真夜中の訪問者

月浦影ノ介

真夜中の訪問者



 今から二十年ぐらい前の話だ。

 その頃、私の弟は東京のある安アパートに一人で住んでいた。


 その日、弟は朝から体調が悪かった。無理して仕事に行き、夕方過ぎに重い体を引きずって帰って来ると、そのまま室内に倒れ込んだ。

 体温を計ってみると四十度近い熱がある。無理して仕事になど行くんじゃなかったと後悔した。夕飯を食べる気になれず、着替えもせずに布団に横になった。

 風邪だろうと思って薬を飲んだが、熱は一向に下がる気配がない。もしかしたらインフルエンザかも知れない。中途半端に睡眠と覚醒を繰り返し、気付くと真夜中になっていた。

 

 高熱のせいで頭がぼうっとして目眩がする。天井がぐるぐると回るようだった。汗が大量に吹き出して、着替えたくても起き上がる気力さえ湧いて来ない。

 もしかしたら自分はこのまま死ぬのではないか。いつになく弱気になっていると、ふいに玄関ドアの開く音がした。

 

 誰かがそっと部屋の中に入って来る気配がある。足音は聞こえない。だがこちらに近付いて来るのが、熱で昂ぶった神経にはっきりと伝わった。

 玄関の鍵をうっかり閉め忘れたろうか。飛び起きて誰だと怒鳴ってやりたいが、体がまるで言うことを利かない。そうこうするうちに侵入者は、弟が横たわる布団の方へと忍び寄って来た。

 

 枕元に静かに腰を下ろす気配がする。

 

 弟はそっと薄目を開けて、枕元に座る人物の正体を確かめようとした。

 真っ暗な室内にも関わらず、枕元の人物はぼんやりと白く浮かび上がって見えた。

 

 老婆であった。着物姿で髪を後ろに引っ詰めた小さな丸い顔が、猫背気味に弟の顔をじっと覗き込んでいる。

 その顔にどこかで見覚えがあった。熱で朦朧とする頭で思い返そうとするうちに、老婆の片手がすうっと動いて、弟の額の上に乗せられた。

 その感触は妙にひんやりとして心地良く、弟はそのまま気を失うように眠ってしまった。


 朝になって目が覚めると、老婆の姿はどこにもなかった。熱は不思議と下がっており、体調もすっかり良くなっている。布団から起きて玄関ドアを確認しに行くと、鍵はしっかり閉まっていた。

 すると、あの老婆は夢だったのだろうか。そう思ったが何か釈然としなかった。夢にしてはひどく現実感があった。何より額に置かれた手のひらの冷たい感触をはっきりと覚えている。


 弟はこの体験談を、正月休みで帰省したときに話してくれた。

 我が家では居間に仏壇が置いてあり、鴨居には祖父母や戦死した叔父の遺影が並んでいる。

 「あれはひょっとしたら、俺らの祖母ばあちゃんだったんじゃないかって気がするんだよ」

 祖父母は私たち兄弟が生まれる前に他界している。なのでその面影は写真でしか知らない。

 「俺が熱で苦しんでるのを見て、助けてくれたのかもな」

 

 弟につられて鴨居に目を向けると、白黒写真の中の祖母はいつになく優しく微笑んでいるように見えた。


                (了)

 

 


 

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真夜中の訪問者 月浦影ノ介 @tukinokage

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