐突に、自覚が追い付いてきた。

「はは、すごいな……私のものなのか」

 パトロクロスは両脚をアキレウスの腰に絡ませ、二人の下肢がより密着するように引き寄せた。竿だけではなく付け根まで収める形になり、尻に感じる下生えの感触が生々しい。思いもよらないパトロクロスの行動にアキレウスは息を詰めて耐える。

「阿呆か、お前、そんなふうに、しがみつく奴があるかっ」

「腹、破けて、死にそうだ、ははは」

 妙に躁の状態に入っているパトロクロスに小首を傾げる。その仕草が図体に似合わず愛らしくて、パトロクロスはまた笑った。

「なんだお前、酔っているのか?」

 自分よりもずっと少ない量だったのに。そういうと彼は破顔して答えた。

「浮かれているんだよ、馬鹿」

 始めこそ揺さぶるたびに苦悶の声を漏らしていたが、二度三度と回数を重ねるごとに穴は弛緩し、反応も甘だるいものとなっていった。鳥肌を立てて感じ入る姿が、堪らない。精を放つときに必ず腰に足を絡ませるものだから、矢張り好き者だなと思う。

 絡んでいたはずの足に背中を弱々しく蹴られたところで、一区切りとした。

「女神を抱いた男の話はままあるけど、女神に抱かれた男の話は聞かないから、自慢できるぞ」

 テティス様に殺される……と呟きながら力尽きたパトロクロスにアキレウスは口づけた。




 7 トロイアの浜にて




 随一の勇士アキレウスが仲違いにより戦線離脱したことはすぐにトロイア軍に伝わったようで、ここが好機とばかりに猛攻を仕掛けてきた。やはり、残念ながら密通者はいるのだろう。

 アイアスやディオメデスの果敢な攻めで押し込めているが、時間稼ぎに過ぎない。

 戦争の発端の当事者たるスパルタ王メネラオスとトロイア第二王子パリスの一騎打ちが、最大の好機だったのだが、止めを刺す寸前で逃げられてしまった。

 オデュッセウスとディオメデスを贔屓にする戦女神の助力も望めまい。

 当初、あらゆる手で干渉してきた神々はあるときを境にぱったりとその姿を晦ましてしまった。カルカスの占術によれば、過熱する代理戦争にゼウス神自らトロイア・アカイア双方の神々が直接手を出すことを禁じたらしい。

 小高い丘から戦況を眺めていたパトロクロスのもとに来たのは、老将ネストルだった。

「直に船にも火を放つつもりだ。プティアに逃げ出すなら今だぞ」

「逃げることだけはないでしょう。アキレウス様もまた、戦っているのだと私は思います」

 アキレウスはずっと戦っている。神々に仕組まれた残酷な運命と。生まれ落ちた瞬間から、ただ一人でずっと。

 戦士の報告が後を絶えない。憔悴したアカイアの兵たちの恨み言はアキレウスに向かっている。神に授けられた才覚を持っていながら、同胞を見殺しにするのかと。

 親しい朋友たちの説得に応じなかったということもまた、起因している。

「オデュッセウス、ディオメデス、私やアンティロコスでも聞く耳を持たぬのであれば、後はお前しかおるまい」

「私の主人は従者のことば一つで信念を曲げる方ではありません」

「そうか?男心なんぞ単純なものだ。閨で強請って見せれば、心動かすように思うがな」

 ネストルは顰め面のまま冗談を言うから、冗談に聞こえない。

「『英雄アキレウス』は虚構であっても構わん」

 だから、パトロクロスは冗談でしょう、というタイミングを見失ってしまった。

「アキレウスの鎧と神馬たちさえ借りることが叶えば、ミュルドネスを率いる武将を誰もがアキレウスだと思いこむだろう」

「そんな、この世の誰があの方を騙ることができましょうか」

「愚問だな。私から言わせたいのか?」

 ネストルはパトロクロスの両の腕を掴み懇願した。

「アカイアの男たちを、故郷の女子どもたちを、そして懊悩するアキレウスを救えるとすれば、お前ただ一人なのだ」

 既に一度失敗したことがある、とは言えなかった。パトロクロスはふらふらと主人のもとへ帰っていった。

 ――ネストルはパトロクロスの死角に潜んでいた男に、出てくるよう声をかけた。彼は手を打ってネストルの猿芝居を賞賛した。

「これでお前の策通り、軍の士気は盛り返せるだろう」

「お見逸れいたしました。息子同然に目をかけてきた相手を謀るのに、眉一つ動かさないとは」

 瞬間、オデュッセウスの意識が一瞬だけ吹き飛ばされた。

 ネストルの拳が正確にオデュッセウスの頬を撃ち抜いたのだ。老体では考えられない膂力。

「『憎まれ者オデュッセウス』と名付けた祖父殿は、先見の術をお持ちだったのだろうな。お前は私とともに冥府で罰せられるだろう」

 それだけ言い残すと、ネストルもまた、丘から立ち去って行った。

 オデュッセウスは頬の痛みに感謝した。

 十年、盃を交わして語り、ともに戦場を駆け抜けた青年たちを陥れることに揺るがないほど、神のように非情には徹することはできなかった。

 長く離れてしまった故郷の妻子を想う。オデュッセウスの望みは一刻も早くトロイアを落し、家族のもとに帰ることにだけだ。そのために、同胞さえ裏切れる。アキレウスだけではない、オデュッセウスもまた、神々の計画から逃れられないでいる。

 スキュロスでアキレウスを炙り出すために謀った姦計。咄嗟に最も大切な者を選びとって守ろうとして見せた。あのときからずっと、オデュッセウスにとってパトロクロスは『アキレウスの弱点』としか見えていない。

 二人とは長い付き合いになる。彼らの間にあるのはただひたすらにお互いを想う愛だ。

 愛を利用する自分の、なんと卑劣なことか。

「そうさ、オデュッセウスは西果ての楽園エリュシオンには行けまい」




 ◇◆◇◆◇◆




「どうか今日この一時だけでいい、私に鎧と戦車を貸してくれ。ミュルドネスたちと船に攻めてくる軍勢を追い払うだけだ」

 戦況確認から戻ったパトロクロスに突然頭を下げられたアキレウスは当然それを拒否した。

「お前を影武者に仕立てろというのか。冗談だろう」

「敵から救ったアキレウスに皆感謝するだろう。だが、お前自身が出陣したわけではないのだからアガメムノン殿に対して折れたとも言えまい」

「誰に吹き込まれたんだ。舌を引き抜いてやる」

 何にも代えがたい人間を身代わりに危険に晒してまで、アキレウスは自分の名を守りたいと思わない。

 だが、

「お前が、ミュルドネスの名誉のために謗りから耐えているのを知っている。少しでも、それを背負わせてほしい」

 と、額にを地面に擦り付けられては、折れるしかなかった。

「クサントス、バリオス、ペダソス、アウトメドン。よろしく頼む」

 戦場に送り出すその間際まで、アキレウスはパトロクロスが心配で忠告をしていた。

「何があっても深追いはするな。絶対に城壁に近づくんじゃないぞ」

「何度も言わなくても分かりましたよ」

 パトロクロスはおもむろに、結わえていないアキレウスの燃えるような髪を一房手に取り、唇を寄せた。王女にでも贈るような気障すぎる行為をミュルドネスの男たちは手を叩いて冷やかした。

「今度は、バレないようにうまくやってみせますよ」

 そう笑うパトロクロスの頬に温かいものが触れた。強引に引き寄せられ、深く唇を重ねられる。アウトメドンやアンティロコスを始めとした兵たちが冷やかす余裕もなく、波のようにざわめいた。

 二頭の神馬と一頭の名馬が曳く戦車に槍を番えて立つ。いつもは――今日はアウトメドンに頼んでいる――御者に徹しているため、なんだか新鮮な景色に見える。

 味方にも連絡されていなかったミュルドネスの参戦に戦場は騒然となった。英雄アキレウスの助勢にアカイアの士気に火が点く。

 パトロクロスは雄叫びを上げて敵のもとへ突撃した。

 十年間アキレウスを師とした槍の腕は、今や確かなものとなっていた。鎧や戦車だけではない、戦い方がまさにアキレウスのそれだった。アカイア軍の武将たちでさえ、アキレウスであることを疑わなかった。

 ゼウスの子、ネストルと同じく常人よりも長い寿命を授けられたという半神サルペドンとの一騎打ちは紙一重の辛勝だった。普段のパトロクロスの実力では到底かなわないはずの男を打ち破った。

 自分はアキレウスなのだと思うと、勇気が湧いてくる。

 大方のトロイア軍勢が撤退の動きをみせたころ、パトロクロスも兵たちを一度引き換えさせようと考えた。だが、そのとき目に映った人物に、目を疑った。

 豪槍を携えた黒髪の男。あれは、あれこそはトロイアの総大将ヘクトルだ。なぜこんな前線に。

 あの男さえ討ち取れば、この戦は実質買ったようなものだ。この機を逃す手はない。

「アウトメドン! ヘクトルだ! 追ってくれ!」

 叫ぶと当時に自らペダソスに鞭を入れる。クサントスとバリオスも駆け、最高速度まで加速していった。

 まだ相当な間合いがあるというのに、追ってくるパトロクロスに気づいたヘクトルは槍を二本投擲した。一本、二本ともにぎりぎりで躱す。だが、躱した槍が運悪くペダソスの首に突き刺さってしまった。崩れる馬に戦車の足が止まる。

 すかさず地を駆け、拳大の大きさの石を拾うと、ヘクトルの戦車を狙って投げた。飛礫打ちもアキレウス仕込みだ。

命中。御者の男の身体がぐらりと揺れ、車の外に放り出された。ヘクトルもまた動けない戦車から飛び降りてきた。

 退路を絶った。

 ヘクトルとの槍の交戦。鬼気迫るパトロクロスの打ち込みに、既に疲弊していたヘクトルは押し負け、徐々に引きながら槍を受け続けた。

 パトロクロスの目にはヘクトルしか見えていなかった。だから、いつの間にかトロイアの城壁が間近な場所まで来てしまっていたことに気が付かなかった。アウトメドンが自分の名前を叫ぶ声がした。

 いや、叫んでいるのは自分だった。

 自分の口から悲鳴が上がっていることに気がついた途端、左脚の踵から激痛が走る。信じられないことに、そこは素手で抉られていた。

 そしてさらに信じがたいことに、パトロクロスの足の肉を真っ赤な手で握っているのは、先に死んだはずのヘクトルの御者だった。

「なんだ、アキレウスではないじゃないか。折角父さんゼウスの目を盗んでこっそりと殺してやろうと思ったのに」

 まさか、この人、いや、この神は。

「私のトロイアを、ヘクトルをお前如きが殺せるなど、思い上がりも甚だしい。神罰に値する」

 トロイアの守り神の一柱――アポロンか。

 アポロンはパトロクロスの背中を叩いた。鋭く、正確無比な突き。それは一撃でパトロクロスの背骨を折り、衝撃で意識を混濁させた。

 とても立ってはいられず、膝から崩れ落ちる。背に何かが刺ったが、目が霞んで何もみることはできなかった。

「影武者とは、臆病風に巻かれたか。英雄アキレウスともあろう者が」

 今度は腹を貫かれる感触がした。

 自分こそアポロン神の助力を得ておいて。私を跪かせたのだって彼の神で、お前は放っておいても死ぬような私にとどめを刺しただけじゃないか。

 精々舐めて油断しているといい。本物のアキレウスはこんなものじゃあない。影武者なんて形だけだったと驚くだろうさ。お前とアキレウス。生き残るのは、アキレウスだ。

 ――ああ、聞こえるのに、口が動かないのは、腹立たしいものだな。




 8 ひとよの夢にて




 慟哭は、空を劈いた。


 帰ってきた片割れの身体は、鎧が剥ぎ取られていた。


 背中と腹に大きな洞が空いていた。


 遺体を両軍で取り合った結果、引き摺りまわされた顔や手足の皮膚は剥がれ、血と露出した肉で真っ赤に染まっていた。


 暑い季節だった。


 冷たくなっている肉には蠅がたかり、蛆が沸いた。


 ひどい饐えた匂いを撒き散らした。


 アウトメドンが足元で額を地面に圧しつけていた。


 アンティロコスは泣き崩れた。


 ブリセイスはいつの間にか返還され、女たちと延々と泣いていた。


 アガメムノンが何かを言っていた。


 テティスが海を渡ってやってきて、その遺体の傷を修繕してやろうと言った。


 数日経ってから、一時だけ遺体を母に預けた。


 テティスが呼び寄せた鍛冶神ヘパイストスが鎧と盾を置いていった。


 膚が治っても冷たいままの身体を片時も手離さなかった。


 恋人を失った悲しみのあまり、気が違ってしまったのだと指を刺された。


 もう何もかもがどうでもよかった。




 ◇◆◇◆◇◆




 子守歌が聞こえる。

 アカイアではどの母も歌える簡単な曲だ。

 ピュロスを抱くデイダメイアが鈴を転がすような声歌っていた。

 最近ではミュルドネスの野営地でも子どもが増え、聴こえるようになってきた。

 それから、遠い昔。年端もいかない時分に、アキレウスをあやすため歌ってくれたのは師ではなく――。

「そこ、音が外れている」

 どうしても気になって口を挟むと、歌は途切れた。

 瞼を開くと、癖のない薄茶に近い金髪が、微かな空気の震えに触れて揺れているのが見えた。

「ただいま。遅くなって、ごめん」

「おかえり」

 身を起こして、両足の間に挟むように背中から抱きしめた。冷たい亡骸をいつもこうして抱えていた。

 だが、今その身体は暖かい。血が通っている。妄りに人に話せば、夢を見ていたのだとか、気が狂って幻覚を見たのだと眉を顰められそうだ。

「自分が先に死んで、後に遺すお前のことばかり考えていた。先に死なせてしまうなんて、思いもしなかった」

 自分が死ぬ覚悟は幼いときからできていた。だが、パトロクロスを失う覚悟を一つもしていなかった。

 こんな風にただ一人をなくしただけで、世界が一変するとは思わなかった。パトロクロスに死んだ後も生きろなんて、よく言えたものだと恥じ入るしかない。

「私も同じだ。先に逝くなんて思わなかったから、遺されるのだけが怖く仕方なくて、アキレウスさえ生きていればいいと思っていた」

 パトロクロスは、懺悔するように目を閉じて告白した。

「トロイアに密通していたのは、私なんだ。本当はアカイアが負けようが、兵が死のうが、目を瞑れる悪人なんだ」

 もしかすると、この秘密が心残りだったのだろうか。そうだとしたら、呆れる。

「嫌われたくなくて、言えなかった」

「それで嫌って離れられるくらいなら、俺はこんなに苦しい想いをしていないだろうな」

 善人だとか、優しいとか。アキレウスがパトロクロスを愛したのは、そんな理由ではないのだ。全然分かっていない。

「お前を、お前の運命から守りたかったよ。力が足りなくて、できなかったけど」

 守られていた、ずっと。どうして分からないんだ。

「アガメムノンと争って、戦場を放棄しただろう。あれは腹を立てていたのもあるが、それ以上に、本当にこの戦で死んでやるのが惜しくなったからだ」

 パトロクロスを抱く腕に力が籠る。

「お前が生きたいと望むような人生をくれた」

 だから、後悔する必要なんて、一つもないんだ。

 パトロクロスは少しだけ涙を頬に流してから、アキレウスに我儘を言いたいと言った。

「なあ、アキレウス。私が死んだら、身体はここに埋めてほしい。先に死ぬことなんて考えたことなかったから、今回誰にも告げていなくて反省した」

 敵国の海辺の片隅。ここに墓を建てても、石を投げつけられるばかりで誰も参りにこないだろうに。

「プティアやスキュロス、故郷に連れて行かれてもどうせお前の傍では眠らせてもらえない。なら、想い出のあるここがいい」

「そう物分かりのいい振りをするなよ。寂しいだろう」

 アキレウスは苦笑いした。

「俺の亡骸もここで供養するよう、アウトメドンに頼んでおく。どうせだから、骨を混ぜておくようにするか。もう離れるのは、ごめんだ」

 そう告げると、パトロクロスは困ったように眉を下げた。

「心残りがなにもなくなって、困った」

「口付けでもしてやろうか」

「それもいいけど、さっきの歌、お前が歌ってみせてくれ」

 お安い御用だとアキレウスは美しい調べを歌った。パトロクロスは静かに眠っていった。

「クサントス、バリオスどちらだ?」

 歌い終わったアキレウスが尋ねると、パトロクロスの中に入っていた者が目覚めて答えた。

「バリオスはペダソスの亡骸に入った」

 いつの間に忍び込んでいたのか。抜け目ない神だ。

「先ほどのパトロクロスが私の演技だとは疑わないのか?」

「伴侶くらい、見間違えないさ」

「つまらん。明日までに替えの器を用意しておけ。雄の黒毛がいい。新しいバリオスの器と並べば映えるであろう」

 クサントスはパトロクロスの唇で問うた。

「これがお前に与えられた最期の予言だ。ヘクトルを殺せば、アキレウスお前も死ぬ。さて、どうする?」

「それでも殺す」

 初めてアキレウスは誰に望まれるでもなく、誰に強いられるでもなく、誰のためでもなく、自らの願いを叶えるために槍を手に取った。

 その意思こそが、英雄を英雄たらしめるものだった。




 ―― 了 ――

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